琥珀色の戯言

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【読書感想】なぜBBCだけが伝えられるのか 民意、戦争、王室からジャニーズまで ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

2022年に開局100周年を迎えた「BBC」こと英国放送協会。20世紀初頭にラジオ放送局として設立されると、間もなく世界に先駆けてテレビ放送を開始。長きにわたって市民生活の基盤を成してきた。報道はもちろん、娯楽・教養番組の質の高さで確固たる地位を築き上げたBBCの歴史はしかし、波乱に満ちたものでもある。二度の大戦による「危機」、時の政権からの「圧力」、そして王室との「確執」まで。その100年を紐解くことは、公共放送、延いてはメディアの歴史そのものを一望することに他ならない。技術と情報の尖端で時代を拓いてきたBBCの航跡を辿りながら、インターネット最盛期の今、マスメディアと「公共」のあり方をも模索する。


 ジャニー喜多川氏の性加害問題が日本で大きく採りあげられることになったのは、ジャニー氏が亡くなった後、2023年3月7日に、イギリスのBBC放送で、『J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル』というドキュメンタリーが放送されたのがきっかけでした。
 ジャニーズ事務所を創業し、多くの男性アイドルグループを世に送り出した喜多川さんは、日本の芸能界でアンタッチャブルな存在となっていたのです。
 

 しかし、喜多川には暗い秘密があった。数十年にわたって、事務所にやって来る少年たちに性的加害を行っていたのである。『週刊文春』が1999年から被害疑惑を報道したが、ジャニーズ事務所に名誉毀損で訴えられた。2003年、東京高等裁判所は記事の主要部分が真実であると認定し、2004年には最高裁が事務所側の上告を棄却。しかし、性加害の事実が法的に認定されても、まともに取り上げるメディアはほぼ皆無だった。そんな状況に『J-POPの捕食者』がメスを入れた。
 番組のプロデューサー兼ディレクターは、日英で育ったメグミ・インマン。喜多川の死去報道で日本のメディアが性的加害疑惑についてほとんど触れていないことに疑問を抱き、番組制作を思いついた。日本で取材を開始すると、メディア関係者に「話せない」と言われ続け、インマンは喜多川の死後も事務所に対する忖度や配慮が存在していることを感じた。「(喜多川が)亡くなっても被害者は生きている。この犯罪を隠して手伝った人も、無視してきたメディアも芸能界も存在している」、喜多川の性加害は「現在進行中の犯罪なのだ」とインマンは確信したという(『毎日新聞』、2023年10月13日付インタビュー記事)。


 性加害については、20世紀の終わりに『週刊文春』が報道し、事務所側が名誉毀損で訴えた裁判で、法的にも事実と認定されていたにもかかわらず、日本のメディアでは、ほぼ「黙殺」されていたのです。
 多くの人気タレントを抱えるジャニーズ事務所を批判したり、スキャンダルを報道したりすれば、視聴率がとれるジャニーズのタレントをキャスティングできなくなる。
 世界中で権力者による性加害が、被害者側から告発される流れのなかでも、ジャニーズ事務所は「聖域」であり続けました。
 もし、BBCのドキュメンタリーによる「外圧」がなければ、その状況は変わらなかったのかもしれません。

 これをきっかけにジャニーズ事務所は強い批判にさらされ、会社の名前や組織は変わり、多くの人気タレントが離れていきました。
 その一方で、ファンの中には、こうして内幕が暴かれてしまったことを悲しみ、そっとしておいて、夢を見続けさせて欲しかった、という人もいるのです。

 なぜBBCだけが伝えられたのか?は、「BBCのジャーナリズム精神」と共に、「ジャニーズ事務所との直接の利害関係がほとんどなかったから」でもあるんですよね。
 それでも、他国でみんなが秘密にしておこうとしていたことに切り込んで、ドキュメンタリーをつくるというのは、「世界を相手にした公共放送」であるBBCならでは、とは言えるでしょう。
 NHKにも素晴らしいドキュメンタリーはありますが、他国の問題にまで深入りするほどのネットワークと矜持はなさそうです。
 ジャニーズの問題についても、NHKは「ジャニーズタレントによる受益者側」でしたし。

 著者は、1922年にラジオ放送局として生まれたBBCの歴史を、この新書で紹介しています。
 BBCは1922年に民間企業「英国放送協会(British Broadcasting Company)」として発足し、1927年に公共組織化されました。
 1936年にはテレビ放送を開始し、1953年のエリザベス女王(2世)の戴冠式がきっかけでテレビが爆発的に普及していったのです。
 皇族のイベントがきっかけでテレビが普及していった、というのは、日本のテレビ放送の歴史にも通じるものがあります。

 BBCの開局100周年を記念する特設サイトを開いてみると、「私たちのBBCの100年(100 Years of Our BBC)というタイトルが目に入る。BBCについて考える上では、「私たちの」が重要なポイントだ。
 BBCは視聴世帯から徴収する放送受信料で国内の放送・配信サービスを賄ってきた。視聴者がその活動を支える形をとるBBCは「みんなもの」である。政府が税金を使って運営する「国営」ではなく、「公共による・公共のためのサービス」だ。
 BBCを含む英国の主要放送局は、民放も含めて「公共サービス放送」(Public Service Broadcasting=PSB)」の枠組見に入っている。BBCのほかには民法のITV、チャンネル4、チャンネル5、ウェールズ語放送のS4Cなどが含まれる。「商業的な利益を得ることを目的とするのではなく、公共のためにサービスを提供する事業体」として、番組内容に多様性を持たせる、他では視聴できない独自の番組を一定本数以上放送する、ニュース番組は不偏不党を維持する、などの遵守義務を課せられる。
 BBCは当初から放送を公共サービスの一つとしてとらえてきた。BBC経営執行部の初代トップ(ディレクター・ジェネラル)に就任するジョン・リースは、BBCの役割を「情報を与え、楽しませ、教育すること」と定義した。放送の黎明期を生きたリースやバローズたちは、新たなメディアの可能性に胸を膨らませ、そこに啓蒙的な役割があることを意識していた。「これほどの偉大な科学的発明を娯楽の追求だけに使ってしまっては、その能力を貶め、国民の品性や知性への侮辱になる」と。


 日本放送協会(NHK)も、「国営放送」ではなくて、BBCと同様の「公共放送」なのです。
www.nhk.or.jp

 同じ「公共放送」であり、政府から独立しているはずなのに、日本政府の要人やジャニーズ事務所に「忖度」してしまうNHK……
 なんのかんの言っても、大きな災害のときには、僕もNHKの情報を頼りにしてはいるのですが、BBCに比べると、「独立性」に乏しいのではないか、とは感じます。
 もちろん、政府とうまくやっていかないと、受信料の決定などで問題が生じ、運営に支障をきたすことは考えられるのですが、そこで「独立性」を重んじるか、「スムースな運営」を優先するかが、日本と英国の国民性やジャーナリズムの姿勢の違い、なのかもしれません。また、NHKには所轄の総務大臣の許認可という規制があり、政府の影響力が色濃く残されています。「世界の民主主義国の中で放送通信分野の独立規制機関を有しない国は日本くらい」なのだそうです。
 
 BBCの歴史を追っていくと、BBCは常に「政府と距離を置いた、不偏不党の硬骨のジャーナリスト集団」だったわけではなく、功を焦った記者が裏付けが不十分なニュースを報じたり、王室や政府との関係が悪化したりすることも少なからずありました。
 それと同時に、BBCは多くの歴史的な場面で、英国の要人(王族や首相・閣僚)の肉声を国民に直接届けてきましたし、要人の側も、その役割を重視していたのです。

 BBCの欧州向け放送には、秘密の信号やメッセージが込められることもあった。例えば1944年6月4日、フランス語の定時ニュースに「単調な静けさで心を落ち着かせる」というフレーズが入った。これは仏内の抵抗組織に向けて、連合軍によるノルマンディー上陸作戦の開始を伝える合図だった。

 BBC開局から100年の歴史を振り返った本『こちらBBC』を書いたブリストル大学現代史教授サイモン・J・ポッターによれば、BBCの戦時中のニュース報道は「客観的とは言えなかった」「一種のプロパガンダだった」。
 一般に「プロパガンダ」とは、特定の思想によって個人や集団に影響を与え、人々の行動を意図した方向に仕向けようとする宣伝活動を指す。こうした、情報による大衆操作・世論喚起には好ましくないイメージがあるが、国際紛争における情報戦では貴重なツールとなる。
 ポッターは言う。たとえプロパガンダであったとしても、BBCの報道は「大体において正確で、全くの嘘ではなかった」。注意深く事実を報道し、時には省略し、英国の国益にかなうような文脈で伝えた、と。「嘘を避ける」というBBCの報道原則を貫いたことで、戦争が終わる頃までには、BBCは世界のリスナーに「信頼できる放送局」として評価されるだけの地位を築いたという。


 日本の「大本営発表」の歴史を考えると、英国は戦勝国側だから、プロパガンダにもある程度抑制が効いたのではないか、とも思うのです。

 英国がかつての「世界の大国」ではなくなった現在でも、BBCは、「ジャーナリズムのあるべき姿」へのこだわりを世界に示し続けているのです。
 現在のイスラエルでの戦争で、BBC自身は、ハマスを「テロリスト」と呼ばない、という姿勢を貫いています。

 実際の放送では、BBCは世界各国の政府がハマスをテロ組織と定義していると説明し、取材対象者や出演者がハマスをテロ組織と呼んだ場合はこれを修正しない。ただ、自分たちの声でハマスをテロ組織とは呼ばない。「テロ組織」と言う言葉を使わなくても、視聴者はハマスによる破壊の惨状を目にしている。視聴者が自分なりの結論を出すようにする。
 ハマスをテロリストと呼ばないのはBBCばかりではない。ほかの放送局やロイター通信なども「政府がテロリストと定義する『ハマス』と表現しているが、公共サービス放送最大手で、海外からの信頼度も高いBBCの一挙一動は特に注目されがちで、政治家も批判の矛先を向けやすい。
 国民の心情は大きく揺れた。今回の紛争によって犠牲になった人々の壮絶な光景が茶の間に飛び込んでくる。心を動かされない人はいない。このような時に不偏不党の立ち位置から報道を続けてよいのだろうか? EU難民の是非を問う国民投票時のように、中立を維持することで「真実を逃す」ことはないのか?


 ニュースというのは、「不偏不党」をうたっていても、どんなニュースをどのくらいの時間、どんな順番で採り上げるか、というだけで、「伝える側の意思」が反映されるものではあります。
 BBCが不偏不党でありたい、という姿勢は素晴らしいと思いますが、あまりに美化しすぎる必要もないのでは、とも感じました。

 BBCも、YouTubeをはじめとした動画配信サービスの普及やスマートフォンなどのモバイル機器での視聴者の増加で、これまでの「一定の視聴料を国民から集めて放送するシステム」の見直しが迫られているのです(これはNHKも同じ)。
 それでも地上波は必要なのか? 据え置きのテレビが家にある人からだけ料金を徴収すべきなのか?
 テレビが観られるスマートフォン1台ごとに「視聴料」を求めるのか?

 とはいえ、YouYubeで配信されている内容のソースは、新聞社やテレビ局のニュースから、ということが多いのも事実なんですよね。
 ほとんど地上波を見なくなった僕の子ども世代は、BBCやNHKに対して「観ないのに料金だけが発生し続けているのはおかしい」と考えるようになるのが、当たり前のような気がします。
 おそらく、視聴習慣の変化とともに、BBCやNHKも変わらなければならないのでしょう。

 日本での反響を受けて、同年5月、英国の非営利組織「大和日英基金」が開催したオンライン・セミナーに(『J-POPの捕食者』のプロデューサーとナレーターを務めた)インマンとアザーが呼ばれた。参加者の一人がアザーにこう聞いた。「スターになるには性的搾取を受けてもかまわないという人がいる社会を変えることは可能か」。アザーは「こういう行為を許してはいけないという声が社会の大多数になれば、変わる」と答えている。
 BBCの番組が日本の芸能界のタブーを破った。変化が確かに起きたのである。


 メディアが社会を変えるのか、社会がメディアを変えるのか?
 僕は「スターになるためなら、『枕営業』も辞さない」という人間の野心も(あくまでも想像ですが)理解できるような気がします。
 手塚治虫の漫画に、天下を取るために自分の子どもを魔物に捧げ、力を得る『どろろ』という作品がありましたよね。
 ひどい話だし、自分の子どもを捧げようとは思わないけれど、その野心を否定しきれない、とも感じたのを思い出します。
 もちろん、「自分で自分の性的魅力を利用する」のと「権力者に無理やり搾取される」のは大きく違うのかもしれないけれど。


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