G7外相会議で林芳正外務大臣がこだわりを見せた「グローバル・サウス」という言葉が示すもの
G7外相会議で、「グローバル・サウス」という語を共同声明に挿入しようとした議長国・日本の動きに対して、アメリカが異議を唱えたという。そのため、結局「グローバル・サウス」概念の挿入は見送られた。
(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA18C340Y3A410C2000000/)
会合後の記者会見で、林芳正外務大臣は、「いわゆるグローバル・サウスへの関与強化」といった煮え切らない言葉遣いを用いて、この概念への未練を匂わせていた。
(https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/g7hs_s/page1_001614.html)
ただそれでも、会合後の総括としては、日本政府としても、今後はG7を通じて「グローバル・サウス」の概念は使わないようにしていくことに決めたようだ。
それでいいと思う。
日本国内において、極めて最近に「グローバル・サウス」という概念が用いられ始めた。それに日本政府内の一部勢力が飛びつこうとしたようだ。だが本当によく理解をしたうえで体系的な政策の中に位置付ける検討は、なされたのだろうか。内容や経緯を把握しないまま、安易に目新しい言葉を振り回す火遊びには、危険が伴う。
本稿では、「グローバル・サウス」の概念の内容と経緯に関する整理を行いつつ、それが日本の政策に持つ含意を考察してみたい。
「グローバル・サウス」は新しい? …否
最近の日本国内の議論で目立つのは、「グローバル・サウス」が新たに生まれた概念だ、という神話または誤解である。ロシア・ウクライナ戦争が、日本国内では珍しく大きく報道され続けている国際ニュースになっている経緯があり、この戦争をめぐるロシア非難の立場について、欧米諸国が非欧米諸国の賛同を得ようと努力していることを、「グローバル・サウスの取り込み」として描写する態度が広まった。
しかし、「Global South」の概念が最初に用いられたのは、1969年だとされている。
(https://encyclopedia.pub/entry/28953)
世界的規模で南北問題が認識されるようになったのは、20世紀後半だ。脱植民地化の過程をへて、旧植民地が新興独立諸国になっていった後、国家間の経済格差が深刻な問題として捉えられるようになった。法的には平等な主権国家の間に、巨大な実質的な差異があることが問題視されるようになった。つまりそれが1960年代以降であった。
ただし、その後にアジア諸国などの目覚ましい経済発展が起こると、むしろ「グローバル・サウス」を語る意味は相対的に減ったはずだった。しかしその一方で、冷戦終焉後の時代に、肯定的な含意を帯びさせたうえで、この概念を使われ始めた。途上国ではなく、UNDP(国連開発計画)などの開発援助機関が使い始めた。発展途上国が自前の努力で経済成長する可能性を強調するためだ。2004年のUNDPの資料を見直すと、「南・南協力(South-South Cooperation)」(途上国同士の協力)の概念を推進する際に、「グローバル・サウス」の概念を用い始めていたことがわかる。
この流れに飛びついたのが、欧米諸国の左派系の学者たちであった。「自由民主主義の勝利」としても理解された冷戦の終焉は、「新自由主義のグローバル化の暴力」と表裏一体の関係にある、と多くの欧米諸国の学者たちによって批判的に理解された。そこで「新自由主義のグローバル化の暴力」に抗する動きを象徴する概念として、「グローバル・サウス」が用いられるようになった。日本で最近公刊された「グローバル・サウス」を題名に入れ学術書を見てみるだけでも、この傾向ははっきり分かるはずである(たとえば藤田和子・松下冽(編)「新自由主義に揺れるグローバル・サウス」[2012年]、松下冽・藤田憲『グローバル・サウスとは何か』[2016年]、小倉英敬『グローバル・サウスにおける「変革主体」像』[2018年]など)。