2014.07.27
# 週刊現代

第八十九回 何度でも伝えたいこと

ガダルカナル闘いで米国の攻撃によって粉砕された日本軍のはしけ舟---〔PHOTO〕gettyimages

〈十二月二十七日
 今朝もまた数名が昇天する。ゴロゴロ転がっている屍体に蝿がぶんぶんたかっている〉

元陸軍中尉の小尾靖夫は手記にそう綴っている。

〈生き残ったものは全員顔が土色で、頭の毛は赤子の産毛のように薄くぼやぼやになってきた。黒髪が、ウブ毛にいつ変ったのだろう。体内にはもうウブ毛しか生える力が、養分がなくなったらしい。(略)やせる型の人間は骨までやせ、肥る型の人間はブヨブヨにふくらむだけ。歯でさえも金冠や充塡物が外れてしまったのを見ると、ボロボロに腐ってきたらしい。歯も生きていることを初めて知った〉

小尾は南太平洋ソロモン諸島のガダルカナルにいた。対米戦争が始まって1年後の1942年末のことだ。ガダルカナルは東西150㎞、南北48㎞の島である。

開戦当初、日本の勢力圏は南太平洋まで急膨張した。だが'42年夏、米軍がガ島を奇襲。米軍包囲の中、約2万人(11月末時点)の日本兵が密林に孤立した。補給が途絶え、飢えに苦しむ兵隊をマラリアや赤痢が侵した。

やがて密林で生命判断がはやりだす。〈この非科学的であり、非人道的である生命判断は決して外れなかった〉と小尾は書いている。

立つことのできる人間は寿命30日間。身体を起こして座れる人間は3週間。寝たきり起きられない人間は1週間。寝たまま小便をする者は3日間。ものを言わなくなった者は2日間。そして、瞬きをしなくなった者は明日・・・・・・。

今から20年前、私は共同通信の同僚と『沈黙のファイル』(共同通信社社会部編・新潮文庫)の取材をした。テーマは戦争。その過程でガ島戦の関係者らから話を聞いた。元陸軍中尉の大友浄洲さんはこう回想した。

「食べられる物は草とトカゲぐらいだった。トカゲが目の前をちょろちょろすると、塹壕にへたり込んだ兵隊の目がカッと開く。竹の杖でたたくんだが、体が弱ってるから当たらない。逃げられると恨めしげな顔してね」

密林のあちこちで死臭が漂う。死体はウジに食われ、1週間で白骨に。飢えが極限に達し、死体のウジを食べる兵隊も現れた。

「不思議なんだよね。死は友を呼ぶというか、死にかけた兵隊は白骨のそばに寝る。何もそんな所に寝なくてもと思うが、なぜか固まってしまう。やはりみんなひとりで死んでいきたくないんだね」

陸軍の中枢・作戦課の参謀だった山本筑郎さん(当時83歳)は'42年9月、ガダルカナル北西約1000㎞のラバウルにある司令部に派遣された。直後に米軍のB17重爆撃機数十機が襲来した。爆弾が降り注ぎ、辛うじて飛び立った戦闘機は次々と撃ち落とされた。

「ラバウルですらこうなのに、敵の制空権下にあるガ島の奪回は不可能だった。東京の大本営が奪回にこだわっている間に、ガ島では飢えで日に100人以上も死んでいった」と山本さんは語った。

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