いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

かわん(id:kawango)さんと、川上量生さんのこと


kawango.hatenablog.com


 ネットのなかで「半匿名」でいたいという気持ちは僕にもわかるような気がします。
 ネットのおかげで発言ができるようになった人というのは、まさに僕のことではないか、とも。
 個人的に、ネットには恩を感じているし、なるべく居心地の良い場所であってほしい、と願っています。
 
 
 以下の話は、かわん(id:kawango)=川上量生さん、と決めつけて書いたものです。
 そういうのは、川上さんの本意ではないだろうということはわかっているつもりです。
 最初は、もう少し、のらりくらりとしたものを書こうと思っていたのですが、過去から川上さんの言葉をたどっていると、批判するとか賛成するとかはさておき、インターネットの時代を生きてきて、変化していく現実がみえすぎるくらいみえている経営者(川上量生)と、ルーツである「自分を救ってくれたネット」に恩義を感じ続けているひとりの男(id:kawango)の葛藤が伝わってくるんですよ。
 不躾であるのは承知の上で、同一人物として書き進めていきます。


 僕が川上さんのことをはじめて知ったのは、2009年に読んだこの本の登場人物としてでした。
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 「ドワンゴ」が、森栄樹さんをはじめとするパソコン通信で伝説の無料ゲームを生み出したBio_100%というグループのメンバーと、ソフトバンクに敗れた流通会社・ソフトウェアジャパン出身で、ネットワークゲームマニアの川上量生さんを中心として生まれたというのは、なんだかとてもドラマチックな化学反応のような気がしますし、その「創成期」の話が面白い。
 この「ドワンゴ」という会社は、1996年に創立され、そこから、オンラインゲームの通信対戦システムを皮切りに、コンピューター業界の流行を追って、さまざまな仕事に手を出していきます。
 ある意味これほど「いきあたりばったりの会社」が、ここまで大きくなって、続いてきたのは奇跡だとしか思えない。
オンラインゲームの猛者である一方で、社会人としての常識が決定的に欠けていた「廃人ゲーマー」たちを採用したドワンゴは、こんな「賭け」に打って出ます。

 プログラミングのまったくの初心者だった中野は、3ヶ月ほど必死で勉強してどうにかこうにかCを書けるようにはなっていた。アメリカのIVSが開発していたDWANGOの通信対戦システムをあれこれ自分なりに書き換えて、ビルドして動かすぐらいのことはできるようになってきていたのである。
 その様子を見て川上は、
「おー、できるじゃん」
 とうれしそうな声をあげた。そうしてさっそく、セガの仕事を回してきた。前にも書いたように、レースゲーム「SEGA RALLY 2」がドリームキャスト用のセガの製品として初めて通信対戦機能を内蔵することになり、この通信モジュールの開発を受注してきたのだ。
「できるんじゃない」
 と川上に気軽に言われて、中野は卒倒しそうになった。だっていままでやっていたのは、しょせんは海外のプログラマーが書いたソースを読み取って、改造していただけだ。自分でゼロから長いコードを書いたことさえない。
 それなのに川上は「大丈夫、大丈夫」と軽い調子で言うのだった。
 結局 SEGA RALLY 2の通信クライアントを佐藤が担当し、サーバは中野が1人で作ることになった。
 こんなノリで素人の廃人チームに仕事をさせて、それで最終的に何とかなったのは奇跡としか言いようがない。


 このくだりなど、読んでいて、なんて無謀な会社なんだ……と呆れるばかり。それでも、ギリギリのところで「何とかなった」のは、この会社の運の良さなのでしょう。
 当時はこういう話が、けっして珍しくはなかったのかもしれませんが、SEGAもそんな杜撰な発注をしてたからプレステに負けたんじゃないか?
 その後、受託開発の繰り返しに行き詰まりを感じたドワンゴは、ドコモのiモードに、新たな「鉱脈」を発見することになります。「釣りゲーム」の予想以上の成功、超大作ネットワークRPG「サムライロマネスク」の挫折、そして、「着メロ」への進出……
 この「着メロ」への進出が、ドワンゴの運命を変えていくのです。「絶対音感」を持つ大学生を駆使しての「音質重視」の戦略、GACKTなどの有名人をCMに起用しての広告戦略の成功による、右肩上がりの大躍進(この新書のなかで紹介されている、川上さんとGACKTさんの最初の「会食」の話には、すごくインパクトがありました。

 
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 この本では、川上さんが、どうやって『ニコニコ動画』をここまでの大きな潮流にしてきたか、が語られているのですが、昔の川上さんの話を読んでいると、自分との共通点が少なからずあって、けっこう嬉しくなってしまいました。

 僕がボードゲームを始めたのは、小学生のころ。最初のうちはそれこそ、誰もがやるような、タカラの『日本特急旅行ゲーム』や『億万長者ゲーム』をやっていました。しかし、そのうちそうしたゲームでは物足りなくなって、もっと戦略性の高いゲームをやりたいなと思うようになっていったのです。
 知らない人にとっては馴染みのないタイトルでしょうが、比較的有名なところでは、エポック社の『戦国大名』、アバロンヒル社の『マキャベリ』や『第三帝国』などをよくやりました。
 ホビージャパンが出していた「タクテクス」(というシミュレーションゲーム専門誌がありますが、これも中学校くらいのころから愛読するようになっていました。


おお、僕以外にも『タクテクス』を読んでいた人がいたのか!(あたりまえのこと、なんですけどね)
『タクテクス』って、ボードゲームの話だけではなくて、歴史上の有名な戦いを採り上げた記事が毎号載っていて、僕はそれを読んで、『ポエニ戦争』でローマに立ち向かったハンニバルに憧れたものでした。
川上さんは、当時対戦相手を探すのに苦労していたボードゲーマーたちのための「郵便による対戦システム」を発表していたそうです。
とにかく「ゲームマスター志向」なんだよなあ、川上さんって。


川上さんのゲーマーっぷりはすごい。
そして、「ゲームをするための行動力」にも驚かされます。
「自分がそのゲームをしたいがために、勤めていた会社に海外のネットゲームを扱う部署をつくってしまった」なんでエピソードも紹介されています。
そういうのって、公私混同ではないのか、などと思ってしまうのですが、そのくらい突き抜けた「好き」があるからこそ、ゲーマーたちのかゆいところに手がとどくようなサービスができた、というのも事実なのでしょう。


川上さんは「海外の事業者と日本のコンテンツホルダー(権利者)とは、最終的にわかり合えないのではないか」という前提に立って、こんな戦略を打ち出しました。

 このころ、通報があった動画を削除することは、どこのサイトでもやっていたことですが、ニコニコ動画では「自主パトロール」をして、問題がある動画を削除していくことを決定します。それはかなりの覚悟が求められる決断でした。
 それをすれば、他のサイトでは見られる動画がニコニコ動画では見られなくなることになり、大きなハンディを背負うことになるからです。
 しかし、ニコニコ動画では、サービスを開始する以前から「コンテンツホルダーとは良好な関係を築いていこう」と決めていたので、このことは外せない決断でした。それをためらっていては、YouTubeに勝てる可能性はゼロになります。
 そうして著作権の問題を孕んだ動画を削除していった結果として、ユーザー間での創作の連鎖など、独自の文化も生まれていきました。
 それはある意味、嬉しい誤算でした。ただ、いまから考えると、危うい賭けだったともいえます。
「違法アップロードされた動画」を観ることができないというのは、短期的にみせば、ユーザー獲得にマイナスになるはずです。
正しくないこととはいえ(いや、正しくないからこそ、なのか)一定の需要があることは間違いありませんから。
通報されれば削除する、というのが大部分の動画サービスの姿勢だったなかで、ニコニコ動画は「自発的に削除する」ことによって、コンテンツホルダーの信頼を得ていったのです。
いまでは、アニメ作品のプロモーションとしての『ニコニコ動画』での無料放送なども多数行われるようになっており、ユーザーのなかには、クリエイターとして新たにコンテンツの提供者になる人も出てきました。


 川上さんは、基本的に「性善説の人」であり、お金や名誉というより、自分にとって面白い世界のルールをつくるために仕事をしている人、なんですよね。
 この本を読んでいると、そのことがよくわかります。
 だからこそ、僕のような俗人には理解しがたいところもあるのでしょう。

 先ほど、「ネット民とリアル民の戦いの場」を可視化するのが超会議の役割だとお話しましたが、これはどういうことか。僕は、ネット民とリアル民の衝突が起こる原因は、ネット民の間に”誤解”があるからではないかと考えています。
 たとえば、「超会議1」をやると発表したとき、ネット民であるニコニコ動画のユーザーたちは、「ニコ動はあくまでネット民向けのサービスであって、そんなリアルイベントに来るヤツなんていない」と言っていました。
 でも、フタを開けてみると、超会議に来る人たちは何万人もいた。ネットのコアな人たちは、このことにかなりショックを受けたのではないでしょうか。実際、ニコニコ動画などのネットサービスは、いまやネット民だけのものではなく、「リア充」を含めた多様な人たちが共存する場所になっています。
 一方で、そうした”誤解”や”思い込み”を増幅させる拡声器として、ネットの力が使われることも多いのです。ネット上での「炎上」の様子を見ていても、どうでもいいことを騒ぎ立てて、みんなで寄ってたかって対象者をたたくという事例が少なくありません。
 ネットは本体、もっとポジティブな意見を増幅させるツールとして使うべきだと個人的には思っています。そうすれば、ネットにはもっと明るい未来が待っている。ニコニコ超会議が証明したように、もうネットの力がリアルを突き動かす時代になってきています。でも、いまの状態のまま、ネットがリアルを動かすというのが、果たしてよいことなのか。そんな問題意識が僕のなかにあります。


「いまの状態のまま、ネットがリアルを動かすというのが、果たしてよいことなのか?」
善悪に関係なく、もう「そういう時代」になってしまっていることは認識したうえで、川上さんは迷いを口にされているのです。


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『ニコニコ動画』も影響力のあるメディアになって、そこで「ヘイトスピーチ」が流されることを問題視する声もあがってきたのです。
 それは、運営側が制限するべきではないのか、と。

――ヘイトスピーチについてはどう思われますか? これはニコニコのコメントでもありうると思うのですが。


川上:ヘイトスピーチはレッテル貼りですよね。手段として単なる悪口を言うという行動は、なくしていくべきだと思います。これはニコニコの運営者として取り締まるべき、合理的な理由がある。なぜならそういうことばかり言うユーザーが増えると、普通のユーザーが来なくなるから。


――たしかに、そうです。


川上:取り締まり方は常に考えていて、実際、投稿者のアカウントを削除するなどの対応をしています。それでも完全にはなくならないですよね。ただニコニコは、「韓国人に対するヘイトスピーチを特別に取り締まれ」といった意見には対応しません。


――え? ヘイトスピーチは良くないんですよね?


川上:テーマがなんであれ、ヘイトスピーチそのものはなくすべきです。でも、「韓国人に対するヘイトスピーチになりうるものは、すべて無条件に消せ」みたいな意見はおかしい。ヘイトスピーチの定義なんて簡単にはできないですから、どんどん拡大解釈されるだけです。ある特定のテーマの言論を規制すべきだ、という考え方に対しては、反対です。
 僕ら運営側としては、ヘイトスピーチは中身を取り締まるのではなく、手法を取り締まるべきだと思っています。中身の是非の判断は個別に当事者間でやってほしいですね。運営として踏み込むべき領域ではないです。


――なるほど、どちらの立場の情報も流すべきだ、というお話と一貫していますね。どんな立場の人であれ、議論する権利はある、と。


川上:そう。嫌韓、嫌中は取り締まるべき、といった単純なものではないんですよ。国と国との関係の間に、多様な意見や思いがあるということは、みんな知ったほうがいいと思います。


 川上さんは、ヘイトスピーチについて危惧しながらも、「特定のテーマに対する言論を規制するのは反対」だと立場を明確にされています。
 ああ、川上さんが言っていることは、たしかに「正しい」。
 ネットにも「自浄作用」みたいなものがあって、ヘイトスピーチばかり続けているような人は、周囲から相手にされなくなり、「淘汰」されていくのかもしれません。
 川上さんには、ユーザーには、そのくらいの能力があるはずだ、という想いがあるのでしょう。


 僕は正直なところ、川上さんが考えているほどユーザーは賢くない、というか、匿名の空間では、賢くないふるまいをしてしまいがちだと感じます。
 ネットでの誹謗中傷というのは、やる側のコストに比べて、やられる側のダメージが大きすぎるのです。
 そして、この問題はドワンゴの、ネット文化の未来を左右していくのではないか、と思っています。
 それが杞憂であることを、願ってはいるのですけど。

川上:インターネットに国境がない状態で何が起こるかというと、グーグルとかフェイスブックとかそういうグローバルなプラットフォームが国家みたいな権力を持ってくると思うんですよ。じゃあ、プラットフォームと日本政府のどっちに統治されるのが日本人にとっていいかというと、どう考えても日本政府でしょう。政府は、福祉政策とかインフラ整備とかやってくれますよね。でも、グーグルやフェイスブックはやりませんよ。今でも個人情報すら守ってくれない。


 『ルールを変える思考法』は2013年、『ニコニコ哲学』は2014年に上梓された本なのですが、「違法アップロードサイトへのブロッキング問題」についても、川上さんのスタンスはずっと変わっていない、ということは言えると思います。
 国家主導でのブロッキングは「インターネットの自由を奪う」と考える人たちがいることはわかるし、川上さんの「インターネット理想主義者」としての面は、その考えに共感しているのではなかろうか。
 そんな気持ちを抱えつつも、経営者、現実主義者としての川上さんは、「コンテンツホルダーと良い関係を築いて、クリエイターやコンテンツを支援する」ということや「グーグルやフェイスブックのような巨大プラットフォーム」に依存しすぎるよりは、政府に頼るほうが日本人にとってはマシ、ということを考えて、「ブロッキングを肯定する」という判断をしたのだと思います。
 ちゃんと法律を整えないと、何もかもブロッキングされてしまうおそれがあるのは事実なのだけれど、まずは緊急避難的な措置として、違法アップロードサイトを止めておかないと、コンテンツが枯れはててしまってからでは遅いのかもしれない(正直、そのあたりのスピード感は、僕にはよくわかりません。個人的には、民主主義的な筋を通したほうがベターだと思っています。ただ、川上さんには現場の人間として、それでは遅すぎる、という肌感覚もあるのでしょう)。
 

 冒頭のエントリに、こんな文章があります。

ぼくはリアルとネットは地続きとかいっているやつのことが本当に頭にきてしょうがない。リアルで居場所をなくしてネットに居場所をつくった人間に対して、ネットでもリアルの人間関係を持ち込もうというのか?


リアルはリアル、ネットはネットでいいじゃないか。なんなら、ネットとリアルは地続き、とかいうやつらの島をつくってもらって、そこはそこで勝手にやってもらってもいい。ただ、ネット全体にリアルの価値観を持ち込む必要がどこにある?


 こういう考え方に対して、「じゃあ、『ニコニコ超会議』っていうのは何なんだよ、あれこそ「リアルとネットは地続き」になっている象徴じゃないのか?という問いかけを多くの人がしています。僕もそう思っていたのだけれど、あらためて川上さんの言葉を読み返してみると、あれは「ネットからリアルへの侵攻」みたいなものじゃないかな、という気がするのです。
 「地続き」になったことによって、リアルがネットに攻め入ってきているように考えがちだけれど、実際は「ネットがリアルを侵食している」ところも少なからずありますよね。
 ある意味、リアルにネットの人間関係が、持ち込まれている。
 ただし、それはそれで、川上さんはまた、考え込んでしまっているのです。

 でも、いまの状態のまま、ネットがリアルを動かすというのが、果たしてよいことなのか。そんな問題意識が僕のなかにあります。


川上さんは、ものすごく正直な人か、大ウソつきなのか。
その両面を持っていて、自分自身でも持て余しているのだろうか。


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この本のなかで、いちばん印象的だったのは、川上さんが序章に書いておられる、この文章でした。

 ユーザー視点に立ったインターネットの歴史とは、現実社会に住む人々から分化して、ネットに住むようになった人々の誕生と発展の歴史であり、さらにはインターネットの拡大により、いったんは現実生活の住民から分かれたネット住民が、再び現実社会の住民と交わり、文化的衝突を起こした歴史であるともいえる。
 このことをわかりやすくたとえる方法として、私は「ネット新大陸」という造語をよく使う。「ネット新大陸」とは、現実社会とは別の仮想現実の世界としてインターネットを理解するということである。そうすると、元々われわれが住んでいた現実世界のことは「旧大陸」とでも呼べばいいだろうか。そしてインターネットの発展の歴史とは、現実世界=旧大陸から新しく発見された仮想世界=ネット新大陸へつぎつぎと人々が移住してゆき、人間の勢力圏を拡大していった歴史であると考えるわけである。
 ネット新大陸へは、どんなひとが移住したのだろうか? 早くから移住をしたのは、旧大陸の中でも進歩的な考え方ともった知的エリート、というわけではまったくなかった。むしろ旧大陸になじめない人々が最初のネットへの移住者の中心だった。旧大陸になじめないとは、つまり、現実社会において居場所がない、ということである。そういう人々がネットに居場所をもとめて移住をしてきたのである。彼らをここで「ネット原住民」と呼ぶことにする。一方で、ネット原住民に遅れてネット新大陸に入植してきたひとたちがいる。彼らのほうは「ネット新住民」と呼ぼう。
 ネット原住民とネット新住民とはなにが異なるのか? 決定的な違いは旧大陸との関わり方である。ネット原住民はもはや旧大陸の移住者ではなく、元からネット新大陸に住み着いた人間として振る舞う。ネット原住民は旧大陸で居場所がなかったから、ネット新大陸では生まれ変わった人生を過ごしている。彼らは旧大陸を海の向こうにある自分たちとはまったく無関係な別世界として考えていて、ネット新大陸では旧大陸と違う独自のルールがあると思っている。いわば別の国の住民なのだ。一方で、ネット新住民のほうはネット新大陸を旧大陸の延長で考える。社会制度や人間関係も旧大陸のものをそのまま新大陸にもち込みたがるのが特徴だ。そしてネット原住民のほうは土地私有の概念がなくネット新大陸は巨大な共有地だと考えるが、ネット新住民のほうはSNSに代表されるように自分が生活するネットを境界で区切ろうとする。両者は同じネット新大陸の住民でありながら根本的に価値観が異なり、相容れない。
 まずネット文化を理解するための前提として、現在のネットには先にこの大陸に移住してきた「ネット原住民」とあとから入植してきた「ネット新住民」とがいて、彼らの間に大きな文化の違いが存在することを知っておかなくてはならない。なぜならネット上での軋轢のほとんどは、この古くからいるネット原住民と、それに対して勢力を拡大しつつある新住民の文化的衝突であるとみなせるからだ。


  ああ、こういうことだったのか、と。
 僕も漠然と感じたことが、こんなにうまく言葉にされていることに驚きました。
 ネットの世界には、物理的な「境界」がありません。
 リアルな土地(っていうのもヘンな言葉ですが)のように、限られたスペースではないはずなのです。
 もちろん、容量的な限界はありますが、よほどのことがなければ、容量をめぐっての住民どうしの衝突が起こることはないのです。


 僕も「ネット原住民」側だと思うのですが、この「新住民」へのルサンチマン、みたいなものはよくわかる。
 自分は現実に適応するのが難しいと感じていて、ようやくネットに居場所を確保したのに、ネット上が便利になってきたとたんに、それまでは「ネットばっかりやっているなんて、気持ち悪い」と言っていた人たちが、どんどん流入してきて、「リア充ルール」を押しつけてくる。
 ネットでは、「全体に公開」で書かれたものは、どこから言及されても当然、のはずなのに、「新住民」たちは「なんで仲間じゃないあなたが、私の話に口出ししてくるの? それっておかしい」と考えています。
 僕たちが開拓してきたネットっていうのは、そんな場所じゃないんだよ!
 でも、「垣根」がないだけに、原住民と新住民は、常に一触即発の状態のまま共存し、Twitterでお互いを見ないようにしているのです。
 多くのSNSでは、自分とは違う価値観の人たちって、けっこう見えづらくなっていますしね。


 ただし、川上さんは、「経営者(あるいは現実主義者)視点」で、こんな話もされているのです。
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 旧世界の代名詞としての”リアル”と新世界の代名詞としての”ネット”。リアルとネットという言い回しには、ネットはリアル=現実世界とは通用する常識が異なる別世界であるというニュアンスがあると冒頭で書きました。
 なぜ、ネットがリアルと異なる別世界にならなければならなかったのか。それはインターネットでビジネスをしようとする人が、インターネットはリアルの世界が進化した新しい世界だというような説明をしたほうが、都合がよかったからでしょう。
 インターネットは資本市場と結びつくことで、バーチャルなビジネスプランから現実のお金を集める装置として機能するということは説明してきました。
 その際に、リアルの世界と鏡像関係にあるような未来のネット社会、という単純なモデルは他人に説明するビジネスプランをつくるときに、とても使いやすいのです。
 新聞、雑誌などのオールドメディアに対するネットメディアという図式。広告代理店に対するネット広告代理店。証券会社に対するネット証券。銀行に対するネット銀行。ネット生保にネット電話にネットスーパーと、なんでもネットをつければ新しいビジネスモデルができるのです。
 現実に存在しているビジネスのネット版という分かったような分からないような単純なアナロジーで、ビジネスモデルが簡単につくれる。そしてバーチャルなビジネスモデルができればリアルなお金が集ってしまう。
 ベンチャービジネスの中でも特にITベンチャーにお金が集中してITバブルが起こった背景には、ネットとつければとにかく簡単にネタになる新しいビジネスモデルがつくれてしまう、そういう構造があったのです。
 なんでもネットをつければビジネスプランができてしまう現実は、どういう根拠によって支えられていたのかというと、それはインターネットにまつわるビジネスというものは、ほとんどすべて本質的には安売り商法だからです。
 インターネットを利用することにより、あらゆるサービスや商品を安く、あるいは無料で提供する。そして安かったり無料だったりするからお客が集る、というあまりにも単純であるが故にあまりにも万能なモデルです。


 「ネットビジネスというものは、ほとんどすべて本質的には安売り商法だ」と、実際にネットビジネスの世界でやってきた川上さんは断言してしまうのです。
 川上さん自身は『ニコニコ動画』などで、「ネットはなんでも無料」という風潮に風穴を開けようとし、実際に多くの有料会員を抱えて、成功を収めている人なんですけどね。

 このようにネットは別の世界で別の常識が通用するという認識が、リアルの現実社会でされるようになった背景には、インターネットを口実にお金を集めるビジネスモデルがつくりやすかったからだというのが、ぼくが思っていることです。

 「ネット社会は、これまでとは別の世界である」というのは、それによってお金を集めようという人たちにとって都合の良い「共同幻想」だったのかもしれません。
 結果的には「安売り商法」でしかないのに。
 もちろん、「安い」というのは、普遍的かつ強力な「武器」なのですが。


 川上さんが語る言葉って、ものすごくおもしろい。
 ドワンゴや『ニコニコ動画』の運営にしても、細いつり橋を渡りきるような、絶妙なバランス感覚を発揮して、ここまで来ているのです。
 『ニコニコ動画』に関しては、近年はYouTubeの巻き返しもあり、難局にさしかかっているみたいですけど。


 川上さんというのは、本当に頭がいい人で、経営者としての視点とひとりのユーザーとしての視点を併せ持つ稀有な存在だと思います。
 それが、これまでの成功を支えてきたのです。
 川上さんには、「ネットの現実」が見えすぎるほど見えている。
 昔、「こうであってほしい」と思っていたものとかけ離れてしまっていることと、経営者としては、そのフィールドで勝負するしかないことも、十分にわかっている。
 そこで、フェラーリを乗り回し、クルーザーや自家用ジェットを手に入れ、「俺は成功したぜ!」と言って無邪気に喜べるような幸福なメンタリティは、川上さんにはなかった。
 「これでよかったのか?」と、理想主義者の「かわん」は、現実主義者の川上量生に問いかけ続けている。
 これもひとつの「サブカル鬱」みたいなものなのだろうか。


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 多くの「ネットで救われたはずの人々」が、自分は昔からリア充だったんだ、という顔をして、ネット原住民たちを小馬鹿にしているなかで、川上さんは、ずっとその「創生期のメンタリティ」を持ち続けているのです。
 

ぼくの本分とは、若いときのぼくを救ってくれたネットを守ることだ。そしてネットに居場所を得られたひとが居場所を奪われないようすることだ。そのための手段で、他のだれでもなく、ぼくにしかできないことをやる。そして必要だと思ったことは、当のネット民に嫌われてもやる、と決めた。

ぼくがネットの荒らしと、根気よく不毛に見える喧嘩を続けているのもその一環だ。ぼくは社会に対して、ネット民の口汚い呪いの言葉は自業自得なんだから、ちゃんと受け止めろ、とは心の中では思っているのだが、現実問題として、まあ、無理だろうなとも思っている。


ネット民が今後迫害されないためにも、ネットの誹謗中傷はなくさないとダメだ。


 川上さん(いや、これは「かわん」さんも同じだと思う)は、「ネット原住民たちがその文化を守りつつ、生き延びていくためには、ある程度、自制というか、自治・自浄能力があることを証明していかなければならない」と考えているのではないかと僕は感じています。
 それは、「ネットの自由を守る」という意味では、百点満点の解答ではないのかもしれないけれど、現実問題として、あまりにも無法地帯でリアルからみてリスクが大きいと判断されれば、厳しい規制(たとえば、ネットの実名化やもっと広範囲のブロッキングなど)が導入される可能性も高くなるのです。
 全面戦争をやって勝てるほどの戦力がないネット民は、リアルに対して、タフ・ネゴシエイターであり続けるしかない。
 まあ、そこまでしてネット民が生き残るべきなのか僕に判断がつきかねますし、もしかしたら、ネット原住民世代が年齢的に退場してしまえば、それで終わってしまう話なのかもしれないんですけど。


 インターネットに対して、「万人がそれぞれの所属を超えて言葉の内容だけで議論できる理想の空間になる」と夢をみていた人たちに突きつけられている現状というのは、なんだかとても厳しいものではありますね。
 それを承知のうえで、川上量生という人は、自身の内面でも、経営者としても、「ネット原住民」「ネット新住民」の板挟みにあいながらも、最善ではなくても、なるべくマシな可能性を後世のネット民に残そうとしている。


 個々の言説や手法に関しては、僕は諸手をあげて賛成しているわけではありません。
 それでも、僕は川上さんに対して、ものすごく一方的で身勝手な親近感を抱かずにはいられないのです。
 批判するな、というのではなくて、誰かの尻馬に乗って批判する前に、川上さんが言ってきたこと、やってきたことの一端でも知ってもらえれば、と思ってこれを書きました。
 
 

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