金が無いと思われるところに贅沢も有るし、愛が無いと言われるところにも愛は確実に在るんじゃないかな。

足の具合がどんどん良くなっているのを感じる。少し動かないと体が固まってしまうので、夜には傷口近くの周りをマッサージしたり、引きつらない程度にゆらゆら動かしている。それでも気にせず動ける範囲が増えたと思う。階段の上り下りも、足に重さが均等にかかるように注意しながらやっている。基本的に二本足で立たずに、四つん這いで上り、下りるときはゆっくり後ろ向きで下りるのが負荷がかからず、歩き方に偏りが出ないことがわかったので続けている。体が一度こわばってしまうと、どうしてもかばって歩いて、余計な負荷をあちこちにかけてしまうようだ。普通の歩き方すら忘れてしまいそうである。だが後ろ向きに階段を下りると、歩き方が整い、いい感じで筋肉を緩めながら動ける。暫らくはこんな感じだが、結構回復を感じられているので、ありがたい。

ところで、年始早々にも関わらず親からお金が足りないという話を30分聞かされることになった。その電話の料金は気にならないのだろうか?といつも思う。すでに先月の年金支給日前には、残金がなくて、遣い尽くして来たので「もう無いよ」というタイミングまで来ていることを伝えてある。今までと同じようには遣えないことは話していたのだが、案の定さらに「お金がいる」「出せ」「来月分から遣う」と言って来た。来月分から遣うことで、また来月足りない金額がさらに増えるのは確実だ。

こういう人は、お金を遣うときに自分がしている選択や意思というものが意識出来てないのだと思う。必ず「誰かのせいでお金を遣わされている」という感覚で話をされる。例えば、予防接種を〇回は受けなければならないとか、お正月だから○○を買うのだとか、物をもらったから○○円のお返しをしなければならないとか。実際には内容や金額を自分で決めているのだが、他人のせいにして言われるがままにお金を遣うことを選択し、贅沢はしていないと言うのだ。本人は自覚が全くない。いつだって、「お金がかかる」と言い、自ら「お金をかけている」とは考えない。そこがいつまで経っても平行線のままなのだよなぁ。

たぶんだが、贅沢をしていないと言う人は常にお金を遣っている感覚がないままで、かなりのお金を遣っていることが多い。家計簿をつけなさい、ということが生活を見直すことになるのは本当だ。まずは自分が湯水のごとく垂れ流している意識の無いお金の遣い方をしている具体的な金額を知ることだ。遣っているにも拘らず、遣ってなどいないと必ず言う。

同じ1000円を持っていたとする。そのお金を持って今日このお金で何を買おうかな?と思ってワクワクしながら買い物するのと、ただ店に入り漠然と目についた物を「ああこれは必要だったな」と思いながら買い物をするのとでは満足度が違うだろう。前者はお金を自分のために遣った感があると思う。後者は生活必需品を買っただけ、今日も自分のために自由になるお金を遣えなかったなぁ、ああ生活に必要な物ばかりが多くてお金って足りないなぁ、贅沢してないな…と思うのではないだろうか。これは自分の親の姿そのまんまなのだが。

生活必需品だって自分で選べる贅沢品だと自分は思うのだがどうだろう?もしそこまで思わなかったとしても、自分のために必要な物を買い揃えるお金があり、買うことが出来ているはずなのだ。生活の中で使う物は、実際には買わないで済ませることも出来る物ばかりであるし、金額も様々である。自分で選んで、一番安価な物を避けたりすることも出来るのだ。細かい小さな金額であっても、だ。差の幅があるということは、微々たる贅沢を重ねていることになる。が、気が付くことはない。

本当にお金が足りないと周りから思われるような人は、生活必需品と思われる物を買いたいが買うためのお金がない人であって、そういう人に限ってなぜか自分の贅沢というものが明確にわかっていて、他の物を削って削って、他人から見たら些細なことかもしれないが楽しむことを知っている。満足度も高そうなのだよ。お金をただ遣ってしまって足りない人と、明らかに周りから見て足りないであろう人ほどちゃんと贅沢にもお金を遣えているこの差は、買うことについての意識の差だと思う。

ついでに書いておく。今日は足がまだおぼつかない状態なので、一緒にいる家族に実家へお金を届けてもらった。そのとき「お金じゃなくて愛が足りない」と言われたそうだ。これだけ長年うんざりしながらも愚痴を聞き、あなたは冷たいと罵られながらも付き合いを続けて、何かあれば付き添い、問題には忠告・対応しながらそばにいる相手に愛を感じることがないような人に、一体どんな愛が伝わるのだろうか。きっと愛も金も足りない人生が続くのだろうなぁと思う。いや、きっとではなく、間違いないな。

では今日はこのへんで。