琥珀色の戯言

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42〜世界を変えた男〜 ☆☆☆☆



あらすじ: 1947年。ブルックリン・ドジャースのゼネラルマネージャーを務めるブランチ・リッキー(ハリソン・フォード)は、黒人青年ジャッキー・ロビンソン(チャドウィック・ボーズマン)と契約、彼をメジャーリーグ史上初の黒人メジャーリーガーとして迎える。だが、白人以外には門戸を開かなかったメジャーリーグにとって彼の存在は異端なものでしかなく、チームの選手たちはもちろん、マスコミや民衆からも糾弾される。そんな状況ながらも、背番号42を誇るようにプレーするジャッキーの姿は次第に人々の気持ちを変えていく。

参考リンク:映画『42〜世界を変えた男〜』公式サイト

 
 2013年33本目。
 日曜日のレイトショーで鑑賞。
 観客は、僕も含めて15人くらい。休日の夜ということもあってか、若めのカップルが過半数。


 この映画、メジャーリーグ初のアフリカ系アメリカ人選手、ジャッキー・ロビンソンの物語です。


(ちなみに、この映画の冒頭の状況説明部分だけ「アフリカ系アメリカ人」になっていて、作中では「黒人」と訳されています。字幕をつけた松浦美奈さんも「アフリカ系アメリカ人」のほうが「いまのアメリカにとって正しい言葉」なのだということは理解しつつも、この作品中での「差別」を描くには「黒人」という言葉のほうが日本の観客に伝わりやすい、という判断をされたのではないかと。僕もこの感想のなかでは「黒人」という言葉を使わせていただきます)


 僕は「そういう選手がいて、メジャーリーグの歴史のなかで称えられている」というのは知っていたのですが、彼がどんなスタイルの選手で、どんな差別にさらされながら、メジャーリーグでプレーしていたのかは知りませんでした。


 歴史の流れからいって、ずっとメジャーリーグが白人だけのものであり続けたとは思えません。
 ジャッキー・ロビンソンじゃなくても、誰かが、その先駆者になっていたはずです。
 でも、その道筋を彼が最初につくり、彼が、その「産みの苦しみ」を味わったのは紛れもない事実です。


 この映画でのジャッキー・ロビンソンは、聖人君子ではなく、むしろ、「反骨心をエネルギーにして野球をやっている選手」として描かれています。
 彼をきっかけにして、「白人しかプレーできない」というメジャーリーグの「慣習」を変えようとした、ブルックリン・ドジャースのゼネラルマネージャー・リッキー(ハリソン・フォードさんが好演!)。
 リッキーは、当初「肌の色が何色でも構わん。カネの色は緑だしな!」などと高言していますが、彼がジャッキー・ロビンソンを採用した「本当の理由」も、この映画のなかで明かされます。


 僕がこの映画のなかでいちばん印象に残ったのは、血気盛んで、これまでも差別してくる白人たちに対して、理不尽なときにはきちんと「抗議」してきたジャッキー・ロビンソンに対して、リッキーが「白人のものだったプロ野球(厳密には、ニグロ・リーグという黒人の職業野球リーグがあったのですが)でやっていくための心構えを説いた場面でした。


 「やり返さない勇気を持った選手になってほしい」


 この映画を観ていると、本当の「勇気」について、すごく考えさせられるんですよ。


 そして、ひどい差別の言葉を浴びせるアメリカの、とくに南部の人々に「なんなんだこの連中は……」と嫌悪感を抱くのだけれども、彼らも、ロビンソンのプレーを見ているうちに、変わっていくのです。


(以下ちょっとネタバレ)
 ある南部出身のチームメイトのところに、一通の「黒人とプレーしたら殺す」という内容の脅迫状が届きます。
 それを見せられたリッキーは、ロビンソンのロッカーを開けてみせるのです。


 当事者のロビンソンが抱えている恐怖やプレッシャーの大きさを知った、この選手は、地元の試合で……

 
 彼がとった行動と、その言葉に、僕は映画館で涙を流してしまいました。
 人間って、けっこうすごいもんだな、と。
 「差別をするかどうか」というのは、自分の中の感情の問題である、と考えられがちです。
 でも、実際は「本当にその相手が憎い」のか「自分のなかの何か鬱屈したものの捌け口にしている」のか、差別している本人さえ、よくわかっていない。
 人は、他者をみている存在であるのと同時に、他者からみられる存在でもあるのです。
 そして、自分がどういう人間なのか、どう生きようとしているのか、世界から試されている。
 他人を差別するということは、「そういう人間」として、他人に認識されることでもあります。


 観客も、野球関係者も、ブルックリン・ドジャースのチームメイトたちも、けっして一枚岩ではないし、すぐに打ち解けてロビンソンを応援してくれたわけでもありません。
 実際、遠征先でホテルをキャンセルさせられたり、「慣習に従って」ロビンソンを拒絶した選手がトレードされたりもしており、リッキーの「理念」はさておき、「なんかめんどうなことになっちまったな……」と感じていた選手も少なくなかったはずです。
 いや、僕だって、あのときのドジャースにいれば、そう思っていたかもしれません。
「コイツがいなければ、こんな面倒なことに巻き込まれずに済むのに」って。


 安易にみんなが変わってしまわないところが、この映画の「リアルさ」でもあるのですよね。
 ジャッキー・ロビンソンは「黒人だから」認められたのではなく、勝利のために尽くす、優れたプレイヤーだからこそ認められていきました。
 そして、彼が開けた「風穴」から、多くの黒人選手がメジャーリーグに羽ばたいていったのです。
 ロビンソンが所属したドジャースのレオ監督は「肌の色が黄色だろうが黒だろうが、チームの勝ちに貢献できる選手を使う!」と宣言しました。
 日本人である僕としては、「当時のアメリカの白人たちにとっては、黄色も黒も『似たようなもの』だったのだな」と思ったんですよね。
 ジャッキー・ロビンソンが開いたのは「黒人選手のためだけの扉」だけではありませんでした。
 ジャッキー・ロビンソンの系譜は、野茂やイチロー、松井秀喜選手にも繋がれているのです。


いまや、「ベースボール」は、どんどんグローバル化しています。
「白人だけのリーグ」の時代があったことなど、まるでウソのように。


『ベースボール労働移民』という本によると、メジャーリーグの外国人選手の割合は24%で、その9割超はカリブ地域出身なのだそうです。
この地域は、アメリカとの政治・経済的な結びつきが強く、アメリカの影響で野球が広まっていきました。
この本の著者は、2008年シーズンのアメリカプロ野球におけるスポーツ労働移民の出身国のグラフを提示していますが、それによると、ドミニカは45%、ベネズエラは26.3%、プエルトリコが8.4%、次いでメキシコの3.5%となっています。
もはや、メジャーリーグは「アメリカ人だけのもの」でさえ、なくなっているのです。
それは、今年(2013年)に行われた、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)でのドミニカやプエルトリコの活躍をみれば、一目瞭然。


この映画のなかで、ジャッキー・ロビンソンを口汚く罵る人物に憤るチームスタッフに、リッキーが「彼のおかげで、ロビンソンは『同情』を得ることができる。むしろ感謝すべきかもしれない」と語る場面があります。
「出る杭」に対して、醜く、容赦なくブーイングを浴びせる国、アメリカ。
でも、アメリカという国には、そういう「暗部」を直視し、改善していこうという「良心」も存在しているのです。
そして、その杭が障害を打ち破り、突き抜けてしまえば、力のある者、頑張っている者として、けっこう素直に「敬意」を払う。


「差別はよくない」「いじめはよくない」という建前が重視されがちな日本には、差別やいじめが表面化しにくいため「なかったこと」にされがちで、いつまでたっても、「本音と建前の乖離」が続いているような気もするのです。
だからといって、「問題を浮き彫りにするためのヘイトスピーチ」なんていうのが、許容されるものではないでしょうけど。


野球好き、スポーツ映画好きには、ぜひ観ていただきたい作品です。
あと「自分には勇気がない」と思っている人たちにも。
 

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