おかげさまで、つまらない作品を読んだことがありません

 「つまらない理由」をいくら列挙しても「面白い」という評価は否定できないに関連して言い足りなかったこととかを。

 数少ない私のじまんというかささやかな矜持というか。少なくとも商業作品として出回っている漫画や小説*1について、「読むんじゃなかった」と後悔したことは一度もありません。

 もともと本選びにあまり冒険するタイプではないのであまり変なのは避けてこれたというのもありますし、本を一冊読んで「つまらなかった」という否定的感想しか抱けない、その程度の読みしかできないのはとても恥ずかしいことだという自戒*2もあります。

 もちろん、「面白さの分からない作品」に出会うことはよくあります。サリンジャーさんのご本の楽しみ方がよく分からなかったときはけっこう悩みましたし、音楽・絵画など「物語」以外のジャンルになるとさらに「分かる範囲」が狭くなります私の場合。

 でも、そういうものに触れたとき「読む価値のないつまらない作品だった」とは思いません。大抵の場合、それは私自身がその作品の「楽しみ方」を理解できていないだけのことに過ぎないからです。未インストール状態というか。だって、現にそこに「面白い」と言っている人がいるんですから、その作品を面白く読む方法はたぶん存在するのです。

 毒にも薬にもならない、「その作品を面白く読める視点」が誤差程度にしか存在しない作品というのも確かにあるのでしょう。今までそういう作品に当たったことがなかったのは幸運と言うしかありませんけれど、でも多くの作品にはどこかしらの見るべき有意な視点があるのだと思います。そういう視点を獲得したい、とは常々思っています。

 ある作品を「つまらない」とする評価は、大抵の場合その人の持つ「特定」の評価軸なりイデオロギーなりにその作品が合致していないことから生じます。「全ての人は作品を可能な限り深く鑑賞するべきだ」という考えは私にはありません*3から、つまらなかった作品に対する認識を「つまらない」のままで留めておくことが悪いとはぜんぜん思いません。そのことにいちいち後ろめたさを感じる必要もないと思います。

 でも、世間では「自分の評価軸に合わないこと」を根拠として作品そのものを全的に否定する論法がまかり通ってしまっています。その「評価軸」は数ある内のひとつとしての、属人的、属文化的な限定的なものでしなかいのに、人はそのことを容易に忘れてしまえます。

 評価軸の異なる人や集団どうしが衝突したときは悲惨です。両者は最初から議論の軸がずれていることに気付かずに、相手を批判し続けることになります。雪国に住む人は火を求め、砂漠に住む人が水を求めるのは当たり前です。両者ははじめから対立空間自体がずれていて、それなのに無理に一律な優劣を付け合おうとする無用な不和は、残念ながら至るところで散見されます。

 中には評価軸自体に対する批判が行われるケースすらあります。議論の前提自体に優劣をつけようとする姿勢ですから、これはもう批評と言うより政治と呼んだ方がいいのかもしれません。内在律によって自分を律したり磨いたりするのはいいんですけど、そのルールを他人に強いたり、そのルールに背く人を責めたりするのはまた別の次元の問題です。

 同じ評価軸を持つ人々の間ではそういう姿勢も批判はされにくいですし、単純に自省するより余所に責任を求めた方が楽だというのもあるでしょう。作品ひとつ批判するのに、いちいちそこまで考えてられるかという人もいるでしょう。評価軸が異なるのと同様に人の行動基準も異なります。だから、こういう文章を書いている手前、私も彼らの姿勢を無闇に否定することはできません。

 だからここで私もひとつの価値基準を設定して、その中でものを言います。喧嘩の勝ち負けや自分の利益でなく公平で正確な分析・議論を目的とする、もし私たちがそういった態度に価値を見出しているのなら、特定の評価軸に頼って作品を否定したりその読者を貶したりするのはもうやめましょう。誰かの誉めるある作品の面白さが自分に全然分からなかったとしても、それで自分の価値基準や感性が否定されるわけでは全然ないのですから。

*1:実用書とかだとまた話は別です。そういうのは事実を伝えるためのものですから、記載されたデータが間違ってたり理屈がおかしかったりするものは、少なくとも「実用書」として評価することはできません。

*2:これは私が自分の内在律としてそういう読み方を心掛けているだけで、他人も恥じるべきだとかいう主張ではないです念のため。

*3:自分の評価軸を一点に集中して磨いたり、気晴らし程度のライトな鑑賞に留めたり。