頭の中の洪水

観察と思考と分析の日記ですよってね。たまに思想家が顔出します。よってね。

【固定記事】いとをかしき言葉のお話

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

 

 

 

言葉はその人自身

皆さんは言霊という考え方をご存知でしょうか。

 

言霊とは、古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力。

発した言葉通りの結果を表す力があるとされた。

 

 

という意味合いらしいです。

 

いろいろ個人で感じ方に違いはあると思いますが、わたし個人は言霊は存在すると思っています。

友人や上司に言われた言葉で傷つくという現象も、言われた言葉がずっと残っていて胸につっかえるという現象も、言霊が存在しないと起こらないと思うのです。

 

またその言葉は、思考を使わないと発せられることはありません。

 

 

言霊の話とはすこし離れますが、全ての物事や現実は、思考の後に生まれると考えています。

戦国時代に「電話を使えば、遠くにいる親類と会話することができる」と話したところで、だれも相手にしないでしょう。

下手をすれば「邪教を布教しようとしている!」と言われて打ち首に処せられる危険さえあります。

 

憶測の域を出ませんが電話を作ろうと考えた人も、「離れた人と話せるわけがないでしょうに」と外野から笑われていたのではないでしょうか。

しかし今では当たり前となっています。

成功者の特徴として他者から"笑われた経験がある"というのは、ひとつの指標になるのではないでしょうか。

 

 

言霊

言霊の話に戻ります。

すこし眉唾な話に聞こえると思いますので、話半分にでも聞いていてください。

 

日本語にはとても大きな力が含まれているらしいです。わたしはまだ不勉強なので、ちゃんと説明はできませんが、カタカムナ文明や、カタカムナ文字の48音と現代日本で用いられている48字の一致などです。

カタカムナでは「ひふみよい」や「むなやこと」とかと言ったりするんですが、「いち、に、さん」と今では読んでいる「12345678910」も、むかしは「ひふみよいむなやこと」と読んでいたらしいです。「ひい、ふう、みい」ですね。

 

またあまり知られていませんが、第二次大戦で負けた後にGHQが日本を占領統治しましたが、そのGHQが日本の漢字を無くそうと画策しました。

「漢字というものは複雑にすぎる。あんなに難しいなら識字率も低いだろうし、それが原因で思想も偏る。結果戦争に繋がるだろうから漢字なんて廃止してしまえ」というロジックだったみたいです。

その後全国で一斉に識字率調査を行なった結果、全体の97%くらいが日本語を読み書きできたそうです。

 

漢字廃止計画は頓挫しましたが、神風特攻を生み出した民族を恐れていたGHQですから、どうしても日本の国力を下げたいために漢字の書き換えを行います。

氣を気にしたり、國を国にしたり、學を学にしたり、靈を霊にしたり。

理由等はこちらの動画様で話されていますので、ご覧になってみてください。

youtu.be

 

 

この前太宰治さんの短編を読んでいたら『慾』という字が出てきました。読みは「よく」

意味は欲望の「よく」と一緒ですが、現在の日本では『欲』が一般的です。

これもGHQの言語統制・言語統治でしょう。心が消えていますね。

 

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https://www.shinchosha.co.jp/book/100606/

 

中學時分は夏目漱石さんの旧字体で刊行された時の文庫とかの文學を読んでばかりいた為、旧字体にも馴染みがあったので特段無理なく受け入れることができました。

ですが、生まれてからも成長してからも目で考えていた人には意識を書き換えるのは苦労なさるでしょうね。

ヒトは考える場所が「心・頭・目」の三つあるとわたしは思っているのですが、その話も機会があればまたお伝えいたしますね。

 

 

同じ意味の漢字でも効果が違う?

なにが言いたいかというと、思い浮かべている漢字次第でも言葉の意味が変わるんじゃないかということです。

GHQの統治前は教科の名称が「國史」だったけれど、現在の學校教育下では、「歴史」になっています(こうの史代さん原作の、映画『この世界の片隅に』でも國史と描写されています)。これは「自國の歴史ではないように刷り込ませる為」であったりするらしいです。

 

 

わたしが非常に氣分良く思わない言葉があります。

「雰囲気」を「ふいんき」を発音している人が多すぎる。正しくは「ふんいき」です。

また、漢字ごとに考えてみると、雰は氣配・囲はとりまく・氣はエネルギー。

つまりその人の纏っているエネルギーという意味合いになります。つまりオーラと同義でしょうね。

それを正しく言わずに「ふいんき」と発音するというのは、その人自身のオーラ(エネルギー)を反故にすることなのではないかと感じます。

 

なにかで、「新しく納めた國や土地は、まず最初に言語を書き換えるのが大前提の常套手段」と聴いたことがあります。

漢字は亡くせなかったけど、言靈的な意味から無効にしてから75年くらいですか。

現代日本でも着々と言語の書き換えの刷り込みが行われていますよね。台所をキッチンと言ったり、鶏肉をチキンと言ったり、まな板をカッティングボードと言ったり。

言語の統制話は華氏451度にも通じますね。

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https://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/11955.html

 

このお話は、前回に書いた一九八四年の話とも繋がりますね( ¨̮ )

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

文字通り流れて行く言葉と、昔からある言葉

あと個人的に流行り言葉にも不満を感じるんですが、これは若い世代についていけないだけでしょう。

でもその時代だけのスラングみたいなのばかりの文章は、パッと見ただけでも非常に頭が悪く見えてしまうのだなという発見があったので有難い経験だったと思います😉

 

またそれにより逆に思うのは、「昔からある言葉の力」です。

最近の流行り言葉だと「エモい」とかなのでしょうか。あと比較例として「鬼」や「神」もありますよね。

12,3年前に爆発的に流行った「KY」という略語も今ではめっきり聞きません。

ここからわたしは「言語って結構残酷に、かつ容易に淘汰されるんじゃないか?」と思いました。

 

わたしはギターを嗜んでおり、今年で14年目くらいになります。

高校生の時分には「とにかく早く上達するコツ」を求めていたのですが、上達するには「今現在でできることを日々積み重ねる」のが一番手っ取り早いと氣づきました(今現在できることを日々積み重ねていると、「これをこうしたらどうだろうか?」という閃きが生まれます)。それを理解したのがつい半年前とかです。

これって「急がば回れ」ということではないでしょうか。

 

他には「人のふり見て我がふり直せ」を実感したお話もあるのですが、非常に印象的かつ"いとをかし"な出来事で、いざ書くとなるときっと長くなるので、また今度個別の記事にしたいと思います。

端的にいうと『他者を通して自分を見ている』です。

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

上記した昔からある言葉は、わたしが認識しているだけでも、祖母祖父の代からは存在していて、淘汰をされていません。

一時的な言葉が10年そこらで淘汰されるているのに対して、90年近くも生き残って、語り継がれていると言うのは、その言葉自体の言靈的な力が働いていたり、ヒトがヒトの世を生きるにおいて、ある種の真理を含んでいたり真理に触れていたりするためではないでしょうか?

 

 

ちなみにわたしが「エモい」という言葉が嫌いなのは、「自身の語彙の貧弱さを改善する氣もなくその貧弱さに胡坐をかいている姿勢が見えるから」です。簡単に言えば向上心がないということでしょうか。

「精神的に向上心のない奴はばかだ」

 

もういっこちなみに、「語彙力」という言葉が幅を利かせていますが、「語彙」は英語でボキャブラリーです。ボキャブラリーは豊富や貧弱と言われるように『量』です。

その量が能力というのはおかしな話なので、「語彙力」という言葉は根本から破綻しており、「語彙力」という言葉をそのまま使う方は、語彙も國語的な言語能力も貧弱だと、わたしは思います🌝

 

 

「無い物ねだり」という言葉があります。

『ないものを欲しがること・無理なことを望むこと』という認識が一般的で、わたしもその意味合いだけだと思っていたのですが、『自ら無い状態や不足感を望む』ことでもあるのではないか?と思いました。

不足感や、理想像などの目標が常にある方が頑張れて充実を感じられるから。

『不自由な方が自由にできる』みたいな話ですね。

リフレーミングの癖をつけていると、ちょくちょくこういった閃きがおりてくるから楽しいです😚

 

 

『無いものねだり』の話を描きたいだけだったのに、他のずっと思ってたことを書いたら3500字以上も書いちゃってたわ😘

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

[un] と品性のある人

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

わたしは言葉という手段に対して興味深い感情を覺えています。

今回はそんな言葉についての内容、ひさびさの言語回です。

 

 

端を発したとっかかり

映画などの映像や絵などの視覺表現において、電子錠が解錠された時って『unlock(ed)』と表現されるじゃないですか。

 

十年とかそこら前までは『Open』だったので、『unlock』と表現された時には「Openじゃねえんだ」と思ったりもしたものです。

 

果たしてこの『unlock』について、長らく何も思わなかったのですが、つい先日引っかかりを覺えました。

 

「なんでOpenとちゃうんやろなぁ。そういえば」

 

 

正しい状態

『unlock』は、閉めるという単語の【Lock】に、打ち消しを意味する[un]がくっついた単語です。

ですので【un-Lock】ということになりますね。

 

『一九八四年』の作中にて用いられていた〈ニュースピーク〉で多用されていました、あの[un]です。

 

 

 

一方【open】は「開く」を意味する英単語です。

 

なぜ開錠時の表現がOpenではないのでしょうか。

 

その理由としてわたしは『鍵というもの』の役割が関係しているのではないか、と考えています。

 

 

【鍵】とは一般的に何かを閉める用途で用います(扉など)。

つまり元々想定されている使い方が《閉める》なのですね。

ということは鍵というものにおける正常な(本来行うべき)作用とは「閉めること」となります。

 

『鍵が開いている状態』というのは「正常な状態ではない」から、【open】ではなく[un]がくっついた【unlock】が使われるのではないか、との仮説を考えました。

ということは【unlock】は『鍵が開いている』ではなく『施錠されていない』ということになりますね。

 

 

その証拠?に、開錠という言葉はあっても閉錠という言葉はありません。

これも『鍵・錠は閉めるもの』という通念と意識があるからでしょう。そう思います。

 

 

un-goodではなくbadがある理由

先に引用いたしました『一九八四年』における〈ニュースピーク〉では、現行の言葉たちよりも単語数が削られております。

 

その多くは[un]を用いたものであり、例としてはgoodの対義語がbadではなくun-goodと書き換えられていたりします。

 

goodとbadは日本語では「良い」「悪い」と訳されますが、ではなぜ "un-Goodではない" のでしょうか。

 

 

これについてわたしは『〈良い〉も〈悪い〉も "正しい状態として存在しえる" から・存在して然るべきだから』だと考えております。

 

悪いという言葉は例として『体調が悪い』などの場合に使用されたりします。

体調は良い状態が好ましいため、『体調が悪い』と表現する場合には【un -Good】の方が適切じゃね?とも思われますが、〈悪い〉という状況がないと《良い状態》は存在しえません。

つまり『 "良い" を成立させるためには "悪い" が必要不可欠』であるということになるのです。

ややこしいですよね。

 

また、機械の挙動が芳しくなく、内部部品の不良が原因であった。

そうすると〈内部部品が悪い〉ということとなりますが、この場合 "悪い" が存在するからこそ "良い" へ繋がるということです。

つまり〈悪い〉は肯定されており、左記状況は『あるべき状態』となる。そのため【bad】は必要になる。

 

 

『 "un-Good" ではなく "bad" と表現する理由』を斯様に推察いたします。

 

 

つーかそもそも対義語が違うんじゃね。

解錠をした時に【un-Lock】と表示されます。

 

最初に「Openじゃないのか?」と疑問を持った次第ですが、そもそもとして対義語が違うのではないか?と思いました。

 

【Open】の対義語は【Close】です。

 

 

正しい状態ⅱ

[un]は正しくない状態の時に用いるのではないか?と推察をいたしましたが、[un]が頭にくっつく言葉は他にもあります。

 

【un-Happy】や【un-Lucky】、【un-Fair】など々等

 

それぞれ[un]が付いていない元の単語は「幸福」「幸運」「公平」という意味です。

 

・[un]は正しくない状態の時に用いるのではないか?・

という仮説を推察しましたが、その仮説を以って考えたらば「幸福」「幸運」「公平」があるべき状態であるということになりますね(「不幸」を意味する言葉に【misérable】という単語がありますが、これはフランス語なのでノーカウントです)。

 

なんて素敵なことでしょうか。

 

 

 

正直上記の・[un]は正しくない状態の時に用いるのではないか?・なる仮説を否定する単語なんて膨大にあるはずなのでご自由にお探しください。

 

正直なところ[un]が頭にくっつく言葉が多すぎて例に挙げるのが面倒になったのですね。 

 

 

品がいい

ところでこの[un]について、ある発見?をしました。

 

 

『品が良い』という形容があるじゃないですか。

大抵は人に対して用いる表現ですが、『品が良い人』って[un]を用いて発言をしている場合が多いのではないか。そう思いました。

 

美味しいと不味い、綺麗と汚い、賢いと愚か、など。

 

 

これら単語の共通点は、後者の方が発せられた時の印象が強いです。

表現を変えたならば「多少なりとも衝撃がある言葉」です。

 

 

一つ目の例 〈美味しい〉と〈不味い〉

わたしがhigh school years oldなティーンエイジア、つまり まだまだ幼いなりに『自分は立派に大人だ、子ども扱いするな』と強がったりする年頃 の時分のことです。

 

事あるごと、口にものが入るたびに「不味い」と口にする學友がおったそうな。

その言葉をあまりに耳にするので嫌になったわたしは、ある決意をします。

 

「〈不味い〉って言葉、なるべく使わないようにしよう」

 

 

そもそも、〈不味い〉って言葉は汎用性が高い上に樂ができるんですよ。

『どうして不味いと感じたのか』を表さなくても意味が通っちゃうでしょ。

しかも料理を作った人への改善点や案を示さないし。

 

『食材に火が通っていない』

『味付けが濃すぎる』

『この料理に何それの風味は必要ないから今度作るときは省いてみたらいかが?』

 

などの説明をせず、相手を傷つけるだけなんですよね。〈不味い〉という言葉は、ね。

 

しかも現代では状況が芳しくない場合でも用いる言葉じゃないですか。

「不味いことになったな…」って。

 

 

閑話休題。

 

 

食べたものが自分の好みではなかった場合、つまりは〈美味しい〉の逆であった場合には〈不味い〉の他にどのような表現がございますでしょうか。

 

そうですね、《美味しくない》です。

あら?この表現って〈美味しい〉に[un]がくっついているのではないでしょうか。

 

[un]がくっつくことでお上品になる例、他にもみていきましょう。

 

 

(しかし本当に品が良い方は『口に合わない』という言葉を使う)

 

 

他にも例を挙げました〈綺麗〉と〈汚い〉、〈賢い〉と〈愚か〉についても同様に[un]をつけることができます。

 

《綺麗じゃない》

《賢くない》

 

これらの言葉はどことなく品の良さを感じませんでしょうか。

 

逆に《汚くない》、《愚かじゃない》は表現としてあまり用いませんし、表現するとしても "何かへの反応・返答" として発せられると思われます(「別に汚くないでしょ」「それは愚かじゃないよ」)。

 

ちょっと調べたところによると、ですが【un-Fool】や【un-Stupid】という言葉はないっぽいです。

これも〈愚か〉という状態は正しい状態ではないからではないでしょうか。

 

しかし『愚かであること』は必要です。

"知ったつもりにならず、愚か者としている姿勢" は重要である。ということです。

ならば〈愚か〉は正しい状態ではないか?と思ったり思われたりされるかも知れませんが、 "知ったつもりにならず、愚か者としている姿勢" はもはや賢い姿勢・心持ちです。

 

一応念のために書いておきますが、同意を求める時に使う「〜じゃない?」という表現ではありませんよ。

 

 

やはり[un]がくっついた言葉は〈汚い〉や〈愚か〉と比べて品が良い表現だと思えます。

とはいえそれは比べている対象が対象だからという理由もあるでしょう。

 

 

ところが面白いのは、〈良い〉と〈悪い〉についてはどちらも[un]をつけた表現があります。

〈悪い〉については上に述べた通りですが、〈良い〉も〈悪い〉も肯定され有る正しい状態であるからなのでしょう。

 

また《きたないはきれい》でもあります。

まあこれは觀点する尺度が違いますね。

 

 

 

 

無闇矢鱈に[un]を使って簡略化するのは思考の放棄となり得るので多用は厳禁ですが(簡略化をするとその分思考の幅が狭まるので思考自体が浅くなる)、印象という莫迦らしいものが支配し横たわっている人間社会に於いては[un]がくっついた言葉を使った方が得でしょう。

積極的に使っていきたいものですね。

 

わたし自身なるべくなら攻撃性の高い言葉を用いたくないという思惑もあります(使わないわけではない)。

 

 

裂ける

先日とあるコンビニエンスストアにてパン系の商品に「裂ける」という言葉が用いられている様子を見つけました。

 

『裂ける』という言葉、わたしは別に印象が良いものだとは認識していなかったので若干の困惑と興味深さを感じました。

 

『裂ける』は繊維状のものが繊維の様相を呈しながら分裂する場合に形容されるものだと認識しています。

例としては「肉が裂ける」です。

 

この『裂ける』ですが恐らくこれって某さけるチーズがかなり売れたからなのでしょうか。

だから『裂ける』という言葉に対しての敷居が下がった。

とはいえ、別にわざわざ商品名に用いる言葉でもないと思うけれど。

 

 

 

そんなお話し。

 

ありがとうございました‪( ¨̮ )‬

 

â– 

 

 

『CHERNOBYL』を見返しています。


www.youtube.com

 

ちょうど一年と一ヶ月ほど前に觀ましたが、やはり凄まじい作品です。

floodinhead.hatenablog.com

 

かなり衝撃的な内容ですが、人類の歴史として、そして原子力というある種では禁断の手法に手を出している状況として、觀るべき作品であると思います。

 

特に日本は原子力発電所が複数あり、事故も発生した。

そしてわたしの故郷である愛媛にも伊方原発があるので他人事ではありません。

 

チェルノブイリの事故への対策を行った方々へ対しても、3/11に福島で発生した事故と事故への対応を行った方々には頭が上がりません。

 

第四話にて、建物の屋上に乗った黒鉛を除去する青年の有志が描かれます。

除去作業が終わり現場を指揮する方が謝辞を述べるのですが、除去作業を行なった青年は「ソビエトのために」というような内容を口にして返答します。

 

実際は地球規模の事故・災害であるため人類や世界のために行うべき行動なのですが(わたし自身はそう感じる)、そういった『全人類』や『全世界の生物』のためというように対象が広すぎると最小の単位は國家になるのだろうか、と思いました。

 

 

その当時、現場に立っていた方には感謝しかない。

 

鉄の龍。いや、地中を行くのでもぐらかみみず?

 

本日もご訪問ありがとうございます。

公共利用が可能な交通機関って色々とあるじゃないですか。

今回はそんな乗り物を利用した際に見て思ったことが内容です。

 

 

多分通信販売で購入した本

ある日、土曜日。

わたしは鉄のみみずに乗っていました。

 

その時わたしは座席に座っていたのですが、車内は乗車率は全体の五割程度。

右斜め前にはさらりまんが立っており、とある本を読んでいました。

 

詳しい題名は覺えておりませんが『人生』や『勝利』、『ルール』などの単語が書かれていたように思います(かなりうろおぼえ)。

つまり書籍自体がむき出しだったのですね。

 

その様を見て、いろいろと憶測をしました。

 

ひとつ。

憶測したことの一つ目、は「本を読んでいるその人は読書の習慣がない」です。

 

・どうしてそう思ったか

読書の習慣がある人であれば、書籍自体に別途カバーをつけるはずです。

 

書籍は本体と表紙カバーが組み合わさって販売されておりますが、それだと表紙カバーに傷や破れが生じてしまいます。

なので読書が好きな人種は別途ブックカバーを用いて書籍を包むのですが(もちろん、必ず、ではない)、斜め前にいる人はそれをしていなかった。

 

ということは、読書の習慣がない。ということだろうと憶測されます。

 

別途カバーに関しては、自分で購入した書籍ならばより顕著だと思いますが、絶対ではないでしょう(改めて)。

 

 

ふたつ

ぱっ、との觀察で考えたことの二つ目は、その書籍は通信販売で購入したものだろう、ということです。

 

書店に陳列されている時、書籍はスリップという紙が挟まっています。

本のてっぺんでぴょこんと飛び出している半円状のものですね。

 

このスリップというものは書店での会計時、店員さんによって回収されます。

それはこのスリップという紙が売り上げを確認するためにあるからです。

 

正確には『売れた商品を確認して、再度発注するか。を考慮する』ためにある。そんな感じです。

 

 

そのスリップなのですが、斜め前にいたさらりまんが持っていた書籍にはスリップが挟まっていました(より觀察と憶測をしたところによると、スリップをしおりとして用いているっぽい感じでした)。

 

先に書いた通り、書店で本を購入した場合スリップは会計時に回収されます。

しかし、いんたねっとを用いた通信販売ではスリップが挟まったまま配送されることが多いです。

これは通信販売が書籍の販売状況?などをデータで管理しているからでしょう。

 

スリップをしおりとして用いていた。

その一端から、上記のような想像を巡らすことができます。

 

 

ちなみにその書籍はハードカバーっぽかったのですが、ハードカバーの書籍にはスピンという紐しおりが標準で組み込まれています。

そのスピンを用いていなかったところから『ハードカバーには紐しおりがついていることを知らない』という可能性があります。

そのため「読書の習慣がない方である」と推測したのですが、単純に『紐しおりを出すのが面倒』という理由でなのかもしれません。知りません。

 

 

みっつ

ぱっ、と見、で憶測されたこと。

三つ目は「いい氣になりたいんだろうな、威張ったりしたいんだろうな」ということです。

 

一つ目で『読書の習慣がない人?』と推察しました。

その理由は〈書籍にブックカバーが別途でついていなかった〉からですが、正直、ブックカバーをつけなかったのも半分意図的だろうな、と思います。

 

書籍の題名を見た感じ、ビジネス書と啓発本を兼ね備えた内容であろうことが伺えます。

 

これはもう完全に偏見ですが、ビジネス書や啓発本を好む方って、自分の優位性をわざわざ示したがる傾向があるじゃないですか。

 

それの一環だろうな、って。

 

「自分はこんなにすごいんだぜ」を暗に示して鼻の穴を膨らましたいからこそ、ブックカバーを "あえて" つけなかった。

読書を習慣的に行なっている人はわざわざ『これ読んでるんだぜ、すごいだろ!』みたいな行動取らないですからね。

たとえ自意識こそはあったとしても。

 

國民総承認欲求時代ですからね。

 

 

このブログもある種ではそうです。

しかし、あくまでもわたしの記事に関しては『本を読んで思い至った感想』です。

「下らなくてださい弁明」と取られても致し方ないでしょうが、わたしは優位性を示したいために本を引用して記事を書いたことはありません。

 

だっせえ弁明だなぁ。

 

そして、三つ目の憶測に関しては完全に憶測であります。

さらりまん当人に直接質問したわけでもないですしね。

あくまでも、憶測。です。

 

 

ところでわたしは最近Newtonという科學系のムック本を購入し読みました。

単純に「読んでみたいな」という氣になった。という理由と、明らかに背伸びしたかったからです。

購入したのは『科学と倫理の交差点』という題名のものだったのですが、なかなか面白かったですよ。

 

・倫理とは

・道徳と倫理との違いは?

 

など、倫理自体の説明から始まり、「クローン問題」や「AI・ChatGPTの是非」など昨今の身近な問題へ読み進めるに従ってテーマが変わっていく構成が巧いなと感じましたし、わたし自身が知り得なかった価値觀(『無知のヴェール』など)や事実(ChatGPTは50個の回答ごとに500mlの水を必要とする)を目にできて非常に興味深かったです。

 

わりと本氣でNewtonにハマりそうです。

『酒と人類』や『次元とは何か』とかすごく面白そう。困る。

 

伊坂作品を読み直していたり、再読したい本や新規で購入した積ん読本もあるのに興味の幅が広がっちゃってどうしよう。脅威です。

 

ところで『チェレンコフの眠り』も読みましたが最高でした。

「箱入り娘のオス」とかの作者の "らしさ" が濃く出ていました。

わりと大事な作品に思ったので、単行本も欲しい。

 

 

結局は印象に操作される民

ある日、恐らくは平日。

乗車率は満杯に近かった時。

つまり「ラッシュ」と形容される時間帯です。

 

乗車している分母が多いので、乗っているわたしを含めた客ども共々ピリついている場合もあったりします。

 

そんな、人の多い状況で座席に座っていた者が降車をした際、空いた席に座らない人。

どうして?????と思います。

Majiでなんで??????

 

車内がぎゅうぎゅう詰めの場合は一人が座るだけでも変わってくるわけですよね。

 

 

そして、優先座席というものがありますが、それに座らない人もどうして?と思います。

 

いえ、大前提として優先座席は必要とされる方に向けたものですので座るべきではありません。

しかしほとんど乗車率が満杯状況であれば、座った方がよくない?多分全体のストレス値下がるよ?

 

 

想定されるご意見

そんなことを言うと「妊婦さんなどの必要とする方が乗ってくるかもしれないだろ!」という声も聞こえて来そうです。

 

そりゃあその可能性は確実にあるけど、ほとんど満杯車内な状況では乗降口から優先座席まで無理なく移動することはほとんど無理じゃない?

車内にいる人間、ほとんど手元のクソ携帯に意識・脳みそ支配されてて周りのことなんて見えてないし見ようともしてないぜ?

逆『天体観測』の状態だぜ?

 

そんな状況で優先座席を空けているんなら数人でも優先座席に座って、立つ場所に余裕を持たせた方がよくないか?

別に『優先座席が空いてたら、天井部分を活用できる』みたいな特典もないんでしょう?

そもそもそういったことが可能であったとしても、中吊り広告があるので実現はしない。

 

 

臆病者が臆病じゃないふりをしている、ダサいやつら。

優先座席に座らない理由って、結局『〈優先座席に座る自分〉が周りからどう見えるか』を危惧してなんじゃねえか、と感じます。

しかもわたしが納得行かないのは、 "満員に近い状況ほど座らないくせに、あまり車内が混んでない状況の時は氣にせず(考えもせず)優先座席に座っている疑いがある" というところです。

 

そんなに混んでいない状況であれば、そんな状況こそ優先座席は必要な人に向けて空けておく必要があるんじゃねえのかよ。

 

だっせえな。

 

 

このだささ、某疫病が流行ったらしい時、ご丁寧にマスクをしている割に車椅子で乗車に苦戰している方には一切手を貸さず手元の携帯電話に夢中な様、その時と同じものを感じます(実話)。

そもそも携帯電話に脳みそが侵されているから困っている人の姿なんて目に入っていないんだろうな。

 

結局『大事な人を守るために』とか殊勝なことを言っていたところで手前のことしか考えてねえんだよ、人間なんてのは。

目先のこと、己のことしか考えられない。全体のことなんて考えられない、考えようともしない、そもそも考える脳みそがないんじゃないのか、とすら思う。実際そうだとも思う。

 

 

クソほどださい。救いようがないよ。

 

 

実際のところは分からない ~「わかる」という意識自体が幻想~

人間がクソなのは疑いようがなく救いようのない事実として燦々と忌まわしく輝いていますが、読書をしていたさらりまんさんに対しての考えと、優先座席への考察は、実際のところは真実はわかりません。

まず大前提『わかる』という感情自体が幻想ですし、実際に当事者に対して質問したところで人間は真実を話さないでしょうからね。

 

言葉は嘘をついたりするし、人間は自己保身のために取り繕うし。

 

ま、結局は "あくまでも憶測" ってことです。

 

 

我ながら自分の人間嫌いは深いものがあるなと思います。

氣にせずわたしはこれからも人間へのアンチを続けます。

 

わたしが人間アンチをやめるときは『人間を滅ぼそう!』と人間自身が決めた時だろうな。

そんな理想郷くるわけがないな。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

 

觀察より至るあくまでもな憶測

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

わたしは広告が好きです。

単純に面白いからです。

 

面白いといっても興味深いの方のインテリジェンスでんす。

 

 

ある日、街を歩いていましたらば腕時計の広告を見かけました。

見れば広告元はGRAND SEIKO。

 

言わずと知れたジャパニーズウオッチの名手、SEIKO社の高級腕時計路線ぶらーんどです。

 

 

そんなぐらーんどセイコーのこうこーくをぽやーんとながーめていたーのですが、なんだか引っかかりを憶えました。

意識の引っかかり、って、やつ、です。

 

「…」と觀察を続けると、その違和感の正体を捉えました。 幽靈の正体見たり枯れ尾花、的な感じかはお任せいたします。

 

 

アナログ時計というものは十時十分を指しているのが見榮え的に美しいと、その昔聞きました。

さてグランドセイコーの広告。

違和感…?と眺めていると、その正体に行きつきます。

違和感の正体とは分針が十時九分くらいを指し示していることでした。

 

🕰

 

のちに思い違いと判明いたしますが、『アナログ時計は "十時十分" を指しているのが見榮え的に美しい』と意識設定していたわたしはグランドセイコーの広告を見て、あることを思い出しました。

 

「逆柱?」

 

以前にも言及したであろうと思いますが、逆柱とは日本建築特有の価値觀・げん担ぎ・おまじない的な考え方です。

 

木造にて建築を行う場合、強度などの問題からか柱木は林立していた通りに用いないといけないそうです。

その柱に用いる木を上下逆さにして柱木にする。

つまり、根っこ側を天に向けるということですね。

それが逆柱です。

 

 

日本では『完成したものは滅びる』という価値觀があるそうです。

そんな価値觀があるため、敢えて完成をさせない、不完全な状態で終える。

さすれば滅びることはない。

 

それが日本における逆柱のげん担ぎやおまじないです。

 

この逆柱は、栃木県は徳川家康さんを祀っている日光東照宮に用いられているそうです(ただし全ての柱を逆にしているわけではない。社の柱一本だけ逆向きだそうです)。

 

 

この逆柱とグランドセイコーの広告とがどのように関係があるのか、ですよね。

それはつまり『 "十時十分" ぴったりを指していない以上、まだまだ完成ではない。不完全であるが故に成長する』という、日本人特有の謙遜と意氣込みが込められた広告なのではないか、と、そのように思ったのです。

 

その裏付けに、海外製の高級腕時計広告は十時十分ぴったりを指すものがありました。

 

海外では『完成は繁榮であるので滅びない』という日本と真逆の価値觀が根付いているそうです。

 

ということで、意氣揚々と上記の発見をブログに書こうと他にも腕時計の有名な会社を見てみます。

ハミルトン、フランク・ミュラー、ロレックス。。

 

あれ?

海外の会社も十時十分ぴったりじゃなくない?

 

それで調べましたら『時計が一番綺麗に見えるのは「十時八分三七秒」です』という記事を見かけました。

出自はアメリカ、昔のやり手広告代理店マンが「ステーキ美味そうやん!おっしゃ!時計広告にも応用したろ!!」と考えた結果、『時計が一番綺麗に見えるのは、十時八分四二秒』という基準に似たものができたのだそうですね。

 

なーんだ、って感じです。

自分の推理が当たってなかったのが悔しいのでしょうね。

滑稽です。

 

 

進入禁止!!!

天下一品ってラーメン屋さんがあるじゃないですか。

『天一(てんいち)』と略されることが多い全國チェーンのラーメン屋さんです。

街を歩いていて、またまたぼーんやーりーとその看板を見ていました。

 

「あー、天一だ。天一だねー」

 

そんなぼんやーり、な、時に、、。。。

 

 

!!!!!!!!!

 

 

皆様、天下一品ってラーメン屋さんの企業ロゴを見たことは、ございますでしょうか。

 

 

赤く塗りつぶした円に筆で書いたような白色の横線が走っています。

これは漢数字の『一』を表しているのでしょう。

『天下一品』の〈一〉です。

 

これって、似ている道路標識がありましたよね。

 

 

《進入禁止》の、それです。

これに氣付いた時、思わず「ウワー!巧いなー!」と感想が口をついて出ていました。

 

交通標識は人間が人間社会を運用するにおいて脳みそに叩き込む必要があったりするものです。

つまり無意識でも意識している必要がある要素、であるものが交通標識だと認識しているのですが、それとお店の看板とを紐づけているのですよね。

 

これは無意識的であればあるほど良い。

なぜならば、たとえ無意識であろうと目が向いてしまうからです。

 

しかも三大欲求の一つ、食慾に準じているお店ですし、ラーメンという男性が好むもの。

国道沿いに店舗があったら自然と目につく。

 

上手だ、、、。。。と思います。

 

 

 

しかし「飲食店なのに進入禁止とは」とも突っ込みどころもありますので、あくまでもこれは偶然の産物。

わたしの深読み、天下一品のロゴを作った人や天下一品の労働者さん自体も「そういえば確かに」と思ったりする部分でしょう。

 

しーらね。

 

 

なるほど the 🌏

とはいえ、世界を觀察するってのは愉しいです。

たとえ『自分がそう考えただけ』であっても、全く別のものとの共通点や似通った部分を見つけるというのはその後にも応用できますからね。

思考の筋力トレーニングってやつです。

 

ところで、筋力トレーニングをする方のことを「トレーニー」と昨今では呼称するそうですが、それって筋力トレーニング自体が目的になっている、またはSNSで筋力トレーニングが目的として成立しちゃえるようになったから、なのかしら、と感じますね。

 

 

頭の固いわたしとしては「筋力トレーニングって何か目的があって、その目的を達成するためにするもんなのじゃないの?」と思っているので、いわゆる安部公房さんが話していた『手段が目的になっている』状況じゃんかなーと思う。

 

わたしはギターを嗜むのですが、樂器演奏で喩えるならば『〈ある曲を演奏したい〉から【練習】をする』という本来の目的があった場合。

この際【練習】は〈演奏したい曲〉を演奏するための手段、として位置付けられていますが、〈演奏したい曲〉ってのはなくて【練習】だけを必死にしている、という感じです。

 

これが『手段が目的になっている』という状況ですね。

 

もっと一般的にしたなら『貯金が趣味』みたいな感じですかね。

 

 

《手段が目的になっている状況》ってのは、わたし個人的な価値觀としては「虚しくね?」と思うのですが、わたしの生き方や価値觀こそ「虚しくね?」と思われる方もいらっしゃるのでしょう。

なので、好きに生きたらいいんですね。

 

勝手にお生きになって ( ¨̮ )

 

 

 

あと、今の時代流行ることを『バズる』って言うじゃないですか。

この『バズ』って「羽音」とかの【BUZZ】って英単語から来ているらしいのですが、羽音ってことは虫さん集ってる?

 

ということは流行りものって排泄物か或いは誘蛾灯?


www.youtube.com

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

言葉は本質を包む生地でしかない

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

わたしは言葉を用います。

言葉を用いてこのブログような多分駄文的なものを認めています。

 

この言葉について、わたしは思っていることがございます。

それは「本質が変わらんのなら別に無理して言い換える必要なくね?」です。

 

 

かれい

具体例としましては『年齢を重ねる』です。

言葉の意味合いは【加齢】ですね。

そのため、同じ意味合いである『歳をとる』や『歳を食う』と言い表してもなんら問題はありません。

 

なのでわたしは基本的に『歳をとる』という表現を用います。

 

そもそも『年齢を重ねる』という表現には氣取った趣を感じる。

【加齢】というものを必死に良いものだと思い込もうとする真摯なる強がりを感じる(涙ぐましい)。

 

【加齢】が肯定的なものなのであれば、そのまま『歳をとる』という表現で済む筈ですし、「年の功」や「年功序列」という価値觀が存在している以上【加齢】は肯定的な意味合いとして認識されて然るのではないか?と思います。

しかし、そうではなくわざわざ『年齢を重ねる』という表現を使っているということは、【加齢】を否定的な意味合いだと捉えているということにはなりませんでしょうか。

 

まず、『歳をとる』じゃなくて『年齢を重ねる』という言葉を積極的に使おうとしている時点で【加齢】を否定的な意味合いとして認識していますよね。

 

やめちまえ。

 

ただ歳を食ったところで、できた人間にもならねえし「レベルアップ」だとか嘯いて精神性が上がるわけでもねえ。

そんなものは幻想だってーの。

 

 

それもこれも《印象》で全てが左右される愚かな愚かな人間的所業が根本としてあるのでしょう。

好意的に取れば興味深い。

否定的に取れば阿保らしい。

 

 

とはいえ、わたしみたいな阿保に惑わされることなく、皆様はご自身の脳みそで考えた上でどうぞお好きに生きてください‪( ¨̮ )‬

 

 

し

『年齢を重ねる』と似たようなところで、『亡くなる』という表現もあります。

【死】を迎える、或いは【死】を受け入れた生物に対して用いられる言葉ですね。

 

端的に『死ぬ』と言い表しても一切問題はありません。

 

しかし『亡くなる』という表現がどうにも幅を利かせていますね。

どうしてなのか。

 

『年齢を重ねる』の時と同様に、『亡くなる』という表現にはやっぱり氣取り屋さんな趣を感じます。

しかし前者よりは氣に障る氣障っこちゃんな空氣感は鳴りを潜めているように感じますね。

 

 

「本質が変わらんのなら別に無理して言い換える必要なくね?」を信条にしているわたしとしては『歳をとる』と同じように『死ぬ』でよくね?と思っていました。

 

しかし告解的な告白ですが、流石に生き死に関しては繊細な部分であるので、"印象" という悪魔に唆されたわたしも人前ではビビって『亡くなる』を用いていました。

 

とはいえ、『本質が変わらんのなら〜』とぶぅたれる我がエゴイスティックな自我。

 

やっぱり「別に無理して言い換える必要なくね?」の感情は夏の日の陽炎よろしく首をふらりともたげます。

 

 

そんな状況のまま、時は経過しまして「首疲れない?」と心配になりだした頃合い。

ある考え方が *1 と去来しました。

 

『亡くなる』という表現、それは氣障っこをしたいなどではなくて、故人への敬意を表したものなのではないか、ということです。

 

上のものはあくまでも仮定及び推測でありますが、もしその推察が正しいのであれば、というよりもそう思えば『亡くなる』という表現を用いるべき、そうであらねばならぬ、と思えてきます。

 

そのように考えれば『死ぬ』は確かに幾分か乱暴で投げやりな言葉であると思いますね。

 

【死】

『死ぬ』は事実である。しかし、死者に対して敬意を表す。

その表現・思いやりが『亡くなる』という言い換えなのかな、と考えます。

 

であれば、この言い換えは必要であると思いますね。

 

ただし『年齢を重ねる』は駄目だ。

 

 

言葉は精神の発露

ここまでお読みいただいた方、そしてこれまでわたしの記事をお読みくださっている方ならあるご意見があったりするでしょう。

「じゃあ鶏肉をチキン、おつゆやお出汁をスープって言ってもよくね?」です。

言葉は違えど【本質】は同じものを指しているからですね。

 

 

駄目です。

 

結論

 

駄目です。

 

 

それは昔アメリカさんが日本語を廃止しようとし惨敗し、結果として長期的に日本語を破壊していこうとしている背景を感じる、感じざるをえないからです。

floodinhead.hatenablog.com

 

ふざけんな。

 

最近も『ご飯』を「ライス」とする言い換え、染脳が顕著ですしね(「on The rice」とか莫迦言ってんじゃない日本語を使えばか)。

 

そもそも「rice」は【生米】も炊飯した【ご飯】も意味合いとして含まれるように感じます。

日本語では『(お)米』と『ご飯』は言葉自体が違います。

状態によって、音も違えば言葉も違う。

ということは、たとえ同じものが変容したのであっても《本質》自体が別のものだということになるのではないか、斯様に感じるのですよ。

 

《本質》が違うということは、それ自体に宿る神も違う。

 

それこそ非常に日本的な八百万の考え方ではないでしょうか。

 

 

別に「英語は言語として劣っている!」だなどという拡大解釈した阿保な単純化をして言っているのではないです。

言葉はソフトでありハードでもあるわけで、言葉を変容させたら思考も思想も変わるわけです。

 

侵略の第一歩目が「公用語の変更」であるのがその証拠ですね。

よく参考として用いますが『一九八四年』においての〈ニュースピーク〉がそれです。

 

 

言葉は本質を包む生地でしかない

わたしは本質が変わらなければ名称や表現とかもそのままでよいと考えています。

そして、より簡潔で本質的な表現の方を好みます。

 

今後書くかもしれませんが、変に喩えたりすると逆に伝わりにくかったり、不必要な生々しさが生じているようにも感じます。

しかしながら、わたし自身の説明は回りくどいのが難点ですね。

 

 

ですので、わたしは旧Twitterについても「ついったー」と発声しています。

現時点では『X』となっていますが、そのサービス自体は変わっていないからです。

本質が変わってないものをわざわざ変更する必要はない。と考えていますが、この考え方によって時代から取り残されたりするのでしょうね。

 

しかし件の名称変更って結局のところイーロン・マスク氏による権力主張の一手段でしょ?

マスクさんがTwitter社を買収した。

「このサービスは我のもの!」という誇示の手段として、サービス名の変更だった。

わたしはそう考えております。

 

名前、表現、 "外側" が変わっただけ。

そもそも『X』という名称変更も、〈後の世代〉に対しての行動でしょうしね。

 

今の幼年世代が成長した時に『X』という名称が定着しているようにするため、です。

ちょうど『太陽を讃える冬至祭』だった日を『キリスト教の祭日』として置き換えたようなものです。

 

 

「本質を捉えられていれば、右往左往と惑わされることはない」と思っておりますが、わたしが本質を捉えられているかどうかは不明です。

少なくとも『捉えられている!』だなどの自信という莫迦な感情はありません。

 

 

ところで、今回の題名である『言葉は本質を包む生地でしかない』はとあるYouTuberさんの発言を引用させていただきました。

どなたかお判りになられますか?

可愛らしい赤ちゃんです( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

 

*1:ぽん!

【∞】清書しますね。

 

 

梵我一如を考えていたら、「人間は『生死』を一つの単位」として捉えているから人間という精神体にとどまっているのではないか?と思った。

 

生物が死んだところでそれは大きな流れの一端である。

 

とすれば、生死というものはただの解釈であって、全てではない。

 

ならば〈生死〉ってのは∞である。循環の一部であるから、終わりとかじゃない。

 

つうことは〈生死〉は無限であり夢幻ってことになりますかね。

 

 

しーらね。

若者と老人とカオス理論

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

先日よりたびたび言及しておりますが、わたしは現在伊坂幸太郎さんの作品を読み返しています。

 

現在は『ラッシュライフ』を読み終わった段階です。

 

『オーデュボンの祈り』と『ラッシュライフ』は伊坂幸太郎さんの作品でも最初期のものですね。

 

この二作品を読んでいてある共通点に氣付きました。

いえ、共通点というよりも共通のものを言及していたという感じです。

 

その〈共通のもの〉とは【カオス理解】です。

 

【カオス理解】とは例えるならば『川の中で流れる水草の動きは誰にも予想ができない』というような感じです。

 

 

流行りってあるじゃないですか。

流行りってのはどこからでも発生しますし、お金を使えば作り出すことも可能です。

 

どの世代からでも流行りってのは生まれるものですが、若い世代から生まれるもののほうが圧倒的に多いと感じます。

 

しかし、この若い世代より生まれた流行りを全世代が認知する頃には、もはや時代遅れ的になっていることが往々にしてあります。

 

これはどうしてなのかしら、と思っていました。

 

若い世代は《自らの世代より年長者へ対して反目する》という特性があります。

Don't trust over 30でありますし、そもそも若い世代への関わりを持とうとしている年長者を小莫迦している風情すらもあります。

これは『 "若い世代だけのコミュニティ"、"共同体" たる、ともすればユートピア的樂園』が年長者によって《踏み平される》のを危惧して嫌悪しているのかしら?と思っていました。

「入ってくるんじゃねえよ。」の、あれです。

 

幾分か稚拙な考察ではありますが、やはりそういった側面は存在しているでしょう。

 

 

しかし、上記した考察よりも、【カオス理解】の方が要素としては強いのではないか。

若い世代というのは《カオス理解的側面》をこそ愉しんでいるのではないか?と、この度感じました次第です。

 

 

若い世代は【カオス】を愉しめる。

むしろ〈カオス的状況〉や【カオス】それ自体、それこそに愉しさを感じている。

 

しかし、年老いていくとその【カオス】は愉しめない。というよりも受け入れられなくなってくる。

ちょうど年を取ることで油ものを受け付けなくなる、みたいな感じ。

【カオス】に対して胃もたれや胸焼けをしてしまう、喩えとして、そのような感じになる。

 

なので、流行りがより老年層にまで染み渡るようになる時にはカオスの部分が削がれたりお掃除されていたりする。

たとえその流行が音樂などで、それ自体は「変化しないもの」であっても(逆にいえばカオス要素を減らせば老年層に流行らせることが可能?)。

 

 

しかし若い世代は【カオス】をこそ味わいたいと思っているから老年層向けに成型されたものは物足りない。

というよりも「いや、そうじゃねえんだよな」という氣持ちになる。

 

「成型される前のものに対して」と「成型後のものに対して」とでは話が通じるとは思えませんからね。

 

 

これこそ《踏み平される》ということでもあります。

耕していない土の状態で「何が萌芽するのか」という予測不明な要素を娯しみとしているのに、整地がされてしまえば食用可能なお野菜などのある程度結果が知れている作物しかできない。

いえ、組織や団体を維持するためにはそういった整地が必要不可欠になります。

 

しかし若者の不可侵領域である【カオス】すらも整地しようとする(それも割と善意なのがまた厄介)。

そういった行動を忌んでいる。

 

若い世代はそもそもカオスが整地された状況なんて望んでいない。

 

そんなような深層心理とかもあるのではないか?と思いました。

 

あくまでも憶測です。

 

 

あと流行りは作ることができます。

なので「流行らせコラ!」との鶴の一声で過去の流行を【最新トレンド】として世に送り出すことが可能です( '90年代の作品である『頭文字D』の登場人物たちが行っていたその当時の流行のコーディネイトに対して、十年ほど前は「ダサい」と言われていたのに、数年前にはほとんど同じような様相が「お洒落」と宣伝されていた通り)。

 

そういったことから、若い世代が「最新トレンドはこれなんだよ!」と嬉々として話しても、似たような流行りを過去に経験している老年層には「あぁ〜昔の焼き増しだなあ」と感じる。

それによる年長者の冷めた感情や、それこそ小莫迦にした空氣感があるために若年層は敏感に感知し、結果、両者の間に隔たりが生じる。なんてこともありえるのかしら。

 

なんても思います。

 

 

ま、全ては憶測ですけれど。

 

 

憶測の上での現時点の着地としては、『若い世代は【カオス】すらも娯しめるエネルギーとバイタリティがある』ということです。

年長者および老年層は、その力に対して体力的についていけない。

 

ちょうど幼年期の子どもに振り回される親のように。

 

 

ちなみにこれらの話を酒場で友人に話したところ、「 "若い世代" と言っているってことは我々も老いてきたのだな」と苦笑されました。

そりゃそうです。わたしも最近の流行りには興味がない。

KRAFTWERK, King Crimson, Chick Corea最高じゃい。ばんざい。

 

 

ありがとうございました‪( ¨̮ )‬

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