『涼宮ハルヒの驚愕』について、三つの不満点

 
 『涼宮ハルヒの驚愕』について、ファンの間では「待望の新刊が発売されたことをまず喜ぶべきで、批判するのは二の次だ」という風潮がある。
 しかし、読んだ人の大部分は、この新刊に「物足りなさ」を感じたはずだ。
 その理由を僕なりに分析してみよう。
 

(1)SFの魅力をいかせなかった展開

 
 『涼宮ハルヒの驚愕』、そして、その前編である『涼宮ハルヒの分裂』では、αとβという異なる世界が並行して語られている。その試みは面白いと思う。
 しかし、その並行世界の原因については、あまり納得できるものではなく、読者として大いに失望したものだ。
 
 例えば、カート・ヴォネガットという米国作家の代表作に『スローターハウス5』というものがある。その作品では、宇宙人が出てきて、地球人と異なる時間概念が語られるという、奇妙奇天烈な内容ではあるが、同時に「人間がSFという物語を求める理由」を見事に描きだしている。
 実は、『スローターハウス5』は、SF小説の体裁をとった強烈な反戦小説で、作者自身の従軍体験がその構築に深く根ざしているのだ。第二次世界大戦を、米国側という戦勝国の兵士として経験したヴォネガットが、なぜ「反戦」小説を書いたのか。そして、それをSFという体裁でしか描けなかったのはなぜか。そこに、この作品の面白さがある。
 
 定説とは異なる世界観を描くSFの可能性を僕は否定しない。ただ、僕が興味があるのは、それを発想するに至った作者個人の動機である。架空世界のもっともらしさを、どれだけ長々と説明されても、僕には退屈きわまりない。
 現在では決定的に間違っていると証明された世界観によって構築されているに関わらず、SFの古典とされる作品が面白いのは、作者がそのような世界を作らずにはいられなかった想いが、登場人物を通じて知ることができるからだ。
 
 『涼宮ハルヒの消失』が成功したのは、その事件のきっかけになった登場人物の心境を、読者が痛いほど理解できたからだ。世界の法則をねじ曲げてまで伝えたかった想いに、読者が陶酔することができたからだ。
 『涼宮ハルヒの驚愕』の読後感は、『消失』のそれとは比較にならない。様々な謎が明らかになり、新たな謎が提示されるのだが、それに浸るほどの魅力がない。それは、登場人物の動機を劇的に伝える仕掛けが、圧倒的に欠如しているからだ。思い入れのできない作り話に価値はない。
 はっきりいって、二分冊にして語るほどSFとしての魅力はなかったと思う。二分冊にすることで、エピソードの細部まで描かれているからこそ、その展開には納得いかなかったわけだ。
 

(2)期待はずれに終わった佐々木という新キャラ

 
 『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』シリーズのアニメ最終話(ニコニコ動画で配信中)やラノベ最新刊(8巻)は、ファンの期待にこたえる内容であったと思う。
 その面白さの原因は「黒猫」というキャラが、死ぬ気でみずからの想いを遂げようとしたからである。だから、僕はそれらの作品を見て、つぶやかずにはいられなかった。「ナイスファイト、黒猫」と。
 「俺の妹」シリーズには、僕の嫌いな要素が多い。基本的に、演出が「あざとい」のだ。アニメのBGMは、WEB素材を使用した三流フリーRPGなみに演出が陳腐なものだし、ラノベの暴力と土下座と涙が飛び交う修羅場のバーゲンセールには、正直いって辟易するところがある。
 だから「ハルヒ」シリーズに、「俺の妹」と同じ展開を求めているわけではない。
 
 ただ、そんな「黒猫」の善戦に比べると、鳴り物入りで『涼宮ハルヒの分裂』で登場した新キャラ「佐々木」は、あまりにもふがいなかった。彼女の聡明さは口上だけで、行動では感じることができず、「物わかりのいいあきらめ」をすることで、読者の期待を大いに裏切る結果に終わった。
 もちろん、佐々木に黒猫のような役回りを期待してはいない。だが、『ハルヒ』シリーズならではの舞台設定をいかした活躍ができるはずではなかったか。
 
 『ハルヒ』シリーズの面白さは、軽はずみにみずからの想いを告白すると、世界が終わってしまうかもしれない、というとんでもない設定にある。『俺の妹』のような言葉の応酬をしてしまえば、たちまち世界が崩壊してしまうのだ。
 だからこそ、そんな直接的な言葉のかわりに「閉鎖空間」なんてものが出てくる。少女の想いが無意識のうちに世界を危機に陥れてしまうわけである。
 佐々木はハルヒに対抗できるキャラとして登場した。だから、「閉鎖空間」の具現という形で、それぞれの感情が展開されていくのかと思いきや、『驚愕』の主体者は佐々木ではなかった。騙された、と思った読者は僕だけではないだろう。
 

(3)凡人キャラにしか共感できなくなった現状

 
 その佐々木の「物わかりのいいあきらめ」というのは、もしかすると、『驚愕』を貫く最大のテーマなのかもしれないと考えたりする。
 かつて、キョンという語り手は凡人を自称していたが、過去が明らかになるにつれ、どう考えても「凡人」ではなくなってしまっている。
 そして、愛すべき「凡人コンビ」の片割れであったはずの、国木田というキャラについても、凡人ではないことが『驚愕』で、明らかになるのだから、たまらない。
 
 「ハルヒ」シリーズは、そんな超人たちの物語となってしまった。作者はこう言いたいのかもしれない。「こいつらは、お前ら凡人とは違うんだ。だから、お前ら凡人が『SOS団』の真似事をしても、徒労に終わるだけなんだ」
 もし、そんなメッセージが『憂鬱』や『消失』にあったのならば、中高生たちは「ハルヒ」シリーズを喜んで読んだだろうか。
 
 『驚愕』を読んで、僕がもっとも思い入れを抱くことができたのは、橘京子というキャラである。彼女は、身近にいてもおかしくない「ちょっとした超能力者」である。そんな凡人である彼女は、『驚愕』では徹底的に利用される。語り手であるキョンも、彼女については「何の役に立たない」ことを繰り返し強調する。
 もし、この京子が、キョンや佐々木とか、その他もろもろの超人たちの足下をすくうような展開を見せたら面白かったのにと思う。「虚仮の一念、岩をも通す」というではないか。
 佐々木というキャラは、その聡明さゆえに「物わかりのいいあきらめ」をすることしかできなかったかもしれないが、京子は我々と同じように愚かである。その動機が「佐々木さんがかわいそうです」だけでもいい。そんな想いで世界を動かすことが可能である設定を、「ハルヒ」シリーズはとっているではないか。
 せめて、クールフェイスの佐々木が感情を発露させるような展開が読みたかった。そして、それができるのは、偉大なる凡人である橘京子しかいなかったと思う。
 
 結局、佐々木でも橘京子でもなく、読者が思い入れを持たないキャラの素性の謎が示唆されただけで『驚愕』の物語は幕が閉じる。ハルヒとキョンの約束された未来を、佐々木は邪魔することはなく、最後まで物わかりの良いキャラに徹して終わる。
 こんなものが、ベストセラーとして名を連ねているのだから、世の中はわからない。ただ、いくら販売戦略が成功したとしても、面白くないものが記憶から薄れるのは早い。
 
 「ハルヒ」シリーズは、新たな展開があるようだ。アニメ三期の可能性もあるという。しかし『陰謀』『分裂』『驚愕』といった駄作を、わざわざアニメ化するのは、なんだか資源の無駄遣いであるような気がする。
 面白くないだけならば無害だが、『驚愕』で匂わされている「物わかりのいいあきらめをすることが聡明さである」というメッセージが僕には気になって仕方ない。それは、わざわざSFで語るべきことではない。
 
 そして、そんな「物わかりのいいあきらめ」だけでは通用しない出来事が、この日本に襲っている。優れた知性の持ち主であるはずの、東京電力幹部の対応は、世界中から批判されている。そんな現状で、こんな作品が売れただけでなく、さらなる展開をしてもいいものか、と僕は首をかしげているのだ。