セルフケアと「男性」性

フェミニズム・男性学周辺に関心。立ち位置は、親でも反でもなく「中立」。

何にせよ誰にせよ、「日本初の女性首相」誕生はうれしい

「進次郎首相」路線の「絶望待機」をしていたが、意外にも高市新総裁選出の報。

議員票は大接戦のようだったが、地方票で巻き返した。

ギリギリで進次郎のスキャンダルが次々報じられたのが間に合ったようだ(無論党内「派閥力学」も何らか健在ではあったろう)。地方自民党員の「良識」に「感謝」するよりなかろう。

 

高市を「女性初首相」として送り出すのに複雑な向きもあるだろうが、「ガラスの天井」を遂に打破した意義と功績は極めて大きいと、素直に評するべきだろう。

(何しろ米国ではまだ「女性大統領」は登場していないのだから。尤も、日本でも「近代以降の女性天皇」は未登場だが)

 

高市に、「女性政策」の類を期待するのは「ご無理」というものだろうが、彼女はまだ、「自民らしい政治家」の空気感は残っている。

仮に「リリーフ総理総裁」だったとしても、間違いなく日本社会・政治として「大きな一歩」を踏み出したことは間違いなかろう。

 

「女性首相」だからと言って、選挙で「女性票」を期待できるわけでもないのが面白い「ねじれ」とも言える。

ただ、野党にとって「やりやすい」状況になったわけでもない。

政治そのものには、元より「期待値0」だが、「政局」そのものは、「野次馬」として観戦し楽しませてもらうこととしよう。

 

「女子アナ」枠が淘汰されるのか

フジ第三者報告が公表された。

大部なので、まだちらりとしか読めてはいないが。

去年初、松本騒動を機に書いたブログではあったが、「第二次#日本版metooが起き、メディア界のクリーンナップが起こる」という予測は、かなり正確に推移したとも言える。

テレビ局一局を揺るがす、政治社会の一大事件になるとまでは、到底想像もつかなかったが。

 

消えゆくホモソーシャルな「松本」的「笑い」 - セルフケアと「男性」性

 

「衝撃的」というのは、「内容そのもの」ではなく、「遂にそれが、世に公表され、白日の元に実態が晒されるに至った」ことでしかない、とみている。

「性接待がある、あった」といったこと自体は、「日本のメディア界・芸能界では、あっても不思議はなかったろう」といった「見当はつく」からだ。

 

やや古いが、「ディスクロージャー」(マイクル・クライトン)というセクシュアル・ハラスメントを扱ったビジネス小説がある。

それは中学の頃に読んで、「セクシュアル・ハラスメントというのは、権力の問題なのです」という登場人物の弁護士の言葉が、深く心に刺さったのである。

 

そもそも、この「女子アナ」という呼称自体が、「JK」「JD」のような、「性的消費」のニュアンスを多分に含んでいる、というのは若い時分(めざましテレビを好んで見ていた)から微妙な気分で見ていた。

その頃は、その「微妙な気分」の正体が分からなかったのである。

 

「女子アナをタレント化して売り出し」は、まさにかつてのフジテレビの「王道」路線の一つだった筈だ。

今となっては、テレビを見ないので、それがどうなったかすら洞察出来もしないのだが。

 

「女子アナのタレント売り」がなくなれば、間違いなく「民主化×ハラスメント環境の改善」の「一歩」は進むかもしれない。

一方、「大衆=視聴者」も、「テレビ局・メディアのクリーン化」を歓迎する層が一定数いる一方、ついていけない年代の男性層が「離脱」していく可能性もある。

社会やメディア界全般にはメリットがある一方で、テレビは「別の見せ方」の提示が求められる局面が出てくるだろう。

それがどのようなものかはわからないが。

しかしそれは、魅力的なものでなければ、「倫理的に正」であっても、「テレビ離れ」はむしろ進むリスクもある。依然難しい舵取りを求められ続けるだろう。

 

第三者報告でもフジに関して指摘されているが、日本(に限らないが国際的にも特に)の大企業の経営層は、依然男性が圧倒的多数を占める。

いずれは日本も、クオーター制か、それに準ずる制度を目指さざるを得なくなるのではないか。

「どこか1社だけ」の特殊事例では、決して社会は変わらないからだ。

「社会全体を、法で強いて強制的に」変えに行かなくてはならない。

が、今回、そうした「深部」までメスが入るとは考えにくい。

 

まず、今後「女子アナ」枠の扱いがどうなるのか、その部分を注視するよりなかろう。

 

気の毒だった「ダシのダシ」

(何も具体的なことが書けず、非常に抽象的な体験談に終始しています。読むことはあまり推奨しません。いずれかと言えば記録目的のため?)

昨日は、妙に面白いことがあった。

とある案件絡みだったのだが、プレゼン?めいた約束のある直前に、「横槍」(?)が入ったのである。

「横槍」といっても、別にそう不益なものでなく、取りようによっては「助け舟」になったかもしれないのだが。

その「横槍」を入れた人には固有の目的があったものの、折悪しく叶えられることはなかった。

しかし、皮肉にもその「横槍」がきっかけで、プレゼン?直前に、「全然別の方向性」を着想してしまったのである。

そうすると、ここまで練り上げてきた内容にかなりの根本転換が必要になるのか。

結論から言えば、そこまででもない「微修正」に留まった。

が、「多少は考慮可能な」アイデアを刺激したのもまた事実であった。

 

その「横槍」を入れた人の気の毒と道化ぶりには、失笑を禁じ得なかった。

その人がタイミングを得なかったのは、様々なディスコミュニケーションの積み重なりによるものだった。

その「横槍」は、結局単に内々のものに収まってしまい、恐らく何かにはならないだろう、という気はしている。

ただ単に、(確固たるアイデアというより)きっかけ、あるいはインスピレーションをもたらした、まさに「ダシのダシ」として利用されるに終始してしまったのである。

 

しかし、社会や人生の「機」というのは、本来そのようなものでしかないのではないか、という気もしている。

「運」は自ら引き寄せるべきものだが、そもそもそれが希薄だったに過ぎない。

しかしそうすると、「大きな流れ」からは淘汰されてしまう。

全貌が見えたわけでもないし、それはまたさしたる意味はないと思うが、「運と機の引き寄せ」が「生存競争」の決め手にもなると、非常に身近に、そして具に観察できた興味深い機会だった。

仕事をサボって「寄り添う」メディアと政治屋

最近やたら耳障りになってきたよく聞くフレーズは、「被害者に寄り添って」の類いの「寄り添う」という謎動詞だ。

どうも、メディアやら政治家が口にする印象が強い。

「誰もお前らに『寄り添え』とか頼んでないわ。そんなことより早よやるべき仕事せい」ということになる。

そう、要は、「やるべき仕事に正面から取り組んでない、見つめられない」状況から批判や注意をかわす、最近最も流行りで人気の、「もっともらしいその場限りの言抜け」として活用されているのだ。

 

そもそも、そんな「寄り添う」などというのは、あまりに主観的で感傷的過ぎる単語なのもキモいと思う根源だし、権力者が弱者に使っているのは趣味の悪い冗談としか思えない。

そんなその場限りの言抜けよりは、「関係機関に連絡して、適切な処置を取らせている」という「官僚的」言明の方が「ウソがない」(実際にはウソかもしれないが)分まだマシではないのか。

あるいは、そうした必要適切な行動すらしない、したくない、ということかもしれないが。

 

もし、視聴者や有権者が、そうした口先の「寄り添う」という言葉に「うんうん、偉い偉い」などと「納得」しているとするなら、それこそ「主観的、情緒的過ぎる」というべきか、あるいは「何もできないけど気の毒な人々に『同情』はしたい」という気持ちをその連中は「代弁」、あるいは「掬い取っている」面があるのかもしれない。

公的なポジションの人物の「寄り添う」は、「社会にも被害者にも弱者にも、1ミリの価値も前身ももたらさない」。

「無能で無意味な、無為の時間稼ぎ」でしかないと断言しておこう。

 

 

 

 

「おじさんの詰め合わせ」ってセンスしか感じないんだが

トラウデンの自民党総裁選ポスターに関する発言は、正直センスしか感じなかったが、炎上していると聞いて失笑。

自分もポスターを見て、全く同じことしか感じなかった。

 

この発言を非難しようとする地平に、日本社会の「民度」(主にジェンダー目線)が端的に反映されているとみて良いだろう。

いわゆる「識者」(?)の一部まで、この非難に同調している向きはかなりキツイ。

その人らも自分も、同じ「おっさん」でしかない訳だが。

 

トラウデン直美、自民党総裁選ポスターに「おじさんの詰め合わせ」 SNSで議論噴出「こりゃひどい」「男性差別ではない」(オリコン) - Yahoo!ニュース

 

当ブログでも、同様の記事を以前に書いてある。

【プロレス】日本政治史=「ジイさん民主主義」の成り立ちw - セルフケアと「男性」性

 

最近は、メディア報道で映される諸会議も、まず「男女比」「年齢階層比」からしか見ないクセがついている。

その件についても、いずれ書きたい。

 

 

「愛する」=「自分と、生活を大切にし続けようとする意志」?

当ブログには珍しく、ポエムというか、やや感傷的なニュアンスの記事となるかもしれないがご容赦願いたい。

 

こないだ、ある若い女性と話す機会があったのだが、その女性は、カップルでかなり厳しい経済環境にあるにもかかわらず、パートナーの男性を愛し生活を共にしようという意思を明確に語っていたことがあり、感動というか羨ましさというか、眩しさを感じたのだ。

そこで、少し「愛する」「愛する人のいる」意味について考えた。

 

自分は、「愛される」のが嫌いだ。

「重い、受け止められない」ということもあるが、「自分を大切にしてない・したくない」も少しはある。

しかし、(当ブログのタイトルにある)「セルフケア」は拘っている。

となると、この矛盾は何か。

「自分で自分を愛する」ことと、「人が自分を愛する」ことの違いと端的に整理して良いだろう。

 

結局のところ、「人を愛する」怖さというのは、「世の中=人間社会を究極的に信じていない・信じられない」と整理して良かろう。

「愛する人と生活を作っていく」のは、「世、社会の中で生活を作っていく」ことに他ならない。

つまり、「愛の先」というものを、どうしても「実際的に」信頼できないのだ。

 

が、ここには、どうも論理的倒錯があるような気もする。

肝心の、「愛する人」と、「その人に注ぐ愛」というものがスポッと抜けているのだ。

自分が信じていないのは「生活(暮らし)」「世の中」であり、(いないがいたとして)「愛する人」「その人に注ぐ愛」ではない。

つまり、「愛する人がいて、愛したとして…」という「仮定の先」を、「頭で考えた結論」により排除しているのだ。

 

以前、自分は、女性の婚活ブログを読むのにハマっていたことがあって、その中で、「条件で選ぼうとすることでドツボにハマっていく」婚活女性を冷笑していたことがある。

しかし、上のスタンスは、何かその女性に似ている部分を感じざるを得ない。

早い話が、「外部環境・外部条件」に囚われているのだ。

 

もう一つ考えるべき要素がある。「自分」だ。

端的に言うなら「自信がない」ということだろう。

というより、それらは「串刺し」にできることだ。

「世界への見通しの明確化」と「自信」とはセットになる。

 

自分は「願掛け」のような発想は好きではない。

まるで女性を「道具」視しているようだということと、「それは愛と関係なくないか?」という混同視への違和感がある。

が、今の自分を省みれば同じ状況と言わざるを得ない。

(別に対象となる相手がいるわけではないが、「愛の疎外」という観点において)

 

「今という瞬間瞬間の大切にしたいその仕方」において、「人との歩み」が必要かつその意思があるか。

「愛したい」「愛する人を求める」というのは、その部分であろう。

 

「頭で考えて出している結論」ではあるが、「愛」にはやはり「気持ち」も「時間」も取られてしまう。

それはどうしても困る、というのが現状だ。

しかし、「揺らぎがある」のは、「少し余裕の出てきた証」でもある。

恐らく、2年ほどはまだ様子を見るだろうが、微妙に気持ちが変化しそうな予感、というよりそうしたレンジは自分に持たせておきたい。

 

「(客観的)自信はない」が、「自分自身のことは、自分内部でかなりケアをし、それ故に余裕が出つつある」状況と言えるだろう。

うるさい「結果厨・プレゼン厨」競争から「降りて良かった」

何年か前は、「自分は逃げたのか?」という敗北感や罪悪感めいたものに支配されていた時期もあった気がするのだが、今となっては違った捉え方に転じたようだ。

「結果厨・プレゼン厨」の社会とか競争の方に問題があるわけで、どうしても一度、自分をそこから突き放さなくてはその問題性が見えてこなかったのだ。

 

「結果を出す」ことを求められること自体に問題があるわけではない。

仕事である以上は当然のことだ。

その求められる時間スパンや権力構造に問題はないのか、そこにどのような社会経済・政治構造が潜んでいるのか、また問題があるとすればどう変えられるのか、といったところに焦点が向けられるのだ。

 

「プレゼン厨」には、学生時代から辟易していた。

「よくこんな中身のないプレゼンを、格好だけ付けられるな」と当時はどれほど冷笑していたか。笑

この言い方は嫌いだが、当時は「時代の限界」があったのは間違いない。

技術やビジネスモデル面での選択肢が乏し過ぎた。

といって、当時の自分もまた、他の解を持ち合わせていた訳でもなかった。

次第に「殻に閉じこもる」、あるいは単に沈黙し、自らは何も発言も発信もしようとしなくなったのは、やたらプレゼンばかり求められる「プレゼン厨、プレゼン搾取社会」に閉口し、自分の生活ペースや知的世界を守ろうとしたからである。

 

上述の通り、「結果を出す」こと自体は重要だと思っているが、「どうでも良い結果」を出して人に知られたい訳ではない。

この辺りは個人の価値観・美学の問題になってはくるのだが。

世阿弥の「秘すれば花」を守ろうと考えたのだ。

 

自分自身、結果もプレゼンも大事だし、重視もしている。

が、それを要求してくるアクターの「求め方」を注意深く凝視するスタンス、と言って良いだろう。

おかしな「結果厨」「プレゼン厨」がいた場合、その姿勢の背後に何があるのか。

その「正体」を見極めに行く、その習慣が身についたのだ。

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