緒方貞子・元国連難民高等弁務官が10月29日に他界した。
その後、数多くの人々が追悼の文章を書いているのを見た。全体的に、緒方氏の業績を、「難民に寄り添う」という視点からのみ書いたものが多いのが気になっている。
もちろんそうした描写は偽りではないのだが、緒方氏と言えば「難民に寄り添う」ということだけ、ということでいいのか。そう思って、私自身も、少し個人的な思いをつづった。
その内容は、緒方氏の足跡は、現代世界で人道援助活動家が直面している困難にも思いを寄せながら、思い出すべきではないか、ということだった。さらに言いたいのは、緒方氏は、国際政治の激流の中で仕事をしていた、ということである。
そこであらためて、もともとは国際政治学者であった緒方氏が、国際政治の激流の中で、どのように国連難民高等弁務官としての職務を全うしていったのかについて、少し書いてみたい。
1991年クルド難民支援
緒方氏が国連難民高等弁務官に就任したのは、1991年1月のことであった。
その直後に、湾岸戦争が勃発した。戦争そのものは、多国籍軍の攻撃に対抗することができなかったサダム・フセインのイラク軍がクウェートからいち早く撤退したため、2月末には終わりを迎えた。
ところがフセイン大統領は、当初から主力精鋭部隊であった大統領警護隊を戦争に投入せず、国内権力基盤の確保に向けて温存していた。
フセイン政権弱体化の好機を捉えようとして反政府運動に立ち上がった南部シーア派住民と北部クルド人勢力は、あっけなく政府軍によって鎮圧されてしまった。1991年3月だけで、3万人もの人々がフセイン政権軍に殺されたと言われる。
勢いに乗って暴力的な行為を繰り返す政府軍の脅威にされた反政府系地域の住民たちは、雪崩を打ってイラク国外に難民として流出した。イラク国内でも国内避難民として逃げ回った。
すでに戦争中から数万人もの難民がイラクから周辺国に流出していたが、シーア派の政府を持ち、同じクルド人の居住地域を持ち、イラクと敵対していたイランには、100万人もの難民が流入した。北部のクルド人住民はトルコにも流入し、その数は50万人に達した。
山岳地帯ではまだ雪が残る厳しい季節であったこともあり、毎日500人もの難民が死亡していたとされる。緒方氏は就任早々、当時は「史上最大」と言われた難民危機に対応しなければならなくなったのであった。