霏々

音楽や小説など

2025年ライブ初めと友人との食事 ~ bohemianvoodoo New Year concert 2025 ~

 2025年が始まり、僕は5日までの最後のモラトリアムを実家でほとんどだらだらと寝ながら過ごした。と言っても、年末から寝転がり続けていたので、いい加減頭の中がモカモカしてきて何度か散歩にも出かけたけれど。晴れたり、雪が降ったり。それぞれの景色の中で良い写真が撮れたのが良かった。

 6日から仕事が始まった。東京に戻り、またこの喧騒とともに生きる。長期休暇からいきなりの5連勤はなかなかにタフだった。が、水曜日、テレワークで一息つく計画を組んでいたのはさすがに先見の明があり過ぎた。おかげで何とか修羅の5日間を潜り抜ける。休んでいても仕事をしていても、それぞれのベクトルで特筆すべきことのない日々が通り抜けていく。このようにして、透明度を増しながら僕は老いていくのだろう。

 11日、12日と僕はほとんど寝込んでいた。平日に溜めた疲れがどっと出たのだろう。11日の土曜日。僕は昼頃から1時間ほどランニングに出かける。ランニングと言っても、息が上がったら走るのをやめて歩きに変える。そしてまた気が向いたら走り出す。そんな適当なランニングだ。ぶくぶくと太り続けているので、せめてもの対抗意識からたまに走っているけれど、本当のことを言うと、頭の中のモカモカを取り払うのが1番の目的だったりする。

 頭の中のモカモカというのが何なのか。格好良く言えばフラストレーションみたいなものなのだろうけれど、もっと束縛的な渦みたいなもので、ブラインドであり、熱ダレと言ってもいい。それが走ったり歩いたり音楽を聴いたりあてもない思索をしたりするとマシになる。だから、僕は意味もなく戸外へと足を踏み出し、ひたすらに歩き、走り回る。

 しかし、その自己完結的な旅から帰って来て、昼ご飯を食べると一気に眠気と疲労感がやってきた。僕は15時を回る前に眠りにつき、それから19時ごろまで目を覚まさなかった。目を覚ましてもまた無為に夕食を終えると、すぐに眠りを再開した。翌日の12日、日曜日。僕は微熱を抱えながら、年末年始に読了した『仮想儀礼』の読書メモを仕上げるだけ仕上げて、後は一歩も家から出ずほとんど寝て過ごした。

 ここまでダラダラと年始からのダラダラを書いた。

 そのようにして訪れた13日の月曜日。成人の日だ。僕がその当事者だったのはもう10年以上も前の事である。嗚呼、嫌になりますね。成人式にあまり良い思い出はない。ただただ薄暗く、自分のことが嫌いになる1日だった。が、まぁ、もうそんな泥のような記憶も薄れてきている。「成人式?あぁ、そんなこともありましたね」と平静を装えるくらいにはなっている。

 13日はとにかく楽しみな1日だった。メインイベントはbohemianvoodooのNew Year concertだったけれど、久しぶりに友人と会うのがまた楽しみだった。彼女とはとにかく趣味が合う。音楽が好きで、お笑いが好きで、本が好きで。ただ、音楽の趣味は互いにベン図を思いっきり広げたときに、まぁ、だいたい重なっているかなというくらいのもので、彼女はbohemianvoodooを知らない。けれど、ボヘはメロディがわかりやすくてポップなジャズバンドだからきっと彼女もライブを楽しんでくれるはず。何と言っても、billboard liveという場所が彼女の気に入ると思った。だから、年末に彼女を誘ってみたのだ。

 しかし、ライブはまぁ口実みたいなもので、僕は僕でライブを楽しみにはしていたけれど、やはり彼女との会話というのも非常に楽しみなものであった。何と言っても、僕たちは数年前から令和ロマンが好きだったので、彼らのM-1連覇について色々と語りたいことがあった。いや、訂正しよう。僕たちはM-1についてもう何年も語り合ってきた。そう、もはや大会それ自体のファンなのだ。

 語るべきことはたくさんあった。敗復のダンビラムーチョとスタミナパンが最高だったこと。バッテリィズは行くだろうと思っていたが、想像以上の点数を叩き出し、やはり順番は大事だと思ったこと。真空ジェシカの2本目がエグすぎたこと。それを貫禄で押し破った令和ロマンはやっぱり流石だということ。でも、エバースもがんばっていたよね、ということ(エバースはスタイルがバレても、どのネタも想像できない展開を見せるから、来年以降も強いだろうというのが僕たちの共通見解だった)。

 とはいえ、やっぱり話題になったのは、僕たちのアイドル、マユリカについてだった。M-1で敗復を勝ち上がったことは話題のきっかけにしか過ぎず、昨年末のラジオの神回(僕は熱心なマユリカのファンではないので、彼女にそれを教えてもらった)、魂が入り込んだ人形「さゆり」の回について感想を言い合った。それから、阪本さんの結婚。リアコがショックを受けているという話についてお笑いファンの生態を語り合った。そして、僕は僕で推しているアイドルグループで恋愛発覚(当人は友人と言っているが)があったことについて、色々と見解を述べた。僕たちの議論は止まらない。

 それから彼女に勧められて読んだ『仮想儀礼』の話をしたり、また話はお笑いに戻って、有吉のラジオや、彼らの10年を追った特番についても語り合う。

 そうそう、僕たちは馬車道十番館に12時に待ち合わせをして、申し訳ないがそこで2,3時間だらだらと過ごさせてもらった。まぁ、昼食を食べて、コーヒーにケーキまで頼んだから、ぎりぎり許してもらえるくらいだろう。僕はそう思う。

 そのようにして彼女との楽しい時間を過ごした、その締めくくりがボヘのライブだ。20分前にビルボードライブに到着し、ドリンクを注文して、お互いの田舎についてのあるあるを語り合いながら開演を待つ。

 

 ライブは最高だった。『El Ron Zacapa』から軽快に始まり、『石の教会』といった美しい音楽も実に聴かせてくれた。カバーということでスティービー・ワンダーの『Pastime Paradise』が演奏される。原曲を聴いたことはなかったけれど、ジャジーなアレンジはお洒落で馴染み深く、主たるメロディーもカッコ良くて、何回も繰り返されるためすぐに虜になることができた。続く『Nomad』は原曲以上に盛り上がりが素晴らしく、初めて聴く友人もしっかりとノって楽しんでくれていた。

 MCなどを挟みつつ、再びカバー曲と言うことで、これはさすがに僕も知っている『Just the two of us』。でも、とってもとってもアレンジがなされていたので、あまり原曲の感じはなかったかな。ベースラインやコード感が時折原曲らしさを感じさせるけれど、それ以外はほとんどオリジナルみたいな感じだった。そして、ラストはもちろん『Adria Blue』。青や鮮明な水色が暗い会場に光り、照明もとても綺麗な1曲だった。この曲はやっぱり魔法がかかっている。いつ聴いても、切なく、感情を揺さぶってくれる。

 アンコールは『Lapislazuli』。これは僕がずっとライブで聴きたかった曲。ボヘのライブは何度か行ったけれど、たまたまなのかずっと聴くことができていなかった。なので、「ラピスラズリを最後にやります」とMCが入ったときは、かなり興奮した。各楽器のソロパートも回しながら、たっぷりとした冒険譚を聴かせてくれた。この曲はなんか雰囲気の良い、中世ヨーロッパを舞台にした、RPGゲームのような雰囲気がある。みんなで旅に出て、友情を深め、そして1つの目的を達成する。そんな冒険譚を抱かせてくれる。

 

 ライブ終わり、彼女も楽しんでくれたようで、僕はほっと胸を撫でおろす。ビルボードライブはステージも近いし、雰囲気も最高なのでまた来ようと言い合う。ボヘも良かったから、彼女はこれから少し気にかけてくれると言う。何より、何より。前に田島貴男がビルボードライブでやっていたようだから、田島貴男だけではないけれど、お互いに知っている人がビルボードライブに出ていたら声をかけ合おうと未来の話をする。

 正月太りを解消するために横浜駅まで歩くことにする。途中、新しくできたYAMAHAに入って、色々と楽器を見物したりしながら、また取り留めのない会話。

 横浜駅で友人と別れ、僕はYAMAHAに売っていなかったギターのピックを買いにモアーズのクロサワ楽器へ。その足で鶴一家へラーメンを食べにいく。「ちょうどいいセット」を注文する。昔は1000円だったのに、今は1180円。時の流れと物価上昇。まだ18時前ということもあり、空いている店内。なぜだか癖になる味。

 

 そんなこんなで素敵な3連休が終わった。儚い夢のようだった。が、豚骨の甘い後味が残る。新しい週が始まり、今日は16日の木曜日。明日会社に行けば、また2日間休みを貰える。今週は歯医者と心療内科がある。そんな週末。それだけの週末。僕の日々はどんどんと透明度を増していく。

「仮想儀礼」読書メモ

 友人の勧めで『仮想儀礼』を読みました。およそ3か月もかけて。相変わらずの遅読。出勤時の電車の中(およそ15分)でしか読まないのでなかなか進まないのです。

 新潮文庫で読んだのですが、下巻の巻末に収録されている長部日出雄さんの講評がとてもまとまっていて、もうこれ以上の感想なんて書きえないんじゃないかと思っているわけですが、それでも私なりの何かを書き残しておこうと思います。あまりに素晴らしい講評でしたので、私の感想もそれに引っ張られてしまう部分が多いと思いますが悪しからず。

 

 篠田節子さんの作品を読むのはこれが初めてです。取り立てて読書家でもない私においては、篠田さんの作品を目にしたこともないようで、NHKでドラマ化されていた本作品も全く知りませんでした。ただ、本作を紹介してくれた友人とは昔、大学生の頃に「一緒に宗教でも作ってみるか」みたいな冗談を言い合っていたこともあり、本作のアウトラインを聞いたときからもう「絶対、面白いだろ」と思っていました。

 私もまぁ、一端の自己陶酔型の青年でありましたから、世間一般の人が持つよりは多くの宗教知識を持っていると自負していましたが、やはり本物の作家は知識も取材力も違いますね。宗教それ自体に対する情報も豊富で、かつ宗教を作るときの具体的な金の動きや利権に対する情報も説得力があり、まずはそのリアリティに圧倒されました。そこの詰めが甘かったらここまでハマらなかったかもしれません。とにかく序盤はそのリアリティにのめり込み、そして主人公格2人の桐生(ペンネーム、教祖としての名前で書くことにします)と矢口のキャラクターにどんどんと引っ張っていってもらいました。

 

***以下、ネタバレです***

 

 上下巻の全体的な流れで言えば、泡のように膨れ上がり、それが弾けるという大筋がありました。

 上巻までは「これはどこまで行っちゃうんだ?」というワクワクがあり、あまりに都合良く転がっていく宗教ビジネスの顛末がギャグのようで笑いながら読むことができました。宗教ビジネスの細部、例えば「集会場に椅子を買うとなると金がかかるから、座って礼拝する形式にしよう」みたいな悪知恵が沢山出て来て、それが面白かったです。で、そのように冗談半分みたいな形で決めたことが次々と当たっていき、偶然と機転が積み重なり、どんどんと顧客が増えて経済的に豊かになっていくサクセスストーリーには、つい自分を重ねてしまいます。

 主人公の桐生は役所のエリートだったこともあり、冷静で打算的で人間観察の洞察力も高い。相方の矢口は女癖が悪いけれど、根っからの優しい人間性がある。この2人が互いの苦手なところを補い合い、それぞれの得意分野でそれぞれの顧客を確立していったことが物語にダイナミックな展開を与えています。そういった人間性に則ったストーリーがまたリアリティがあり、かつ多層的であり、飽きさせない読み応えとなっていました。

 最も序盤では、2人のキャラクターによる相乗効果によって地道に顧客が増えていくのですが、そのうち矢口は人好きがするので特に序盤では弱った人を受け入れるのに大きな役目を果たします。主人の桐生はそこにある程度の良識を与え、自傷他害的な傾向を抑制し、教団が腐敗するのを防ぐサポート的な役割を担うことになります。特に矢口は女たらしのため、弱った女性を次々抱え込むことになるので、いわゆる「メンヘラ」的な女性信者が多数を占める女性コミュニティの運営でどうバランスを取るかが序盤の主題になっています。この辺りは作者が女性ということもあるのか、女性らしい陰湿な偏見の向け合いや、小競り合いのようなものが嫌味たっぷりで描かれます。そういう女性性を受け止める矢口と、女性性を抑制しバランスを保とうとしながらも、本音では軽蔑している桐生のモノローグが皮肉たっぷりで非常に面白いポイントでした。

 しかし、そのうちに偶然が重なりより良識がある上質な顧客がついていきます。総菜会社の社長である森田を皮切りに、徐々にビジネスパーソンのような顧客が増えていきます。この局面でこそ、桐生の真面目で冷静な一面が光ります。弱った人の相手は矢口に任せ、桐生は上質な顧客に対し、宗教色を弱くしたより自己啓発的な色味のセミナーを開いて多額の金を稼いでいくことになります。このパートではどんどんと金を稼いでいき、巨大な支部が出来上がったり、大きなイベントを成功させたり、桐生個人で言えば出張先で一流ホテルのスイートルームに宿泊するといった出来事に感慨を覚えたり、とにかく「成功」を収めていきます。「あのまま公務員として働いていたら、どれだけ登り詰めても出張先でスイートルームなんて泊まれなかった」というようなことを思う桐生の心理描写は、彼の成功を象徴していたと思います。

 が、この上巻の終盤で出会う回向という巨大な宗教団体の教祖によって、大きく歯車が狂っていきます。桐生は石坂という仏具販売を行う男と懇意にしており、そこでは脱税に絡むルール違反を多く行っていました。詐欺まがいのことをして捕まる気はさらさらない桐生だったので、そっちの方面にはかなり注意深かったものの、脱税くらいであれば追徴金を支払えば何とかなるだろうと高を括ってのことでした。しかし、そういったスタンスが石坂との関係を深めることになったのですが、その結果、実は回向のビジネスパートナーだった石坂経由で、桐生は回向との繋がりができてしまいました。

 そして実際に回向と対面した際に写真を撮られてしまうのですが、運悪くそのタイミングで回向が逮捕され、世間からも大きなバッシングを受け、それに桐生も巻き込まれることになります。これによって桐生は上質な顧客から見放され、一気に転落への道へと進むことになります。

 この辺りから、私、読者側もだんだんと笑っていられなくなってきます。これまでがあまりに順調だけだっただけに、私は「いつ逆転のカウンターパンチが炸裂するのだろう」とワクワクしながら読み進めていったのですが、やることなすこと今度は逆に上手くいかず、どんどん桐生は追い詰められていきます。総菜会社の海外進出も失敗に終わり、あれだけ頼りにしていた森田社長も更迭され、経済的に困窮していきます。

 上質な顧客たちは桐生の信用が落ちればただその場から去っていくだけですが、逆に矢口に任せていた社会的弱者側の信者たちの信仰心は厚く、彼らの一部が桐生の教団をバッシングした出版社に殴り込みをかけてしまい、さらに桐生は窮地に追い込まれます。一矢報いるためにメディアのゲリラインタビューで誠意を込めた演説もしますが、それがメディアに都合の良いように編集され、結果的に桐生は殴り込みをかけた信者たちを切り捨てる発言をしたように見なされてしまい、熱狂的な信者たちからも愛想を尽かされてしまいます。

 と、ここまではどちらかと言えば、淡々と転げ落ちていく様が描かれます。どこかで何かカウンターパンチが決まるのではないかという期待を抱きながら、ハラハラとした展開を楽しむことができます。

 しかし、ほとんどの信者が離れてしまい、結果的に桐生が軽蔑してきた女性性が強く、生きづらさを抱える女性信者だけが彼のもとに残りました。優男の矢口が繋ぎとめてきた人たちです。一部、これも社会的な弱さを抱えた気弱な男性や、教団が大きくなる前から小姑のように口うるさいけれど、良識を備えたおばさん信者も残ってはいましたが、彼らも今後さらなる転落の過程で教団を抜けていくことになります。

 ここからはやや複雑な流れを辿るわけですが、ざっくりとまとめると、宗教団体の宗教性が過激化していき、次第に桐生の手にも負えなくなっていく……という感じです。もうここまで来ると悲劇の様相を呈してきます。女性信者たちは桐生が宗教ビジネスを熱心に展開している間も、自らの精神を癒すためにひたすらに祈り、それは最早修業と言っていいくらいの熱量になっていました。祈りの文言を唱えながらトランス状態に入っていく。終いには家族などとの関り合いから逃げてきた、あるいは逃げざるを得なかった彼女たちに対し、しごく一般的な忠告(「家族を心配させちゃダメ」等)を与えるおばさん信者をリンチしてしまうといった状況にまでなってしまいます。しかも、そのリンチは集団トランスに入った状況で行われ、以前所属していた宗教団体で使われていた「悪魔を払う」等の言葉のもと狂信的になされました。

 この時点で桐生ももうこの団体は解散しなければダメだと思うわけですが、それを告げると逆に女性信者たちに集団リンチ、レイプをされ、肉体的にも精神的にも潰されてしまいます。逃げ出そうにも常に監視され、逃げ出せない。しかし、桐生自身にも、ある葛藤がありました。かつて団体が大きくなり、よりビジネス寄りに舵を切ろうとしたときに、ただ一人より宗教性を高め、孤独な修業を積み重ねていたユウタという信者のことを思い出します。彼は結局、桐生の団体を抜け、さらに過激な宗教グループへとはまり、そこでグループを抜け出そうとした一員をリンチで殺害し、逃亡の末、冬の山中で餓死をするという運命を辿りました。まだ高校生だった彼の非業の死を受け、桐生は彼のような人間を救うためにも正しく宗教で弱者を導く必要があると考えていたわけです。だからこそ、異常性を帯びていく女性信者たちも、できることなら見捨てたくはないという想いが桐生にはありました。

 女性信者のうちの一人は大物政治家の娘であり、しかも彼女は政治家である父と、その父の地盤を引き継ぐであろう兄から性的な暴行を受けていました。特に彼女の兄は妹への執着が強く、あらゆる権力を行使し、メディアやヤクザを使って桐生のもとから妹を引き剝がそうとします。終盤はそんな兄と桐生たちとの攻防戦が中心となって進んでいきます。そして、その追い詰められる過程でさらに信者たちは狂信性を高めていく。彼らは拠点を捨て、夜逃げ同然で、ワゴン1台で逃避行を始めます。資金が底をつけば、彼女たちは体を売って一時の金を稼ぐ。桐生はそのことに辟易としながらも、逃げられないし逃げ出すわけにもいかない。矢口は喘息を患っており、桐生は彼だけでも逃がしたかったのだけれど、矢口は体を蝕まれながらも彼女たちを守ろうとどこまでもついてこようとする。

 桐生達は拠点から逃げ出す前日、放火にあっていたのですが、世間的な信用が全くなくなっていたこともあり、自分たちで拠点に火をつけたと疑われてもいたため、信者の兄だけでなく警察からも逃げている状態でした。そんな中、次第に足取りも掴まれ、最終的には、追いかけてくる兄のことを実は想っていた妹の信者が兄に自分の居場所を漏らします。妹は話をしたかったと思っていましたが、実際には話し合いになんてならず、「兄をこの世の業から救わねば」という狂気に取りつかれ、ついには女性信者全員で彼を殺してしまいます。廃棄物処理場にずたずたに切り裂かれた兄を放り投げ、さらに逃避行を続けた桐生一行はついに矢口も病で亡くし、狂信と放心の間で警察に捕まるという終幕でした。

 この終盤の、桐生が自分が作った宗教に飲み込まれていくという様が、読んでいてハラハラしますし、心にもグッとくる悲劇になっていました。桐生はオウムのように教義が先行して倫理観を失った狂信性みたいなものを、自らの宗教には求めていませんでした。そしてそのようにならぬようにいつでも歯止めをかけるのが彼の役割でした。しかし、宗教ビジネスに夢中になっている間に桐生の知らぬところで、狂信の芽は育っていたわけです。そしてそのことを桐生が知る頃には既に桐生の手にも負えないほどになっており、桐生自身、自分よりもよっぽど確固とした強い信心が彼女たちに宿っていることを発見して当惑してしまいます。この信仰が生み出す狂信性みたいなものが本作の終盤では非常に重要なファクターとなっており、桐生と矢口を破滅に追い込んでいくストーリーを苛烈に彩っています。

 ラスト、極限状態の逃避行を続ける一行は、ユウタが死んだ高野山を訪れますが、そこの宿場町を見て、それが仏教の聖地なんかではなく、一大仏教テーマパークでしかないと感じます。つまり、それくらい彼女たちの信仰は差し迫ったものであり、同時に純粋な信心に到達していたというわけです。が、そういった差し迫った信心というのは、リンチや殺人を引き起こし、そして自らの体を売ることも「精神を売り渡しているわけではない」と厭わない境地にまで導いてしまっています。自らを自らで洗脳し、心の傷や心の弱さを守っていると言えばそれまでなのですが、そこにはどんどん深みへと向かう不思議なベクトル場が存在しているように私には思えます。

 私もかつてそういう経験をしました。最初はトラウマを乗り越えるために「自分らしさ」を探し、もっと自分が生きやすい方法や道を探すだけのつもりでした。その中で私は自分や社会といったすべてを否定して、何にも価値を見出さないという方法に夢中になったのですが、それはいつからか自分の中で強い意味を持つようになり、苦しいのに自己否定や社会否定がやめられなくなりました。そのうち否定を続けることで、全てから解放されていく感覚、一種のトランス状態のようなものも感じるようになり、何か自分が真理に近づいていくような感覚が芽生えるようになりました。結果、社会生活の中である種の強迫観念のように捉われてしまい、普通の精神疾患と診断され、会社に行けなくなりました。その期間に色々と自分の考え方をもう一度組み直し、今は少しずつ症状も落ち着き、何とか社会復帰できつつあります。が、あのときの妙なトランス感みたいなものは今でも忘れられません。

 本作はあくまでフィクションであって、その作品の登場人物と私とを比べればいくらか私の方が現実的な制約を受けるので、彼女たちのように狂信から殺人を犯したりはしなかったのですが、それでも彼女たちがどのような心境にあったのかは、割とリアリティを持って私には感じられました。

 そういった狂信的な想いに捉われたことのない人からすれば、最後には彼女たちと運命を共にした桐生の人間としてぎりぎりの責任感のようなものに共感する部分が大きかったのではないでしょうか。もちろん、私もそんな桐生のことを好きになりましたし、女性信者たちの狂信性に絆されて、進んで自らの命を捧げた矢口の根っからの優男な感じにも好感が持てました。しかし、最後には桐生が教祖として自ら、自分の作った宗教はでっち上げの詐欺まがいのものだと言ってもそれを認めず、教祖が悪魔に憑りつかれておかしなことを言い出したとして教祖をリンチにかける彼女たちにこそ、私は一番共感していたのかもしれません。その狂信性はもちろん、物語の構造上必要な要素として描かれているものだと論理的に理解もできます。でも、行き過ぎた執着というのは、人間を内側から蝕み、破壊していくということもよくわかるのです。

 

 割と冒頭から女性性というものが意識させられてきました。最初は、言わば狩猟採集民における家を守る者たちとしての女性的村社会の関係性に焦点が当てられており、年増が若い子たちを疎ましく思うといった構造が桐生によって皮肉られるような部分が多かったです。が、その中で、心の弱った女性たちの盲目さ、ヒステリックな面といったことも語られます。そして、最終的にはその盲目さが狂信性に変貌し、異質な集団へとなり果てる。

 本作に登場する男性で我を忘れた粘着性を見せるのは、近親相姦している兄だけです。桐生も矢口も最終的には女性信者たちと運命をともにしますが、それは捨てられない人としての優しさや責任感から来るものが大きいでしょう。また、総菜会社の社長なども比較的桐生の作ったでっち上げの宗教に入れ込んでいるタイプですが、しかし会社を追放された後はもう桐生のもとを訪れなくなります。あ、そう言えば、ユウタは桐生のもとでではないですが、自らの狂信性に突き動かされて、非業の死を遂げていますね。

 それでも物語の最終局面で狂信性を持ち、残っていたのはすべて女性です。ここに作者が女性性と狂信性の何かしらの親和性を感じていたんじゃないかと感じる部分があります。もしかしたら最後の逃避行で身一つで金が稼げるというのが、女性にしかできなかったという都合からそうなっていたという部分もあるかもしれません。しかし、いずれにせよ、何かに狂い、自分の心も体も捧げることができるのは、経済的な能力をも含めて女性だけだという部分があるのかもしれません。

 近親相姦の兄も狂信性を持っていました。しかし、彼は自らの夫婦関係の不和から妻と政治家としての信頼を失い、もはや守るべきものがなくなっていました。いや、逆にそういった狂信性のようなものがあったからこそ、社会的に成功できなかったのかもしれません。ユウタもまた学校でいじめにあっており、社会的には弱者の立場でした。つまり、社会的に虐げられているからこそ、人は何かに狂信的になってしまう。あるいは、何かに狂信的になる傾向があるからこそ、社会から虐げられてしまう。そういったことがあるのかもしれません。

 と考えると、最後に女性ばかりが桐生の宗教のもとに残ったのは、彼女たちが社会的に虐げられているからこそと考えられるかもしれません。もちろん、彼女たち自身にも何かに執着する傾向があり、それが社会での生活を難しくし、結果的に社会的弱者に追い込まれている部分もあるでしょう。しかも、彼女たちの境遇はいずれも、男性に良いように使われていたり、男性に依存していたり、体を売ることで生計を立てていたり、となかなか社会的に安定した繋がりを作っていたとは言い難いものでした。どちらが先かということはわかりませんが、彼女たちのそういった心身の脆弱さと、社会における脆弱さをひっくるめて「女性性」とするのであれば、その「女性性」こそが狂信性を生み出すものだったのだと思われます。

 近親相姦の兄やユウタは女性ではありませんが、そういった脆弱性を持つものとしては当てはまる部分が多かったですし、反対に桐生や矢口は最後にぎりぎりのところに追い詰められるまでは、まだその脆弱性は持っておらず、何とか務めて冷静かつ公平であろうとしていました。

 私はフェミニストではないですし、何でもかんでもフェミニズムに結び付けて考えるのはあまり好きではないのですが、何となくこの作品からは「女性性」に対するシニカルな描写が多いように思います。つまり、ある意味では女性の弱さのようなものを彼女の狂信性を通して訴えかけているような感じがあると思いました。しかし、その弱さは別に女性という性別に限った話ではなく、社会的な弱者であれば誰でも持ちえるものであり、ユウタのように男性であっても狂信性を持ってしまう、ということもきちんと明言されています。そのうえで最後に女性が残るというのは、女性が社会的な弱者になりやすいという構造があるということを示しているように感じられなくもないわけです。

 それは女性が男性に支配されやすく、また自立しにくいということを示しており、同時に最終的には体を売れば何とかなるという太古から続くやるせない状況をも示しているような気がします。女性の立場が向上すれば、女性はもう体を売らなくなるという世界が待っているのか、どうなのか。男性の方が立場が低くなれば、今度は男性が体を売るようになるのか。その辺のことはわかりませんが、少なくとも『仮想儀礼』の世界では女性性≒社会的脆弱性として、狂信性に突っ走る装置となっているなぁ、と私は思いました。

 

 が、まぁ、こういったフェミニズム的な観点というのは一旦置いておくとして、私はやっぱり心を病んだものとして、何かに信心を捧げるという気持ちはよくわかる、というのが主たる感想になります。あとはとにかく諸々のキャラクターが魅力的かつ、話の展開が面白かったのがエンターテインメントとしてはよかったですね。個人的にはゴッドバスターと呼ばれる宗教評論家が桐生のために素晴らしい評論作品を書いて、一発逆転が果たされるところを見たかったというところでしょうか。あの作品制作の画策をしているところは、私個人的には一番ワクワクしました。最後はゴッドバスターが桐生を救ってくれるんじゃないかと思ったんですけどね。物語は悲劇で終幕を迎えました。

 というわけでだらだらと感想を書きました。半分くらいは物語の出来の悪い要約みたいになっていたと思いますが、まぁ、それも頭を整理して感想をまとめるうえでは必要だったこととして。

 次に読む作品も決まっているので、またゆっくり読書を続けていきたいと思います。それでは長文大変失礼しました。

ハロプロにおける恋愛禁止についての個人的な想い

 年明け1発目の記事がこんな無粋なものになってしまうのはなんだか情けないけれど、このもやもやとした気持ちを整理するには、能足りんの私にとって言葉にするという以外の方法がない。

 なお、最初に断っておくけれど、ハロプロは別に恋愛禁止ではない(と聞いている)。あくまで自主的なブランディングの観点から、恋愛については表に出さないことが不文律としてあるというくらいだろう。と、私個人は理解している。だから究極的に言えば、既婚者がハロメンとして活動していても誰にも咎められないだろう。しかし、当然ながらそんなことをするメンバーはいない。今のところは。

 アイドルの熱愛が発覚すると、色々な反応がある。まず1つ目の反応として、「裏切られた!」という類の熱愛に対するバッシング。そしてそれに続いて、「アイドルだって人間なんだ!」という擁護派による、熱愛バッシングに対するバッシング。けれど、それで留まることはなく、「別に恋愛してもいいけど、バレるなよ。それがプロだろ」という一見静観しているようで、結果熱愛に対してバッシングはしている人たち。

 私個人としてもこのどの反応にもとても共感できるし、また言い分も理解できる。納得していると言ってもいい。けれど、何かそれらの言葉はどこか自分の言葉ではないような気がしているし、既に存在しているいずれかの論調に身を任せ、火に油を注ぐようなこともしたくはない。どうせ燃やすにしても、一から自分で火を起こして、そして焚火に飽きたらそれをしっかり消化して、ぐっすりと眠りにつきたい。だから、昨日あたりから色々と頭を悩ませ、どう腑に落ちればいいかを考えている。

 

 1日考えて、比較的腑に落ちた表現は「グロい」と「メタい」だった。

 なんて言うか、ハロメンが熱愛しているという事実は「グロい」から見ていられないし、「メタい」からなんか冷める。要するに、「知りたくない」ということであり、さっき上であげた反応例にもあるとおり、「別に恋愛してもいいけど、バレるなよ」という感覚としてまとめても差し支えない。けれど、何となく個人の感覚としては、もう少し手前の話であって、「恋愛してもいいけど」とも実際には思っていない。なぜそう思うかと言うと、「恋愛をしないでほしい」とも思っていないからだ。

 恋愛を我慢してまでアイドル活動を続けて欲しくないけど、恋愛がしたいならアイドル活動はしなくてもいいんじゃないか。というのが、私の数直線上におけるスタンスに近いと思う。ただ、本音を言えば、そういう数直線自体が存在していて欲しくない。これは私が恋愛弱者であるからかもしれない。私は基本的に恋愛というものが存在する前提で生活をしていない。恋愛感情というものは存在していて、それをフィクションを通してであったり寂しさや高揚感の代償のようにして味わうことはできるけれど、それが現実味のある恋愛行動としては存在しえない。だから、恋愛の実行動が不在の私の世界において、私が自分を守るためのフィクションとしてのハロプロにおいても、同様に恋愛の実行動というものは存在していてほしくない。

 恋愛を実行動に移すことも、恋愛を我慢や禁止することも、いずれも恋愛が実在しているからこそ起こり得るものであり、それでは私は困るのだ。私はその恋愛の存在そのものを否定したいのである。

 もちろん恋愛が存在していることは理解している。でも、内臓が蠢いて食物を消化している様を直視したくないように、存在しているからといってそれをまざまざと見せつけられるのは「グロい」。そう感じてしまう。ハロメンが年頃の女の子で、見た目も気立てもよく、素敵な人間で、そういった子たちが異性からモテないはずがないというは理解できるし、知っている。でも、そういった事実は一旦抜きにして、「グロい」部分は見ないようにして、恋愛の可能性すらないフィクションを楽しんでいるのだ。

 例えば、生き物を殺して、それを食べて私たちは生きている。そのことを考えることは大切だし、できることなら何かを食べるときに、常にそういった生命のことを考えるべきではあると思う。食事の前に祈りの言葉を唱える習慣を作ったっていい。でも、「これは死んだ魚だ」ということを念頭におきながら食べる寿司は、何も考えず食べる寿司とは違う味がするはずだ。

 それと同じように、既婚者のOGと現役ハロメンを応援するときの気持ちはなんかちょっと違う。田中れいなさんも、宮崎ゆかにゃも、まだ結婚はしていないけど鈴木愛理ちゃんとかも、普通に応援しているし好きだけれど、やっぱり彼女たちはハロプロを卒業していて、ハロメンではない。ハロプロを卒業した子たちが恋愛をしていても、まぁ、あまり「グロ」くはないけれど、現役ハロメンが恋愛をしていると「グロい」と感じる。要するにフィクションの世界にも前提やレイヤーがあって、その境界を逸脱して、余計な成分が混じってしまうと「グロさ」が出てくるような気がする。

 こんな例えを考えた。

・ある人気のテーマパークのキャストが、実は過激な労使交渉でストライキを企てていた。

・ある人気の芸能人が実はある宗教団体の広告塔だった。

 こういうのって、ちょっと「グロい」なと思う。見てらんない。もちろん、労使交渉は大切なことだし、信仰だって重要な営みだ。そのことはわかっている。でも、一度そういう嚙み合わせの悪い現実を見せつけられると、同じ温度感のまま楽しんだり、応援したりというのは難しくなる。やっぱり、1個角度がついてしまう。

 深夜番組で尖った芸人が宗教とかのことで皮肉を言うのは笑えるかもしれない。でも、お昼のほのぼのとした番組で「私、どこどこの宗教団体に所属してまして」とか言われると、なんかぞわっとしそう。何も悪いことではないとわかっているのに、なんかぞわっとしそう。それに近い「グロさ」がある。

 

「メタい」というのもほぼ同じようなもので、やはり何か想定している境界を越えた言動をされると、ファンタジーを楽しんでいたのに現実を突きつけられるようで冷める。光学迷彩を物理学で説明しようと試みるのは面白そうだけれど、透明マントを物理学で説明するなんてことはしてほしくない。やっていいことと、悪いことがある。

 例えば、アイドルの恋愛について、よく「恋愛の歌をうたっているのに、恋愛してないとか、それこそ説得力もないし、パフォーマンス力とかよく言えたもんだよ」みたいな見当違いの説法をしだす人がいる。それはルール違反だろ。私は透明マントの話をしてるのであって、光学迷彩の話はしていない。100m走で、「人生を賭けて人類最速を目指しているのに、ドーピングしないとか全然本気じゃないじゃん」と言っているようなものだ。競技ルールに抵触しているだろ、と思う。

 村上春樹の小説で、夢と現実の境目がわからなくなってくる世界観を楽しんでいるのに、訳知り顔の評論家が現れて「これは統合失調症の症状ですね」と言ってくる。そんな例えも考えた。

 そういうことをされると冷める。「メタい」から冷める。もちろん「メタい」のが逆に面白いという局面もある。一昔前から「バーター」という言葉が世に出たけど、個人が感じている違和感を、俯瞰して腐すようなやり方がお笑いでは常套手段だし、だからそういう「メタさ」が面白いと感じることは多々ある。ハロプロにおいても、例えばレコーディング現場、すなわち裏側を見せるような企画は「メタい」けど、それが面白い。だから、一概に「メタい」のが悪いとは言えない。でも、「メタい」視点を取り入れることで、それが「グロい」となるとそれはやっぱりダメだ。

 

 見ていられないという気味の悪さを表現するために「グロい」という言葉を使ったけれど、それだけではなく、やはり冷めてしまうという部分もあるので「メタい」という言葉を使ってみた。

 誰から頼まれたというわけでもなく、私の趣味趣向を突き詰めた結果、ハロプロには現実的な恋愛というものが存在しないという世界観が出来上がっていた。たまにその世界観が揺らぐ出来事があるけれど、基本的には現実的な恋愛が存在しないという世界観でもそれは辻褄を合わせ、滞りなく動いている。だから、いつの間にか、「そういうブランディングをしているんでしょ」と決めつけるようになり、「だったら責任を持って、そのブランドを守ってよ」と要求するようになってしまう。本当は責任なんてものはどこにもなくて、私が勝手に自分の願望を押し付けているだけなのに。

 企業コンプライアンスと言えるほどの義理はない。やはりそれはブランディングの範疇なのかもしれない。でも、明言的なブランディングと言えるほど、事務所が恋愛禁止を押し出しているわけではない。それはもっと潜在的なブランディングで、例えば、それなりに高級なレストランなり料亭に行って、そこにうるさい「やから」みたいな人が大勢いたらやっぱり嫌な気持ちになるだろう。味で売っている店とは言え、そこにはある程度の客層が伴っていないと腹立たしい思いをする。それと同じように、別にハロプロは恋愛禁止で売っているわけではないけれど、何となく恋愛禁止であってくれないとファンの意には染まない気がしている。

 それをファンの側から「信頼関係」と言うのはあまりにおこがましいけれど、でも私にはそれ以外の言葉が思いつかない。

 

 まぁ、「グロいな」とか「メタいな」と感じて、見てらんないし、冷めるけれど、でも結局私はここ以外に行く場所もないし、行く気もない。ちょくちょく事故みたいなことは起こるけれど、今まで通りのブランディングを続けてくれれば私的には問題はない。「これからは恋愛をオープンにして、所属アイドルの情操を鍛えていきます!」とか宣言されたら困るし、かといって「これからは所属アイドルに恋愛禁止を契約に盛り込んでマネジメントしていきます!」と宣言されても困る。だから、今まで通りで特に問題ないので、のらりくらりと上手く逃げ切って欲しい。

 ただただ、これからも応援するから、なるべく嫌悪感を抱くようなこととか、熱が冷めるようなことは起きませんように。それだけでしかない。

 

 反面、野次馬根性なのか何なのかわからないけれど、こういうボヤにテンションが上がっている自分もいる。こういう難しい局面で、アイドルが、事務所がどのように対応していくのか。そこにこそ、真価が現れそうな気がしている。何もないのが一番だけれど、こういった局面でこそ、いい刺激だと思ってさらにファンを虜にするような対応を取ってくれたらと思う。

 こんなくだらない記事を書いている間に本人から簡単な声明が出たけれど、これでケジメをつけたということにして、あとはのらりくらりとやっていくのか。あるいは、後付けで事務所も何か声明を出すのか。それとも致命的な証拠があるわけではないので、このまま沈黙を続けつつ、周囲の出方をうかがうのか。個人的には、アイドル本人にはあまり今回の件を引き摺らず、むしろ今回の件を忘れさせるくらいの活躍をしてみせてくれればと思う。結局、何度も謝罪されるのも、ずっとしゅんとされるのも「グロい」し、「メタい」。そんな風に引き摺られても、信頼関係は修復されるどころかどんどん腐っていく。だから、いつも通りのやり方で、いつも通り、いやいつも以上に気合の入ったステージングでまた虜にしてほしい。

 良くも悪くも、ハロプロと私の間に信頼関係があるとすれば、究極的にはそこでしかないのだから。潜在的なブランディングが損なわれた今、本業部分のブランディングでそこを補ってもらうしかない。「見てらんない」「冷める」みたいな気持ちになってしまったのはもう仕方がないので、お願いだから、「もっと見たい!」「もっと熱くなりたい!」という気持ちを喚起してください!自分勝手で申し訳ないですが!

 

 うん、やっぱり文字にしたら、気持ちの整理ができた。自分が身勝手な人間でよかった。

「ひっくり返す人類学-生きづらさの『そもそも』を問う」読書メモ

 とある尊敬している方から勧められ読んでみた本書。「周囲の人と違う思考体系を持つ友人をより深く理解し、サポートするための着想を得られるかもしれない」ということでお勧めしてもらいました。結論から言えば、その友人を助けるのにはちょっと違ったかなという感じですが、しかし私自身の考え方を補強できはしました。

 私はすごく端的に言えば、諸々の影響により、「資本主義嫌い!お金があれば1人で気楽に生きていけるところは好きだけども!」という何ともちぐはぐな価値観を持った人間なのですが、何はともあれ「資本主義嫌い」の旗のもとに集結した人間であるため、現代の凝り固まった価値観を『ひっくり返す』本書には強い共感を覚えました。とにかく私たちが普段触れている「当たり前」の価値観を、「まったく違う価値観や文化を持って生きている人たちがいる」という事実により打ち砕いてもらえるのが心地よかったです。ちくまプリマ―ということで非常に読みやすかったというのもポイント高いです。それと、上述の友人とはまた別の読書好きの友人が偶然本書を読んでいたのも何だか嬉しかったです。私がこの本で得た知識を喋ったら、「あれ、それなんか聞いたことあるかも」となり、答え合わせをすることになりました。

 と、前書きはこれくらいにして、読書メモに移ろうと思います。

 

人類学の誕生

 1910年代にフランスの詩人ポール・ヴァレリーが評論「精神の危機」の中で、ヨーロッパは戦争を止めることができず、築き上げた知もまた無力であるということを書きました。大規模な戦争によって人々は精神的・物質的な危機に陥り、生きづらさを感じ始めたとき、そこから抜け出すために外界に目を向けようとして始まったのが人類学ということです。ヨーロッパ以外の世界に赴いて、そこで暮らしながら人間の生き方について見識を広げようとしたわけですね。したがって、人類学という学問は、戦争という負の歴史とともに発展してきたと言えそうです。

 現代の私たちも何らかの生きづらさを抱えているわけですから、そこから脱却するためには「人類学」の教えが必要になるという前提で本書が書かれていると読めました。そして、いきなりネタバレになりますが、最終的には現代の行き過ぎた、ある種の飽和状態と言える「資本主義」的な世界観を「人類学」でリセット、つまり「ひっくり返す」タームがやってきたということが最後に語られます。

 

「教える」という概念がない人たち

 ヘヤー・インディアンと呼ばれる狩猟採集民は、教える・教わるというような概念がないそうです。例えば取材に行った日本人の原さんが折り紙を折ってみせると、ヘヤーの子供たちは「もう一つ折ってくれ」とねだるばかりで、決して「折り方を教えて」とは言わないそうです(そもそも「教える」「教わる」という言葉がない民族もいるそうです)。そして、自分で試行錯誤しながら折り紙を折り、折れたら原さんのところに店に来て、「今度は違うものを折ってよ」とねだるそう。

 私たちは何かを学ぶとき「教わる」ことが多いわけですが、そもそも「教わる」という概念自体が決して当たり前でないことに驚きました。「教わる」ことと「試行錯誤でやる」ことのどちらにも優れた点はあると思います。例えば私はこうしてだらだらとテキトーに文章を書いていますが、誰かから文章の書き方をちゃんと教わったわけでもないですし、教則本のようなものを読んだこともありません。言わば試行錯誤しながら文章を書いています。自分が尊敬する人の書いた文章を真似たりもしています。そういう風に、「教わる」ことなく獲得したものがちゃんとある一方で、私が会社で新しい部署に配属になったとき、まずは基本的な業務を「教わり」ます。それは会社の中できちんとある一定の成果は出せるだけの歯車になるために強制されなければならないから。と、書くといかにも私は資本主義を恨んでいる狭量な人間のように見えますが、まぁ、言ってしまえばそういう感覚をこの辺りの文章を読みながら感じました。

 

大衆教育は監獄か

 パノプティコンについて書いたことで有名な哲学者ミシェル・フーコーは、『監獄の誕生』の中で、「監獄」や「病院」と並んで「学校」が、近代的な「権力」の典型であることを指摘しました。大衆教育は、学校の建設や教師のまなざし、試験制度など、生徒を近代人として育て上げるための「規律=訓練」のテクノロジーの中に立ち現れたとしています。

 狩猟採集民のプナンは生涯を森の周囲で暮らして生きているため、国が教育の機会を与えようとしても、そもそも大衆教育というものを「ありがたい」とも思っていないし、むしろ大衆教育に馴染めず退屈したり、いじめられたりする可能性があることをよく思っていなかったりします。それは単に「近代的でない」と蔑むべきではなく、学校に対してア・プリオリに期待も評価もしない態度が地球上に存在することの証左として受け止めるべきです。

 確かに現代において大衆教育がなければ色々なことが成り立たないとは思います。しかし、例えば「みんなで地球温暖化を阻止しよう」みたいなことだって、言ってみれば外部から与えられた価値観です。そんなことを考えもしていないであろうプナンのような人々を「地球温暖化に対して危機感がない」と非難するのはナンセンスですよね。彼らは「地球温暖化云々」という文脈に生きていない。そういう文脈にいない人たちを、私たちの尺度で評価することは無礼ですし、私たちの文脈に無理やり引き込もうというのも違う気がします。それと同じように、大衆教育だって、何も人間本来が「ありがたがる」べきものというわけではないはずであり、「まぁ、現代を摩擦なく運用するために必要と考えられる一制度」くらいに留めておく方が健全のような気がします。

 ま、そうは言っても、大衆教育の中で成果を出せる子供たちが評価され過ぎる制度や風潮がまだ根強く残存していることも事実ではあると思うのですが。

 

「知識」と「知恵」の違い

 あくまで本書の中だけで語られる定義ですが、「知識」とは積み上げることができるもので私たちの不安を取り除いてくれます。一方で「知識」は私たちの考えを凝り固まらせる側面も持っています。したがって、「知識」をぐらつかせる「知恵」というものが必要になってきます。凝り固まった考え方を打ち砕き、新しい発想をして、新しい世界に導いてくれる「知恵」が必要なのです。

 この「知識」と「知恵」をうまく調和させることが重要なわけですが、私たちは大衆教育の中でそういったことができているのでしょうか。そんなようなことが本書では問いかけられています。

 

シェアリング・エコノミー

 本書で言うシェアリング・エコノミーは、現代でよく使われる「シェアハウス」や「シェアライド」とはちょっと違う意味です。いや、究極的には同じことなのかもしれませんが、なんていうか言いたいことはちょっと違います。

 プナンのある家族が狩猟に行って、ヒゲイノシシが獲れたとします。獲物は狩猟キャンプに持ち帰られたあとに、一緒に暮らしている別の家族にも分け与えられます。獲物はいつも狩猟キャンプの全員で分かち合わなければならないのです。これは獲物を獲った家族にとって損に見えるかもしれませんが、それは一時の損であり、いずれ自分たちが食べるものに困ったときも周囲の人たちから食料を分けてもらうことができるようになります。そういう暗黙のルールの上で生活していることを、シェアリング・エコノミーと言うそうです。

 シェアハウスのようなものは、こういったプナンの人たちの生活様式をもっと書面上の契約として明文化したものと考えられるように私には思えました。とは言え、どうしても「資源・資産を効果的に使う」という意味合いが、私たちの使うシェアリング・エコノミーには多分に含まれているように思いますが。

 プナンのこういった生活様式を形作る上で重要なのは「独占欲を捨てること」だと言えます。彼らは子どもの頃から独占欲を表出させないことをきちんと躾けられ、何かを手に入れてもみんなで共有するということを学びます。そして、「個人で所有すること」、「占有すること」というのが「悪」と見なされるようになります。

 別口で学んだゾミア文明を絡めて言えば、彼らにとっては何か財産を私的に貯蓄することが、彼らの社会の中で生きていくうえで致命的なのです。なので、極力、私財を持たないようにする。その方が彼らの社会はうまくいくような構造になっているのです。それは資本主義とは全く相容れません。

 彼らの生活が羨ましいとまでは思わないものの、考え方の一つとしてはアリだなと思います。例えば、会社のグループの中で知識や資料、決定権などを「占有」すれば、そこにはきれいなパワーバランスが生まれ、資本主義的な潮流が出来上がります。逆に、諸々の財産を共有し、偏りを無くせば、プナンのような在り方ができます。だからなんだ、というところまでは私の中で考えを深められていませんが、それぞれの文化的な態度にはメリット・デメリットがあるでしょうから、それぞれのバランスを見ながら心地よい組織運営ができるようになるはずです。まぁ、要するに「占有すること」と「占有しないこと」という点が、集団の態度の決定に大きく寄与するということです。

 

『悪口ってなんだろう』

 ゆる言語学ラジオのリスナーの私としては、聞き馴染みのある本が紹介されていました。

 

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 和泉先生の書かれた『悪口ってなんだろう』ですが、『ひっくり返す~』の中でも取り上げられており、とある集団の中で調子に乗っている人間から権力を引き剝がすという機能があると紹介されています。もちろんそれは単に「妬み」と呼ばれる感情だったりするかもしれませんが、しかしその一方で「正しく機能していない」状況を改善するための手段でもあると言えます。

 本書では財産や知識の「所有」というか、「集中」による階級の発生が現代の先進国と呼ばれる資本主義的な集団における様々な問題を引き起こしていることに焦点が当てられています。本書で紹介される民族たちは、こういった「集中」を行き過ぎた状態にせず、うまく人と人の間での平等を成立させる工夫を伝統的に行っています。ので、こういった社会では「悪口」というものがより重要な意味を持っていると考えることができそうです。

 特に上段のようなシェアリング・エコノミーを形成している場合、情報も財産も基本的には集団で共有されるわけですが、そのハブとなるような存在(本書では「ビッグマン」と書かれています)はどうしても権威を持ちがちです。ただしそういった権威は必ずしも固定的なものではないため、そこに属する構成員の人たちの評判によって、権威が向上することもあれば失墜することもあります。そういう社会の中では「悪口」がもっと直接的に平等を生み出すことになります。

 

「うつ病」は存在しない

 本当に存在しないかどうかはわかりませんが、狩猟採集民社会にはうつ病というものが問題になることはほとんどないそうです。本書ではその理由を「個が集団に深く溶け込んでいる」という風に記載していますが、私個人的にはもう少し違うところにあるように思います。

 資本主義社会では自分の能力をより向上させることが求められていますし、能力によって出来上がった序列をもとになった人間同士の関係性もより強制力の強いものとなっており、言い訳ができないようになっています。また、この社会を滞りなく運営していくために、私たちは機械のように定められた機能を発揮しなければいけないという強制力も働きます。そういう社会の中で、無理な努力を続けざるを得なかったり、他者との比較の中で無力感を感じたり、そういう種類のストレスフルな環境がうつ病を引き起こしていると考えられます。

 もちろんうつ病自体には先天的な脳の機能に関する問題もあります。しかし、そういった個々人の先天的な傾向というのは、狩猟採集民社会のような場所では疾患として顕著に表れることが少ないのだと私は理解しました。

 

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 遺伝子×環境という考え方ですね。

 

閑話休題:サラババについて

 自分の意志に反して、意味の通らない卑猥な言葉を発してしまうという疾患がカリスという狩猟採集民にあるそうです。これは一人でいるときには発症しないものらしく、社会的な相互行為場面で、周囲の人々が与える刺激に対する反応であると考えられます。

 そう考えると、現代の日本におけるうつ病も、カリスのサラババのように外部環境からの刺激によって形作られる部分が多いのではないでしょうか。うつ病は一人でいるときも変わらず辛いですが、それも自分の身の回りでは絶えず社会が動いていることを知得することによって、自分が無力であることを痛感し苦しいのであって、仮に社会との苦々しい接続を断ち切って、自分らしく生活ができる環境に身を置くことができるのであればたぶん症状はかなり良くなるんじゃないか。そんなことを考えました。

 カリスのような社会であれば、周囲からの刺激によってサラババが発症するし、現代日本のような社会であれば、周囲からの刺激によってうつ病が発症する。精神疾患のようなものは、その発症のトリガーも症状も社会の形態によって規定される。その有りようは実際には多種多様なものであると考えられます。全く違う社会であれば、全く違う疾患が発症する。そういう可能性を示唆されたように思いました。

 

デス・ネーム

 プナンにとって人間は、身体・魂・名前の三つの要素を備えた存在だとされます。そのうち身体と魂の結合は不安定なもののため、接着剤のように名前が働いているという世界観のようです。したがって、身体や魂に対して何かが起こると、それに合わせて名前も変わるということになるようです。が、むしろ名前が変化するという「刺激」を与えてやることによって、身体と魂をしっかりと定めているという感覚があるようです。この辺はちょっと実感が難しいですね。

 例えばプナンでは妻が死んだ男の名前は「アバン」となり、再婚するとまたもとの名前に戻ったりします。このような習慣をデス・ネームと呼ぶそうです。

 例えば日本の「戒名」とは、生前の「俗名」を捨て独立した存在となり、新しい死出の旅を始める時につけられるものという考え方があります。そのような過程を経て、死者の魂は位牌と卒塔婆に分けて入れられ、儀礼の対象となるそうです。

 対して、プナン社会では、死者のなめは口に出してはならないとされています。どうしても死者について言及しなくてはならないときは「ドゥリアンの木(棺の素材を示す)の男」などと呼ばれます。このように死者は無名化される傾向にあり、かつ上述のとおり死者と関わりのある人々の名前を変えるというやや対照的な動きが見て取れます。

 プナンでは遺品はすべて燃やされたりして、生きていた痕跡を全て消しつくしてしまうという厳しい態度が見られました。死者が出た場合は遺体はできるだけ早く住んでいた小屋の炉の下に埋葬され、住まいは焼き払われ、場所を移動するというくらい、素早く死者を生活からフェードアウトさせます。これは狩猟採集民として、狩場を求めて転々とする生活を考えると合理的な習慣と考えられます。日本のように、というか資本主義のように後生大事に墓を守っていくというような考えがある場合、ひとところに留まる必要が出てきます。

 が、しかし現代の日本ではもはやあまり代々墓を守っていくというような感覚はなくなってきており、それに伴い、狩猟採集民的な死者への態度が生まれてきているように考えられます。これは資産や権力を代々引き継いで、貯蓄していくという生き方からの脱却とも結びついているかもしれません。

 

自然に対する考え方

 紀元前七世紀頃の古代ギリシア哲学にまで遡ると、ギリシア哲学が「自然」というものを、人間が飼い慣らすべきものとして捉えるようにしていったことがわかります。それまでは「自然」は何かを生み出すものだと捉えられていたのが、プラトン以降のギリシア哲学では、「自然」は生み出されたものであると捉えられるようになりました。十三世紀以降には、人に危害を加えた動物を裁判にかけるなどの動きも見られるようになり、次第にデカルト、カント、ヘーゲルなどの手によって自然哲学が完成していきます。そこでは、最終的にヘーゲルの「主奴の弁証法」において、「主(人間)」が「奴(自然)」に対して弁証法的に覇権を確立するという見方ができあがりました。

 つまり、「主体」である人間と、動物などを含む自然を「客体」とし、人間と自然の二元論が我々の思考の前提として確立しており、工場畜産のようなものも現実のものになっています。工場畜産が悪であると決めつけるわけにはいかないですし、私達の生活もそれなしでは成り立たなくなっています。が、だからといって、そのままその延長線上に立っていていいのかは議論の余地があると、私も常々感じています。

 昔は野良犬は一頭ずつバットで殴り殺され、焼却炉に放り込まれていましたが、苦痛を和らげて殺処分するために「ドリームボックス」というのが導入されました。これはボタン操作で装置の中に閉じ込め、そこに炭酸ガスを注入し、窒息死させるものです。工場畜産含め、動物の血や固体の死に接することなく、動物を管理することを私達人間は続けています。

 こういった状態をどのように改善していくのか。それはかなり難しいものですが、上田岳弘の『私の恋人』という小説の中で、興味深い一節があります。主人公の井上と反捕鯨団体の活動に参加している恋人のキャロラインとの会話です。

「逆に聞きたいですけど、どうして、わざわざ鯨を食べる必要あります?」

「よくわからないな。牛とか豚はいいの?」

「ほんとうは駄目よね。でもひとつひとつすっきりさせないと、もっと駄目ですね? かわいそう、思うのは自分に近い存在だから。そうですね? ロブスターより鶏かわいそう、鶏より豚かわいそう、豚より鯨かわいそう、鯨よりイノウエかわいそう。近いところからゆっくり広げていって、かわいそう、広げていくの」

 この一節を読んで、なるほどなぁ、と思わされました。私もやっぱり主人公の井上と同じく、「どうして鯨ばっかり守ろうとするのか」がよくわからなかったんですよね。それが妥当なのかは色々と考える必要があると思いますが、少なくとも「鯨」から保護しようとするという方針は何となく腑に落ちました。凝り固まってしまった「人間」と「自然」に対する二元論を緩和し、新しい価値観を作り上げていくうえでは、まずはこういった小さな一歩が必要なのかもしれません。

 

川に対して法人格を認める

 ニュージーランドの先住民マリオは、ワンガヌイ川に「人格」を認めてきました。人々は、日々の糧の多くをこの川に依存し、カヌーで旅をし、川岸に村を築いてきました。そんなマリオにとって、ワンガヌイ川は守り、継承していなければならないものであり、開発の話が持ち上がる度にそれに反対し、川の法的な人格権を政府に求めてきました。

 この訴え、考え方は2010年代に入って急速に認められ、今では世界の様々な国において川や山に法人格が与えられるようになりました。インドのガンジス川もそうです。例えば、川の氾濫を災害であると捉えて治水工事をしたり、あるいは利水するだけの資源と捉えたりするような人間本位での「自然」を屈服させるという二元論的な考え方を見直すことにも繋がります。

 

最後に…

 本書では様々な固定観念をぐらつかせ、今一度色々な考え方、生き方があるということを思い知らされてくれました。それはあるいは建設的な議論にすらなっておらず、「いや、そんな前提までひっくり返されたら、何も議論できないじゃないか」という反感を買ってしまう可能性もあります。しかし、そうやって前提から疑ってみることが、人類学の肝であり、行き詰ったこの現代においてブレイクスルーを起こすものという気もしました。

 

 この本を読んだのはもう2か月以上も前のことになりますが、読書メモを作る元気がなくて、だらだらとしてしまいました。年末にようやく暇ができたので、何とかざっと書き上げることができましたが、今後もこの読書メモが続けられるのか。現時点でだいぶアバウトな記事になっていますが、それでも私には書き上げるのが大変なので、もっとカジュアルな形・分量にしていくべきかもしれませんね。

 新書はしばらく読んでおらず、いまは専ら小説を読みたい時期なので、次は小説の読書メモを書けたら……いや、難しいかな。まぁ、とりあえずあまり負荷にならない程度に、読書とそれに伴う記事を何かしら書けていけたらいいなと思っています。

 それでは今年もありがとうございました。

"アンファン・テリブル" 林仁愛が歌う『ShyなDestiny』

 

衝撃

 

 会社の昼休み、何気なく開いたXでよくわからないポストが。

 

2024.12.23 at am12:00

 多くのハロヲタの希望となっている研修生の仁愛ちゃんが何かしらを歌うらしい。「メメントモリ」ってよくテレビのCMとかでやっているソシャゲじゃなかったっけ。こういう歌を歌わせる感じのプロジェクトもやってるんだ。よくわかんないけど、たとえちょい役でも、外部仕事を貰えるなんてすごいなぁ。

 それくらいのテキトーな気持ちでスマホを閉じて、それから7時間ほど。まぁ、そこそこの残業をなんとなしにやり過ごし、「今日も自分は社会のねじを少し巻いた。それでいいんだ」と変わらぬ日々に言い訳をして帰路についたのですが、電車に揺られながらXを開いてみると何やらタイムラインが盛り上がっている。

 

youtu.be

 

 4分31秒…だって……? 結構ガチってこと?

 え、イントロからめっちゃ楽器が鳴ってんじゃな…って、おい!なんだこの歌声は!? コメント欄は仁愛ちゃん絶賛の嵐。13歳。去年までランドセル背負ってた。

 そうだよ。これなんだ。これが仁愛なんだよ。いや、ちょっと本当にカッコ良過ぎる。てか、誰がこんな抜擢してくれたんだよ。天才かよ。

 

情報収集

 一回、落ち着いて。これはいったいどういうプロジェクトなのか。まずはそこから。

 

「メメントモリ」と言えば、CMを打てるくらいのバックがついてるスマホゲームというくらいの認識でした。ソシャゲなのか何なのかもわからない。ということでWikipediaで調べてみました。

・スマホでもPCでもできる

・RPG

・基本無料でアイテムが課金制

・水彩調のグラフィックと、ラメント≒キャラソンが特徴

 なるほど。仁愛ちゃんは、「ラメント」、いわゆる「キャラソン」みたいなものを担当しているということか。でも、よく見てみると、CV(キャラクターボイス)は別にM・A・Oさんという方が担当されているらしい。だから正確には「キャラソン」ではなく、「イメージソング」みたいなものなのかもしれない。

 もう少しゲームの構造みたいなものも調べてみると、呪いと戦うために魔女でパーティを組んで旅をするみたいな感じらしいです。この魔女はざっと見ただけでも100種類以上のキャラがあり、それぞれに特徴があり、レア度や育成方法などもまとめられていました。ドラクエ、ポケモン世代なので何となく掴めましたね。

 ただ、キャラクターが可愛らしい魔女であり、デフォルメされたものというよりは、一見すると見わけをつけるのが難しい、複雑な水彩調の画風であるということ。そして、それぞれのキャラクターにCVと「ラメント」≒「イメージソング」があるというのが新しいですし、また興味を惹かれるところですね。

 キャラクターが100種類くらいいて、それぞれに「ラメント」があるということを考えると、仁愛ちゃんがゲームの中でとても目立つ位置に来る、というわけでもなさそうです。しかしながら、他にどんな方が「ラメント」を歌っているのかを調べてみると、声優業界とかに疎い自分でも知っているような名前がちらほらと。

 田村ゆかりさん、芹澤優さんは私でも聞いたことのある声優さん。ほかにも、山本彩さんやDaokoさん、平原綾香さん。なぜか知っていたあるふぁきゅんさん。それから、田中れいな関連で小倉唯さんも知っていました。

 ここに仁愛が並ぶのか…すげぇ。

 

肝心の曲(ラメント)はというと

 曲名は『ShyなDestiny』という、どこかハロプロっぽい雰囲気。ほかの楽曲も見てみると英語の曲名が多かったり、どこか文学的な雰囲気を纏っており、ちょっと異質な感じです。そして、実際に再生してみると、ほかが壮大ないかにもゲームっぽい、RPGっぽい音楽であるのに対して、ファンクジャズのこれまたいかにもハロプロっぽい楽曲。

 これ、応募制なのかな。アップフロントが『ShyなDestiny』でコンペに応募して、グループに所属していない研修生の中からトップクラスの仁愛ちゃんに歌わせたみたいなこと? それかアップフロントに声がかかって、そこから曲を作り始めたのかな。少なくとも、仁愛ちゃん1人が指名されて、それでメメントモリ側から曲を与えられたって感じはしないですね。それくらい、まじでハロプロっぽ過ぎる。ていうか、『素直に甘えて』とか『Tokyoグライダー』辺りのJuice=Juiceっぽ過ぎる。初期の娘。っぽいファンクも感じるけど。

 そして、それを当然のように乗りこなす仁愛ちゃん。「好き嫌いじゃない」とか「キラ★キラ★キラ」の「ラ」の発音とかヤバいですよね。もうこの「ラ」の1音だけで、「マジで早くデビューしてくれ!」ってなります。低音もばりカッコいいし、高音も地声でいけちゃうし、英語の発音もいい。ファルセットだけは、もっと伸びる余地がありそうですが、それでもそれがむしろ幼さを引き立てて良い。

 ていうか、息の混ぜ方にめっちゃセンスを感じます。それと何度も言いますが発音。ほかにも例えば間奏明けのBメロの「真っ赤な表情が」の「表情っんがぁ」みたいに「っん」とリズムを溜める感じとか、随所に音楽的な才能を感じます。ディレクションの賜物という部分も多分にあるでしょうが、実力診断テストで仁愛ちゃんのスキルの高さはみんなが知るところだと思いますし、本当に将来が楽しみな子ですね。そして、こういう子にはどんどんチャンスを与えてほしいです。

 いやぁ、本当にいい曲だし、仁愛ちゃんもめちゃくちゃ光っています。

 ほかの曲もちらっと聴きましたが、どちらかと言えば、静かに座って歌っている感じだったり、仁王立ちで天を仰ぎながら歌う感じだったり、歌手や声優感が強いイメージでした。そんな中で『ShyなDestiny』はいかにもハロプロっぽい、つい体がリズムを刻み、踊りながら歌ってしまう感じなので、逆に目立っていいんじゃないでしょうか。

 マジでこの曲ごと、仁愛ちゃん、Juice=Juiceに来ないかなぁ。絶対、合うって。

 

願い

 お願いだから、第1に健康。第2に公私のキャリア形成。そして、第3に、はよ、デビュー。大切にはしてほしい。けど、この才能を早く光の下へ。

 ソロデビュー説を唱える人もいますが、今の時代にソロデビューはちょっとイメージがつかないですね。となるとJuice=Juice贔屓なので、伸びやかで力強く、お洒落な歌声が活かせるJuice=Juiceは大本命。実診1位(BP)の系譜もありますし。あと、スタイルの良さ的にもJuice=Juiceで並ばせたいところ。

 でも、圧倒的なエースとして、モーニング娘。から華々しくデビューするのもアリですよね。ゆくゆくは小田ちゃんからパートを引き継いで、りおりおやはるさんと並ばせたらめちゃ強そうです。アンジュは卒業が重なっていることもあり、ここも歌のエースが欲しいところかと。れらぴとケロを軸に、ぺいぺいと仁愛ちゃんの両翼みたいなのは見ていて面白そうです。ビヨはまぁ、直近のオーディションの方向性から加入はないでしょうが、つばきもベビキャメとの食い合わせがあまり良くなさそうなので、あまり可能性はなさそうです。楽曲は似合いそうなのが結構あるんですけどね。オチャとロージーはまだ新メンバー加入というタイミングでもないですかね。ロージーの方は、デビュー直前に電撃加入という可能性もまだ残されているでしょうが。

 新グループの中心メンバー……つまり、佳林ちゃんパターンというのもなくはないですかね。でも、何となく仁愛ちゃんからは、孤高感ではなく、可愛い後輩感の方を感じるので、新グループよりは既存グループでお姉さんに甘やかされる方が似合ってそう。

 と、妄想がはかどりますね。いやぁ、改めて将来が楽しみな人材だな、と思いました。

 しばらくは『ShyなDestiny』を聴き続ける毎日になりそうです。

 それでは。

みっぷる17歳!初バーイベ!@2024.12.13 LANDMARK HALL

 勿体ないし有休使っとこ。

 今日は適当に休みを取っていた1日だったのですが、ハロプロのイベントを探していたらなんとみっぷるのバーイベがあるじゃないですか。しかも、当日券もある!これは行くっきゃない!ということで、病院とかの諸々の予定を済ませた後、横浜に向かいました。

 

※写真は終演後(当日券は1部のみの発売だったので、2部は観られず…)

 

 

セトリ

1.選ばれし私達/Juice=Juice

2.エキストラ/KAN(譜久村聖)

3.ポツリと(Dance Performance)/Juice=juice

4.アジアン セレブレイション/Berryz工房

5.青春Say A-HA/モーニング娘。'17

6.白いTOKYO/ZYX

7.如雨露/Juice=Juice

8.ずっと 好きでいいですか/松浦亜弥

9.笑顔に涙~THANK YOU! DEAR MY FRIENDS~/松浦亜弥

10.夜明けまでのララバイ/宮本佳林

 

 Juice=Juice楽曲を主力に持ってきながらもハロプロ楽曲を幅広くカバーしているのと、比較的古めの楽曲が目立っていたように思います。私でもあまりちゃんと知らない曲が多いという…X等のポストを一部参考にさせていただきました。さすがに初見の曲はありませんでしたが、曲名がぱっと思いつかず、サビでやっと思い出すみたいなことが多かったですね。

 みっぷるのお母さまがハロプロ好きだという話だったと思いますので、そこから色々と学んでいたという感じですかね。なんて言ったって、研修生時代に田中れいなさんと『大きな瞳』をやっているくらいですから。ヲタクとしての勘所がいいですよね。

 

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 個人的には、『エキストラ』と『青春SAY A-HA』が良かったですね。みっぷるの良さは肌の真っ白さ、お喋りなところに留まらず、やはりその輪郭が際立っていつつ滑らかな歌声にあると思うのですが、その声質の良さを存分に堪能できたのが『エキストラ』でした。バラードでこそ、この透明感あふれる歌声がダイレクトに心に響き渡る。それに普通に柔らかく歌うのも凄い上手でした。どうしてもグループのコンサートでは、迫力のある歌い方が求められることが多いですが、みっぷるにはこういったバラード曲も時折歌ってほしいし、みんなに聴いてほしいですね。

 歌声というところで思ったのは、高音成分が多く、発声の良さ・明確さという意味では、いま一番Juice=Juiceのオリメンの要素を持っているのがみっぷるなのではないか、ということ。いずれ金朋や佳林ちゃん、さらには紗友希ちゃんといった伝説のオリメンたちを包括したようなアイドルになってくれるのではないかと感じさせてくれました。特に次の曲が『ポツリと』で、ダンスパフォーマンスのみだったのですが、音源にはオリメンたちの声が乗っているので、そこではっとさせられたんですよね。さっきの『エキストラ』で感じた心地よさは、あのオリメンの雰囲気があったからなのだと。

 でも、そんな回顧的なだけではない。『青春Say A-HA』では、リズム感の良さと軽やかさを見せてくれました。この跳ねるような楽曲をしっかりと乗りこなせるのは、なかなか。オリメンでもそうそうできなかったという気がします。むしろここでは、みっぷる憧れの田中れいなさんっぽさを感じました。というか、私が『青春Say A-HA』を聴くと田中れいなさんを思い出すから、というだけかもしれませんが。なんか江戸っ子っぽい独特の節回しがある曲じゃないですか。それを完璧に表現できていたと思います。

 総じてみっぷるは最高で、希望しか感じませんでした。

 

MCとか何やかや

 関西弁がめっちゃ可愛い。そして、本当にお喋りなんだな、と感じる堂々としたソロトーク。上々軍団さんが出てきたりするのかな、と思ったんですが、一人でやり切っていたことに感服いたしました。まだ17歳だし、初めてのバーイベなのに凄い。

 ただ、なぜかソロトークのコーナーが15分か20分くらいあり、途中で「もういっか。怒られてもいいや」と3分残しくらいでいきなりトークコーナーを切り上げる奔放さも見せてくれました。おそらくですが、最初のMCパートで、チェキ抽選会があり、そこをあまりに巻いてしまったのではないかと推測しています。チェキ当選者4人をくじで決めるのですが、特に喋ることがなかったのか、1枚引いては「おめでとうございます。じゃあ、次は…」くらいのスピード感でどんどん引いていました。結構詰め詰めの構成なのかなと思ったほどでしたが、ただみっぷるがマイペース過ぎただけだったようです。

 他にも最後の方で「言っていいんかな。ダメだと思うけど、でも、今日は大切な先輩とか親友が観に来てくれていて。あ、指さしちゃった」とまた掟破りの奔放さが飛び出し。私も期せずして、私服るるちゃんを拝めてしまいました。私の角度からは他の方は見えず…ちらっと見えた方も、本当にプライベートの親友なのか私には誰かわかりませんでした。泉羽ちゃんっぽくも見えましたが、違うような気もします。

 途中の長~いトークコーナーでは主に松永里愛ちゃん、通称「りしゃん」のことについて色々語って聞かせてくれました。私は里愛ちゃん推しなのでありがたい。他愛もない仲良しエピソードではあるのですが、誕生日になる直前の23時58分頃から電話をして、秒数がわからなかったから適当なタイミングでジャンプしてみたけど、上手くいかなかったみたいな話から、電車で隣り合って座っていたら、りしゃんが自分との懐かしい写真を見ていたという話まで。

 それから小さい頃からジャズダンスを習っていて、なかなか上達しない辛い時期もあったし、先生も厳しかった。でも、お父さんがいつも優しくて、辛い気持ちを聞いてくれた。みたいな話もされていましたね。『ポツリと』のダンスは昨日まで全くの白紙で、自分はギリギリになったときの方が良いものがひらめくというようなことも言っていました。そうなんです。『ポツリと』のダンスパフォーマンスの振り付けは、みっぷるの自作だったんですね。私は、みっぷるはどちらかと言えば「歌」の子なのかな、と思っていましたが、今日のトークコーナーを聞いて、意外と「ダンス」の子なんだと初めて知りました。

 それから、ラストのMCで「お休みをしてたときに、沢山相談に乗ってくれた大好きな先輩の曲をやります」と紹介し、『夜明けまでのララバイ』(宮本佳林ちゃんの曲)をやってくれました。私は佳林ちゃん推しなので、これもまた嬉しい出来事でした。

 って、あれ。田中れいなさん、佳林ちゃん、里愛ちゃんって、めちゃくちゃ私の推しに纏わってんじゃん。そんなみっぷるって、私が推さない理由がないんじゃないか。

 みっぷるのことはもちろんデビュー前から好きですし、今もめちゃくちゃ期待をかけている有望な新人的なイメージで応援していますけど、たぶんもっと好きになるべきなんでしょう。たまたま取っていた有休。たまたま手に入れられた当日券。これは……運命……?

 

おわりに

 みっぷる、いいわぁ。好きだわ。今日を境にぐっと好きになりました。ていうか、私が好きになる要素が本当に多いことに気づきました。ただ、私が本腰を入れて推してきた3人、田中れいなさん、佳林ちゃん、里愛ちゃんはみんなちょっとだけ孤高感があるんですよね。孤高感と言えば聞こえはいいですが、どちらかと言うとみんな独りの世界が好きなタイプかな、と。みっぷるは割とお喋りでかまってちゃんなイメージがあるので、そこだけがあまり経験のないタイプ。だからこそ、ちょっと新鮮な気持ちで推せそうです。

 それはそうと、このみっぷるのバーイベが今年最後のライブになりそうです。Juice=Juiceのクリスマスイベントは、会社の忘年会が入ってしまい、参加できず。あぁ、くそう。ま、いいんですけど。たまには会社の人とも親交を深めることも社会で生き残るうえでは大切ですからね。

 今年はハロプロファンクラブに入会したこともあって、とても楽しい1年になりました。たくさんブログで記事も書きましたね。誰の何の役にも立っていない私のブログですが、まぁ、私が満足しているのでこれはこれでいいでしょう。また、来年も色々なライブやイベントに行って、記録を残していきたいものです。

betcover!! uma tour 2 @ Spotify O-EAST 2024.12.1

bercover!!との出会い

 betcover!!のライブに参加したのはやや久しぶりになったでしょうか。10/29のサニーデイ・サービスとの対バンも友人と行く約束をして、チケットも取っていたのですが、会社のどうしても外せない送別会が入ってしまい……残念。その前に行ったのは、9/12のGRAPEVINEとの対バン、そして6/10のNo busesとの対バンという感じでしょうか。今年、一番ライブに行ったバンドはbetcover!!だったかな、という印象です。もちろん、アイドルのライブ・イベントの方がたくさん行ったわけですが。

 

 

 しかし、私がbetcover!!に興味を持ったのは、2024年の2月頃だったかと。「何か久しぶりに新しいバンドと出会いたい気分……」というときに、DAXのYouTubeチャンネルで良さそうな動画を探して、betcover!!の『超人』に出会いました。

 

www.youtube.com

 

 割と一発で気に入り、ちょうど春先の渋谷のサーキット・イベント「SYNCHRONICITY」に出演するということだったので、友人と観に行くことにしました。イベントの直前にEIGHT-JAMで取り上げられてしまい、「混むか?」という懸念もあったのですが、幸か不幸かtoeが入場制限で観られず、早めにQUATTROに入場しました。そのおかげでかなり前の方で初betcover!!を観ることができ。私は『超人』しか知らない状態だったのですが、初めて触れるbetcover!!の世界観に酔い痴れました。赤い照明と、うねるような楽曲群。ぐーっと引き込まれましたね。そう言えば、このとき『超人』は演奏されませんでした。が、圧倒され、体が火照るほど虜になりました。

 

 と、私の短い短いbetcover!!遍歴を語らせていただきましたが、ようやっと先日の「uma tour 2」の感想を書かせていただこうと思います。

 

セトリと感想

 まずはセトリから。

1.鏡

2.バーチャルセックス

3.翔け夜の匂い草

4.フラメンコ

5.火祭りの踊り

6.不滅の国

7.炎天の日

8.メキシカンパパ

9.母船

10.piano

11.NOBORU

12.狐

13.幽霊

14.壁

15.島

16.超人

17.卵

18.あいどる

19.棘を抜いて歩く

 

 ツアー名の通り、アルバム『馬』の楽曲を中心にやるのだろうな、と思っていたら、まさかの序盤に全部通しでやってしまうという。いかにもbetcover!!らしい、攻めたセトリになっています。『鏡』だけアルバムの順番から外れ、1曲目に持ってこられていたのが不気味でよかったですね。

 柳瀬さんのフルートから始まるという素晴らしい演出で始まった『鏡』。私はとにかくこの曲が好きで。「俯いた私のままよ」の語感が凄い好きなんですよね。母音で「a」が繰り返される感じがたまりません。曲のアウトロでもフルートが演奏され、またライブアレンジもなされていて、そこにもテンションが上がりました。

 そして勢いそのままに「馬鹿野郎!」と『バーチャルセックス』が始まります。この曲はみんな好きみたいで、毎回めちゃくちゃに盛り上がりますね。BPMが速いので、ライブの起爆剤のような位置づけになっていると思います。

 そう言えば……時間を少し巻き戻して、ライブ開始前。O-EASTの2階からフロアに降りてくると、そこでは「馬の鳴き声」が。こんな斬新なSEを聴いたことがありません。途中で曲がかかることもなく、とにかくずっと「馬の鳴き声」。スマホから鳴らしているのか、途中で何度か電話のコール音が会場に鳴り響いたのには笑いました。不規則的なコール音だったので、おそらくあらかじめ準備されていたものではないと思われます。そして会場に入って30分くらいすると、照明が落ちて、「ファール、ファール、ファールコン♪」という謎のSEがかかりました。通称『ファルコンマンのテーマ』、で合っていますかね。ちなみにファルコンマンとは、ベースの方の名前のようです。

『バーチャルセックス』が終わると間髪入れず、『翔け夜の匂い草』へと。FUJI ROCKでは1曲目で、一気にbetcover!!の世界観を示したこの曲ですが、なんて言うかその印象が強くあるので、「始まったな」という感じがありましたね。アレンジではタンバリンも叩いちゃったりして。その勢いのまま駆け抜けて終わります。betcover!!は本当に毎回アレンジも変えて来るので、ライブに行って飽きるということがないです。本当にすごい。そしてかっこいい。

 大好きな『フラメンコ』。demoバージョンのボーカロイドに歌わせているのも好きなんですが、この曲は友人が好きな曲でもあり、歌詞について色々と語り合ったことを思い出しながら聴いていました。「日が落ちてヤりたい時に 切なさがわかればいい」という歌詞に、男のむさくるしい性欲のようなものを感じてたまらないというようなことを彼女は言っていました。一方で、私は男の当事者なので、その感覚をすごく近くで感じるような、逆に作品的に感じてしまうような、まっすぐ受け止められない感じがあったんですよね。男女で感じ方が違うこと、それでもお互いに素敵だと思えること。艶めかしい魅力たっぷりのこの楽曲が、割と原曲に近い形で演奏されたことが、この曲の作品性の高さを示しているようでとても良かったです。

 ここからは少し駆け足でお話ししていこうと思います。

 まずは『火祭りの踊り』。これは音源よりもかなり重たく、攻撃的なサウンドでした。楽曲が持っている良さをしっかりと伸ばして、華麗でありながらも、思わず縦ノリしてしまいたくなるような感じでした。エレキギターのリフがエグい。『不滅の国』は前回、EX THEATERで聴いたときと同じように、バラードアレンジでした。この曲はとにかく歌詞に物語性があっていいですよね。病に伏した愛する人を身近に感じながら、楽曲の世界に浸りました。そして、『炎天の日』と『メキシカンパパ』は圧巻の一言。『炎天の日』は初めてシンクロニシティで観たときから一気に好きになった一曲だったので、ここでも演奏されて嬉しい限りです。原曲に近いピアノ伴奏から始まり、しっかりと心臓の奥底から揺さぶってくれました。スタンドからマイクを手持ちに変え、ロボットダンスのような所作で楽曲にノる柳瀬さんが少し面白かったり。終盤のピアノソロのアレンジも何とも繊細な感じで素敵すぎました。

『メキシカンパパ』は、柳瀬さんのエレキギターの弾き語りから始まりました。ふわんふわんとしたエフェクターを噛ましているギターのバッキングが、情感たっぷりの歌声とよく混ざり合っていました。この曲は、アルバムだと毛色が違い過ぎて、他の曲に比べると聴く回数が少なくなってしまっていたのですが、ライブだとずっと良いですね。意外と歌い上げる系の楽曲で、情感も迫力もあって素敵でした。

 はい。そのようにして、uma tour 2において、アルバム『馬』での楽曲は終わりを迎えます。ふわっと吸い込まれるようにして『メキシカンパパ』が終わると、そのまま『母船』のカッコイイドラムパターンへと。お洒落なイントロが鳴る中、メンバー紹介。ベースのファルコンマンさんのところで、ひと際大きな歓声が。

『母船』も大好きな曲ですし、ライブでは定番ですね。「来たぁ」のところがバンドメンバーの合いの手みたいな形で少しお茶らけていたのが面白く、会場も笑いに包まれました。

 続く『piano』と『NOBORU』は、実はあまり聴いてこなかった楽曲なので、ライブでは何の曲をやっているのかわかりませんでした。うーん、まだまだちゃんと追えていないですね。少しずつ、色々な楽曲を聴いていくようにしないと。もう歳だから、好きなアーティストを見つけても、全曲を押さえるような気概というものがないんですよね。でも、こうしてライブに行くと、「良いな」と思えることが多いので、そうやって少しずつ魅力の沼にハマっていくのもまたいいですね。特に『piano』は不思議な祝祭感があって気に入ったので、今後しっかり聴いていこうと思います。

 ここからはまた知っているゾーン。『狐』、『幽霊』、『壁』はライブでもよく聴くイメージがあります。怒涛の強曲が並び、「看護婦」ではなく、「ファルコンマン」になりたかった『壁』が最高でした。フルートのソロパートアレンジもあって、カッコよかったです。その後に続いた『島』はライブだとあまり聴かなかった印象ですが、リズムパターンがクソカッコイイんですよね。ライブで聴けてよかった。

 そして、『超人』はもう失神モノでした。「Rock'n Roll !!」のシャウトから始まり、緊張感たっぷりの前半戦。いつにも増してクールで、キレっキレでした。ライティングもイカレ散らかしていて最高。後半のフリータイムも相変わらずどうやって合わせているのか、いつ終わるかみんな把握しているのか、意味不明なカオスでした。滅茶苦茶に楽しい時間。体感15分くらいでしたが、YouTubeにアップされている有志の動画を観ると、やっぱり15分くらいはあったみたいですね。

 続いてまた大好きな曲、『卵』。betcover!!で1曲だけ選ばなければいけないとしたら、色々な意味で「包括的」だと感じているので、私はこの曲を選ぶでしょう。不可思議だけれどどこか切なく、懐かしい世界観。優しく、柔らかそうに見えて、どこまでも冷たいような。手を伸ばせば届きそうな親密感がある一方で、どこまでも飛んでいくような壮大さも兼ね備えている。そういうアンビバレントだけれど、一貫した世界観のある素晴らしい楽曲です。そして、音源はもちろんのことライブでもバケモノ級の楽曲。ド迫力なのはもちろん、今回のライブでは、なんかZAZEN BOYSのような即興を披露していたのも面白かったです。最後はうまく着地できたのかできていなかったのか、ちょっとよくわかりませんでしたが、ずばんと終わりました。

 一息挟んで、『あいどる』が始まります。最後にこの定番曲で、抒情的に気持ちを宥めて終わるのかな、と私はもう帰宅準備。「あぁ、いいライブだったなぁ。最後に『あいどる』は反則だで~」と、感慨にヒタヒタしていたらこの後にもう一曲。『棘を抜いて歩く』。うっ……知らない曲だ……すみません。『蛍の光』的なぼんやりと暖かい灯りの美しさを感じたので、このライブを機にしっかりと聴き込んでいきたいと思います。

 と、そんな感じで何とも楽しいライブでございました。改めてこのライブに行けてよかった。O-EASTという会場も最高でした。

 

最後に……

 今更何も書くことがないし、あのライブから1週間が経っているので、感動も少し薄れているような気も……いや、そんなこともないか。即席の高揚感というのは確かに薄れてしまったかもしれませんが、日を追うごとにあの素晴らしい時間を思い出して、胸の内が熱くなります。

 カメラが入っていたので、どこかで映像化されたらいいな、と思うばかり。

 この1週間、ずっと風邪で体調が終了していました。微熱で朦朧とする脳味噌で降っては積もるタスクを迎撃し、その破片でさらに身体を痛めながらも、このライブのことを想い返してどうにかこうにか生きながらえたように思います。音楽は生きる力になるなぁと心底思います。なんていうか、あれだけ素晴らしいものを観られた自分というものに価値を感じるわけです。私は誰に強制されたわけでもなく、ただ外力に流されただけでもなく、きちんと自分の意志と判断でこのライブを観に行った。そして、素晴らしく心を動かされた。それは自分の自由意志だし、自分の感性の豊かさでもある、と。

 心も体も弱々の私ですが、感性だけはまだ終わっていない。もし自分の強みを宣言しなければならないのであれば、きっとこの感性を私は誇ることになるでしょう。もちろん現実ではそんな感傷的で不確かなものは求められていないので、「周囲に流されやすい」という弱点を言い換えて、私は「協調性」を強みとして言うことになるのでしょうが。しかし、そんなしがない私という社会的動物にとって、betcover!!のような素晴らしいバンドのライブで心を揺さぶられる感性が残っているというのは、本当に大切なことなのです。

 次、betcover!!のライブにいつ行けるかわかりませんが、来年もまた沢山ライブに行けるよう、アンテナ高くしつつ、しっかりと仕事を終わらせ、平日ライブにも対応できるようにしておこうと思います。

 それでは、ご清聴ありがとうございました。