◆果たされなかった独占契約◆ かつてアメリカの家庭用ゲーム市場を崩壊させた伝説的な反面教師として、あるいは、訴訟大国を象徴するかのような法廷争いのライバルとして、任天堂の歴史にときおりその名をチラつかせる会社といえばアタリ社ですが、ほんの一瞬だけ、両社が急接近したことがありました。
ファミコンが発売された間もない1983年8月1日に発行された業界紙『ゲームマシン』が以下のように伝えています。
任天堂「マリオブラザーズ」
家庭用はアタリへ
日本市場を除く独占的な許諾
なんと、あの任天堂が看板タイトルである『マリオブラザーズ』について、日本を除く全世界の家庭用ゲーム市場を対象に
独占的に販売できる権利をアタリ社へ許諾したというのです。へーえ、昔は仲良かったんだ、アタリがNESを売ってたとは、、、なんて思ったひとはいないでしょう。おそらくほとんどの読者は「そのような世界線が存在しないこと」をご存知のはずです。ではこの新聞記事はいったい何なんでしょう。異次元空間の歪みから現れた召喚獣が咥えていたとか? それとも暇人がつくったフェイクニュースでしょうか?
いいえ、どちらでもありません。結局、この取引はうまくいかなかったのです。本日はそんな任天堂とアタリ社の間で交わされたはずの「果たされなかった独占契約」の話をしましょう。
◆世界進出は「仕方なく」だった!?◆ ときは1983年、アーケードゲーム市場で『ドンキーコング』を成功させていた任天堂のボス・山内溥は、これが初手に過ぎないと考えていました。次なる一手は家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」です。しかしファミコンは今でこそ日本の家庭用ゲーム市場そのものを築き上げた偉大なる先駆者として語り継がれていますが、発売当初はそうでもありませんでした。その動きは期待されたよりもはるかに下回っていたのです。
ファミコンの生みの親として知られる上村雅之は当時をこう振り返ります。
1983~84年までの間は、日本でもファミコン本体はまだ44万台しか売れていませんでした。また、アタリショックの後はMSXのようなパソコンの時代になると国内でも言われたりして、非常に苦戦を強いられていました。そこで、じゃあ海外にも売らなければしようがないだろうということで、1985年にNESを出すことにしました。ところが、最初は向こうの流通からはまったく相手にされず……
ただし、この証言は上村自身、著書である「ファミコンとその時代」において
「ファミコンによる海外展開の構想自体は開発中から進んでいた(163P)」とまったく異なる証言をしており、真相は定かではありません。ともかく早い時期から山内が海外進出を視野に入れていたことは確かなようです。
しかし当時、アメリカでの任天堂の知名度はイマイチで経験も足りませんでした。そこで山内はニンテンドー・オブ・アメリカ(NOA)の副社長だったハワード・リンカーンへ連絡。アタリ社に協力を要請するよう指示を出したのです。アタリ社のレイ・カサールCEOにとってそれは願ってもない話でした。なぜなら1983年といえばあの「Video game crash of 1983」いわゆるアタリショックの真っ最中だったのですから!
おいおい、ちょっと待ってくれよと、、、
任天堂はアタリショックを教訓にファミコンを展開させたんじゃなかったのかよ。アタリ社に協力を要請するなんてその真逆じゃないかと、驚きを隠せない任天堂ファンもいるでしょう。まあ落ち着いてください。これは事実なんだから仕方ないんです。
◆アタリショックの顛末◆ ひとまずアタリショックについて整理しましょう。1976年、アタリ社はワーナーグループの傘下となり、翌年「Video Computer System(VCS)」(後にATARI 2600と改名)を発売しました。当初こそあまり人気はありませんでしたが、ワーナーとの対立が原因で創業者のノーラン・ブッシュネルが去り、マーケティング重視のレイ・カサールがトップの座に就くと、ワーナーの潤沢な資金を武器に『スペースインベーダー』など人気業務用ソフトを移植。1980年代より需要が爆発しました。(これはカサールの唯一の功績と言われています)
さらにアクティビジョン社などサードパーティの参入を認めたことで急激に市場が拡大していき、VCSは最終的に1400万台もの出荷台数を記録したモンスター級コンソールとなったのです。
ファミコンとの大きな違いは「リリースされるソフトの検閲が行われなかったこと」でした。そのためVCSはいちじるしくハードルが低く、弱小メーカーや、食品メーカーなど、他業種からの無茶な参入を招きました。それらのメーカーの多くが倒産するまで、ひたすら粗悪な内容のクソゲーを乱造し、また偽造品やコピー品も大量に出回ることになりました。それらが市場を大混乱に陥れたのは言うまでもありません。
しかしそんな状況にも関わらず、カサールは爆発的に拡大していく市場だけに注意を払っており、生産が追いつかなくなることを問題視しました。そこで、販売代理店に「翌年分を含めた発注を要求する」という暴挙に出ます。代理店は代理店で機会ロスを防ぐため、1年後のことなど分かるはずもないのに適当な大量発注をかけました。これら何の根拠もない大量発注がどうなるのか、素人でもわかりますよね?
1982年になると案の定、それらの大量発注は次々にキャンセルされ、アタリ社は膨大な量の在庫を抱えることになったのです。その中にはあの悪名高き『E.T.』も含まれていました。結果、ワーナーグループは1982年第4四半期の利益を下方修正し、それを受けて株価が暴落。翌1983年にかけてIntelevisionのマテル社やColeco Visionのコレコ社など競合メーカーなども巻き込み、家庭用ゲーム市場全体を30分の1まで縮小させました。これがいわゆるアタリショックと呼ばれる悲劇の顛末です。
◆運命的なアクシデント◆ ただし1984年以降、完全に家庭用ゲーム市場が消滅したわけではありません。VCSは1984年も280万台売れていると言うデータも存在するのです。現に同機は1992年まで製造されました。それを根拠に「アタリショックなんてなかった」と主張する研究者すらいるのです。ひとつだけ確かなことが言えることしたら、ファミコンのライセンス制度に「アタリショックの教訓」という御旗を掲げていたとされる任天堂が、実はその前段階ではアタリ社に協力を求めていたという事実のみ。今では考えられませんが、あろうことか
ファミコンをATARIブランドとして世界展開しようとしていた事実のみです。
一方のアタリ社は失うものなどありません。すぐにNOAの荒川實CEOをカリフォルニア本部へ招き、何日もかけて交渉をまとめました。後にハワード・リンカーンがインタビューで語ったところによると「その契約はすべて締結されていた」とのことです。
しかし運命的なアクシデントが両社を襲いました。それはシカゴで開催された世界有数の電子機器見本市「CES 1983」での出来事です。VCSのライバルであったコレコ社が自社の新製品であるホームコンピュータ「Coleco Adam」のデモを行っていたのですが、よりにもよってそのラインナップの中に『ドンキーコング』が含まれていたのです。
これにカサールが激怒。
冒頭の新聞記事にもある通り、アタリ社は『ドンキーコング』をホームコンピュータ用に移植する独占権を任天堂から得ており、自身のホームコンピュータ「Atari 800」用の『ドンキーコング』の製品化に向けて準備を進めていたのでした。それなのにコレコ社は自社の家庭用ゲーム機であるColeco Visionに既に『ドンキーコング』が正規移植されていたのをいいことに、勝手にホームコンピュータ「Coleco Adam」へも移植。同梱して売り出す計画までしていたのです。これに憤慨したカサールは任天堂が約束を破ったと見做して一方的に契約を停止させてしまいました。さらにタイミングが悪かったのは、そのあとすぐに彼自身がアタリ社の業績悪化の責任と、インサイダー取引疑惑によってCEOを解任されてしまったことでしょう。
結局、任天堂とアタリ社の契約は停止されたまま、最初からなかったかのように忘れ去られてしまったのです。
◆歴史にIfはない◆ その後、任天堂は海外ファミコン(NES)の単独販売に踏み切り、トイザらス社などの協力もあって見事に世界進出を成功させるのは皆さんご存知の通りです。しかしながら歴史にIfはないとはいえ、もしあのときアタリ社が契約を停止していなかったら、家庭用ゲーム市場には、また、違った未来が花開いていたことでしょう。
もしかしたらスーパーマリオが……
ATARIロゴの帽子をかぶっていたかもしれませんよ?
あるいはまったく売れることなく配管工として一生、大猿やカニと追いかけっこしていた可能性だってあります。そのままポリーンと結婚してそこそこ幸せな家庭を築いていたかもしれません。まあ、それはそれで有りなんですが、アタリではなく任天堂のマリオとして、世界的なスーパースターとなった現世界線を考えると、彼は『ドンキーコング』をColeco Adamへ勝手移植したコレコ社に感謝しなければなりません。何なら同社の主力商品だったキャベツ畑人形のモデルになってあげても罰は当たらないでしょう。なんたって彼は
アタリを免れた男なのだから!
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参考文献:
ゲームマシン第217号(Game Machine Archive)参考文献:
ファミコンとその時代参考論文:
米国におけるビデオ・ゲーム産業の形成と急激な崩壊(京都大学)参考サイト:
Donkey Kong(colecoboxart.com)
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