琥珀色の戯言

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【読書感想】残念なメダリスト - チャンピオンに学ぶ人生勝利学・失敗学 ☆☆☆



Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
真央、なでしこ、錦織ら現役スターから、柔道の嘉納治五郎・山下・篠原、「東洋の魔女」らのレジェンドまで、本物のチャンピオンの資格を問う。メダリストになっていい人、悪い人とは?JOC理事として東京五輪に注力し、柔道界の改革にも邁進する「女三四郎」からの問題提起。


 柔道女子の世界選手権王者で、ソウルオリンピックでは銅メダリストを獲得した山口香さんが「アスリートの『その後の人生』を論じたものです。
 このタイトルや「内容紹介」を読むと、「オリンピックでメダルを取った残念な人」の具体名をあげて、徹底的に批判しているのかな、と、ちょっとワクワクしながら読み始めたのですが、「立派な人」の名前はあがっていても、「残念なメダリスト」については、具体的な個人批判はありませんでした。
 それは、こういう新書では難しいのかもしれないけれども、正直、「釣りタイトルっぽいな」と感じたのは事実です。
 アスリートのセカンドキャリアとか、メダルを獲ったあとの人生設計の難しさとか、メダリストになってみたいとわからない現実が書かれているんですけどね。
 興味深くはあるけれど、僕がメダリストになるとは思えないので、あまり親近感が湧いてこないのですよね。
 

 「残念なメダリスト」といえば、柔道界には、内柴正人さんというレジェンド級の「残念メダリスト」がいるのだから、「なぜあんなことが起こってしまうのか?」についての考えを聞きたかったのですが。


 この新書では、「世界で戦ってきたアスリートの視線」が活かされています。

「日本人らしさ」に世界標準がミックスされれば、「鬼に金棒」だろう。
 たとえば、テニスの錦織圭選手の会見を見ていると気付くことがある。
 最初にまず、結論を述べている。
 続けて、「なぜならば」「こうだったので」という説明が来る。
 日本語では普通、こうした話し方にはならないはずだ。そこに至った説明が長く、結論は最後に来る。日本語の特徴とも言える。
 日本人にとっては普通でも、世界のプレスを前にそうした話し方をすると、「いったい何を言いたいんだ」と伝わらない場合も出てくる。
 錦織選手は英語でものを考え、発言することで語り口が自然と簡潔で伝わりやすくなっている。ダラダラと負けた要因を述べることなく、相手を賞賛し、自分の敗因を簡潔に分析し、次に向かう決意を述べる。
 日本人が見れば錦織選手の端的に結論を伝えるコメント力は秀逸だが、世界では特別なものではなく極めて標準的である。


 どうも日本人アスリートや日本のメディア、そしてスポーツを見る人たちも「日本の常識・伝統」を信用しすぎているのではないか、と思うのです。
 そのなかには、「悪しき伝統」もたくさんあるのに。
 体罰による「シゴキ」などはまさにそのひとつで、山口さんは「日本代表に選ばれる選手には、暴力を振るわれないと努力しない、などという人はひとりもいない」と仰っています。
 そんなの考えてみれば当たり前のことなのに、「シゴキ」は先輩から後輩に受け継がれ、自分の順番が終わったら、「オレの時代は、練習のあとに血の小便が出た」なんて「しごかれ自慢」をする人が、また同じことを後輩にしてしまう。
 2013年1月に、15名の柔道の女子選手が日本代表監督やコーチからの暴力行為を告発し、社会問題となりました。
 このとき、女性選手たちを積極的に支援したのが山口香さんだったんですよね。
 この新書を読み、山口さんのアスリートとして、女性としての姿勢を知ると、「だから、山口さんだったのか」と腑に落ちます。

 日本よりもむしろ、理念を大切にしているのがフランスの柔道だ。
「生き方を学ぶ」という姿勢が強調されているように見える。
 たとえば友情、リスペクトといった柱を立てて、「柔道から学べることは人間としての基本だ」と明確に子どもたちに教えている。「あなたを強くします」とは、一言も謳わない。
 フランスの柔道は、「選手」を育てるのではなく、「人」を育てることをめざしているのだ。柔道を習う場が、社会性を持った子どもに育てあげていく基本的なしつけの場となっている。だから、学び終えたらどうぞやめていただいて結構です、というドライな距離感がある。
 何が何でも強い選手に育てる、といった指導の仕方はしない。


 「オリンピックで勝てない」ことばかりが批判されがちな日本の柔道なのですが、その「精神的な面」でも、海外のほうが「柔道の本来の理念」が重視されているのです。


『教育という病』(内田良著・光文社)という新書を読んで僕が驚いたのは、日本の柔道が頭部外傷のリスクについて、あまりにも無頓着だったことでした。


参考リンク:【読書感想】教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」(琥珀色の戯言)


 学校での柔道の授業で死亡事故が多いことは、この新書の著者の内田さんらの提言がきっかけとなり、近年メディアで報じ続けられてきましたが、2012年以降は、突然「ゼロ件」になったのだそうです。

 2009年に4件、2010年に7件(町道場での小学生の死亡2件を含む)、2011年に3件と死亡事故が続いていたにもかかわらず。

 

 それでは、なぜ死亡事故がゼロになったのか。その答えは、簡単である。学校の部活動をはじめとする柔道の指導現場で、頭部の外傷に対する意識が高まったからである。

 学校柔道の事故実態を私が公にした当時、全柔連の医科学委員会副委員長二村雄次氏は、このデータを委員たちは驚きをもって受けとめたと言う。それも無理はない。柔道に関わる医師20〜30人で構成される医科学委員会において、当時、頭部外傷の専門家である脳神経外科医は一人もいなかったのである。

 柔道界において、頭部外傷への関心は、皆無に近かった。ましてや、学校の柔道部顧問や保健体育科教師が、頭部外傷に対する知識も危機感も持ち合わせているはずがない。

 2010年から、指導者への講習や学校での指導教本の作成や投げ技のリスクへの周知など、安全対策がとられはじめ、その効果により、柔道の死亡事故は激減したのです。


 フランスも含む海外では、柔道での頭部外傷のリスクは周知されていて、対策もしっかり立てられており、死亡事故が起こることはほとんど無くなっていたにもかかわらず、「柔道のルーツ」であるはずの日本では、「柔道は危ないのが当たり前だろ」みたいなバカバカしい考えに凝り固まっていた人ばかりだったのです。


 山口さんは、なんでも海外が良い、と仰っているわけではなくて、「頑迷にならずに、海外の良いところは取り入れていくべきだ」と仰っているだけなのですが、それでも反発は少なくありません。

 先日、元陸上選手の為末大氏から、興味深いこんな話を聞いた。
 オリンピックや世界選手権の陸上短距離走で活躍した選手の多くは、小・中学校などの徒競走で「一番ではなかった」という。子どものころにトップだったという人は、幼い頃から、「足が速い」と誉められて育つ。いわば、才能だけでゴールテープを切っていく。その後、高校に進学し全国から優秀な才能を持つ選手が集まってくるレースに出るあたりで、だんだん勝てなくなっていくという。
 しかし、負けた経験はほとんど無い。
 だから、負けることに慣れていない。
 その結果、負けが続くと、競技をすること自体が苦痛になってしまう。
 結局、競技そのものをやめてしまうパターンがよく見られる、というのだ。
 トップに上りつめたアスリートたちも、はじめから強かったわけではない。もちろん、最初からとても能力が高かった子、挫折を味わっても頑張れる子もいる。だが、どちらかと言えばトップではなく2番手か3番手ぐらいにいて、しかし「かけっこが心から好き」と思える子どもたちが、じわじわと頂点へ登っていく。
 一回の挫折でポキっといってしまう天才タイプは、早い頃から才能に目を付けられてきた純粋培養型のアスリートに多い。「負ける」という経験が極端に少なかったために負けると自分自身を全否定されたように感じてしまうのだ。


 少し前に『とくダネ』にコメンテーターとして出演されていた為末大さんが、しみじみと、「スポーツをやると足は速くなっても、倫理観は育たない」と仰っていたのも印象的でした。
 スポーツは、間違いなく身体を鍛えてくれる。
 でも、心を鍛えてくるとは限らない。
 少なくとも、スポーツが上手いからといって、人間として立派なふるまいができるようになるわけではないのです。

 メダリストになった経験から、はっきりと言えることがある。
 それは、「メダリストになった後は、なる前と同じか、それ以上に苦しいことが多かった」ということだ。
 メダルを取ると、その後ろに何かがくっついていることに気づかされる。
 そしてその何かが、メダルよりも大きくて難しい課題だということが、だんだん分かってくる。
 まず、競技からの引き際が難しいのだ。
 周りからみれば明らかに「勝てない」状況に入っても、それを受け入れられない。
 自分からは、勝てないことをなかなか正面から認めることができないからだ。
 私自身もそうだった。負けたとしても「次は勝てるような気がする」からだ。相手に勝つための自信が、まったく無くなったわけではないのだ。
 私は、幼い頃から柔道に打ち込み、他のことを犠牲にして打ち込んできた。だから、その柔道という競技から離れることは、すべてを失ってしまうような恐怖があった。理屈ではわかっていても、決断を下すことが難しかった。次のステップに踏み出すことへの不安も当然あった。それまで走ってきた道がトップだっただけに、よけいに次の一歩が難しくなった。
 引退して第二の人生でも成功している多くの偉大なチャンピオンたちがいる。しかしその道は、他人から見て成功であっても、本人にとって本当に満足のいく引退後であるかどうかはわからない。
 チャンピオンにとって引退とは、人生の定年を迎えてしまうように思えるからだ。
 メダルを取ったことが、人生の頂点だったように思えてくる。

 そうか、「メダルを獲ったらゴール」じゃないんだ……


 2020年の東京オリンピックでは、たくさんの競技での「メダル獲得」が期待されています。
 そしてそれは、「たくさんの『その後の人生』を過ごしていくメダリストたち」を生み出すことでもあるんですよね。
 ただ、「メダルを獲れ!」というだけではなく、彼らが、その経験を活かせるようなセカンドキャリアへの道をつくっておくことも大事なのだな、と感じました。


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