「永井荷風の文学散歩」に参加して

 
 地下鉄日比谷線三ノ輪駅から歩いて数分、浄閑寺という寺院がある。小説家、永井荷風(1879-1959)によって知られるようになった地である。
 そこは、江戸の売春街「吉原」の遊女が葬られている。ただし、名がある碑は二人のみ。その他、二万五千もの遊女の遺体は、故郷から引き取られることなく、日が暮れてからひっそりと駕籠に乗せられて、吉原から浄閑寺に運び込まれた。
 吉原の女は、売られたときに、本名・年齢・生国などの戸籍(人別帳)を抜かれてしまう。残された記録には、戒名と死亡日、そしてどの店の売女だったかしか残されていない。
 浄閑寺の新吉原総霊塔は、そんな体を売った女たち二万五千の魂を慰めるべく建てられたものだ。
 この日、そこを訪れて、口紅が供えられていることに気づいた。それを献じた人は、どんな身分の人だろうか。どんな思いをこめて供えたのだろうか。
 
 性を売る女たちは、現代にもいる。今の日本では売春が禁じられているが、そのような行為があることは、誰でも知っている。
 例えば、アダルトビデオでなぜモザイクがあるのかといえば、いわゆる本番行為を映像化することが、法律で禁じられているからである。
 かつて、戸籍を抜かれて、名無しとなって性を売ってきた女たちがいる。今では法で禁じられているのに、性を売ってきたことを公言する女たちがいる。
 そのような風俗史を、性を買おうとする男たちは、少しばかり知るべきではなかろうか。
 「永井荷風の文学散歩」という企画で、浄閑寺をたずねたとき、ふと思った。
 
 さて、5月22日に行われた横浜文学学校の「文学散歩」に、私は参加したのだが、連れと一緒だったために、他の参加者には「何しに来たんだ、コイツ」と思われたかもしれないので、あえて弁解を。
 
 その前日、午後六時、私は小田急登戸駅改札口で、大学時代の同窓を待っていた。その暇つぶしのために、私が読んでいた本が、ライトノベル『僕は友達が少ない』の最新刊であった。
 タイトルからは想像できないと思うが、これは『ToLOVEる』という漫画と同じようなエロコメであって、速読せずとも三十分で百ページ読めるような内容だ。
 翌日に永井荷風の足跡をたどるにも関わらず、こんなものを私は読んでいたのである。もちろん、ブックカバーをつけて。
 こうして、同窓を待っていたはずなのだが、私の横からあらわれたのは、想定外の女性であった。
「ラリアートしようと思った」と彼女は言う。
 そう彼女が怒るのも無理はなくて、この三ヶ月、彼女と私は連絡を取っていなかった。理由は何となくである。そこで、彼女は私の近所に住む先輩と共謀して、同窓が来るとウソをついて、私をここに連れてきたのである。
 せっかく『僕は友達が少ない』を読んで、二次元世界に逃避していたときに、現実の彼女が現れるというのは、なかなか健康に悪い。
 彼女は関東住まいではないが、会合のために東京浜松町のホテルに泊まっているらしい。私よりもずっと社会的には立派なのである。だが、明日の午後は予定がないらしいとのこと。
 私には三つの選択肢があった。
 (1)一人で文学散歩に行く(2)文学散歩の予定をやめて、彼女と遊ぶ(3)彼女と文学散歩に行く
 私が選んだのは、愚かにも(3)であった。
 彼女は永井荷風の作品を知らない。そこに参加する人々は、いずれも『墨東綺譚(*)』ぐらいは読んでいる。まあ、私が教えるからいいか、と軽い気持ちで考えた。
 その日は、新宿に行き、焼肉を食べた。平日・深夜の食べ放題コース1980円である。飲み物は「おひや」のみ。私は金がないくせに、こういうときには見栄を張るのだが、彼女は現実的である。生中どころか、烏龍茶を頼むことも許さなかった。
 

 
 次の日、上野駅で待ち合わせたあと、集合時間の13時から五分遅れで日比谷線三ノ輪駅に着く。
 今回の「永井荷風の文学散歩」のルートは、この駅近くの浄閑寺から始まる。荷風が愛した吉原の名もなき遊女たちが葬られた寺院。
 しかし、そのような歴史をレクチャーする余裕がなかった連れの瞳には、東京の寺院の一つとしか映らなかったのかもしれない。目を閉じて、想像力をふくらませようとする参加者たちからすれば、我々は間違いなく邪魔者であっただろう。
 そして、文学散歩は玉ノ井に向かう。東武伊勢崎線の東向島駅付近が、荷風の『墨東綺譚』(*)の舞台となった私娼街「玉ノ井」である。
 関東大震災から逃れた人たちが、田に競って家を建てて作られたのが「玉ノ井」で、当時「ラビリンス」と呼ばれた、迷路のように入り組んだ風俗街だ。
 その面影は、今では知ることはできない。昭和20年の東京大空襲で、玉ノ井の街は焼け野原と化したからである。
 ただ、入り組んだ町並みであることは変わらない。排水溝にかつてのドブの痕跡を見つけることはできる。
 我が文学散歩の集団を、地元の人たちは不審そうな目で見ていた。彼らは果たして、自分が住んでいる地の歴史を知っているだろうか。
 『墨東綺譚』(*)のヒロインお雪が住んでいたと思われる場所には、やや新しい普通の民家が建っている。集団で写真を撮ったが、住民からすれば不快きわまりないであろう。
 ただし、荷風の代表作で有名な「玉ノ井」を知らしめようとする動きはあるらしく、いろは通り(かつての大正通り)には、「玉ノ井ミュージアム」というものが作られていた。
 しかし、かつての私娼街であるという歴史は、住民にとって好ましいものではないだろう。みずからの物件価値を貶めるようなことを許さないのが、東京人の圧倒的多数派なのだから。
 その痕跡を知ることができるのが、次に訪れた曳舟駅付近の「鳩の町」である。東京大空襲のあと、玉ノ井から逃れた人たちによって、この地に私娼街が作られ、昭和三十年代の売春防止法が施行されるまで栄えたという。
 震災や戦争で焼けなかった建物は残っているが、銘酒屋(私娼の店)であることを隠すため、ペンキを塗ったりして、一見しただけではわからないようになっている。かつて、性を売っていた店であることは、注意深く観察しないと気づかないはずだ。
 そのような歴史を、ほとんどの人は知らずにいる。現代人のほとんどが、性産業の恩恵を受けていると思うが、その背後に横たわる歴史については目を伏せてしまっている。
 神の歴史が人間文化であるのと同様に、性の歴史もまた人間文化であろう。そして、それを語り継ぐきっかけの一つとして文学作品がある。
 かつての東京の痕跡をたどりながら、私はそんなことを考えた。連れの相手をしつつ。
 
 しかし、文学散歩は、ここから残念な展開を迎えてしまう。雨が降り始めたのだ。雲で頂上が見えない東京スカイツリーには興があったが、墨田川の探索に雨は不愉快きわまりないものであった。
 そういえば『墨東綺譚(*)』では、主人公が雨に打たれていたときに、お雪と出会うというシチュエーションから物語は始まっていた。この雨も、永井荷風の粋な計らいであったのかもしれない。
 ただ、私には連れがいて、しかも、無言になりつつあった。まるで敗残兵の行進のごとき、絶望的な散歩であった。彼女の目前に、東武浅草駅が見えたとき、すべては終わった。私は先輩に帰ることを告げた。予定では、この後、荷風が通った浅草の店を探索する予定であった。
 こうして、同じく途中棄権した大学時代の同窓を送ったあと、私と連れは近くのカフェーに入った。ここで、私はようやく、この文学散歩の主催者である藤野氏のまとめた資料を、連れに渡したのである。
 落ち着いて読ませるほどの時間はなかったが、永井荷風の変人ぶりは知ることはできただろう。私にできたことは、そんな荷風の生き様を一人の女性に教えることぐらいであった。
 
 これが、私の「永井荷風の文学散歩」体験談である。荷風の情景描写に匹敵するほどの詩情を持ちあわせていない私には、芳醇な文章でまとめることはできなかったが、それでも、この企画に参加した意義は書くことができたと思う。
 関東大震災や東京大空襲で、かつての「東京」はほとんど失われたが、文学作品の足跡をたどるなかで、それを見つけることはできる。今の慌ただしい東京の中で、過去の追憶にひたるのは難しいが、それでも、想像することはできるはずだ。かつて、彼らが何を支えにして、この街で生きようとしていたかについては。
 
 
*機種依存文字であるために、一部、当て字を使用しています