続けてもいいから嘘は歌わないで

同人作家の同人以外の雑記が主です

自分に固有の癖に相対する

https://x.com/Chitose1021/status/1877314520697262246?t=cth-JO__nSCDX9kP7LQyCg&s=19

失礼だ、ということはあまりこういった身体的特徴をあげつらうのはよくない、ということだと思う。しかし俺は結構こういう言葉を、専門職が専門職が故に発してしまうデリカシーのなさと捉えていて、嫌いではない。美容師の方は髪が太いとかくせ毛だとかいう事実を事実として述べており、目の前の客を人ではなく髪に付随する人格として見ている…というのがこのツイートの受け取り方だった。相手がプロが故に人格が無視される瞬間はある。歯医者が発する歯並びへの意見、スーツをオーダーして採寸されるときの服屋さんの言葉。その言葉を優劣ではない固有の自分の癖として捉え、言葉が事実に即していると見て真正面から向き合ってみる。後ろの毛が癖毛だ、なんて言われなければ一生気づかないかもしれない。こんな事実に気づけるとうれしいのは自分だけだろうか。例えば自分は採寸のとき「肩幅が広いですね」と言われた。それまでまったく気づかなかった自分の特徴だ。言われて以来、事あるごとにこの話をするようになり自分の肩幅が広い事は周知の事実となった。実際肩幅が何センチで、同世代の平均に比べてどうかなんてのは知らない。ただ言われたとき、肩幅が広い俺がこの世に誕生したのだ。肩幅が広い人として生きていく世界がひらかれたともいえる。これはたまたまポジティブな例で、ネガティブにこういう経験をして見えない重石を背負っている人もいるのだと思う。その重石の何気なさと見えなさは残酷なほどだ。

もう一つ、これにより事実と自意識が乖離することもある。例えば自分は背が低めだが、背が低いと指摘されたことがない。背の低さは背の順の順が若いとか、服はSサイズを買うとか、常に客観的な事実として立ち現れていた。しかしそれを指摘されない環境にいると不思議と背が低いという自意識だけが抜け落ちるのだ。身長ってかなり近づかないと差がわからなくないですか?自分の力で気づける身長差って15cmくらいでそこまで違ったらどうでもいい。自分と同じくらいの人が低身長はカスみたいなことを言っていると「そういう規範があるんだなぁ」と思う。

たぶん最初のツイートも、髪はこうあるべき、という規範が本人の中にあって、そこから外れていることを指摘されたから悲しみとかを感じてしまっているのだと思う。もしくは言われたことを規範だと捉えてしまっている。規範は規範でしかなく、自分がどうであるとかは関係なく存在する一つの物差しだ。もちろん、規範に立ち返ることが必要とされる場面もあるがとみに髪型とかはそんな事はない…と思う。そんなことはないというか、規範は世の中に乱立しており選択できる。この選択できるという事実を理解するのが結構難しいのだけど(気を抜くと規範に引っ張られてしまう)、そしてどの規範を選び取るかがひいては個性というものだ。

だから冒頭ツイートにおける身体的特徴については、特にその特徴から来る負担を受けたくないのなら、その特徴を引き受け、そこに発生する規範を選び取っていく主体的な態度が大切なのだと思う。

こういう文章を書くと「あれは?これは?」というようなツッコミが脳内で起こるのだけどそういう事は一旦無視しておく。

話は違うのだけど、YouTubeのコメント欄に「※一般人の感想です」という但し書きがあって腰を抜かした。一般人であるという但し書きがネットに必要なのか。そういう但し書きを無くし全てをフラットにするのがインターネットある意味期待されていたことだと思うが今のところインターネットはでこぼこである。一般人がなんだ。そういうものを見たいからせっせと繋がっているんじゃないか。だから脳内のツッコミは無視しておく。

日記(仕事始め)

1/6

仕事が始まる。職場に行って自意識が溶けていく。自分の身体が、考えが職場における機能として動き始める。全てに理由付けが発生する。あのために立ち、このために発語する。明確に始まりと終わりがある一部を自分が担っている事を身体に叩き込むとやる"べき"事が分かってくる。全てに意味付けが発生する。意味があることは評価の対象となる。全てに評価が発生する。手を動かすと終わっていく。全てに(見せかけにすぎないとしても)終点がある。時間が、行いが分節化され、タスクとして整理されていく。意味があることしか出来ないので、意味がどんどん生まれていく。何かが何処かに進んでいく実感がある。こういうことを価値として営まれる何かがありそれに加担している。加担するのは悪くない。自分だけではないから。

帰りに無印良品に寄りリップスクラブを買う。年が改まってからやけに唇が荒れていたため、有識者から教えてもらったのだ。唇に何かを塗る事がないのでどんなもんだいと思って買う。ついでにドラッグストアで安くなっている惣菜パンとペットボトル飲料を買う。ドラッグストアはいつも憧れの先輩くらい眩しい。そういう事を主に考えて日々を過ごしている。

 

君のクイズ

 

『君のクイズ』は昨年出た本だ。色んな賞を総ナメにしている。更に言えば、作者が小川哲である。俺は小川哲の短編にかなり信頼を置いている。『嘘と正論』の「魔術師」や「ひとすじの光」は名作だ。その割に長編の『ゲームの王国』や『地図と拳』は読めていないのだが…とにかくこんなに著作を覚えている程度には好きだ。なのでたまたま駐車場料金を浮かせるために入った本屋で購入するのも必然であったといえる。こんなに消極的な必然もないと思うが、とにかく買って、読んだ。

タイトルからもわかる通り、本作はクイズを主題にしている。主人公は学生の頃からクイズに打ち込んでき三島怜央、彼はテレビのゴールデンで生放送されるクイズ番組の決勝まで勝ち進む。対する相手はタレント出身ながらすべての物事を暗記したと自称する本庄絆。こうプロフィールを書くといけ好かない奴だが、主人公はこれまでの様々なクイズ番組での の実力を認めている。だが、の自尊心はどこかでを認めていない。ずっとクイズに打ち込んできた俺が、負けるわけがないーー。そんな2人の決勝戦はもつれにもつれ、雌雄を決する最終問題。は「0文字押し」つまり問題文が読まれる前に回答ボタンを押し、呆気にとられる主人公の前で見事正答する。

何故か本庄絆は「0文字押し」を成功させたのか?

これが本作の謎となり、主人公はこの謎に挑んでいく。この本の面白いところはクイズという題材をあまり知らない我々にもクイズを丁寧に説明してくれる、が故に謎の核である「0文字押し」の異様さがどんどん際立っていくところだ。クイズについて知れば知るほど異様な、クイズで意識される正答と誤答のリスク計算においてほぼ無意味な行いとみられる「0文字押し」がなぜなされたのか。そしてその説明は三島本人のクイズに対する姿勢にも及んでいき、謎は見事に解かれる。そしてストーリーは謎の向こう側へ到達する。この向こう側、というのがすごくて必ず本作を読み終わった読者はタイトルを見返してグッとなってしまうだろう。推理小説における謎の解決の扱いというのは常に槍玉に上がってきたが今作はかなりうまくこの点をストーリーに乗せきっている。個人的には『容疑者Xの献身』並にうまい。更に謎の解き方が非常に『プロジェクト・ヘイル・メアリー』ぽい(読んだ人は…わかってほしい…)。かなり緻密に本作は作られているのであまり内容を言ってしまうと色々と差し障りがあるのでこの辺にしますが、ミステリのスッキリさ、そしてエンタメたる楽しさ、また小説としての後味どれをとってもオススメできる大変良い小説です。みんなも読もう!

日記(年末・年始)

12/31

起きる。一念発起、大掃除というほどでもない普通の掃除をする。パソコンの調子が悪いので念の為制作データを外部に移す。2回ドラッグアンドドロップして終わり。軽い作品しか作ってない。クリスタをいじったり、Spotifyの年間まとめを聴いてたら夜。年末感がないのが年末なのかもしれない。Spotifyを使っているのにあまり新しい曲を聴いてない気がする。でも今年はceroもスカートもパ音も長瀬有花もライブ行ったし。クラブにも行ったし。音楽に詳しいとはもう一生言えないと思うが好きだとは言える。夜すき焼きを食べるため、外でコーラを買いに行く。20時ほど。まばらに子連れの姿がある。何となくみんなニコニコしていて良かった。コンビニで店長に接客される。年末年始の仕事えらすぎる。紅白をちらと見てパソコンを触って風呂に入ったら23:45。ゆく年くる年を見る。思ったよりさらっと年越し。何の気なしに逃走中を見たら最後にマツケンサンバⅡの替え歌が流れて衝撃を受ける。謀逆奸智のカルナバルとか言ってなかった?これ恒例なの?寝る。

1/1

起きる。元旦の朝はパンツを履き替えるに限る。『まるでパンツを履き替えた元日の朝のよう』にさわやか。全国の中継を見る。学園アイドルマスターを勧められたので始めてみる。ソシャゲをガチャの楽しさが分からずここ10年ほどやっていなかったので苦戦しながら話を進める。いや、話が進んでいるのかすらよくわからない。アイマスはプロデュースと言う軸があったから何となくわかるけどFGOとかだったらマジで何も出来てなかったかもしれない。とりあえず信号機の3人の関係性から仄かないい香りを感じられた。そんな事してたら夜。格付けチェックを見ながら蟹をほじくる。夜また学マスやって寝る。

1/2

起きる。新年だし!とAC部の展示を見に行く。なぜか百貨店でやってるので初売りの渦を感じながら展示フロアへ。展示は面白かった。暴れん坊のコギャル猫は2024年の良いMVに(勝手に)選出しています。ついでに百貨店の中を周り漆器や酒器を見る。そこでは上品な新年が行われている。結局ほほ〜と思いながらよく晴れた日本橋あたりを闊歩しつつ離脱。友人と落ち合う。特に何も決めてなかったので物心ついてから行ったことのないバーミヤンに行く。バーミヤン、近くにない。他にも行ったことのないチェーン店の話をする。五右衛門パスタとか行ったことない。バーミヤンはチャーハンがおいしかった。今年行きたい星野源のライブの話や北海道の話をし、流れで別の初売りも見てみる。家電屋の初売りはなんだかテンション上がる。まあ…特に買うものはないのだけど。iPadとか買ってみたい。みたいだけ。そう言えば電子書籍用にタブレットを買ったのだけど結構良い。中華タブレットだがこれにしか使わないし、FireタブレットだとKindleしか使えないし、なら普通のタブレットでいいやとなった。2万円くらいだし漫画はやはり紙のサイズで見たほうが楽しい。Wi-Fi利用のみにすれば読書をネットにより妨げられることもない。家だと学マスもできるし。お勧めです。それはさておき友人と別れ帰宅。相変わらず学マス。学マス、デイリー報酬をきちんと得るするには1時間くらいやらなきゃだめなんだけどみんなそんな時間あるの?と疑問。まだコミュとかちゃんと見てるから?あと受動喫煙していたコンテンツに詳しくなるとファンアートの意味がわかって楽しい。

日記(献血・見た目が10割)

某日

先週末に何もしなかった悔しさをバネに一念発起起床。眼鏡を直しに行く。ガラス面にキズがついてしまったので購入元のお店へ。メガネってどこで直してもいいらしいけどそのへんの機微がわからないまま結局購入元に行ってしまう。まあ行ける距離だし。直すついでに度も測り直してもらう。メガネ外すとマジで目が悪くてビックリする。ピントを合わせる図柄が道の向こうの赤い気球ではなかった。メーカーによるのか。結局度は変更なし。レンズを取り寄せるので後日来店という事で用事1個終わり。散髪に行く。用事2個終わり。寒すぎるので献血に行く。どうやら今年の年始ぶりらしい。血を抜かれながらラブレターズのコントを見る。血を抜かれた代償としてアイスをパクつき、ホットアクエリアスを飲む。ホットアクエリアス、ここの自販機以外で見たことない。血が減ったのでロフトでクリスマス会に備えた買い物。おしゃれな贈り物用のお酒を買おうとしたら一杯1000円くらいした。とりあえず500円くらいで色々揃えてみる。たくさん行動したぞという気持ちで帰宅し絵チャに参加。ゲーム遍歴を不審がられる。俺はでんぢゃらすじーさんのゲームで育ったんだよ。

某日

クリスマス会。友人宅にお呼ばれする。新しい家って興奮しますよね。行きがけに町内会の餅つきイベントに遭遇し買っていく。オードブルと餅、和洋折衷。友人宅には子供がいるので彼ら彼女らの成長を見ていると毎度新鮮にすげーと思う。これがずっと続くプロジェクトの一環かと思うとさらにその気持ちは大きくなる。マイムマイムで回るようなプレゼント交換久々で楽しかった。

某日

ポイントとマイルでただでポップコーンを食べながら映画が見られることに気づき『侍タイムスリッパー』を見に行く。公開からは大分経っていたと思うが席は結構埋まっていて、前評判通り面白かった。映画が映画(作劇)に言及するのは禁忌とも言える面白さがあるので難しいと思うがうまく時代劇という仕組みを使っていてとても良かった。友人に呼び出されて駅に行くと「人は見た目が10割!」と言われ他人の服を買いに行くことになった。ここんとこ服って何なんだろうなと思っていたので渡りに船だったがあらためて服ってマジでむずいなと思い、まぁなんやかんや酒を飲んで年を忘れて帰宅。

初心表明2025

毎年初心表明として文字を書いているけれどそれが趣旨一貫した何かであると言うことはなく、単に1年の最初の方の文章だなということである。そもそも年々賀正という気持ちも薄れてきているのだけれど、何かきっかけがないと何もしない人類に対して強制的なきっかけを与えてくれるという意味で暦にはもっと感謝した方が良いと思っている。そういうわけで初心表明だが、友人らと話すとまぁもう年がさ、みたいな諦めの話が主題となる昨今、なかなか「こうするぜ!」みたいなことを言い切るのは難しい。しかしそんな思いを抱えた昨年の文章を見ると「ふーん」程度にはうなずける。とんちんかんな内容ではないと思う。つまり最近自分の中での問題意識というのはブレていない。そうやって自分の内面が保たれていることを確認できるのは日記の良いところだ。

 

今週のお題「2024こんな年だった・2025こんな年にしたい」

ということもあるので、2024年を振り返って材料を探してみよう。思えば2024年は変更点があった年だった。仕事が変わりその仕事に従事した1年であったし、脱毛したし(まだ終わってないけど)、服を能動的に購入することに成功したし、ライブも5回くらい?行ったし、初めて実写の動画を作って海外に旅行して小説も書いた。うーん。こう見ると色々やっている。少なくとも身一つの部門ではぼちぼちなリザルトではないだろうか。特に最初が偉い。仕事に従事しているのが偉すぎる。誰も褒めてくれない(正確に言えば、誰かが褒めるほどの成果を出しづらい仕事ではある。人の成果を褒めるのは容易だが、過程を褒めるのはちょっと難しい。さらにその過程は主に第3者には愚痴という形で共有されることが多いが私は愚痴を言うのが苦手なので、つまり褒めにはつながらない)ので書いておこう。

で、わかったことは全然世界の見え方は日々変わると言うことで、2025年も世界に対してのそういう態度は崩したくない。『かつて天才だった俺たちへ』でいう「変わり続ける多面体」が世界であり、そこへのコミットはコンテンツを通してであれ、イベントを通してであれ、人を通してであれやっていきたい。一番最後が特に苦手なのですががんまります。また時間を乗りこなすこと。お金を恐れないこと。距離を恐れないこと。これらはすべて暇への強制的な処方箋だが、何も持たない者が手持ち無沙汰になるほど意味のわからないことは無いのでなんとか手にしていきたい。最終的にちくわしか持っていなくてもそれはそれでいい。だからいいらしいものは見てみる。年末のおすすめされた漫画買ったし。学マスも初めてみたし。こういうところからやっていくんだ。本も読むぞ!作品も作るぞ!初心表明にびっくりマークがつくのはいいことだ。はい。どうぞよろしくお願いします。よろしくされる以上、手ぶらでなんて思ってません。何かを持ってはいきますのでその節は。なにとぞ。

 

ツイートオブ・ザ・イヤー2024

ふぁぼが不可視になったのでこの行いの重要度が増しています。