琥珀色の戯言

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【読書感想】死刑でいいです ☆☆☆☆☆

死刑でいいです --- 孤立が生んだ二つの殺人

死刑でいいです --- 孤立が生んだ二つの殺人

内容紹介
「私は生まれてくるべきではなかった」。そう言い残して2009年夏、25歳の若者は死刑になった。
16歳で母親を殺害し、少年院を出た後、再び大阪で姉妹刺殺事件を犯した山地悠紀夫元死刑囚。
反省はしないが、死刑にしてくれていい。開き直った犯罪者の事件が続く。秋葉原の無差別殺傷事件、茨城県土浦市の連続殺傷事件・・・。
彼らは他人と自分の死を実感できていたのか。死刑にするだけでなく、なぜそうなったのか、どうすれば防げるかを考えるべきではないか。そうでないとすぐ次の凶悪犯が生まれるだけだ。
事件を起こした山地悠紀夫死刑囚は少年時代に広汎性発達障害と診断され、後に精神鑑定では人格障害とされた。
16歳で母親を殺害した男が再び犯した大阪の姉妹刺殺事件を追い、日本社会のひずみをえぐりだす渾身のルポルタージュ。
裁判員裁判が開始された今、一般市民が死刑の評決を下さなければならない時代。だからこそ読んでほしい一冊!

僕はこのルポルタージュを読んで、とにかくいたたまれない気持ちになりました。
それは、この山地悠紀夫元死刑囚に誰かがもっと愛情を注いでいたならば……というような「同情」とか「共感」とは程遠くて、「なんで世の中っていうのは、こんなに理不尽にできているんだろう?」という、やり場のない怒りや憤りであり、あえて言えば「絶望感」としか言いようがないものでした。

貧困家庭に生まれた山地悠紀夫は、アルコール依存だった父親が早くに死んでしまい、母子家庭で育ちます。
この母親は息子への愛情表現がうまくできず(「全く心配していない」というわけではないようですが)、息子が新聞配達で稼いだ金に手をつけることも頻繁にあり、やっと付き合い始めた彼女との交際を邪魔されたと山地が感じたのをきっかけに、最初の「母親殺害」が起こりました。
何も殺さなくても……と思うけれども、その一方で、16歳男子の「世界」なんて、ほんのちっぽけなもので、いままでの自分の環境への欝憤から、衝動的に「母親殺し」に至ってしまうというのは、「極端ではあるけれど、まったく理解不能ではない」のですよ。少なくとも、このルポルタージュを読んでいるかぎりでは。

山地がこのような事件を起こした背景には、彼の「発達障害」の影響があったのではないか、と、この本のなかでは検討されています(もちろん、「発達障害」=「犯罪を起こす」というわけではない、ということは、厳重に断り書きを入れた上で)。


精神科医・定本ゆきこさんへのインタビューの一部。「非行のケース」という項より。

 アスペルガー症候群の子の事件を一つ挙げると、もともと小学校でいじめっ子だったけど、高学年になっていじめられっ子になった子がいました。中学校では「学校はもういい。集団生活は嫌だ」となった。就職することになり、製造業に行きました。
 動作性は高いから、人の二倍、三倍の作業ができました。遅刻せずにきちんと来るし、職場の評価は高かったんです。パートのおじさん、おばさんもお菓子をくれたりして仲良くやっていた。でも、それがうまくいかなくなったきっかけは、皮肉ですが、うまく作業ができるからというので正社員にしてもらったことだったんです。
 そうすると、全体を見ないといけなくなる。管理者としてアルバイトやパートの人をまとめる立場になる。そういうことは苦手でできないから、たちまち破綻してしまう。かわいがってくれていたおじさん、おばさんとの関係もうまくいかなくなる。すぐ辞めてしまいました。もう人の中に入っていけない、となって仕事を探せなかった。それで、身近な人を殺してしまった。
 この時、やっぱり支援は必要だと思いました。アスペルガー症候群と診断がついて、支援があったら、こうはならなかった。彼の特性を分かっている人がいれば、「管理の仕事は無理だ」とアドバイスできた。就労の際、できることとできないことを職場に伝えたりして本人がうまく働けるように調整するジョブコーチがいればよかったんです。


こういう話を読むと、僕は考え込んでしまいます。
僕にはたぶん、アスペルガーという診断名はつかないと思うのですが、傾向としては、「自分のペースでできる仕事は得意だけれど、人をまとめるような管理の仕事は苦手」で、「対人関係も、『医者と患者』というような『役割』がはっきりしていればそれなりに適応できるのですが、そういう明確な役割がないところでは、自分がどうふるまっていいのか、わからなくなってしまう」のです。
実際のところ、こういう発達障害には「診断基準」はあるようなのですが、それは「癌細胞が検出された」というようなクリアカットなものではなく、僕と「彼ら」との違いというのは、そんなにキッチリと線引きできるのかどうか? 少なくとも、周囲からみれば、「ちょっと変わった人」くらいにしか思われていないこともあるんじゃないかなあ。
そして、その「ちょっと変わっているけど、まじめに働く人」に対して、「管理の仕事は無理だ」と、本人や職場の上司に宣言する「ジョブコーチ」って、ものすごく難しい仕事だと思うんですよ。
破綻する前から、「あなたには無理」って言われて、本人は納得できるのだろうか?


山地の場合の最大の問題は、彼が少年院を出てから、また「姉妹刺殺事件」を起こしてしまったことでした。

カウンセラー・信田さよ子さんへのインタビューより。

インタビュアー:少なくとも、次の姉妹刺殺事件を防ぐ手だてが何かなかったかと思うんですが。


信田:孤立無援の人を支えてくれる「疑似家族」ができればいいと思います。例えば、アルコールや薬物依存症の人だと、そこから回復するための自助グループがある、そういうグループに入れればいいんですが、日本には少ないですね。
 極端に言えば、お勧めはしないけれど、暴力団と宗教くらいしかないかもしれない。どちらも疑似家族的な存在ではあります。暴力団とは違うけれど、山地は違法集団のゴト師のところに行った。ここでは落ち着いていたみたいですよね。宗教の場合、新興宗教はお金がない人には近づかない。仏教とかキリスト教に、可能性があったかもしれません。


いや、この本を読んでいると、「なんかもう、こういう『反省する機能が生まれつき装備されていない人間』に対しては、もうどうしようもないんじゃないか? いっそのこと、(なんとかこの社会に適応していっている)僕たちの安全のために、『隔離』してしまったほうが良いのではないか?」というようなことも、つい、頭に浮かんでしまうのです。
宗教、それも、かなり良心的な宗教(っていうか、これだけ「良心的じゃない宗教」が多いというのも困ったものですね)に行ってくれればいいですが、かなりの高確率で暴力団や再犯、という未来予想図しかないのに、無関係な他者の命を奪ったような人間を「更生」させるべきなんだろうか?


山地に殺されてしまった姉妹の御遺族の話。

 遺族は、判決が出ても全容が解明されていないという印象を持った。
「面識もない、わけの分からない人にやられて、理由も分からず、納得できない」
 姉妹の母、上原百合子は話す。事件後、ほとんど外に出ない。三年過ぎても白い布に包んだ遺骨が仏壇に置いてあった。多くの花や写真に囲まれていた。
「無理なお願いやけど、ほんまに二人を返してほしい」
 百合子は涙ながらにつぶやいた。
 髪が真っ白になった父和男は、二人の遺骨を食べて裁判を傍聴した。和男によると、出身地の鹿児島県・徳之島では親族の骨を口にして死を悼む風習がある。骨を食べるのは「いつまでも忘れないよ」という意味がある。


山地に彼なりの「理由」があったとしても、彼がやったことは「許される」「更生の資格がある」のでしょうか?
多くの「識者」たちは、「殺した側」のことばかりに興味を持ちすぎているように、僕には感じられます。


僕は「死刑制度存続を断固支持」しています。
「死刑制度があったって、それを適用せざるをえないような犯罪がなくなれば、有名無実になるだけ」ですから。
死刑制度を無くそうとする前に、なぜ、凶悪事件を無くそうとしないのか?
死刑囚の「反省」の様子を伝える前に、なぜ、彼らがどんな卑劣で残虐な行為を無辜の被害者たちに行ったのかを語らないのか?
ドラクエみたいに、被害者が生き返れるのなら、犯人を死刑にする必要はないだろうけど、人を殺めた側だけ「更生」の機会が与えられるのはおかしいし、そういう「犯人は生き続けていけること」が、多くの被害者やその家族を苦しめ続けているのです。


でも、「自分は絶対に被害者にならない」という前提のもとに「社会」という枠組みのなかで考えると、「『死刑』には、犯罪抑止効果があるのかどうか明らかではないし、無期懲役でも同じなんじゃないか」というのも理屈ではわかるんです。
ただ、僕の心のなかには、「死刑」と「無期懲役」は全然違う、という思いはあります。被害者やその家族にとっては、「あんなことをした人間が、この空の下のどこかで生きていて、美味しいものを食べたり、面白い話を聞いて笑ったりして、幸福を感じる瞬間がある」というだけでも、いたたまれないものだと思う。
たとえ、その人間が生きている場所が、刑務所の中であったとしても。


僕は「反省していないから、死刑になりたいと言っているから、死刑にしない」なんていうのは彼らが殺めた人たちをバカにしているとしか思えないし、「反省する機能が備わっていない人間に、『更生』の資格があるのか?」と感じます。そもそも、「反省」しないようなヤツは、「人間」なのか?
少なくとも、彼らが死刑になれば、彼ら自身は「再犯」できなくなるわけだしね。
……そんなことを考えては、「いや、そんな優生思想みたいなものにとらわれてはダメだよな……」と、心から振り払おうとする、その繰り返し。


この本のなかで、著者たちは、このように問いかけています。

 日本社会はまず「反省」を求める。しかし、山地のように反省が難しい人には無理に迫るのではなく、再犯防止を優先した矯正教育で更生させるべきだという考えが出始めている。いわば「反省なき更生」ともいえる考え方だ。
 その後に、少しずつ反省の心を理解できるように訓練できれば、悲劇は減らせるのではないか。
「死刑でいい」と考えて人を殺す人間に、厳罰化は抑止効果がない。
 日本の司法は大きな曲がり角にきている。二十五歳の男が残した課題は、あまりにも重い。


なるべくたくさんの人に読んでいただきたいけれど、ものすごく後味が悪いというか、救われない気分になるルポルタージュなので、オススメしがたいのも事実。
でも、子供を持つ親にとっては、参考になるところも多いのではないかと思いますし、この著者たちの問いかけに、耳を傾けて、考えてみてもらいたいと願ってもいるのです。

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