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2010-10-27

ソフトウェア品質を高く保つには哲学が必要

前回の記事『商品リスクを低減するには哲学的思考が必要』に関して、もう一回同じようなことを書いた文章がありますので、ご一読ください。

誰がどこに書いた文章かはご想像にお任せします。

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明治大学理工学部に向殿政男先生という方がいます。

著書のひとつ『安全設計の基本概念

向殿 政男
1965年明治大学工学部電気工学科卒業。1967年明治大学大学院工学研究科電気工学専攻修士課程修了。1970年明治大学大学院工学研究科電気工学専攻博士課程修了。明治大学工学部電気工学科専任講師。1973年明治大学工学部電気工学科助教授。1978年明治大学工学部電子通信工学科教授。2005年経済産業大臣表彰受賞(工業標準化功労者)。2006年厚生労働大臣表彰受賞(功労賞)。明治大学理工学部情報科学科教授。明治大学理工学部学部長。明治大学大学院理工学研究科委員長。ISO/TC 199国内審議委員会委員(元主査)。安全技術応用研究会会長。機械の包括的な安全基準に関する指針の改正のための検討委員会委員長。次世代ロボット安全性確保ガイドライン検討委員会委員長ほか(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

その、向殿先生が、日経ものづくり 8月号 で日本のものづくりの歴史的背景を次のように語っています。

【日経ものづくり 8月号 特集 ソフトが揺さぶる製品安全より引用】
信頼性一本やりでは厳しい

明治大学理工学部情報科学課教授の向殿政男氏によれば、そもそも日本の企業は、信頼性を高めることで安全を確保しようとする傾向が強いという。しかし、前述の流れに従えば、そうした考え方は特に修正を迫られることになりそうだ。

「信頼性を高めることで安全を確保する」とは、製品を構成している個々の要素の信頼性をひたすら高めることによって、異常事態が発生する可能性をゼロに近づけようとする考え方である。構成要素に故障がバグがあることは前提としないので、これは「フォールト・アボイダンス」と呼ぶ考え方だといえる。

日本の企業はこれまで、この考え方で実績を積み上げてきた。「日本製品は壊れにくい」という評価は、まさにこのフォールト・アボイダンスを追求してきたたまものといえる。もともと日本の製造業は、欧米で確立された製品の改良設計で成長してきたという経緯がある。製品全体のアーキテクチャが所与の中、改良設計という形で信頼性を高めることに力を注いできたのは、ある意味必然だった。

さらに向殿氏は、信頼性は定量的・純技術的な概念であり、技術者にとって扱いやすい指標だったことも、日本の企業がフォールト・アボイダンスに傾倒した理由に挙げる。「安全を定義するには、社会が許容するリスクとは何かといったことも考えなければならないので、どうしても哲学的な判断が必要になる。それに比べると、信頼性は技術者にとってとっつきやすい概念だった」(同氏)。

だが、ソフトの役割が増すにつれ、フォールト・アボイダンスだけで安全を確保するのは厳しくなってきた。前述の通り、ソフト自体の信頼性を高めるのが困難な上、ソフトやハードといった構成要素同士の関係も複雑になっていることから、構成要素の故障やミスを認めない前提そのものに無理が生じているのだ。

そもそも信頼性(壊れにくいこと)と安全は全く異なる概念である。だが、前述のような経緯から、信頼性を高めることと安全を確保することがほとんど同じ意味になってしまっていたのである。
【引用終わり】

この「今後の安全設計には全体最適の発想が必要であり、安全を定義するには社会が許容するリスクとは何かを組織が考えなければならず、そのためには哲学的判断がいる」、というところに強く共感します。

ようするに、ユーザーリスクとその対策は考えれば考えるほど際限がないので、コストや開発時間とのトレードオフでどこまでやるかを決断しなければならず、その決断をするためには安全や品質に対する哲学が必要だということです。

安全や信頼を実現している「当たり前品質」は、カタログやスペックシートには現れないため、長い間商品を使ってもらったときにお客様から伝わってくる「品質がいいね」という感想や、クレームの少なさなどでしか表面に現れてきません。

クリティカルデバイスではそこが命でもあるので、技術者は当たり前に出来ていることの重要性や、リスクを軽減する対策の大切さは言われなくても分かっていました。

それが、近年、リスク分析の結果や取扱説明書を見ていると、表記上の対策で禁忌・禁止事項として書いておけば、設計上の対策はいいやという技術者が増えてきたようにも感じています。そうなってきた理由のひとつは商品が実際に使われる現場の現実を知らない技術者が増えてきたからでもあります。

これだけ複雑化してしまった製品ソフトウェアに対して、安全に対して哲学を持ってどこまでやるかを決断しなければならなくなっているのです。逆に言うと製品の品質や安全に対して無知であったり、哲学(ポリシー)がない技術者が作る商品、ソフトウェアは危険であると言えます。

そして、技術者に哲学(ポリシー)があっても、組織の上位層に安全や品質に対する哲学がなく、商品のリリースの時期だけを何とかしろと言い、技術者の哲学(ポリシー)がポキッと折れてしまったり、考えてもどうにもならず辛いので考えないようにしている人はいると思っています。

簡単に言えば次のような質問に間髪入れずにはっきり答えられる技術者が少なくなってきていると思うのです。

・自分の商品の品質に自信があるか?
・自信の根拠は何か?

これらを聞くと怒り出す技術者はまだましで、しれっと「自分の守備範囲ではないんで」などと言う人が出てきたらもうおしまい。

そういう人たちで構成された組織において、製品の信頼や安全はプロセスや組織的システムのみで確保しなければならず、そのためには責任と権限が明確な組織的階層構造と徹底的な設計管理が必要です。

そうでない、プロセスやシステムだけで日々の仕事をやっているんじゃない組織において、もし、安全や信頼について自信をもって答えられる技術者、管理者が少なくなっているのだとすると、機器やサービスの安全や品質に対する哲学が個人個人に対しても、プロジェクト、部門にも必要です。

安全や信頼に関する哲学が、すでに組織の中に醸成されているのなら、職制で指揮命令するだけで高品質を維持できるかもしれませんが、安全や信頼に関する哲学が醸成されていない、廃れてしまったのなら意識改革から始めなければ高品質は達成できないと考えます。

これはロジックではなく、哲学やポリシーの問題です。なぜなら、当たり前品質という見えない品質を実現するために、どこまでやるかは常に自分との戦いであり、他人から言われた通りにするだけなら、納期のプレッシャーに負けて、品質は低い方向に傾くからです。

「開発が遅れているかどうか」を聞くのもいいですが、それと同じかそれ以上の熱意、頻度で「自分の商品の品質に自信があるか?」と問う人が増えないと高品質を維持していくのはムリだと思います。

以上

2010-10-11

商品リスクを低減するには哲学的思考が必要

日経ものづくり 2010年8月号 の特集記事『ソフトが揺さぶる製品安全』の中で明治大学理工学部情報科学科教授の向殿政男氏が次のように語っている。

日本の企業はこれまで、この考え方で実績を積み上げてきた。「日本製品は壊れにくい」という評価は、まさにこのフォールト・アボイダンスを追求してきたたまものといえる。もともと日本の製造業は、欧米で確立された製品の改良設計で成長してきたという経緯がある。製品全体のアーキテクチャが所与の中、改良設計という形で信頼性を高めることに力を注いできたのは、ある意味必然だった。
さらに向殿氏は、信頼性は定量的・純技術的な概念であり、技術者にとって扱いやすい指標だったことも、日本の企業がフォールト・アボイダンスに傾倒した理由に挙げる。「安全を定義するには、社会が許容するリスクとは何かといったことも考えなければならないので、どうしても哲学的な判断が必要になる。それに比べると、信頼性は技術者にとってとっつきやすい概念だった」
この、「哲学的」というキーワードを見て「なるほど」と思った。もしかすると、これまでなぜソフトウェア開発やソフトウェア品質がなかなかよくならないのか、それはソフトウェア開発には哲学的な判断が必要なのに、それをしない、できない人が増えているからだと思った。

なぜ、ソフトウェアと哲学が関係するのか。安全を定義するには、社会が許容するリスクとは何かを考えそこに線を引かなければならない。商品やサービスの周りにはリスクが無限に存在する。

悪意を持った行為を含む Abnormal Use を除いても、誤使用(Use Error), うっかりミス(Slip), 過失(Lapse), 誤り(Mistake) は必ず起こる。

それらのリスクに対してどこまで企業は対処すべきか。リスクの基となるハザードは危害に発展しなければ表面化しない。だからこそ、作る側と使う側で認識のギャップが生まれる。

正しい使用と異常な使用の間にはグレーゾーン(メーカーが考える正しさ、異常さと、ユーザーが考える正しさ、異常さのギャップ)が存在する。

このグレーゾーンをメーカーが都合のよい解釈で広げていくと、ハザードが危害になる危険性が高まる。メーカーは製造物責任を回避するために大量の警告や注意を取扱説明書に記載することよって、責任を回避できると思いがちだが、世の中はそう甘くはない。

ユーザーが取扱説明書を読まずに禁忌事項を実施した場合は、事故の発生はユーザー側に責任があるから、メーカーは製造物責任を問われることはない。しかし、社会通念上、多くの人の認識と合わないような要求を製品の利用者に強いている場合、適正なラベリングを行っていなければ、製造業者は社会的責任を追求される。

ようするににニュースになるような事故が起こると表記上の対策で刑事責任は逃れられても、設計上の対策=リスクコントロール手段を実装していなけば世間が許してくれず信用ががた落ちになり、企業の対応によっては市場から No を突きつけられるということだ。

そうなると、企業はユーザーの安全のためにグレーゾーンのどこに線を引くのか決断しなければならない。これはそんなに簡単なことではない。数式で計算できるようなものでもない。

その組織やそのプロジェクト、その技術者のポリシーに寄るところが大きい。組織的なポリシーが確立されていれば、商品間、サービス間でのばらつきは少ない。プロジェクトや技術者個人に依存していてば、そのプロジェクトやその技術者が関わった製品のみグレーゾーンのユーザー部分が小さいことになる。

リスクを起こさない仕組み=リスクコントロール手段を実装するにはコストがかかる。ソフトウェアで実施する場合、材料費はかからないが分析や実装の時間を要する。ソフトウェアは常に納期を迫れれているから、納期とのトレードオフでリスクコントロール手段は省略される危険性があり、ソフトは見えにくいので省略してもその事実を確認しにくいという特徴がある。

障害の発生確率が低ければ「どうせ、そんなこと起こらないよ」という気持ちになり、対策を実装しない技術者がいても不思議ではない。そして、障害の発生確率が高くても、納期が迫っていると「どうせ、そんなこと起こらないよ」と考えたい悪魔の気持ちが大きくなっていく。

悪魔の気持ちを抑えるのが、エンジニアの倫理観であり、組織の品質保証の仕組みである。エンジニアの倫理観は、哲学的な思考で鍛えられると自分は思っている。何も考えていなければ、エンジニアの倫理観は醸成されない。1か0ではない物事に対して、何が正しいのか、何を持って正しいと考えるのかについて深く掘り下げていくことで、哲学的な思考能力は高まると思う。

そうなると、前述のグレーゾーンをユーザーのリスクを最小限にするためにかかる工数(行為)と納期やコストとのトレードオフをする際に、なぜ自分または自分たちはその選択をしたのか自信を持って言えるようになる。

それが言えないのなら、その人は組織の言われた通りにものづくりをしているだけなのであって、グレーゾーンはメーカーの都合のよい解釈になっている可能性が高い。

その危険を組織で抑えるか、エンジニアのコンプライアンス教育で抑えるのか、それとも両方かを選択するのは自由だが、技術者がやりたいようにものづくりする方がいいものができると考えているプロジェクトほど、エンジニアの哲学的思考能力は高くないと安全で信頼できる商品は作れない。

自分自身はマイケル・サンデル先生の『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学』と読んで、哲学的思考能力を高めようとしている。

2010-06-13

情熱とスキルと市場が重なり合うところ、あなたはそれを見つけられたでしょうか?

組織カイゼンにめげているとき、閉塞感に悩まされているとき、やろうかやるまいか迷っているとき、今自分が読んでいる本『20歳のときにしっておきたかったこと』を読み返してみるとよいと改めて思った。

【『20歳のときにしっておきたかったこと』 第6章 より引用】
成功の秘訣は、みずからの情熱につき従うことである---一体、何人からこうアドバイスされたことでしょう。きっと多くの人からこう言われた経験があるのではないでしょうか?何をすればいいのかわからなくて悩んでいる人に、こう言うのは簡単です。でも、このアドバイスは単純すぎて、人を惑わせます。誤解しないでいただきたいのですが、わたしも情熱は大好きですし、自分を突き動かすものを知っておくのは、とても大事だと思います。ただ、情熱だけでは足りないのです。

情熱は出発点に過ぎません。自分の能力と、それに対する周りの評価を知っておくことも必要です。とても好きだけれど、必ずしも得意でないことを仕事にしようとすると、悩みが深くなります。パスケットボールが好きだけれど身長が足りない人や、ジャズの大ファンだけど音程を外す人もいるでしょう。どちらの場合も、プロとしてではなく、熱心なファンとして、試合を見に行ったり、コンサートに足を運んだりすることはできます。

情熱を傾けられるものがあり、能力もあるけれど、それを活かす市場がない、という場合があるかもしれません。たとえば絵がうまくて描くのが好きだとか、サーフィンのボードつくりが好きで波乗りが得意だとしても、こうした才能を活かす市場は小さいのが実情です。自分が夢中になれることを仕事にしようとすると、欲求不満に陥るのは目に見えています。仕事にするのではなく、すばらしい趣味だと考えた方が賢明でしょう。

逆に、能力があり、それを活かせる市場が大きいのであれば、その分野で仕事を探すべきだと言えます。たとえば、実績のある会計士なら、財産諸表を作成できる人間のポジションはつねにあります。世の中のほどんどの人は、こうして生活をしています。自分のスキルを使える仕事があるけれど、早く家に帰って、自分が好きなこと---趣味に没頭したいと思っています。週末や休暇を指折り数えて待っています。あるいは引退の日を待っているかもしれません。

最悪なのは、仕事にまったく興味が持てず、その分野のスキルもなく、いまやっていることを活かせる市場もない場合です。古典的なジョークに、エスキモーに雪を売るセールスマンの話があります。雪が嫌いだし、セールスの腕もないのに、その仕事をやっているのです。これは最悪です。

情熱とスキルと市場が重なり合うところ、それが、あなたにとってのスウィート・スポットです。そんなスポットを見つけられたら、仕事がただ生活の糧を得る手段で、仕事が終わった後趣味を楽しめるのではなく、仕事によって生活が豊かになるすぱらしいポジションにつけることになります。こんなに楽しんでいてお金をもらっていいのかと思えることを仕事にする---これが理想なのではないでしょうか?中国の老子は、こんなことを言っています。

生きることの達人は、仕事と遊び、労働と余暇、心と体、教育と娯楽、愛と宗教の区別をつけない。何をやるにしろ、その道で卓越していることを目指す。仕事か遊びかは周りが決めてくれる。当人にとっては、つねに仕事であり遊びでもあるのだ。
【引用終わり】

「情熱とスキルと市場が重なり合うところ、それが、あなたにとってのスウィート・スポットです。」という一節を読んでちょっと目から鱗が落ちた。

  • 情熱だけでもダメ、スキルがなければいけない
  • 情熱とスキルがあっても市場がなければいけない

現実的な命題だなと思う。第一に好きなことがないという状態では話しが始まらない。好きでもスキルがなければその道で飯を食っていくことはできない。若いときはスキルがないし、何が好きかもまだよく分からない時期があった。スキルがつくことで、情熱を傾けることに値する仕事かどうかが分かることもあるだろう。

そして、残念ながら情熱があってスキルがあっても市場がなければ食っていけない。これはティナ・シーリングのような自分自身や他人が通り抜けてきた様々な経験を知っている者だからこそ持てる視点なのかもしれない。

自分は好きなこと、自分のスキルが活かせることで対価を得るにはどんな市場があるのかを考えるのが好きだ。それはすなわち、自分が他人からどのように評価されるのか、自分のスキルや成果に対してどのような対価が妥当と考えるのかを気にしているということでもある。

なぜか。なぜなら、それでいけるという分野があれば、ティナ・シーリングが言うようにそこが情熱とスキルと市場が重なり合う自分にとってのスウィート・スポットになるからだ。

それが見つかれば、こんなにいいことはない。そんなスポットを見つけられたら、仕事がただ生活の糧を得る手段で、仕事が終わった後趣味を楽しめるのではなく、仕事によって生活が豊かになるすぱらしいポジションにつけることになるからだ。

こうなれば最高だ。スキルを高める努力が苦にならないし、スキルが高まることでより価値の高い成果を上げることもできる。

この話は起業したいと考える人にだけ当てはまるのかというと、必ずしもそうではないと思う。日本では天職を探すというキーワードが広がっているように感じるが、現実問題としてはそこに市場があるかどうかという点は重要だ。

市場がないところに飛び出してしまうのはやはりリスクが大きいと思う。30代、40代はスキルを高めるとともにそのスキルが活かせる市場を見つけることに注力を注ぐべきかもしれないと思った。

2010-04-24

『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』を見て

『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』という映画をTSUTAYAでレンタルして見た。あまりに内容がドラマティックだったので、これはどこまで脚色されているのだろうかと思って、もとのスレッドがまとめられているwikiサイトで記述をざっと読んでみた。驚いた。ほとんどスレッドに書かれていることが忠実に再現されているように見える。

考えさせられたのが、ここに描かれているのは組込みとITの違いがあるにせよ、同じソフトウェアを作るエンジニアの日々の風景だということだ。

この話しは本やコミック、映画になっているが、知らない人もタイトルを見れば、だいたい中身の予想は付くだろう。映画の中では R25 にブラック会社の条件が6つ書いてあり、主人公のマ男君が入社初日で全部当てはまることに絶句する。

【ブラック会社の条件】
  1. 就業規則があるにも関わらず残業が当たり前
  2. 何日も徹夜が続くことがある
  3. 社内に情緒不安定な社員がいる
  4. 必要経費が一切認められない
  5. 同僚のスキルが異常に低い
  6. 従業員の出入りが激しい
そして、確かにそういう会社がスクリーンに登場する。ちなみに、それはそれとして自分は主人公のマ男君や他のプロジェクトメンバーがやっている仕事の内容、流れについて見ていた。

【仕事の流れ】
  1. 営業がクライアントから仕事を取ってくる。
  2. 同行した技術担当は要求された仕事に対して開発期間が足らないと感じる。
  3. 技術担当がクライアントにその日程ではムリと言おうとするとクライアントからダメなら他に回すよといわれ営業が受けてしまう。
  4. 開発委託を受けた時点からすでにデスマーチが始まる
  5. 納期に対してプロジェクト全体が責務を負い、遅れは分散するか特定のエンジニアへ集中させることでカバーする
  6. 要求定義→設計→実装→テスト という工程はキチンと踏んでおり、プロジェクトの終了はシステムテストの成績書がすべてパスしたときになっている。
  7. 死ぬほど残業してなんとか納期に間に合わせる。
そこでふと思ったのは、仕事の厳しさの違いはあるにせよ、この流れはどんなソフトウェアエンジニアも多かれ少なかれ経験しているようなことにように見えるということだ。

ブラック企業になるかならないか、もしくは、エンジニアが潰されてしまうかいなかの違いは、3のムリな日程を受けてしまうという部分と、5 の遅れの分散と特定のエンジニアへの仕事の集中のところだと思う。

【ムリな日程を受けてしまう営業】

クライアントとサプライヤという関係の場合、一般的にお金を払うクライアントの方が立場が強い。「イヤなら他に回すよ」と言われたら条件を飲まざる終えない。その条件を跳ね返すためには、ムリな日程を飲む以外の付加価値が必要になる。その付加価値が他の会社にはない価値でなければ競争に負けてしまう。

メーカーの場合、お金を払ってくれるのはエンドユーザーであり、リリースして商品が売れるか売れないかが分かるにはそれなりのディレイがあるから、請負開発の場合はよりプレッシャーが大きいと思う。

この問題は会社の経営者の考え方と経営方針で決まるのだろう。エンジニアを薄給でこき使って使い捨て目の前の売り上げを確保するという考えを持っているか、顧客満足を実現するのはエンジニアであり、顧客満足とエンジニアの満足・成長の両立を考えるのかで 180度環境は変わる。

後者よりも前者の会社に仕事を出すクライアントが多いとエンジニアにとって状況は改善しない。二次、三次といった下請け構造があると、下の階層になるほど環境は悪くなる。

『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』の主人公は、実力はあり、唯一近くにいたよき先輩に鍛えられてブラック会社の中で成長するのだが、ブラック会社にしか入れなかったのは学歴で能力を判断されてしまったからだった。

もしこの話しが本当であったのならば、マ男君は死ぬほど苦労したが、3年間でプロジェクトリーダーを一回経験しプロジェクトも成功させたのだから、その実績を使ってもう少し環境のよい会社や、クライアント企業への転職などもできるのではないかと思った。ようするに、学歴以外の実績は実際の仕事を成功させることで積み重ねることができると思うのだ。

【遅れの分散と特定のエンジニアへの仕事の集中】

これは「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」という日本人の特性のよい面と悪い面が両方でていると思う。プロジェクトの中で職制がはっきりしておらず、遅れを全体でバックアップするというやり方は連帯感を生むメリット、達成感を共有できるメリットがある一方で、個の確立を疎外する側面もあると思う。

技術者個人の成果や負荷が見えにくくなると思うのだ。責任と権限が明確な世界では他人の領域には指示がなければ踏み込まないから最終的な責務と成果が個人別にはっきりする。

それが曖昧だとブラック会社では優秀なエンジニアに負荷が集中し、その成果はプロジェクト全体に分散されてしまう。ブラック会社でなくても日本の企業ではそういう傾向があるように思う。

そうすると優秀な技術者が潰される可能性が高くなり、かつ、その様子を見ている他の技術者は積極的に仕事の効率化を目指さなくなる。


【『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界もしれない』スレッドより引用】
スレタイの意味・・・
それは、木村くんの下克上でも、父ちゃんの病気でもない。
藤田さんが、会社を去る・・・。まさにこれこそが限界だったのだ。

何のためにスレッドを立てたのか。
確かに俺は限界だった。
このスレッドを立て、全てを書き終えた時、俺は退職しようと心に決めていた。
伸びても、伸びなくても、それは変わらない。
結果的にスレは物凄い勢いで伸び、パー速に移住するほどになってしまった。

そして、その中で俺への励まし、心配、叱咤。
色々なレスが俺に向けられて書き込まれた。
ブログのコメントは、続きを書いてくれ、という内容ばかりだった。
俺は今まで、誰からも必要とされない、居なくなっても誰も悲しまない
くだらない人間だと思ってたんだ。

だけど、このスレを立てた事で
俺はみんなから励まされて、心配されて、叱咤されて・・・
たった一人の力は確かに小さいかもしれない。
だけど、それが何十、何百となったら?
その小さな力が集まって、大きな一つの力となったら?

俺は奇跡を信じる気になったよ。
だって、スレッドタイトルが変わるんだもの。
『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』が
『ブラック会社に勤めてるんだが、まだ俺は頑張れるかもしれない』に。
【引用終わり】

スレッドの最終章を見ると、マ男君を支えたのは先輩の藤田さんと、ブログで応援してくれた人たちというだということが分かる。

ソフトウェアエンジニアは知識労働者だ。人間が人間の頭で勝負している世界だ。そう考えるとやっぱり人間を人間として扱ってもらえる環境と人間の頭を成長させてくれる環境と、自分自身の知識労働者としての意欲が大事であるということが『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』を見て再認識した。

ポイントは実績がないときには、今の仕事を成功させてその中で達成した他から認められうる点を積み重ねてそれを武器にすることだと思う。そのためには今の仕事をやっつけでいい加減にこなしてはいけない。この一つ一つの仕事をまわりに自慢できるくらいきっちりこなして積み重ねることができれば、よりよい環境に進むことができるとはずだ。

2010-04-02

ものづくりに関する共感した話し

何を隠そう自分はものすごいラジオ好きである。通勤の間、風呂に入っているとき、寝る前、朝早く起きてしまったときラジオのスイッチを付ける。一日のうちテレビを見ている時間よりも圧倒的にラジオを聞いている時間の方が長い。

さて、3月28日(日)の夜、何気なくラジオを聞いていたら、村田製作所がスポンサーになっているTBSラジオ『サイエンス・サイトーク』という番組に植松 努さんという飛行機好き、ロケット好きのいかにもものつくり職人といった方がゲスト出演していてその話しがとてもよかった。よかったと思ったのは植村さんと自分は同類だと感じたからかもしれない。

この番組はポッドキャストでも配信されており、今日紹介する話しはiPODに録音して、少しずつ再生しながらポメラでテキストに起こしたものだ。

前置きはそれくらいにして、植村さんが何を言ったのか紹介していこう。

【植松 努さんのプロフィール】
植松努(うえまつつとむ)植松電機専務取締役 1966年北海道芦別生まれ。子供のころから紙飛行機が好きで宇宙にあこがれ 大学で流体力学を学び、名古屋で航空機設計を手がける会社に入社。 5年後の1994年に実家のある北海道へ戻る。父(植松清)が経営する植松電機へ。 産業廃棄物からの除鉄、選鉄に使う電磁石の開発製作に成功。 分別用電磁石は全国のシェアの八割を誇るまでに導く。
2010年03月28日放送 … ロケットを作った町工場(1) 番組の紹介文
北海道赤平市にある「植松電機」。親子二人だけの小さな町工場でしたが、現在は約20人の社員で、ロケットや小型人工衛星の製造を手がけています。

その背景には「将来はロケットの設計をしたい」という植松さんの子供の頃からの夢がありました。「どうせ無理」だと考えず、あきらめないで頑張れば夢はかなう、という植松さんは仕事のかたわら、講演や子供向けのロケット教室などで全国を飛び回っています。2回に渡ってたっぷり話を聞きます。
■植松さんの子どもの頃
  • 飛行機・ロケット好きの植松少年は飛行機が作りたくて、独学で飛行機やロケットのことを学んだ。飛行機、ロケットを飛ばした人たちの伝記を読みあさった。
  • 伝記を読んでいたのでいろいろな人が工夫をしていく様、トラブルの解決の仕方を学んだ結果あきらめ方(あきらめて投げ出すということ)を知らずに育った。
→成功と失敗を疑似体験し、最終は成功するというイメージトレーニングが出来たのだろう。伝記とはそういうものだ。

■飛行機を設計する会社に入ったとき
自分が小さいときからあこがれていた堀越二郎(ゼロ戦の設計者)がいた会社に入ることができた。(神様はいるものだと思った)そして念願の飛行機の設計をできることになった。

ところが、そのうち植村氏は周りが高学歴な人たちばかりであることに気がつき不安が募るようにる。そして、組織の中で自分が少しでも役に立ちたいと思い、飛行機の知識を周りにひけらかしまくるようになる。自分は子供の頃からのめり込んでいた世界なので他の人より遙かに多くのことを知っていた。しゃべり続ければ続けるほど徐々に自分が嫌われていくようになっていた。自分自身もそんなことをしているのが嫌になって引きこもるようになり、人と関わらなくなるようになった。仕事だけはやってそれ以外の対人関係はできるだけ避けるという状態。
■引きこもり状態からの回帰
自分が引きこもりになったときに救ってくれたのが寮の仲間たちだった。スポーツマンの同僚が自分を何かある度に誘ってくれていた。しかし、彼は自分の反対側にいる人だと思っていたので、誘われてもいかなかった。それでも何回も誘ってくれて、いつの日か誘われるままにスキーにいった。

自分はオールレンタルで滑った。誘ってくれた同僚に「おまえすごいな、転ばないな」と言われた。考えてみたら自分は北海道出身だし、子供の頃学校でもスキーをやっていたので当たり前のこと。それでスキーの技術をスポーツマンの同僚に教えていったらみるみる上達していった。そうしたら他の人にも「こいつに聞け」と紹介してくれた。それで自信を取り戻し、帰ってからスキーを一式買ってワックスかけてエッジを整備してとやっていたらどんどん人が集まる部屋になっていった。

そのときに「不安とは恐ろしいものだ」「自信はとても重要なものなんだ」と痛感した。

誘ってくる同僚に対して当時「なんで見ず知らずの自分に関わってくるのだろう」「嫌だ嫌だ」とずっと思っていたのだけれども、困っている自分を見てなんとかしなくてはいけないなと思ってくれたのだと思う。もしかしたら彼自身も苦しい時期があったのかもしれない。
■なぜ、飛行機を設計する会社を辞めてしまったのか?
自分たちよりも後に入ってくる人たちが飛行機から遠ざかっていることに気がついた。飛行機を作る仕事をしているのに飛行機にまったく興味がない。学研の図鑑を読んだことがない人たちが続々と入ってくるようになってくる。そうすると彼らは好きじゃないから頑張れない。そしていわれたこと以外ことをすると損をするという発想を持っている。だから要求されたことしかやらないようになる。当時、自分のいた会社には「奇跡は仕様書には書かれていない」「奇跡は要求されたことの中には書いていないからお人好しが起こすんだよ」という言葉があった。彼らはそれをやらない人たちになっていった。それはミニマムマキシマムだと思った。最低限これだけはやっておいてねといわれたことを、「それだけやっておけば十分なんだろ」「それ以上のことをしたら損する」という考え方。

好きなことはどれだけやっても損はしないはず。ところが好きなことが奪い取られるしくみがある。それは中学校くらいから始まる。「受験以外のことをしたら損をするよ」ということを誰かが教える。「必要最低限のやまを暗記してそれ以外のことを入れたら頭が損をするよ」と教えられるようになる。そうると受験勉強のこと以外のことをいっさいできなくなる。

この世の中に損なことはひとつしかなくて、それは何もしないこと、面倒くさいけど自分がやりたいこと避ければ避けるほど本当は損するのに「最短コースこそが美徳です」のようなことを教えてしまうと負のスパイラルは激しさを増す。
「効率が嫌いなんですか」というラジオパーソナリティの問いに対して、
手加減をしている一秒も自分の一秒ですから自分の人生短いんだから手加減したり楽したりしないほうがいいんじゃないのと思う。それを誰かが「楽をして暮らすんだよ」「楽した方がいいよ」と教える。楽ということを目標みたいに伝える人がいる。でも楽したら辛いと思う。

暇はつぶしちゃいけないんですよ。暇は自分にとって特になることに使えば人生の時間はすごく輝きを増すはずなんです。人生の幸せは生涯賃金の総額ではないことはみんな分かっていると思う。人生の時間を費やして得た知恵と経験と周りの信頼と愛情こそが人生の価値だろうと思う。

自分のくふうが報われたときに泣けるんです。泣くほどしんどいときに泣けるんだろうと思います。
自分は自分のことを職人だと思っているから、植村さんの言っていることがよく分かる。しかし、一方で自分がものづくりに寄せる想いの強さと、それほどまでに想いが強くない人たちと一緒に仕事をしなけれいけないという現実も分かっている。それがイヤなら植村さんの会社のように少数精鋭の組織で仕事をするしかない。しかし、もっと大きな組織でなければできない商品もある。

車の世界では新車種の開発はチーフエンジニアと呼ばれる技術者が全責任を担う。トヨタではチーフエンジニアのアシスタントを4~5年務めてからチーフエンジニアに昇格するのが普通だったが、車種の増加と開発期間の短縮で近年は「経験を十分に積まないまま、チーフエンジニアに抜擢されるケースも目立つらしい。昔はチーフエンジニアを中心に開発チームが寝食を忘れて徹底的に議論して一台の車を作り上げる泥臭さがあったがいまではパーツごとの縦割り開発にならざるを得ない。

プリウスのブレーキシステムの複雑さを見れば分かるように、今では車全部の機能やメカニズム、制御方法をチーフエンジニアが全部把握するのは無理だ。ひとりのエンジニアがシステム全体を見渡せるシステム規模ではなくなっている。

だから、植村さんが言うようなエンジニアが必要なことは間違いないが、プロジェクト全員にそういう意識を持たせるのは難しい。それでも、顧客満足は満たさなければいけないし、安全は絶対に確保しなければいけない。「品質を心配する意識の強さ」「エンジニアの商品にかける熱意」だけでは安全は確保できない時代に突入している。「品質を心配する意識の強さ」「エンジニアの商品にかける熱意」を保ちながら、システマティックに安全分析を行い、安全アーキテクチャを設計することが求められている。

2010-01-09

Validation(妥当性確認) と Varification(検証)

他人の失敗をネタにするのはちょっと気が引けるが、同じような失敗を犯さないように教訓として紹介しようと思う。

MATLAB / Simulink を販売する Mathworks から送られてきたダイレクトメールの話しだ。

MATLAB / Simulink は1988年より、日本での販売展開はサイバネットシステム株式会社が代理店業務を行っていた。しかし、2009年7月1日から販売代理店業務をMathWorks Japan(MathWorks社の日本法人)に移管された。

このように、日本で代理店が売り上げを伸ばしてくると本国が直営の法人を作って販売権を取り上げるという話しはよくある。そして、少なからずサービスの質が低下するシーンをよく見かける。

日本に独自の顧客環境があることを説明しても理解せず、シンガポールや中国、韓国でうまくいっているのに日本だけがダメなわけがないと突っぱね、強引に販売権を奪ってしまう。

自分は MATLAB / Simulink のユーザーではないが、MATLAB EXPO などでリサーチはしているので、ダイレクトメール2010年1月5日にオフィスに届いた。

宛先を見ると、郵便番号は空欄で、住所のフレーズのところどころが一文字ずつ欠けている。

例えば

東京都 の都が欠けて 東京 に

酒井 由夫 の酒が抜けて、 井 由夫 に

なっている。日本郵便は民営化後も優秀だ。郵便番号のなく、住所の各フレーズが欠けていている住所でも郵便物が届く。たぶん、意地でも送り主に返送したくなかったのだろう。なぜならスウェーデンから発送された郵便物だったからだ。

MathWorks は世界中のユーザーに スウェーデンからダイレクトメールを発送しているのあろう。それが、もっともコストが安いのかもしれない。スウェーデンから国際郵便でダイレクトメールを送っているが、住所は漢字で書いてある。JAPANだけが英語で書いてあるから、漢字に不備があっても日本までには届くのだ。スウェーデン人が漢字を読めるわけがないから、住所に問題があっても発送される。

中に入っていたのは無料CDの発送の申し込みと MATLAB EXPO 09 の申し込みの案内だった。

“はい、MATLABデモ、Webセミナー、ユーザー事例などに興味があります。無料CD をすぐに送付してください。” という文章の頭に□があってすでにチェックが入っている。この文章も日本人的には少し押しつけがましいように思えるが、世界中同じ内容で送っているのだろう。

送付先は シンガポールの郵便局の私書箱のようだ。

そして、MATLAB EXPO 09 の申し込み開始のご案内は 2009年12月2日に開催する展示会の案内で、展示会は一ヶ月前に終わっている。

この郵便が2009年中に発送され、スウェーデンのクリスマス休暇や日本の正月休みの影響があったのだとしても、これは明らかに MATLAB EXPO 09 が終わってから発送されたのだと思う。(消印はないのでいつ発送されたのかはわからない)

ダイレクトメールの中身は全部日本語で書いてあるから、発送作業者はこの間違いがまったく分からずに発送してしまっている。

この話しは単なる笑い話ではあるのだが、実は V&V ( Validation & Verification ) ができていないという教訓でもある。

Validation: 妥当性確認 は、要求仕様を満たしているかどうか、ユーザーニーズに合致しているかどうかの確認であり、 Verification: 検証は、仕様通りにできたかどうかのチェックである。

最大の相違点は ユーザーニーズに合っているかどうかを確認しているかどうかということだ。今回の Mathworks のミスは、Varification は実施していたのかもしれないが、 Validation をしていなかったということだ。

要するに、発送時にダイレクトメールを受け取る日本のユーザーのニーズに合っているかどうかを確認せずに商品をリリースしたということになる。

※この手の問題は日本の代理店が口を酸っぱくしてミスを訂正させるのだが、今回は代理店を通さずに送ったからミスが見つからなかった。

たぶん、スウェーデンのダイレクトメール発送センターに日本人のスタッフが一人もいなかったのか、もしくはいても Validation を実施するプロセスがなかったのだろう。

グローバルマーケットで商品を作っているとこのようなことはよくあるし、外国語の部分を業務ドメインに特化した情報と置き換えて見ると、このような問題(事故)は国内でも起こる可能性があるのだ。

例えば、商品の使用環境がよく知らないプログラマにソフトウェアの作成を外部委託し、要求仕様の漏れがあって、使用環境を想像してプログラムを作ったら、それが勘違いであり、ユーザーに迷惑をかけたというようなケースだ。これは外部委託されたときの仕様書がどれだけ完成度が高くても、発生する可能性がある。仕様書自体に間違いが含まれるからである。

このようなケースは Verification (検証)はOK だったが、Validation (妥当性確認)が NG だったということになる。

ユーザーの嗜好や思考は全世界で同じではない。すべてのユーザーを満足させることができる仕様があるとは限らない。だからこそ、Validation (妥当性確認)という行為は非常に重要なのだ。

ちなみに、QA担当は問題がわかったときに、問題を指摘し是正と再発防止策を打たなければいけない。この件に関しては自分自身では是正と再発防止策を採ることはできないので、キチンと、Mathworks Japan にこのようなミスがあったことを教えてあげた。(イヤミの意味ではなく、QA的立場から通知の義務があると思ったからだ)

その後、日本の営業担当の方から次のようなコメントが送られてきた。

お世話になっております。

マスワークスジャパン担当営業の○○と申します。

この度はMATLAB Expoのご案内でお見苦しい文面をお送りしてしまい。大変申し訳ございませんでした。

謹んでお詫びを申し上げます。また、ご指摘を頂き大変ありがとうございました。

只今原因調査と改善に向けて対応しておりますが、現状ではまだ不正確な文面が出力される可能性を消去出来ていない状況でございます。

ご迷惑をお掛けしました旨、重ねてお詫び申し上げます。

何かございましたらお気軽にご連絡頂ければ幸いです。

以上、宜しくお願いいたします。

何しろ、発送元がスウェーデンだから原因調査と改善は難しいだろう。(ブログネタにしてしまってゴメンね)

グローバルビジネスとはいかに難しいものか・・・

P.S.

スウェーデンと言えば、話題の スウェーデン作家 スティーグ・ラーソンのミステリー『ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女』を読み終えた。出てくる人物が多く名前を覚えるのが大変で、上巻は読むスピードが鈍ったが、下巻は一気に読み切った。なかなか面白かったし、この原作の映画化したものが近々日本で公開されるらしい。是非見に行きたいと思う。

スウェーデンというと日本とはほとんど関係がないと思っていたら、リンドグレーンの「長靴下のピッピ」「名探偵カッレ君」「IKEYA(最近話題の激安家具屋)」「H&M」「ボルボ」などが小説の中にでてきて親しみを感じた。

2010-01-04

立場が変わっても胸張れるように行動しよう

NHKの大河ドラマ『龍馬伝』が始まった。福山雅治が最近、なんでカーリーヘアーにしているんだろうと思っていたら、龍馬を演じるためにそうしていたんだ。

龍馬伝を見ていたら、当時土佐藩には上士(上級武士)と下士(下級武士)の厳しい階級制度があり、下士は上士に逆らえないという理不尽な世界が広がっていた。

これを見ていたふと思ったのは、現代におけるクライアントとサプライヤの関係も同じようなものではないかということだ。クライアントは発注者でサプライヤや受注者という上下関係があるため、基本的にはサプライヤはクライアントに逆らえない。これは坂本龍馬の時代と同じではないかと思ったけれど、絶対に立場が逆転しないわけではない。

クライアントの組織からその人が離れれば、サプライヤの立場になることも大いにあり得る。自分の実力ではなく組織の後ろ盾で偉そうにしている者は立場が変わると本当に情けない。

妹尾河童の小説『少年H』で、戦時中の学校で偉そうにしていて少年Hをいじめていた教師が終戦後に態度が180度変わる場面があった。環境なんていつどんなふうに変わるのかわからない。だから環境や立場が変わったときに情けないことにだけはなりたくないと思う。

ツールベンダーの営業員と話しをするときにこのことを忘れないようにしている。自分が動かそうとしているのは自分のお金ではなく組織の金であり、そのツールに投資するのは、自組織の商品やサービスを向上するために役立てるのであって、それが達成できなかったら自分の責任だ。

だから、そのために自分とツールベンダー、ツールメーカーは協力しなければいけない。技術者教育ベンダーについても同じ事が言える。技術者教育にお金をかけるということは、その結果、技術者のスキルが上がり、結果的に価値の高い商品をリリースすることに貢献できなければならない。

すぐに結果が分かるようなことではないが、「役に立つ」という確信がなければ投資してはいけない。

そのためには、ツールベンダー、ツールメーカー、教育ベンダーにも努力してもらう部分があるし、自分もできる限りの情報を提供する必要がある。

ツールベンダー、ツールメーカー、教育ベンダーも何も言わずにお金だけ払ってくれるお客さんよりも、いろいろな注文を付けながらも長く付き合ってくれるお客さんの方がありがたいはずだ。

クライアントもサプライヤも顧客満足を高めることを第一の目的として行動をしていれば、よりよい互恵関係が築かれ、後から売り上げも付いてくるはずだ。

日頃からそういう行動を取っていれば、立場が逆転したときでも共通の価値感のもと、態度を変える情けない状況にはならないと思うのだがどうだろうか。

2009-06-25

ユーザー要求の多様化とペルソナ法

自分の中で失った信頼を一部回復したSONY』の記事に ZACKY さんから以下のようなコメントをもらった。

ZACKY さんは書きました...

お久しぶりです.

起動時間もそうですが,最近思うのが,テレビやHDD レコーダーの電源をオンにするとテレビ番組がいきなり表示されるのに違和感を覚えています.

HDD レコーダーだったら録画リストの方を出してほしいし,テレビでも番組表を先に出してほしいです.いきなり見たくもない騒々しい番組を見せられるのにゲンナリしています.

それから,番号ボタンでチャンネルを切り替える機能,これも僕にとっては要らないです.こんなボタンをつけるぐらいだったら,一発でHDDレコーダーやDVDプレーヤーに切り替えるボタンをつけてほしいです.現状だと入力切り替えボタンを延々と押す必要があります.

顧 客要求については,僕もいろいろと,たとえばペルソナ法を中心に研究している最中ですが,なかなか難しい問題をはらんでいます.難しいと思うのは,顧客の 要望をそのまま機能化するのではなく,顧客の要望を抽象化して使いやすいデザインにする部分だと思いますが,この部分の方法論を探しているところです.も し何か情報をお持ちでしたら,ご教示ください.

ユーザーの要求は多様化している。折しも、本日 25日 社長に就任したトヨタ自動車の豊田章男社長は就任記者会見で、今後の経営指針として「マーケットに軸足を置いた経営」を掲げた。

世界各地域の市場特性に合致した事業展開を目指すもので、地域ごとに「攻めるべき分野と退くべき分野を見定め、経営資源を重点配置する」方針を示した。市場によってはトヨタの特徴でもあった商品の「フルライン」政策を見直すと明言、各地域で「必要十分なラインナップ」にしていくと語った。

このため、新経営体制では日・米・欧および新興諸国地域にそれぞれ副社長を地域責任者として張り付け、現地の実情に即した事業展開を図っていく構えとした。

ユーザー要求が多様化し、ソフトウェアができる範疇でものすごく広くなった。(なってしまった) だから、「ユーザー要求」だからということで、各方面での要求を機器に入れていくとあっという間に機能満載の使いにくい組込み機器ができあがる。

このことに気がついている日本の組込み機器メーカーはまだそれほど多くないと思う。どんな要求でもユーザー要求を機器に取り込むことができれば、お客さんは満足してくれるはずと思い込んでいる人は驚くほど多い。

そういう人は会社の中で売り上げが上がったとか下がったとか言いながら数字だけを見て毎日を過ごしている。現場を見ていないのだ。ユーザー要求が多様化したのは時代の流れだが、上司が部下に「技術者は現場を見に行け」と檄を飛ばしていたのは昔の話しであり、そう言われてきて偉くなった人たちが、今になって若いマネージャやエンジニアに「商品が使われている現場を見に行け」となぜ言わないのかさっぱり分からない。

さて、ZACKYさんお尋ねのペルソナ法だが、自分の認識では具体的に存在するユーザー像(例えば、東京に住んでいる女子高生など)のプロフィールを定義し、そのユーザーならどんな機能や性能、サービスを欲するだろうかと考えるやり方だと思う。

これは昔のベテランエンジニアならば誰でもやっていたことだ。自分達の製品が使われている現場に行きどんな風に使われているのがじっと観察する。そして、いくつかの現場を見てもっともポピュラーなユーザー像(ペルソナ)を自分の中で想像し、そのユーザーが一番使いやすいと思われる商品を開発する。

ところが、ユーザーの要求が多様化したためエンジニアが想像するユーザー像が欲すると思われる機能や性能、サービスが必ずしもユーザー要求の総意ではなくなってきた。だから、何を作るにしても想定したユーザー像をエンジニアの頭の中の想像にとどめずに、明示しておく必要がでてきた。これがペルソナ法が確立されてきた背景だと思う。なぜ、明示しておく必要があるのか。それは、あるユーザー像を想定した造った商品が売れなかったら、それは想定したユーザー像が間違っていたと考え、より大きな層のユーザー像(ペルソナ)にシフトするための検証材料に使うからだ。

場合によっては、複数のペルソナを想定してそれらの要求に応じて商品の味付けが変わるような工夫をするとよいのかもしれないが、よくよく考えて作らないと、機能満載の使いにくい機械ができあがってしまう。

商品を使うユーザー像を想定するという話しは、トヨタ自動車の新社長 豊田章男氏が「前経営陣までの拡大路線について、前経営陣までの拡大路線について、身の丈を超えていた」と反省し、「今後は地域に合った商品構成に改めるべく、日本、北米、新興国など地域ごとに販売車種を絞り込む」という新戦略を示し、「国内では広告・市場調査を担う新会社を10年初めにも設立し、消費者の要望や販売現場の意見を、新車開発や生産に反映させる」と語ったことと符合する。

要求が多様化したので、地域によって異なる要求(ペルソナ)別に商品を変えるということだ。何でもかんでも機能を突っ込めばよいと考える時代は終わった。しかし、逆に想定したユーザー像が間違っていたときの傷も大きくなるので、そこは長い年月の間に商品をモデルチェンジしながら、その時代に最適なユーザー像(ペルソナ)を軌道修正していく必要がある。

これまで組込みソフトの世界でこの作業は、商品が使われる現場、パフォーマンスや制約条件、デバイスの特長などの知り尽くしたアーキテクトが担ってきたが、今後はマーケッターやユーザーインタフェースの分析者とともに共同で分析し、分析した結果を目に見える形で残していかなければならない。

P.S.

日科技連のソフトウェア品質研究会でユーザビリティをずっと研究しているグループがある。2006年度の研究論文に『ターゲットユーザを明確にするためのペルソナ手法の実践と課題抽出』というのがあるので参考にしていただきたい。それと、組込みプレス vol.8 で紹介したQFD 品質機能展開も使えるのではないだろうか。「顧客の要望を抽象化して使いやすいデザインにする」というのは具体的には、さまざまな顧客の要求や、市場環境や、他社状況や、ステークホルダの好みなどに優先度付けし、最終的には想定したユーザーへの価値が最大になる点を見つけることだと思う。そのためには QFD が有効だと感じる。

2009-06-13

自分の中で失った信頼を一部回復したSONY

定額給付金とエコポイントが出そろったところで、我が家も古くなったブラウン管テレビを地デジ対応の液晶テレビに買い換えた。

これまで使っていたブラウン管テレビは 2003年製の29インチ SONY製のBSデコーダ内蔵テレビ。地デジ対応までのつなぎのつもりで5年ほど前にすでに型落ちになっていたこのテレビを確か5万円台で買った。

あのときはまあ安いからいいやとよく比較もせずに買ったこのブラウン管テレビには買ってから後悔したことがあった。電源を入れてからテレビの画面が表示されるまで12秒もかかる点だ。音声は約3秒ほどで出てくるが画面表示まで12秒もかかるのはせっかちな自分には我慢ならない。

この事実は日本の電機メーカーがカタログスペックに載る機能しか見ておらず、本質的なユーザーニーズを分析できていない典型的な例として、(TVとDVDレコーダーの電源投入に時間がかかるところをビデオに撮って)いろいろな場面で紹介させてもらった。

【これがTVの起動時間の様子】




【これがHD/DVDレコーダにDVDを入れたときの起動時間の様子】

※画面右上のローディングマークが消えるまでの時間に注目



そんな中で、2008年2月に日本ビクターが起動時間を10秒から3秒に短縮した液晶テレビを発売したことをブログで話題にした。『パフォーマンスを商品の価値に置き換えられない日本の企業

起動時間という「当たり前品質」に相当するユーザー要求を前面に出してきた新しい試みといえる。

一度痛い目にあったら次の買い物では二度と同じ過ちを犯さないのが信条なので新しい液晶テレビを選ぶ際にはかなり慎重に選んだ。

普通なら一度イヤな思いをしたメーカーの同じ分野の商品は買わないのだが、ここ数年ずっといろいろな情報誌等での液晶テレビの評価をリサーチしていて結果的にまた SONY の40インチの液晶テレビを買った。

BRAVIA KDL-40V5 という機種だ。買ってから約一週間たったが、意外や意外本当によくできていると思った。テレビの起動時間は約7秒でストレスをそれほど感じることなく立ち上がり、待機電力を時間帯を指定してあげることでさらに高速起動が可能になる。

SONYだからたぶん OS には Linux を使っているはず。普通ならLinux の起動には30秒くらいはかかる。今や多くのメーカーはハイバネーション機能を使ってOSをゼロから立ち上げることはせず、高速で立ち上がるために必要なメモリの状態をあらかじめハードディスクにコピーしておき、それをダイレクトにメモリに読み出すことで起動時間を早くしている。

だから、この液晶TVも指定したチャンネルの画面は早くでるが、画面表示以外の設定などを電源投入直後に行おうとしても、それは待たされる。すぐにやりたいことと、そうではないことの区別と対応ができている。「そんなこと簡単じゃないか」と思うかもしれないが、設計の初期段階でそのような仕様の選択ができるエンジニアは非常に少ない。ユーザーが何を求めているかを熟知していて、かつ優先度の高い機能や性能と優先度の低い機能や性能を整理できて、優先度の低い機能を勇気を持って切るくらいの決断力が必要になる。

総じて、SONYの液晶TVの何がいいかというとユーザーインタフェースがいい。これは間違いなく、エンジニアが試行錯誤で作り上げた機能仕様ではない。プロのユーザーインタフェースのデザイナーが使い勝手をかなり研究して作った仕様だ。情報家電は機能や性能がよければいいのではなくユーザーに対するサービスがよくないと、より多くの人には受け入れられないし結果的には競争に負けることが家電メーカーにも分かってきたのかもしれない。

【SONY の液晶テレビで感心したこと】
  • デフォルトで平均的なユーザーの好みの設定になっている。
  • 映像の画質をあえてデフォルトダイナミックにしてスタンダード設定は選択できるようにしている。(ダイナミック設定はとてもくっきりはっきりしている。家電量販店で他社の機種より目立つには有効。どぎついと思ったユーザーはそう感じたときにスタンダードにすればよいという考え方。よく考えていると思う。マーケッターのアドバイスがなければスタンダードをデフォルトにするだろう。)
  • いろいろな設定をグルーピングして大まかに好みのグループをユーザーが分かりやすい言葉で選べばよいようにしている。
  • 操作に対するレスポンスはストレスを感じないほど改善している。(一年前に買ったHD/DVDレコーダに比べるとその差は歴然)
  • 接続する機器やアナログ、地上デジタル、BS、CSのチャネルと選ぶ項目がとてつもなくたくさんになった。これを選択しやすくするために、リモコンのHOMEキーを押すと、縦横の十字の選択インタフェースが表示される。これは非常に分かりやすい。階層を深くすることなく全体の中のどこを選択しているのかが直感的に分かる。(設定メニューの階層が深くで自分がどの位置にいるのか分からない製品は多い)
  • 電源投入時間を短縮したいユーザーに対するトレードオフ(消費電力を朝など時間帯を設定して上げることで早くする)を用意している。
  • 待機電力を限りなくゼロにしたい人のための主電源スイッチが用意されている。
ちなみに、これだけいろいろなことができ、いろいろな機器を接続できるようになっていると普通なら取扱説明書が相当読みにくくなる。それに関しては SONY はWEBサイトをうまく使っている、購入したTVの取り扱いに関するナビゲーションのサイトが用意してあり、自分がやりたいことを選択していくと、どのような接続、どのようなオプションが必要であるか分かるようになっている。紙の取扱説明書でできないことをWEBサイトを使って上手にナビゲーションしている。

時代は変わった。組込み機器のインタフェースはエンジニアがいろいろな人(ステークホルダ)の言うことを聞きながら試行錯誤で作り込む時代ではなくなった。ユーザーインタフェースはユーザーの使い勝手や市場での競争力が最大になるように、プロのデザイナーが考え実現可能かどうかをエンジニアと詰めていくように変わってきた。この液晶TVを見ている限り、機能が優先され性能が置いて行かれることもなくなったように見える。

ただ、そんな設計を分業でできるのは大企業だけかもしれない。ユーザーインタフェース専任のデザイナーを用意できないような組織ではエンジニアがその役割も担う必要があるのだ。

P.S.

消費電力をブラウン管TVと比較してみたら、29インチのブラウン管TVが130W, 待機電力が 0.07W で、新しく買った40インチの液晶TVが 129W, 待機電力が 0.12W だった。画面が大きくなっているから効率はよくなっているが、絶対値だけ見ると消費電力はほとんど変わらないし、待機電力はアップしている。エコポイントも23,000ポイントもついてものすごくエコに貢献しているように見えるが絶対値で比較すると実は貢献していないというのが現実だ。

個人的にかなり投資もして愛用していた CLIE を市場から撤退したSONYに対する怒りはまだ消えていない。(iPod touch がこれだけ売れているのだから市場はあったはずだ) 一度失った信頼を回復するには時間がかかるのだ。
 

2009-04-25

組織はソフトウェアエンジニアに投資できるか

このブログで、日本のソフトウェア技術者は試行錯誤的アプローチで組込みシステムのソフトウェアを作ってきたと書いてきた。それでも組込み機器の品質が保たれているのは、日本人に特有の「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」という性質と職人気質、そして品質を心配する強い意識があるからだとも書いてきた。

これらの日本人の特性プラス「何かあったらソフトウェアをすぐ修正」という行動によって、日本の組込みソフトウェアは今のところかろうじて高品質を維持していると思う。しかし、これらの状況は、ソフトウェアの規模が小さいことと、日本のソフトウェア技術者が劣悪な環境を我慢(高収入を求めずにオーバーワークに耐えるということ)しているからまだ破綻していないのであって、システムソフトウェアの規模が増大(例えば実行コード行数ベースで30万行を超えるような規模)し、技術者がその過酷な労働に耐えきれなくなってきたときには、組込みソフトウェアの品質と開発効率が著しく低下し始めるはずだ。

もしも、ソフトウェアに関してどうにもならなくなってしまったら、組織はこの状況を打開するためにソフトウェア開発に対して何らかの投資をするしかない。今回は組織がソフトウェア開発(実際にはソフトウェア技術者教育)に投資できるかできないかの境界について考えてみたい。ソフトウェア開発に関して悪循環が始まっているかどうかの指標は、組織がアウトプットしているソフトウェアが結果的に利益を生んでいるかどうかで簡易的に判断できる。どのプロジェクトも利益を出せていないのなら、悪循環のフェーズに入っていると考えられる。利益が出ている商品、製品、プロジェクトと利益がでていない商品、製品、プロジェクトが混在している場合は必ずしも悪循環のフェーズに入っているとは言えない。

何はともあれ、ソフトウェアエンジニアという末端の立場から離れて、自分が経営者になったつもりでこの後の記事を読んでいただきたい。

なお、ソフトウェアは毎日のソフトウェアの活動で構築される。ツールにノウハウを隠蔽することはできるが、ツールを使いこなせるようにするにはトレーニングが必要になるから、結局はソフトウェアエンジニアに対する教育やマネージメント、インフラに対して投資をしなければ、ソフトウェアの品質や開発効率は上がらない。そう考えると、よっぽどの裏技を使わない限り、ソフトウェア開発に対して何らかの投資をしない組織のソフトウェア品質と開発効率は上がらない。

そして、プロジェクトマネージャーより上の立場の者は、まずは、ソフトウェアエンジニアに対する投資を組織からどうやって引き出すかについて考え、それが無理だと分かったとき、もしくは自分自身がエンジニアに投資を進言する立場にない場合は、組織を見限るか、それとも組織に留まって、どれくらい自己投資できるかどうかという方向に考えを切り替えるべきだと思う。

【組織がソフトウェアエンジニアに投資できるかどうかの境界】

1. 儲かっている会社は投資できる

当たり前だが、潤沢に利益を出している会社はソフトウェア技術者教育やツール、インフラ整備、プロセス構築、技術コンサルの導入などに投資できる。人を動かすだけで一見投資が必要ないように見える社内コンサルのような支援部隊を組織するような場合でも、人材を外から引き抜くのにお金がかかったり、現場から人材を外すことで工数の穴埋めをしなければいけなかったりするから投資は必要だ。

儲かっている会社はいろいろな手を打つ選択肢がある。ただ、気をつけなければいけないのは、ソフトウェアに関する投資ははっきりとした効果が見えにくいから、投資が役に立たなかったとしても口先だけで継続的に組織からお金を引き出そうとする人たちもいるということだ。

でも、儲かっている会社はある程度の無駄をしても原資があれば、何かしらの手を打ち続けることはできる。現在のように不況に陥ってしまうと、儲かっていた会社も利益が減ってしまい、ソフトウェア開発に対する投資を絞ってしまう傾向はあるだろう。

2. 儲かっていない組織でも技術者への評価に差を付けることで投資はできる。

利益がそれほどない組織でも、ソフトウェア開発に投資する意志とある程度の金(例えばソフトウェアエンジニア一人に対して年間最低10万円以上)を捻出できれば、新入社員や将来有望な技術者、今後、利益を生むアーキテクチャ(再利用資産を構築できるアーキテクチャ)を設計できるアーキテクトに対して集中的に投資するという方法はある。

アメリカではプログラム言語の書き方を知っている程度のスキルのエントリーレベルのソフトウェアエンジニアの年収は200万円以下だと聞いたことがある。そこから、スキルがアップするにつれて年収が上がっていく。日本も同じようにスキルがゼロに近い新入社員への報酬を減らしたら、優秀な技術者への投資分の数十万円/人くらいは出せるだろう。

しかし、このやり方は日本人にはなじまない。日本では長い間その組織、業務を経験させ、その時間の中で成長させるというところが多い。あえてこれを教育と呼ばないのは、組織的な戦略を持たずに現場に任せきりで、日々の業務をやらせているだけで技術を引き上げようという意志を持っているプロジェクトは多くないと感じているからだ。だから、組織が意識的に取り組む「投資」とOJTという名の実際には何もしていない状態は分けて考えている。

逆に、新入社員こそ組織として投資しやすい対象であるというのが日本の特徴だ。もっと、やってくれと言われることはあっても新入社員ばかり金をかけて不公平だという中堅、ベテランエンジニアはほとんどいない。

ソフトウェアエンジニアの中に年功序列ではなく、スキルの高さによって評価に差をつけて、実際にサラリーに差をつけて、そこから投資の費用を捻出するという方法は、よっぽど組織の上位層に強い意志と決断があって、目指すべきゴールがはっきりしていないとできるものではないと感じる。

なぜなら、日本人の「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」という性質は人と人に差を付けるというのをいやがるからだ。自分もあまり好きではない。テストの点数で評価している訳ではないから、何をもって投資対象として選択されたのかについて技術者の中に疑念が生じると「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」という性質を活かすことができない。

だから、技術者に格差を付けて集中的に投資する方法は日本の組織ではなじまない。

3. 自分で自分に投資する

組織がソフトウェアエンジニアに投資しない、選択的でも投資できないのなら、自分で自分に投資するしかない。お金をかけようとかけまいと冒頭のような状況でエンジニアに対して投資する気がないのなら悪循環からは決して抜けられない。(誰かがスキルアップするトレーニングを自分に提供してくれる筈だと考えるのは、そうならなかったときにスキルアップできないのは人のせいだと考え自己努力しなくなってしまうから危険だ)

自分自身の投資の仕方については次回の記事に回すとして、もしも、自己投資に成功してスキルアップした時に起きる問題について触れておこう。

何らかの投資の結果、自分のスキルが向上しソフトウェアの開発効率や品質をアップできるようになるとどうなるか。そもそも、組織が投資してくれないので自己投資しているのだから、スキルアップが成功したとしても、組織貢献を明確に示すことができないのなら、組織からの評価を期待することはできない。

自分のお金や時間でスキルアップして、組織貢献を実現できたのに評価されないかもしれないのだ。評価されないどころか、スキルアップして開発効率や品質向上を実現してできた余裕につけ込まれて他人の開発効率や品質の悪いソフトウェアを何とかする仕事を回されてしまう危険性さえある。

これはやりきれない。頑張ってスキルアップした技術者の努力が報われない社会、業界が発展する訳がない。

でも、現実はこんなもんだ。だから、頑張ってスキルアップできた技術者はその組織で報われないことが分かったとき、例えば組織を出てコンサルタントになり、1 の儲かって利益を出せている会社を助ける側に回ることになる。

そうなると、成長した技術者が去ってしまった組織が潤沢な利益を出せていなかった場合は、さらにソフトウェアの開発効率が悪くなり、品質も悪化し、残った技術者が残業することでしか対応できなくなる。

この論理だと、ソフトウェアエンジニアは自己投資でスキルアップしても報われないから、自己投資しないでじっとしていた方がいいのかということになってしまう。

そんな筈はないから、こう考えるしかないと思う。

組織がエンジニアに投資をしないのなら、エンジニアは自己投資してスキルを上げ、スキルアップしたことでソフトウェアの開発効率と品質を高め、顧客満足が高まったことに対して満足を感じるようにする。顧客満足を高めたことで自分のモチベーションを保ち、顧客満足を高めることに貢献したことを組織に示し評価を得、同じことを他の技術者もできるようにするには投資が必要であると説く。

4.  ソフトウェア開発やソフトウェアエンジニアに投資しないという選択

組織がソフトウェア開発に投資しない、技術者も自己投資しないとう選択肢はないのか。ないことはない。以下のようなケースが考えられる。

a) 投資せずに技術者に負担を強いる。
b) ソフトウェア部品を外から買い自組織では作らない。(サプライやにaを強いるか、逆にソフトウェア部品の価格をつり上げられるという問題あり)
c) 安い海外の労働力にシフトする。(「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」という特性は使えない)
d) ソフトウェアでは勝負せず、真似できないハードウェア技術で勝負する。

以上、組織もエンジニアに投資を行い、エンジニアも自分自身に投資をし、投資の結果、ソフトウェアの開発効率と品質が上がり、顧客満足が高まり、それが自己満足につながって、組織にもその成果を認めエンジニアを評価し、投資の効果を確認するのが一番いい。それができないのならソフトウェアエンジニアは幸せにはなれないように思う。

次回は、お金をできるだけ使わないでソフトウェア技術者に対する投資をする方法について書こうと思う。
 

2009-04-11

ルールに振り回される日本人


日本人が本質的な目的を忘れルールに振り回された典型的な例がニュースで流れた。

制服ワッペン2万枚作り直し、3400万どぶ…都下水道局

4月10日3時6分配信 読売新聞

東京都下水道局が昨年、制服に付ける都のシンボルマークを添えたワッペンを2万枚作製したところ、シンボルマーク使用に関する内規に反したとしてこれを使わず、新たに約3400万円をかけて、ワッペンを作り直していたことがわかった。

 デザインは組織名の下に5センチ余の波線を付けたシンプルなものだったが、この責任を問い、都は担当幹部2人を訓告処分にしていた。内規を杓子(しゃくし)定規に解釈した「お役所仕事」の典型とみられ、公費の支出の在り方に批判が集まりそうだ。

 都下水道局では、所属する計約3000人の職員用に、予備を含めて計約2万着の制服を作っているが、1978年から同じデザインだったため一新することにし、右胸に付けるワッペンも新たに作ることにした。

 ワッペン(縦2・5センチ、横8・5センチ)はシリコン製で、イチョウ形をした都シンボルマークの横に局名を記し、「水をきれいにするイメージを出したい」との願いを込め、その下に水色の波線(約5センチ)を添えることにした。職員が考案したものだった。

 ところが、約2万枚のワッペンが完成し、一部は制服への縫い付け作業が始まった昨年11月に開いた局内の会議で、ワッペンのデザインが、シンボルマークの取り扱いについて定めた都の内規「基本デザインマニュアル」に抵触する疑いが浮上。内規には、マークの位置や文字との比率などが細かく記載されており、誤った使用例として「他の要素を加えない」と規定。同局では今回、この規定を厳格に解釈したという。

 ただ、この規定は例外も認めているが、同局では、波線部分を取り除いて作り直すことを決定。制服を含めた費用は当初、約2億1300万円だったが、新しいワッペンの作製費と縫い替えの費用として、約3400万円を追加支出した。

 都は今年3月、最初のワッペンのデザインを決めた担当の部長と課長(いずれも当時)を訓告処分とした。今月から制服を一新したことは発表したが、ワッペン作り直しに関する一連の事実は公表していない。

 下水道局は「事前に規定を見ていれば防げたもので、担当者のミス。多額の費用負担を生じさせて申し訳ない。次のデザイン更新は何年先になるかわからず、それまで誤ったワッペンを続けることはできなかった」と説明している。

 下水道局を巡っては、JR王子駅(北区)のトイレの汚水が、約40年にわたって近くの川に流れ込んでいた問題で、2007年6月にこの事実を把握しながら、対策を取らずに放置していたことが判明している。

冒頭の図の上が東京都下水道局が当初、採用する予定だったワッペンのデザインだそうだ。波線が入っていることがルールに違反している=あってはならないという考えにとらわれてしまったわけだ。

この東京都下水道局幹部の判断について石原慎太郎知事は10日、定例記者会見で「本当にたまげた。骨身に染みて反省するよすがにさせる」と述べ、作り直しを決めた同局の幹部らを処分する方針を明らかにした。石原知事は、この問題を報じた読売新聞を掲げながら、作り直す前のデザインについて「東京の下水はきれいだなって感じがするし、いいじゃない」とし、「規格に合わないからと作り直して、バカじゃねえかほんとに」と怒りをあらわにしたそうだ。

このニュースを聞いてたしかに「バカじゃねえか」と感じたが、実はこのような「バカじゃねえか」という話しは身近でよく見かけると思った。

この話しには日本人特有の2つの問題があると思う。ひとつは「組織やプロジェクトを構成するメンバーが組織やプロジェクトの目指す目的について十分に意識していない」ことと、もう一つは「組織やプロジェクトを構成するメンバーがルール作りに参加しておらず、ルールを改善することができると考えていない」ということだ。

【組織やプロジェクトの目指す目的について十分に意識していない】

ようするに組織目標という遠くにあるゴールを見ずに、自分の直近にあるものしか見ないため近視眼的な思考となり結果的に、遠くにある組織目標に背反するような判断や行動を取ってしまうケースだ。

東京都下水道局のホームページを見ると経営計画2007というページに以下のような3つのスローガンが掲げてある。

○安全で快適な都市生活をめざして 
○お客さまサービスの向上・経営効率化の取組
○危機管理対応の強化・地球環境保全への貢献

職員が組織内で一つ一つの判断をする際に、この3つの目標を常に頭に入れておいて、これらの目標に向かった行動になっているかどうか考える癖をつけていると今回のような問題は起こらなかったと思う。

都の内規「基本デザインマニュアル」でマークの位置や文字との比率などが細かく決め、使用例として「他の要素を加えない」と規定したのは、シンボルマークの基準を定めることによって、一般市民がシンボルマークによって都の各部門とその責務を一目で判断でき、分かりにくかったり、勘違いすることを防ぐことが目的だったと推察される。

一方で東京都下水道局の文字の下に水色の波線(約5センチ)を添えることにしたのも「水をきれいにするイメージを出したい」との職員のアイディアであった。どちらも、東京都民へのサービス向上が目的だった。

それに比べて、約3400万円を追加支出してワッペンを作り直すという判断は、結果的にユーザーである都民の税金を無駄にすることになるから、組織目標であるサービス向上の目的にそぐわない。

こういう一見どっちを取るべきか判断が難しい事例は日々組織の中で発生している。本末転倒と思われる顧客の利益にならない小さな誤った判断、行動は組織の中で意外にも頻繁に発生している。「これはセクショナリズムだ」と思ったときは、組織目標に照らし合わせると顧客満足の向上を疎外するような判断や行動がなされていることが多い。

この違和感をすばやく察知できるようになると組織の中のどこを改善すると流れがよくなるのか、組織目標の達成率が高くなるのかが見えてくる。(組織目標というのは目標売り上げ達成というような低レベルの目標ではなく、顧客満足の向上や社会貢献といった本質的な目標のことなのでお間違えなく)

組織目標や組織のポリシーと自分の中にある価値観がオーバーラップしていて、組織の価値と個人の価値を一部でも共有できていれば、いつも正しい判断ができる確率が高くなる。ただし、組織の目的が金儲けで、個人の目的も金儲けというようなケースではいくら価値観が共有できていてもいい方向にはいかない。

上司から命令されたからとか、クライアントからの要求だからといった近い視点ではなく、その判断や行動はエンドユーザーの利益になるのかどうかという視点を常日頃持っていると、確実にプラスの実績が積み重なっていく。そうでないと、やったけど役に立たなかったとか無駄だったというマイナスの実績ができてしまう。ソフトウェアエンジニアとしての活躍できる時間は限られているため、日々の活動はプラスの実績につながるようにしていかないといけない。

【ルール作りに参加しておらず、ルールを改善することができると考えていない】

ルールは天から振ってくるものであり、絶対に守らなければいけないと信じ切っている人をよく見かける。外部のセミナーに行ってきてセミナーの講師から「これこれを守らないと大変なことになりますよ」と恐怖心を植え付けられてきた担当者は、ルールの本質を外れて枝葉末節にこだわり始める。組織内で改善活動を行っている者にとっては、この手の話しは自分達の活動に水を差されることがよくある。

セミナーの講師やツールベンダーの営業の一部の人は、自分達の売り上げを確保したいために、必要以上に法律や国際基準、業界ルールを強調して、それを守らないと大変ですよと吹聴する。それを真に受けた担当者が過剰反応すると開発の現場にそのしわ寄せがくる。

そもそもの法律や国際基準や業界ルールが作成された背景はすっとばされて、○○した方がよいという文言は、末端にいくにつれいつのまにか○○せねばならないという強制の言葉に置き換わってしまったりする。

法律だって時間がたてば、時代にそぐわなくなって修正しなければいけないときがくる。国際基準や業界ルール、組織ルール、プロジェクトルールだって同じだ。組織の目標を達成するためにルールは常に改善する必要がないかどうかを考えている必要がある。

日本人は自分達で自分達が守るべきルールを作るということがどうも苦手なようだ。自分にはルールを作る権利があるという意識も低いし、その権利を行使しなければ自分が損をするという意識も薄い。たぶんデモクラシーの教育や文化が弱いのだろう。(誰かが決めたルールに従うのが普通と考える日本人としての国民性もある)

そういう環境に慣れてしまうと「ルールは変えられるもの」という感覚がほとんどなくなり、まじめであればあるほどルールには絶対に従わなければいけないと思い込んでしまう人がたくさんでてくる。

実は自分はこの日本人の特性を理解した上で、その特性を利用している。組織内で支援活動をするときに相手のルールに対する考え方見定めてこちらの攻め方を変えているのだ。

例えば、「ルールは絶対」と考えている技術者に対しては、必要な活動の目的よりもルールの方に重きを置いて指導、支援し、やることが決まっている以上やらなければいけないよという持って行き方をする。そして、その活動がプロジェクトに浸透したところで、ルールの向こう側にある本質的な目的を伝えて、何をどう判断するのか、どういうときにルールを逸脱していいのかを説明する。

一方で「ルールなんかくそ食らえ」と考えるチームには、逆にルールの向こう側にある本質について説明し、その本質が目指している価値とチームの目指す価値は一致している筈であり、そのために必要な活動であると諭す。そしてその結果ルールに沿った取り組みとなると説明する。

どっちにしても、必要な活動をして、最終的な目標(顧客満足の向上や社会貢献)につながればいい、そう考えれば、最善の判断、最善の行動は何か自ずと見えてくるはずなのだ。
 

2009-03-25

侍ジャパンとサムライエンジニアを重ねてみる

WBC決勝でアジアの列強がレベルの高いいい試合をした。めずらしくスポーツ新聞を買って隅々読んでみたら、張本勲氏が次のようなことを書いていた。
 私にとって日本プロ野球は「育ての親」。逆に韓国プロ野球にとって私は「生みの親」になる。1982年、李容一初代事務総長、李虎憲同次長と3人で立ち上げた。当時の目標は、日本とアジアのチャンピオンを争えるレベルまで持っていくこと。そのために何十人もの選手やコーチを韓国に送り込んだ。その韓国が昨年の北京五輪金メダルに続いて大リーガーが参加するWBCで決勝に進出。ここまできただけで感慨無量、私としてはどちらが勝ってもよかった。
  :
 プロ野球75年の歴史を有する日本に対し、韓国は27年。野球部のある高校が4000以上ある日本に対し、約50しかない。そんな中でよくぞ・・・。「アッパレ!」である。
  :
 堅い守りを中心として、恵まれた体格とパワーだけに頼る野球を粉砕したアジアの野球。これを機に日本、韓国の野球がより発展することを願ってやまない。
この記事で感じたのは日本は4000もの高校の野球部が甲子園を目指して日々トレーニングを重ねていて、その下支えがあってWBC優勝という栄光を掴むことができたということだった。

野球選手は、なぜ厳しい練習を続けてそれほどまでにうまくなりたいのか、また、辛くてもがんばれるのか。一つは今回のWBCのようなスポーツの祭典で活躍する選手達を見て自分もいつかそうなりたいと思うからだろう。誰しもヒーローになってみんなから祝福をされたいと思う。

ただし、自分の欲望のためだけでなく、プロフェッショナルのアスリートとしては、自分のプレーを観客に見せ感動し満足してもらいその対価として年俸を受け取るという職業人としての側面も忘れてはいけない。

松坂はWBCの期間中もメジャーリーグのシーズンでも十分に力を発揮できるように自分のコンディションを気遣っていたという。松坂のコメント「代表でも(メジャーリーグの)チームでも両方で結果を残さなければプロではない」。レッドソックスのフランコナ監督は「通常の調整ではないし、急に球数を増やして98球を投げた。帰ってきたら彼にとってベストの(調整)方法を話し合う。」と不機嫌だったそうだ。どちらもプロのプレーヤーとして本業の顧客への満足度が下がらないように気を遣っている。

エンジニアはプロのアスリートのように表舞台に上がることは滅多にない。特に日本では組織を渡り歩くようなコンバートもほとんど発生しないため、技術者としての力を内外に示す機会がほとんどない。

WBCの戦いの中で岩隈は「松坂さんの登板間隔での準備の仕方、当日の試合前のブルペン、そしてマウンドへ・・・。その背中を見て勉強しました。」といい、ダルビッシュも藤川からクローザーとしての気持ちの持ち方や調整方法について教わったと語った。超一流のアスリートの話ではあるが、スポーツの世界ではここぞという場面で勝ったり負けたりしながら、いろいろなことを学び、自分を成長させる機会がある。

エンジニアにはなかなかそういう機会がない。エンジニアの能力を伸ばし、鍛えるためには、組織がチャレンジする機会、チャレンジしたことに対する評価を与える機会を用意する必要がある。アスリートもエンジニアも生身の人間だから、スキルを身につけるために練習する機会が必要という点は同じだ。もしも、組織がその必要性を認識することができないのなら、職場で上司や先輩がそういう場面を作るしかない。チャレンジした結果、評価がプラスであればなおよいが、マイナス面であってもエンジニアにとっては教訓になるから無駄ではない。

大事なのは遠くの目標を見据えて指導することだろう。スポーツ選手はうまくなるために必ずトレーニングをする。そうしないと生き残れないし、高いスキルを得ることができないからだ。ところがソフトウェアエンジニアはどうだろうか。知識労働者としてトレーニングを積んでいると答えられる者が周りに何人いるだろうか。

忙しいからトレーニング(勉強)する暇がないというのは簡単だ。仕事の中でもトレーニングはできる。ソフトウェア開発の方法論についてわかりやすく書いてある書籍を探し、通勤電車の中で読み、自分の仕事に試してみることはやろうと思えばできる。誰かから指示されていないからやらない、試してみていいといわれていないからやらないというのは自分の深層にプロのエンジニアとしての自覚が育っていないからだ。

WBCなどで世界中から優れた選手が集まって一緒にプレーすれば、自ずとプロ意識は高まる。勝負だからやらなければやられる。エンジニアの世界には勝負はないのか? そんなことはないだろう。日々ライバル会社と戦っているはずだし、自分との戦いに勝てば組織の中で発言力を高めることもできるし、高見を目指してコンバートも可能だ。出世することが戦いだとは思わないが、ライバル会社に勝る商品を開発してより顧客満足を得ることができれば、それはエンジニアにとっての勝利だと思う。

現在スポーツのトレーニングは根性だけではなく科学的な要素も取り入れられている。システマティックにやらなければ十分な効果がないし、実際にはよいトレーニングを受けるには費用もかかる。

ソフトウェアに関するトレーニングも同じで、根性だけではスキルは身につかない。費用を抑えたいのなら、よい書籍を複数購入して試してみることが効果的だが、トレーナーが横についてくれる訳ではないのでトレーニングを続けるためには精神力が必要になる。野球なら試合に勝ちたいとか、甲子園に出たいとか、WBCで活躍したいとかいった明確な目標を立てやすい。ソフトウェアエンジニアの場合は自分の中で気持ちがくじけてしまわないような目標を立てるのが難しい。

今仕事で困っていることを解決するためのトレーニングをしようというのは直接的でわかりやすいが、この考え方はあまりおすすめしない。身につけた方法論が目的になってしまう危険性があるからだ。目標を持つならWBCで優勝するみたいな大きな目標がいい。イチローのような尊敬できるプレーヤーに相当するエンジニアを超えるといった目標でもいいかもしれない。

ともあれ、ソフトウェアエンジニアもトレーニングをして自分を鍛えることを続けていかないと決して一流にはなれない。ソフトウェアの世界の変容のスピードは速いのでトレーニングを数年間休んでしまうとすぐにおいて行かれてしまう場合もある。(逆に普遍的なスキルを身につけると陳腐化しない)

WBCを見て思ったのは、みんなを満足させるプレーを見せる(=多くの人を満足させる商品を世に出す)ためには、日々のトレーニングといざ勝負しなければいけないとき※の精神力を磨き続けることが必要なんだということである。

※例えば、顧客満足に背反するような選択をプロジェクトや組織が取ろうとしたときに勇気を持って反対しなければいけないときなど。

P.S.

侍ジャパンを命名した原監督は新渡戸稲造の名著「武士道」を熟読したそうだ。「野球道は武士道に通じる」と語り、選手のあり方についても「誠実、素直、朗らか」をよしとした。エンジニアの方もサムライエンジニアを目指したいものだ。

2009-03-17

携帯電話価格の怪

訳あって携帯電話を新規で買うことになった。そのときの話である。最初にお断りしておくが、今回の携帯電話の購入に際して携帯電話のキャリアや販売店、携帯電話のメーカーに対して怒っているわけではない。個人的には不満はなかった。ただ、これって携帯電話の業界に取って本当にいいのだろうかと思っただけだ。

携帯電話に係る端末価格と通信料金の区分の明確化について(要請)

  携帯電話(PHS等を含む。)に係る現行の販売モデルにおいては、端末価格と通信料金が一体となっている事案が多数存在し、利用者から見て負担の透明性・公平性が十分確保されているとは言えない状況にある。
  総務省においては、本日、「モバイルビジネス活性化プラン」を策定・公表し、端末価格と通信料金が一体となっている現行の販売モデルについて、2008年度を目途に、端末価格と通信料金が利用者から見て明確に区分された新料金プラン(利用期間付契約を含む。)を部分導入すべく所要の見直しを図る等の方針を示したところである。
  ついては、貴社において、上記の趣旨を踏まえ、携帯電話に係る端末価格と通信料金の区分の明確化を図るべく積極的かつ速やかに所要の措置を講じるよう検討することを要請する。
要するに、携帯電話のキャリア各社に対して携帯電話の本当の価格を隠して、使用者の通信費に上乗せし、販売店に販売奨励金を支払うという構図はやめなさいと指導をしたのだ。(携帯ゼロ円のカラクリ)

三菱電機の携帯電話事業撤退で見えること』の記事に書いたように、このシステムのおかげで日本では機能満載の本当の価格を知ったら購入を躊躇するような高機能携帯電話をホイホイ買うような特殊な環境ができてしまった。日本の携帯市場はガラパゴスと呼ばれている。

グローバルな世界では、$100~$200 クラスのシンプルな携帯電話(例えばノキア製とか)が最もよく売れていると聞く。

総務省の勧告で携帯電話の本当の価格がユーザーの目に明らかになった・・・はずだった。その証拠に今回購入した携帯電話の価格は 42,960円と書かれていた。これが定価だ。

家電などの場合、この定価からいくら引いてくれるのかで、客と販売店は真剣勝負をする。ところが、携帯ショップではこの42,960円を割り引いてくれる気配がまったくない。どの店を見ても同じである。

しかし、24回の分割払いにすると月々の(実質)負担額は600円と書いてある。合計すると14,400円になる。だったら、なぜ、一括払いで 14,400円か、それよりも安い価格で売ってくれないのか? 一括払いより月賦払いの方が安い世界などあるのか?

このからくりは複数の店で何回か説明を聞いてやっと分かった。結論から言うと、次のようなことだ。
  • 一括払いで買う人は 42,960円(定価) を払う。
  • 分割払いする人も42,960円 の1/24(1,790円) を毎月払う。
  • 一括払いする人にも分割払いする人にも携帯キャリアが24ヶ月月額通話料を1,190円割り引いてくれる。(新規購入の場合)
  • 分割払いする人は、携帯の購入代金を月々1,790円払うが、月額通話料を1,190円割り引いてくれるので、相殺すると月々の負担は600円になる。
結論からいうと、この携帯電話は定価42,960円だが、実質的に 14,400円 で購入できる。携帯電話のキャリアは携帯電話の代金全額(42,960円)を購入者に成り代わって販売店に立て替え払いする。携帯電話メーカーは42,960円のうち卸価格分を受け取り、販売店はその差額を得る。そして、携帯電話の価格の月額分割支払金を24回払い金利なしで、キャリアがユーザーから徴収するが、月賦払いしている間キャリアやユーザーに対して通話量を割り引く。

かくして、目的の携帯電話が 実質 14,400円 で買えることが分かったものの、最初に 42,960円 を払うことに抵抗を感じた自分は、渋々、携帯電話キャリアの戦略に乗って 月々 600円 を24ヶ月払うことに同意した。

結果的にその携帯電話を 14,400円で買えたのは「安い」と思うので、その点は不満はない。しかし、以下の点で釈然としない。
  • 販売店同士の販売競争が起こらない仕組みのように見える。
  • キャリアが実質的に携帯電話の価格を大幅に値引いてくれているのは嬉しいが、それってユーザーがどこかでそのぶんを負担することになっていないか?
これって日本における携帯電話の異常な高付加価値・高機能マーケットをグローバルマーケットの需要と供給の関係に引き戻すブレーキになっていると思う。携帯電話の本体価格の負担は24ヶ月で終わるため、携帯電話の本体価格負担込みの不当に高い通話料をずっと払い続けることはなくなったが、日本人だけが身分不相応な高価な使わない機能満載の携帯電話を持ち続ける状況は解消できそうにない。

販売契約書をよくよく読むと、購入者は 42,960円 をこつこつと24回の月賦(毎月1,790円)で払うことになっている。しかし、その間、通信料をキャリアが1,190円割り引く。本体価格の負担金 1,790円と通話料の割引1,190円は互いに関連はないという論理だが、関係ないはずはないだろう。

実質的には月々 600円 の支払いとなり、携帯電話の価格は実質 14,400円であるが、あくまでも 携帯電話の価格は 42,960円だといいたいようなのである。

一言で言えば、これはまやかしだ。普通なら高くて買えないもの、普通なら「こんなに高いのなら買うのをやめよう」というものを安く見せかけている。

本当にこれでいいのだろうか。日本の携帯電話市場だけこんな異常な状態にしておいて、日本の携帯電話メーカーは世界で生き残れるのだろうか。世界で売れ筋の携帯電話にもっとも力を入れる携帯電話メーカーが日本で育たなくても本当にいいのだろうか。人ごとながら、心配になった次第だ。(でも、恩恵には預かったので大きな声で文句は言えない)
 

2009-02-23

人と人をつなぎまくると物事はスムーズに流れる

今日の話題は、『人と人をつなぎまくると物事はスムーズに流れる』というテーマで、「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」という特性を持った日本人が形だけ「創造性と個性にあふれた強い個人」のシステムを使おうとするとどうなるかという一例を紹介したい。

さて、今日「TBSラジオの久米宏 ラジオなんですけど」を聞いていたら、大分トリニータの社長 溝畑宏さんがゲストに来ていて、大分トリニータがナビスコカップで優勝を遂げ、地元に定着して地域振興に貢献するようになるまでの苦労と、サッカーチームをベースにして地域振興にかける溝畑さんの熱い想いを語っていた。

溝畑さんは、東京大学法学部卒、1985年自治省(現総務省)入省、1990年大分県に出向して、役人らしからぬ強い思いで大分をサッカーで盛り上げようと考える人だ。2006年に総務省を退職して、大分トリニータの社長として身を粉にしてチームと地域のために働いている。

お父様は溝畑茂 京都大学名誉教授、お母様は放送局のアナウンサーだったそうだ。父からは「厳しい道と楽な道があったら、厳しい道を選べ」と言われ、母からは「下を向かずに上を見て目立ちなさい」と言われて育った。

若干30代中盤の溝畑さんが大分で大分トリニータの設立等を進めているときに、県のお偉いさんたちに「溝畑さん、田舎では身の丈以上のことをしようと思ったらダメなんですよ」と言われカチンときて「あんた達の身の丈はこれくらい(20センチくらい)かも知れないが、自分の身の丈はこれくらい(2メートルくらい)なんだ。そんな考えだから、地方が活性化しないんだ。」と叫んだそうだ。

その後の溝畑さんの活躍を見れば分かるように、溝畑さんは「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」という特性を持った日本人の環境の中で、親から教えられた「創造性と個性にあふれた強い個人」のとしてのリーダーシップを発揮することで、閉塞した環境をブレークスルーしたと考えられる。

今、まさに不況のまっただ中でプロサッカーチームを運営するのは非常に苦しいらしい。しかし、溝畑さんは「逆境よ、ようこそ」という気持ちで、人の3倍働くことで乗り越えるつもりだと語っていた。これまでも7回ほど、もうダメだという逆境があったが、それを乗り越えることで成長してきたと言う。逆境がなければこれほど成長もしなかったと。

今回の話しは、溝畑さんの話に比べるととてもスケールの小さいちっぽけな話しだが、本質は近いところがあるように思う。組織内で問題解決のためのシステムがうまく機能せず、人と人をつなぎまくって問題を解決したという話しである。「創造性と個性にあふれた強い個人」の世界で構築されたシステムを「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」が導入しただけでは物事は流れていかないという例だ。

さて、例えば、ある組織で組織内のインフラをサポートするための部署を作ったとする。ITが発達した今日、対外的なITサポートも増加する一方、組織内のITサポートも個々の担当者レベルでは対応しきれなくなってきた。

そこで、ITサポート部隊は会社対会社で行われているようにサポート窓口(電子的な窓口)を作って、そこからいろいろなリクエストを受け付け対応するようにした。昔なら依頼書で動くところを、電子的な申し込みに対して、電子的に回答をするというシステムだ。やりとりの履歴がすべて残るので後々データを整理したりする際には便利である。

そこで、ITインフラを担当する部門に動いてもらわないと解決しない問題が発生した。いろいろな問題が絡み合っているのは分かっているが、残念ながら担当部門の中で誰が何の役割を担っているのか分からない。普段なら問題の解決についての情報を知っている人にあたりを付けて、そこにアクセスしながら情報を探り全体像を明らかにしていくのだが、今回に限って言えば誰にアクセスすればいいのか今ひとつ見えてこない。そこで、電子的なサポート窓口を使って調査依頼を出した。

後で分かったのだが、担当部門には複数のチーム(例えばAチーム、Bチーム、Cチーム)があり、今回の問題はBチームとCチームが動かないと解決できない問題だった。ところが問い合わせを受けたAチームは解決すべき問題の全容を理解していないため、BチームとCチームに相談することをせず、部門内でも電子システムをメッセンジャーとして使い、解決したい目的を理解せずに現象だけをBチームやCチーム別々に伝え、埒があかないという現象が発生した。

相手がブラックボックスの組織ならどうしようもないが、同一組織内の他部門ならもっとなんとか打つ手はあるはずだ。結局、いろいろなことを聞きまくることで、BチームとCチームが問題解決に関係していることがわかり、彼らに直面している障害を伝え協力してもらうことで問題は解決するめどが立った。

実は、この件は自分自身の直接的な業務の問題ではなかった。ある開発現場の効率を高めるために取り除く必要がある障害だった。当事者ができないことを解決する方法が分からなくてあきらめているのをみて、コーディネートしたのだ。「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」の技術者は自分達の不便は自分達が我慢することで何とかなると考える人たちが大勢いる。「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」のマイナス面だ。顧客満足向上という遠くの目標達成のために、取り除くべき障害があっても、そのままにして効率の悪い状態を放置してしまうのだ。こういう状況は放置しておくと巡り巡って技術者自身の残業の増加や顧客に対するコストアップなどの不利益となって降りかかってくる。結果的に不利益が生じることをはっきり認識している訳ではないので未必の故意(※)とは言えないかもしれないが、決してほめられたことではない。
※未必の故意 - 実害の発生を積極的に希望ないしは意図するものではないが、自分の行為により結果として実害が発生してもかまわないという行為者の心理状態。
このような各部門の各技術者が抱えているちょっとしたあきらめを見つけて、誰がどこまでを認識していて何を認識していないのか、誰と誰を結びつけると解決しそうかを調査して、関係者が断片的に持っている情報を総合的に分析して人と人をつないであげると物事がスムーズに流れ改善が進む。

誰と誰をつなぎ合わせると問題を解決できるのか分かってくると、逆にどうしてこんな簡単なことで多くのことが滞っているのか、改善の機会を止めてしまっているのかが見えてきて、そんなくだらないことで立ち止まっているのかとだんだんバカバカしくなってくる。

同じ部門内の中でちょっとだけ話しをすれば解決できる問題も、システムを通すとつなぎがうまくいかなくなることがある。これはシステムを都合良く利用しながら、システムを隠れ蓑にして問題解決の勇気や義務を放棄して「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」の特長を殺している人間がいるからなのだ。

システムが組織内でうまく機能しない場合は、うまく言っていない点を報告し是正を要求する。これを繰り返すことで、システムは生き続けることができる。改善のプロセスが重要視されているのはそのためだ。逆に言えば、改善のプロセスを回すことができない組織がシステムを導入するとシステムは必ず形骸化する。システムの裏で技術者は「あれは役に立たない」とささやきながら、自分達のやり方で物事を進めようとする。

「創造性と個性にあふれた強い個人」の世界では責務を果たしていない個人や部門があることが分かったら、状況を発見した個人や部門には是正を要求する義務がある。是正を要求しなければ改善は進まないというシステムなのだ。それを理解していない組織はシステムを形骸化させる。

何からしらの「システム」を導入して、なぜうまくいかないのだろうと悩んでいる方がいたら、「あいつらが自分達の責務を果たしていないから」と愚痴を言っているのではなく、是正を要求しないとシステムの本来の効果が活きてこないし、放っておくとシステムが腐ってくる。

システムを改善していくのもいいが、日本人の「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」という特長を活かすのなら、まずは人と人とをつなぐことで問題を解決することを推奨したい。単に人と人をつなぐだけでなく、AさんとBさんがいがみ合っている場合は双方に「あちらは、こちらがこんな事をしてくれるととても助かる、いつも感謝しているといっていましたよ」などと言うと流れがよくなることがある。「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」の世界では是正を要求するよりも、問題解決に必要な人と人をつなぐ方が改善が進むスピードが速いことが多い。

「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」の特性を活かして、物事を滞らせている原因を探偵になったつもりでヒアリングにより調査し、人と人とつなぎまくることで情報の流れをよくし問題を解決する。これがうまくいくと、うまく行かなかった原因がいかにバカバカしい小さなことであるかがわかり、「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」の世界で必要なリーダーシップとは何かが見えてくる。コーチングとかティーチングといったテクニックではなく、当事者達とコーディネータとなる自分という関係性の中で、どの情報を誰にどうやって伝えれば問題解決するのか、ケースバイケースで最善策を考える。

「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」の世界の中で人と人とつなぎまくることで、問題が解決されると、つなぎまくって問題を解決した人はそれまで困っていた人たちに感謝される筈だ。セクショナリズムが蔓延し、たこつぼ状態になっている組織では、コーディネータの役割を担おうと立ち上がった者が「これは自分の仕事ではない」とか「自分が動くとバカを見る」と思ってしまうと組織の硬直化はますます進んでしまう。

そうなると、コーディネータのエネルギー源は、困っている人の問題が解決したときの当事者からの感謝の言葉や、顧客満足を高めることができたときの満足感でしかないのだ。コーディネイトすることで問題解決を請け負っている人はコーディネイト成功の感謝の気持ちを対価に置き換えることができるが、組織内の場合はお金は動かないから感謝の気持ちを糧にするしかない。

「人と人をつなぎまくると物事はスムーズに流れる」、これは「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」の世界だからこそ有効なアプローチだと感じる。逆に「人と人をつなぎまくると物事はスムーズに流れる」が通りにくい組織は黄色信号が点っていると考えた方がいいだろう。日本では人と人をつなぐ心やその役目を担う人がいないとせっかく導入したシステムもいずれは死んでしまう。死んでしまったシステムの利用者達にヒアリングして調査すればセクショナリズムやたこつぼ化が組織に蔓延しているのがわかるはずだ。

PS.
「創造性と個性にあふれた強い個人」と「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」の元ネタを知りたい方はこちらの記事をお読みください。
 

2009-02-14

「すばらしい仕事ですね」と言われるようになりたい

BS12チャンネル TwellV の『グローバル・ビジョン』の番組で vol.15  「世界の働く女性」 “Working Woman” と vol.17  「世界のターミナル」 “Terminal” という番組をみてそう思った。

この番組は、無料インターネット動画放送  GyaO でトレンド→カルチャー→TwellV見逃し視聴サービス と辿っていくと見られる。

「グローバル・ビジョン」はを人々の暮らしと密接に関わるテーマを毎回ひとつずつ取り上げ、このテーマに沿って複数の国や地域に住む人々の生活の流れを追いかけるドキュメンタリーで、それぞれの文化や考え方、環境の違いなどを、同時進行で比較していく番組だ。

今回見た番組はラオス、フィンランド、韓国の3人の女性と、ラオス、チェコ、韓国のターミナルで働く人たちの一日を追ったドキュメンタリーだ。

vol.15  「世界の働く女性」 “Working Woman”で印象深かったのはラオスのナッタナーさん27歳だ。彼女は16歳のとき両親を交通事故で亡くし、お母さんが開いた文房具店を経営しながら、会社員としても仕事をしている。文房具店も小さいながら品揃えも多く従業員も2人いる。営業時間は朝7時から夜9時まで、周りのどの店よりも長い。また、ナッタナーはラオスで一つしかないフォードの自動車販売会社に勤めており、出勤前に文房具店の従業員にいくつかの指示を出し出かけていく。

自動車販売会社は休日は休むが、文房具店を閉めるのは正月の2日間だけ。「休みたくないか」というインタビュアーの質問に「休みたいけれど、一度休んでしまうと余計に疲れてしまうので働いている方が幸せです」と答える。

フォードの営業所ではセールスアシスタントとして営業管理や見積もりの作成などの仕事を行っている。営業員の急な見積もり作成依頼にもてきぱきと対応しており、みんなから頼りにされているようだった。アメリカの大学で経営管理を学んでおり、英語も堪能で、営業所の所長らしきアメリカ人と英語で会話をしていた。

ナッタナーは大学生の23歳の弟がいて、弟は大学でITビジネスを学んでいる。夕食も自分で作り、弟と家族団らんの食事を共にする。ナッタナーが母が開いた文房具店を守ることは、家族を守ることに等しい。彼女は、

「16歳で両親を失ったとき、私は強くならなければならないと思いました。」
「私が強くなって自分自身や家族を守り、人生と闘っていかなければと思ったのです。」
「実際、両親に代わって生活を支える必要がありましたから、そういう強さは身についたと思います。」

と笑顔で語った。「今、自分に足らない物は何か?」と聞かれ、「家族と一緒に過ごす時間が足りない」とも言っていた。ナッタナーはまだ若干27歳で若いけれども、家族を守るという意志の強さがあり、仕事をしている姿が輝いて見える。

フィンランドのマリカ 27歳は、地方の新聞社に2年半働いていて今は若きチーフ編集者となっている。結婚が間近に迫っており妊娠中で、子供ができたら5年間は子育てに専念してから仕事に復帰したいと語っていた。経営学の資格を取る勉強をしており、将来新しい仕事に役立つはずだと言っていた。

韓国のキム・ダウン 28歳は、フリーになって2年目のカメラマン。アシスタントやスタイリストやヘアメイクなどを使わずに一人ですべてをこなし、小さい仕事を多くこなす忙しい毎日を過ごしていた。写真の専門学校を卒業後、スタジオに勤務し独立した。ダウンは自分が女性であることを活かし、現場の雰囲気を柔らかくして、モデルの女性の良さを引き出すまで時間をかけて話し合いながら写真を撮る。仕事が忙しくても、友達を自宅に招いてパーティをするなど遊びにも一生懸命だ。ダウンは、世界に出て韓国の名前を轟かせたいという夢がある。

vol.17  「世界のターミナル」 “Terminal” で印象的だったのは韓国の一日30万人の客が利用するソウルの巨大高速バスターミナルで警備員をするチョン・ウジクだった。気のいいおにいちゃんで気さくに行き先が分からない乗客に声を掛けて道案内もする。ウジクは切符売り場で働いていた奥さんと出会い結婚した。奥さんは病気のために二ヶ月前に退職し、今は療養中だという。「将来の夢は?」と聞かれ、かなり長い時間考えて、「妻が病気だから、早く良くなって欲しい」「病気が治った頃、ここから出る韓国を一周するバスに乗って、そのころは子供もいるだろうから家族で旅行したい。」と語った。

この2つのドキュメンタリーを見て、ふと仕事を一日密着取材させて欲しいと言われて、客観的に自分の仕事を見られたとき、その仕事、その生き方、夢が視聴者に「いい」と思われるようになりたいと感じた。

彼らの行動が魅力的で生き生きと感じるのは、もちろん金銭的に裕福だからではない。逆に彼らは裕福ではないからこそ、家族や自分自身の夢という根源的な目標に集中できるのではないだろうか。

人間は弱いから、一瞬、一時の心地よさに溺れてしまうことがある。このブログで、さまざまな場面で価値を比較するために人類共通の評価指標であるお金を使うべきだと書いた。(『ソフトウェア資産の価値を可視化すべし』)しかし、ここで言っているのは、価値あるものの評価指標としてお金を使った方がいいと言ったのであって、お金に価値を求めろとは決して言っていないし、思ってもいない。

お金をたくさん稼ぐことに価値観を見てしまうと、人間は金がもたらすひとときの心地よさに溺れてしまう。そんな人の一日はドキュメンタリーにしてもきっと視聴者に感銘を与えることはできないだろう。

そこで、根源的な目標をどうやったら見据えることができるだろうかと考えてみた。

【仕事や人生の根源的な目標を探る方法】
  • 世界の中の自分という存在を考えたとき、自分は世の中に何を貢献しているのだろうかと考える。
  • 自分は家族に何を貢献しているだろうかと考える。
  • 直近ではない10年後、20年後の夢やあるべき姿、追いつきたい人について考える。
  • これまでやってきた自分の仕事を振り返り、「いい仕事をしたね」と言われる成果となっているかを考える。
これらを考えて何か目標となるものが見つかったら、一瞬、一時の心地よさに溺れてしまわないことに気をつけて目標に邁進すればいい。ラオスのナッタナーや、韓国のチョン・ウジクはそのような目標を持っていると思うし、一瞬、一時の心地よさに溺れる誘惑に触れる暇もないように見えるし、誘惑に負けない強い意志も持っているように思う。

日本のソフトウェアエンジニアは2つの面で彼らよりも不利だと感じる。ひとつは、一瞬、一時の心地よさを誘う誘惑が周りに溢れている点と、もう一つは、目標を見据えて誘惑に負けない、困難にくじけない強い意志を鍛える機会が少ないという点だ。

誘惑が溢れたのは、TVの影響やインターネットによる情報の氾濫と、日本という国が全体として裕福になったおかげだ。目標を見据えて誘惑に負けない、困難にくじけない強い意志を鍛える機会が少なくなったのは、生活が便利になることで小さな困難がどんどん排除されてしまったからではないだろうか。

ただ、ピーター・F・ドラッカーが20世紀になって労働人口のほとんどが肉体労働者ではなく知識労働者になっていると言っているように(『プロフェッショナルの条件』参照)、肉体的な苦労、肉体的な困難の克服は多くの労働者にとって鍛錬ではなくなってしまった。

知識労働者が最も長い時間過ごす知識労働において鍛錬とは、精神的な誘惑に負けないこと、精神的な困難を克服することになっている。特に、ソフトウェアエンジニアの仕事は知識労働そのものだから、ソフトウェアエンジニアにとっては、精神的な鍛錬をしないと、目標を見据える強い意志が育たないということになる。

精神的な鍛錬というのは難しいと思うかもしれないがやり方はある。ラオスのナッタナーは「16歳で両親を失ったとき、私は強くならなければならないと思い、私が強くなって自分自身や家族を守り、人生と闘っていかなければと思った。」と言い、母が残した店を守る決心をした。ナッタナーの気持ちに近づくためには、ソフトウェアエンジニアは自分が個人商店だと思えばいい。組織の中にいても、自分は個人経営の店主と考える。自分に依頼された仕事は、個人商店に発注された仕事だ。その仕事に満足してもらうことができれば、仕事に対する対価を得ることができる。高い満足を獲得するためには自分自身のスキルは日々高めておかなければならない。自分の頭の中に商売道具があるからだ。

個人商店なら辛いことがあっても、耐えるのは自分の夢を達成するため、家族を守るためだと考えることができる。ただ、本当の個人商店と違うのは、仕事の依頼者は商品のエンドユーザーではないことが多い点だろう。仕事の依頼者=クライアントの要求が、自分が作っている商品のエンドユーザーの要求に反していることもあるかもしれない。組織が大きくなればなるほど、エンドユーザーと自分との間に中間層が入るので、伝言ゲームが起こり、結果的に偽装事件のようなことが起こることもある。

エンドユーザーの求めていることと組織目標が一致し、そこにぶれのない組織にいるエンジニアは幸せだ。

しかし、どんなエンジニアもそんな境遇にあるとは限らない。コンプライアンス違反とは言わないまでも顧客満足とは正反対のことを要求する上司もいるかもしれない。でも、そういうときにこそ、知識労働者はそれまで鍛錬してきた意志の力を使えばいいのだ。自分の根源的な目標と組織の要求に食い違いが感じられたら迷うことはない。ただし、家族を守ることと自分の夢や目標の達成が微妙に背反すると思ったら、その2つのトレードオフバランスはよく考えないといけないだろう。

ところで、世界の中の自分はどれくらいの力を発揮できるのか考えてみたり、試してみたりすることはそう難しくない世の中になった。インターネットはさまざまな誘惑の情報を溢れさせたが、ちっぽけな個人が世界に情報を発信するための環境も提供してくれた。組織の中にいても、精神的な個人商店を作ることは表現の自由が保障されている国ならすぐできる。

「あなたの仕事はすばらしい仕事ですね」と言われるようになりたい。そう思ってもらえるということは、何かしらの貢献を与えることができている、何かしらの価値を作り上げている、感動を与えることができていることだと思う。

そんなエンジニアに自分はなりたい。そうなっているかどうかは、これからもずっと自問自答し続けるしかない。
 

2008-12-07

進学塾のソリューションを考える

みなさんは、日本の小学生向けの進学塾のアプローチの仕方をご存じだろうか。簡単に言えば、小学5年生のうちに6年生のカリキュラムをすべて履修してしまい、6年生になったら志望校に合わせた受験対策のための勉強をするという方法だ。

それは小学生本人にとってはとても過酷な勉強方法であるが、やりきることができれば効果は絶大だ。なにしろ一年分も前倒ししてカリキュラムをこなし、一年間も受験の対策をするのだから、そんな勉強の仕方をしていない子供はなかなか立ちゆかない。

自分がこの状況に問題点を感じるのは、偏差値の高い学校に入学することをゴールにしていることもさることながら、目的を達成するためのソリューションを考えているのは進学塾サイドであり、生徒や親は提供されたソリューションに乗っかっているだけだという点だ。

問題を解決するための方法を自分で考えてないということ=問題解決力が低いということにならないだろうか。あらかじめ答えの決まっているテストに回答して得点を競うというということは、知識と回答のパターンの記憶の勝負とも言える。

東大合格生のノートはかならず美しい』という本が売れているが、この本で紹介されているノートの書き方をまねしてしまったのではたぶんダメなんじゃないかと思う。ノートの書き方のくふうを考える→やってみる→調子を見る→改善してみる、といったP(Plan)→D(Do)→C(Check)→A(Action)を回して確立した結果がこの本で紹介されてる美しいノートなのではないだろうか。

だから、すでに確立されてしまっているソリューションをまねしただけでは効果は半分ぐらいしかないのではないかと思う。技は自分で苦労して編み出したときに最大の効力を発揮する。プロフェッショナルが考えたソリューションをただ単にまねするのではなく、少なくとも自分向けにテーラリングするくらいのくふうがないと力がつかない。

『問題解決能力』はこのブログサイトにたどり着くキーワードの常に上位にランクされている。過去に書いた『問題解決能力(Problem Solving Skill):自ら考え行動する力』の記事の影響だと思う。この記事にも書いたけれど、問題が何かを見据えて、その問題を解決する能力が高いと、その問題を解決するための知識やスキルは何かが分かる。要するに誰かから指示されなくても、自分で問題を解決し、問題解決のために必要な知識、スキルを身につけることができる。問題解決に必要のない知識、スキルを身につけなくてもいいから効率がいい。

問題解決能力が高いということは、自立した万能選手であることと同等だと思う。後は、その万能選手に燃料を与えてあげるだけだ。その燃料となるのがエンジニアに対するモチベーションであり、モチベーションは顧客満足と考えると組織の価値ともオーバーラップするからよいよとこのブログで言い続けている。

進学塾は自分たちのビジネスのために最大の努力をしており、そのソリューションは確かにすごいと感じる。ただ、問題はそのソリューションを使った教育は答えのない問題を解決する能力を高める訓練にはなっていないという点だ。

この問題を解決するにはどうすればいいのか。それには教育に対する顧客と顧客満足は何なのかを考える必要がある。教育サービスの顧客が子供の親であり、親が有名な学校に子供を入れることが顧客満足なら進学塾のアプローチは間違っていない。

教育の目的を、子供が成長したときに自立して生きていくことと考えるのなら、教育サービスが「子供が成長したときに自立して生きていくこと」につながっていかどうかを常に確認しておく必要があると思う。
 

2008-10-13

アメリカンなショッピングセンターCOSTCO

半年くらい前だろうか。車で30分くらいのところにCOSTCOという名のショッピングセンターができた。COSTCOのことは、数年間アメリカに住んでいた人にその噂は聞いていた。

COSTCOの特長は次のようなものだ。
  1. 会員制で顔写真入りの会員カードがないと入れない
  2. 会員になるには4000円払う。
  3. 買い物でカードを使う場合は特定のカード(基本はAmex)が必要
  4. 商品は使ってしまった状態でも返品可能。
  5. COSTCOに満足できなかった会員は会費を返してもらえる。
  6. いろいろな商品の割引クーポン券がもらえる
  7. 売っているものが安い(大量仕入れのため)
  8. 業務用と思われるような大容量の商品が多い。(例えば洗剤など)
ショッピングカートも巨大(最近は日本のホームセンターのカートも大きくなったが、それよりもさらにでかい)で、巨大な倉庫の棚に商品が山積みになっているというかんじ。

すべてがビッグな感じでアメリカンな感じがプンプン臭っている。一番日本と違うなあと思ったのは、ファストフードのコーナーだ。例えば、ホットドッグを頼むと大きな空の紙コップに紙に巻かれたホットドッグが渡される。

ホットドッグが包まれた紙を開けると細長いパンの間にソーセージだけが挟まっている。ホットドッグを買った客はこれを持ってトッピングのコーナーにいく。そこで、刻みピックルスとケチャップとマスタードを好きなだけかける。飲みのもは好きなドリンクが飲み放題だ。

雰囲気はまさにアメリカなので、その雰囲気を楽しみたい人には楽しいひとときになるだろう。

アメリカで暮らしていた人に聞くと、アメリカではこのCOSTCOの手厚い保証のしくみを悪用して、使用してしまった水着をいろいと文句を付けて返品してしまうような人もいるそうだ。年会費4000円の中には、このような返品補償費も含まれているということだろう。

ちなみに、自分がCOSTCOで買ったのは、ホットドッグだけで商品はひとつも買っていない。理由は売っているものの量が多い、大きいので多くの場合買いだめするような感じになるのだが、比較的安い小売りスーパーが家の近くにあるので、買いだめするよりも、少しずつ買う方がライフスタイルに合っているからだ。

例えば、COSTCOに売っている冷凍ピザは何しろ巨大だ。近所の人たちを呼んでパーティでも開くときにはぴったりだが、家族だけで一回だけ食べたいときには多すぎる。

COSTCOを見てふと思ったのは、アメリカのライフスタイルと日本のライフスタイルはやっぱり違うのだなあということだ。COSTCOのようなアメリカのスタイルをそのまま持ってきて日本のスタイルに合わせないという方法は確かに日本の市場へのインパクトが強く話題を呼ぶし、昔アメリカに住んでいたような人には郷愁を呼び、他にはないということからファンもできると思う。

でも、やっぱりその地で多くのユーザーに受け入れられるためには、その土地のマーケットニーズを取り入れる必要があるのではないかと思う。COSTCOが高付加価値の商品を専門に扱っているのならいいが、基本的には安売りで勝負しようとしているので、それなら安い商品を(大量に)買いたい日本の消費者のニーズに合わせる必要があるのだと思う。

ということで、4000円出して作った会員カードを返却しようかどうか今考えている。
 

2008-07-26

なぜ、この仕事を続けている? の投票結果

1. 好きで選んだ仕事だから 10 45%
2. この道で一流になりたいから 6 27%
3. お客さんに喜んでもらえるとうれしいから 5 22%
4. 生計を立てるため 4 18%
5. いまさら変えるのは面倒 3 13%
6. サラリーがそこそこいいから 3 13%
7. キャリアアップしたいから 3 13%
8. なんとなく 2 9%
9. この会社(組織)が好きだから 1 4%



投票総数 22名(複数回答可)


ちなみに、1と2と3と7と9はポジティブな回答、5と6と8はどちらかと言えばネガティブな回答となる。ポジティブな回答が上位にいったので、まずは安心。

なお、「好きで選んだ仕事だから」は組込みの場合、どちらかと言えば業務ドメイン(例えば車なら車関係、カメラ好きならカメラ関係)やものづくりに関係している組込み業界に愛着があるという人が多いのではないだろうか。

「この道で一流になりたいから」は業務ドメインだけではなく、ソフトウェアエンジニアとして一流になりたいという意味も含まれる。「キャリアアップしたいから」はスキル向上、出世に対する意欲を示している。

「お客さんに喜んでもらえるとうれしいから」は顧客満足が仕事へのモチベーションにつながっているので、多少辛いことがあっても前向きに仕事に取り組んでいける可能性が高い。

一方で、「生計を立てるため 」「いまさら変えるのは面倒」「なんとなく」はやや投げやりであり、一時的な感情であればいいが、長期的にそのような感覚を持ち続けているであれば、「好きで選んだ仕事だから」「この道で一流になりたいから」「お客さんに喜んでもらえるとうれしいから」といったポジティブな気持ちになるには何がどう変わればいいのかを考えることが必要だと思う。

長い人生の中で仕事を続けていくのだから「好きで選んだ仕事だから」「この道で一流になりたいから」「お客さんに喜んでもらえるとうれしいから」と思えるようになりたいものだ。
 

2008-06-08

カイゼンの範囲

日経ものづくりのセミナーで『トヨタ流モノづくりの人づくりの心 伝承塾~中堅社員コース~』というのが載っていた。(申込み受付は終了したとのこと)

講師はトヨタ自動車TQM推進部課長の方で、社員のやる気向上を基本に人財育成、国内企業の繁栄の為の社会貢献活動を行い「トヨタ流:モノづくりと,人づくり 心の伝承塾」を設立し,社内外を問わず精力的に講演活動を実施しているのだそうだ。

トヨタが惜しげもなく自組織での事例を外部に紹介するのは、このようなセミナーを通じてまったく違う業種、業務の人たちが行っている活動からトヨタ自体が得るものも大きいかららしい。

この話はソフトウェアエンジニアが組織の外で直接的な企業活動とは別にコミュニティ活動やIPA SEC(ソフトウェアエンジニアリングセンター)の活動などをすることにも通じる。

組織の外に出て、自分たちとは違う環境の人たちの活動や考え方、成功体験、失敗体験を聞くのは技術者個人の刺激にもなるし、いずれは自組織の改善にも役立つと思う。

でも、組織への貢献の度合いを数字で表すのは難しいので、組織の外で何らかの知見を得たことがない上司しかいないと、部下がそのようなコミュニティ活動したいといっても許可してもらえない場合がある。

組織の外には役に立つ情報があふれている(役に立たない情報もあふれているが・・・)のに、それらを利用せずに自分たちだけで解決方法を見つけようとするのはとてももったいない、非効率的だと思う。

さて、トヨタのセミナーの話に戻ろう。以下、セミナーの目次の一部だ

トヨタ流モノづくりの人づくりの心 伝承塾~中堅社員コース~ 目次より引用】

2.【「お客様第一」の本質とは何か,その大切な心について】
【A】企業や社員が戦う相手は何か?
【B】お客様の心に感動につながる仕事をしてこそ,成果が認められる
【C】商品の品質不良と,そのトラブル対応の重要性について

<トヨタの事例紹介>
(1)「1本の電話応対で3億円の仕事を失った話」
(2)「嫌われ,つまはじきにされた一人の社員が会社をナンバー1にさせた」
<一般事例紹介>
(1)「デパートに夢を買いに来たお客様への心ない店員の対応」
(2)「風呂場の掃除作業員が,日本一のゴルフ場にさせた話」
(3)「お客様の心に感動と言う商品を提供した店員の話」
(4)「レストランの店員のルールを破ったまごころの対応」


5.【仕事の業績を上げる職場改善の基本】
【A】問題解決に重要な「現地現物」の行動
【B】改善の基本は徹底した「なぜなぜ」の追求
【C】現場改善のネタを見つける方法
【D】職場にある7つのムダ
【E】「4S」の心と必要性について
【F】生産品質の管理と改善について
【G】新技術創造の環境づくりと発想のコツ
【引用終わり】

セミナーの目次を見ただけでも、ためになりそうな話が満載のようだ。でも、残念ながらこのセミナーに参加する予定はない。

さて、今回の記事で言いたいことは改善の範囲のことだ。あまり深い掘り下げはない。

何が言いたいかというと、改善を実施し顧客満足を高めることを考えるときは、メーカーだけでなくサプライヤーも含めて考えて欲しいということだ。

自分は現在メーカーに所属しているが、ソフトウェアを発注している会社を「外注」とは言わず「協力会社」と言うようにしている。「外注」ということばには何か見下したような響きを感じるからだ。

自分は協力会社のソフトウェア技術者の中に非常に優秀な人が何人もいるのを知っているし、彼らと仕事をすることでこれまで何回も助けられたし、何年も一緒に仕事をしていると仲間意識も強くなった。

サプライヤーはその名の通り供給者という意味で、ソフトウェアを請負契約で発注して、ソフトウェア(部品)の供給を受けるのでサプライヤーと呼ぶ。

大きな組織になると、メーカーは納期短縮のツケを結果的にサプライヤーに押しつけることになることがあると思う。発注者と受注者の関係があるためどうしても受注者の方が立場が弱くなる。

しかし、メーカーはサプライヤーの協力なしに顧客満足の向上を達成することはできない。メーカーのエンジニアだけが顧客満足の達成を実感し、サプライヤーは黙々と仕事してその対価としてサラリーをもらうという構図は何とかなくせないのだろうか。

そしないと、このブログで再三主張しているように、組込みソフトエンジニアのモチベーションの源泉を、実際に組込み機器を使ってくれる顧客の満足に重ねることができるのはメーカーの技術者だけで、サプライヤーの技術者には関係のないことになってしまう。

現場で製品作りをしてきた者にとって、メーカーの技術者とサプライヤーの技術者にそれほど大きな違いはないとずっと感じていた。むしろサプライヤーの技術者にも、その製品がどのようにユーザーに使われるのかをよく知ってもらった方が、よりよい製品、顧客満足の高いソフトウェアを作り上げることができると思っている。

だから、自動車でも携帯電話でもなんでもいいが、メーカーはサプライヤーのエンジニアを仲間であるという意識を持って、ソフトウェア開発に関するカイゼンの範囲に含めて考えるべきだと、『トヨタ流モノづくりの人づくりの心 伝承塾~中堅社員コース~』の内容を見たときにふと思った次第である。
 

2008-06-01

組込みソフトウェア開発における安全文化

5月27日のIPAX2008で「組込みソフトウェア開発における安全文化」というテーマのパネルディスカッションを聞いてきた。

パネルディスカッション
「組込みソフトウェア開発における安全文化」
コーディネータ:
  浅見 直樹 (日経BP社 執行役員 日経エレクトロニクス発行人)
パネリスト:
  永島 晃 (横河電機 エグゼクティブ フェロー)
  上田 政博 (アイシン・コムクルーズ 代表取締役社長)
  吉岡 律夫 (日本システム安全研究所 所長)
  山本 修一郎 (NTTデータ 技術開発本部 システム科学研究所 フェロー)

このパネルディスカッションで使われた資料は公開されていないので断片的ではあるが書き取ったメモをたよりにパネルディスカッションででてきたいくつかのキーワードを紹介したいと思う。

【安全を実現するには3Eが必要】

3Eとは、次の3つ。
  1. Experience(経験)
  2. Education(教育)
  3. Enthusiasm(熱中、熱意、情熱、こだわり)
経験と教育は当然だが、安全の実現に Enthusiasm(直訳だと熱中、熱意、情熱だが、ここではこだわりという意味だろうとのこと)が必要だというのは「確かにその通りだ」と思った。

経験や教育を受けてもなんだかんだいって、面倒くさいとか、期限・納期の圧力などでくじけそうになったときに最後の支えとなるのが「安全へのこだわり」だ。

【発注者、開発者、運用者、利用者間の価値観の違いが不具合や欠陥を生む】

完璧な仕様を作成すれば価値観の違いなど関係ない、不具合や欠陥を限りなくゼロにすることができるという考え方が形式手法なんではないかと思うが、実際にはそうは簡単にはいかない。

今、SESSAMEで初級ソフトウェア技術者に同じ仕様でC言語の関数を作らせるといかにバラバラで危なっかしいプログラムができるのかを実験する教育コンテンツを作っている。実際、やってみると同じ仕様なのにプログラムの中身は千差万別、用意したテストケースはちゃんと通るが、変数を初期化していないとか、関数の出口が一つでないといった、設計の規範が浸透していない実例がごろごろ出てくる。

要するに仕様を完全にすることは難しいし、完全だと思っても、発注者、開発者、運用者、利用者の間で伝言ゲームをしていると勘違いや思いこみが発生する。それらの勘違いや思いこみを大きな不具合、欠陥に発展させないためには、あらかじめ関係者全体で価値観を一致させる必要があるのだ。

また、発注者、開発者、運用者、利用者はそれぞれの領域に責任と権限で線を引くのではなく、責任をオーバーラップさせてオーバーラップした部分をマネージメントすることが大事だという話もあった。

【技術者は嘘を言わない、問題点を隠さない、予見できる問題点を無視しない】

安全文化を考えるときにこの3点は絶対に忘れてはいけない。3EのEnthusiasm(こだわり)にも通じるが、納期のプレッシャーに負けて、嘘を言ったり、問題点を隠したり、予見出来る問題を「見なかったことにする」ようなことがあってはいけない。(『組込みソフト開発悪循環の構図』も参照されたし)

これらが蔓延してきた組織は安全文化の確立に逆行しているので特に注意が必要だ。

【ソフト技術者は方法論に興味があり、市場や商品には興味がない】

ソフト技術者はソフトウェア開発の方法論には興味があり、次の開発では前回よりもよりよい方法をトライしようと考えるが、商品がどのように使われるのか、どのような機能や性能が市場から求められているのかには興味がないという話だ。

組込みソフトの世界ではたぶんその傾向は少ないと思うが、価値観の共有にも通じるので安全文化の確立のためには市場や商品にも興味を持ってもらわないと困る。

【組込み製品に求められる品質の多様化と安全確保は背反することがあるか?】

これはパネルディスカッションの最後の方でコーディネータの浅見さんがパネリストに質問していたことだ。各人の解答は忘れてしまったが自分ならこう答える。

組込み製品に求められる機能や性能はインテリジェンスが増してきており、単機能では実現するこが難しくなっている。しかし、安全の確保は潜在的な価値を高める重要な要素であり、難しくても商品価値を高めるために必要だ。ユーザーは潜在的価値の低い商品にはその価値に見合った対価は払わない。品質の定義が顧客満足を満たすことであるならば、潜在的な価値を高めること、すなわち安全確保は品質の向上の一部であるから背反しない。

実際、車を買うときにエンジン性能やインテリア、エクステリアをまっさきに考えるけれども、サイドエアバッグ付きかどうか、ABSはついているかなどの安全機能を付けるかつけないかは単なる付け足しの悩みではなく真剣な選択だ。

パネルディスカッションのメモを見直してみると、総じて、やっぱり組込みソフトで安全を確保するには、その商品開発に関わるソフトウェアエンジニア全体で価値観の違いを埋める努力をしないといけないということなのだと思った。