消費者というゾンビ/抑圧された労働者の回帰

最近のウチラの国の選挙で起こっていることを見ると、誰もがアメリカのトランプ現象を想起するだろう。SNSでのデタラメでいい加減なアピールが旧来のメディア情報を圧倒する様がそう見えるわけだが、個人的にはこれは単なるブーム(タピオカミルクティーみたいな )にすぎないと思っていて、特段興味深い現象とは思っていない。それでも10年くらいは続くかもしれないが。

だが本家アメリカで起こっていることはより深刻で、トランプ現象の背景には単にSNSのパワーというより、深刻な社会的分断、労働者階級による知識階級に対する敵意がある。

このような分断状況を(前回のトランプ当選にショックを受けたと思われるw)マイケル・サンデルは「共通善common good」の喪失と言っている。

 

 

これは名門大学の入学選抜をクジ引きで決めろと言って話題になった本だが、個人的には米国民が共通の倫理観を持たなくなったことを論じている部分が印象深かった。

著作全体の中では小さな部分だが、彼は共通善の喪失の理由を、アメリカ人が「労働者」であることをやめ、「消費者」として社会に向き合うようになったからと言っているからだ。

 

だが、この概念は、労働についての一つの考え方を示してもいる。市民的概念の観点からは、経済においてわれわれが演じる最も重要な役割は、消費者ではなく生産者としての役割だ。なぜなら、われわれは生産者として同胞の市民の必要を満たす財とサービスを供給する能力を培い、発揮して、社会的評価を得るからだ。貢献の真の価値は、受け取る賃金では計れない。

 

トランプ支持者の中心はラストベルトの「忘れられたアメリカ人」だとよく言われるが、それは要するにある階級の労働者だ。

だがこの著作でサンデルが(小声で)言っているのは、彼らが労働者階級としてではなく、ある(情報?)消費者として現れているのではないかということだ。 無論これは都市のリベラルな知的労働者であっても変わらない。

サンデルは特に共和党/トランプ支持者に対してそれを見ているが、彼らのタガの外れた一連の行動は、SNSだのフェイクニュースだの以前に、労働者としてではなく消費者としてのものだと見ており、それを批判している。

 

市民的理想に従えば、共通善とは、たんに嗜好を蓄積することでも、消費者の福利を最大化することでもない。

 

個人的にはこれは興味深い指摘だと思う。

彼らが(かつて)倫理的であったのは、労働を通じて現実の社会に対する責任と義務を負わされていたからだ。この拘束の引き換えに社会的貢献の意識を得ている。労働を通じて社会全体にコミットすることで自尊心と規範意識を得ているわけだ。労働賃金の価値はそこにおいては二の次だ。

だがいま「労働者として社会とコミットする」ことをしなくなっている。 彼らの労働の意義が徹底的に軽視され、その価値が根底から奪われているからだ。彼らは労働者としては顧みられることがない。

 


余談になるが、サンデルは米国の学者だが、正直日本のウチラにとってはこの手の問題に関しては欧州大陸の議論のほうが馴染み深い。 そういう視点からは、要するにこれマルクスだよねwということになる。

英米の議論ではマルクスの名やタームが回避される傾向にあり、そのせいでウチラ的にはいまだにそんな議論?と感じることも多い。 たとえばラストベルトの労働者が苛まれている様々な事柄についてサンデルは色々な言い方をしているが、それは要するに「労働疎外」と言っていいものだ。 多分あと20年もすれば、サンデルは「万国の労働者よ団結せよ」というような意味のことを言い出すだだろうw さすがに資本家を打倒せよとは言わないだろうがw、生産者/労働者としての階級意識こそが共通善common goodに近いものだと考えるようになる気がする。


 

個人的には、日本においても事態はそう変わらないと思っている。 少なくとも現在は、誰もが社会における自分を「消費者」と規定しているからだ。 実際、労働の局面において尊厳ある個人でいられる人は少ない。誰も取り替え可能な部品に過ぎないのだ。だがある時期以降、我々は自分の消費行動によって他の誰でもない自分になることができると思うようになった。しかも「消費者倫理」とでもいった拘束を抜きにだw 労働者の疎外状況を、消費社会はあるやり方で解消するかもしれないとは吉本隆明が指摘したことだ。

 

だがそれでも、やはりアメリカで起こっていることとは違っていそうではある。多分日本で起こっていることの主役たちは、例えばアメリカのように明確な階級クラスタ、所得階層としては現れないのではないか。

 

米国における労働の価値の剥奪は、身も蓋もなく低賃金として現れる。彼らの労働の価値が徹底的に毀損され、それは現実的な貧困に帰結している。

それは単なる貧困ではない。彼らはこれまでだって貧困だった。だが今起こっているのは労働者としての人間的価値が丸ごと奪われる「疎外」状況だ。 (この著作でサンデルは、労働者の低所得が彼の尊厳や自尊心の毀損に結びつく理由を詳細に論じている)

 

この疎外状況を、SNS情報の消費主体となることが忘れさせている。タダ同然のSNS情報は、貧困労働者でも「消費者」として現れることを可能にした。

あるいは消費者として自己規定することで初めて、社会から「忘れられた」彼らは、それまでとは別の姿で社会に回帰している。(例えば「隠された真実」を知った者のような姿でだ)

 

ただ、労働者がまさに労働において社会にコミットし、そのために縛られる事になったある規範の意識が、消費者において存在し得るだろうか? SNSにあふれるフェイクニュースの摂取が彼らの社会へのコミットメントの回路になるだろうか? 

だがYouTube動画の視聴行動に他者への責任/社会的な責任が伴わない以上、そこに自身を拘束する「倫理」の感覚が生まれるかはわからない。少なくとも現在そんなものがあるようには見えない。

そもそも誰もスマホのスクリーンを一人で覗き込む。商品と一対一で向き合う消費者において分断はイデオロギー的なものでも階級的なものでもない。単に社会的孤立である。

いまだに牛角の何が男性差別なのかわからないオレ

例の牛角の女性半額キャンペーンに関して、以下の記事が面白かった。
特にアレは差別ではないとする勢力の繰り出す理屈ダメさ加減を的確に列挙している点と、それが実際のところ差別であるかどうかについては何も語っていない腰の引け具合もいいw

gendai.media

 

個人的にもこの件では、牛角自身、および擁護者たちの子供じみた主張にうんざり、という印象しか残っていない。

ではオレ自身が牛角のサービスは男性差別だアンフェアだと考えているかというと、逆である。
こんなもの差別でもなんでもない。

 

字義的には差別とは、単に両者に差異があるという中立的な意味と(例えば「商品の差別化」のような場合の用法)、取り扱いの不当な格差という意味で使われる差別があり、後者は何らかの倫理的な「悪」を含意している。
多くの社会的事象について語られる「差別」は後者であり、今回もそうだ。したがって「受忍」を正当化できる「差別」などありはしない。
この「差別」はいわば「正当化不可能な取り扱いの差」のことである。

 

そう考えればコトは簡単で、牛角のキャンペーンに関していかなる「悪」があったかと考えればいい。
女性が半額である事自体はいかなる意味でも悪といえない。これにより彼女たちにはいかなる被害・損害もありえない。
では男性は? 彼らは単に定価を支払うだけであり、これもいかなる意味でも不当ではなく、なんらの損害・被害があるとは言えない。
仮にこれが永続的、固定的な措置であれば、その「定価」設定自体に合理的な疑いがあると言えそうだが、この一時的キャンペーンとしての「女性半額」措置自体には「悪」と呼べる要素はない。

 

したがって問題は、男女の取り扱いの差についてどう考えるかだ。
男女で取り扱いに差があるものはいくらもあり(例えばトイレがそうだ)、男女がそもそも違っている以上それ自体は問題ではない。取り扱いの差が「差別」であるのは、一方に物質的、心理的に不当な被害・損害がある場合だ。要するに(繰り返しになるが)「悪」がある場合だ。

 

女性が優遇されること自体は全く不当なことではなく、また男性が優遇されないことも不当とは言えない。通常通りの取り扱いだからだ。
誰も不当に取り扱われていない。これは「被害者のいない」案件といっていい。ということは「お気持ち」の問題である。
「別にオレは損してるわけではないけど、誰かが得をするのが我慢ならない」という気持ちである。これは正当な憤りだろうか?

 

これは言い換えれば、女性の優遇とは男性の冷遇であり、女性の利益は男性の損失である、と言えるかということだ。
むろん言えるわけがない。単純な事実としてそうではないからだ。
したがってこれは差別とは言えない。
では一体どのようなものが差別だろうか?

 

いわゆる性差別としてよく挙げられるのが、男女の(正規社員の)賃金格差だ。
一般に男女の賃金格差は、その職分/役職による差の反映であり、それ自体としては正当なものだ。(むろん女性の出世しにくさ、という問題は別途あろう)
だが現実には同一の職務内容であっても、女性の賃金は正当な理由のないまま低い。男性と同等の賃金水準であってしかるべき状況であっても、女性の賃金は低く抑えられている場合がある。
ここにある「悪」は男女の差ではなく、女性の損害である。
それが「性差別」であるのは、
1.不当に低い賃金しか得られない、
2.それは女性であるという理由である、
からであり、この「女性差別」は、男性がどれほどの賃金を得ているかとは特に関係がない。
「女性という理由で不当な損害を被っている」から「女性差別」である。*1

 

牛角の件について、男性においてそれと同様のことを言うのはちょっと無理だ。
屏風の中から「男性の被った不当な被害」を出してみせる必要があるだろう。


とはいえ

とはいえ「自分をさしおいて誰かが得をするのがシャクだ」という気持ちは理解できる。この排除はズルだと言いたい気持ちもだ。*2

 

牛角で定価料金を支払うときに、まるで男は女より価値が低いと言われているように感じ、人としての尊厳が傷ついたり、生きづらさを感じる人もいるかも知れない。
自分の背後に並ぶ女性客に、定価を支払う惨めな姿を笑われていると感じ、耐え難い苦痛に苛まれているかもしれない。
その気持ちにはもっともな根拠はなく、退けられても仕方なさそうだが、一方でそれが差別とまで言えないにせよ、男女の扱いの差そのものがもたらす心理的負担感がないとはいえない。

 

それは我々が得たものより失ったもの(得られなかったもの)を重大視する、というよく知られた認知的偏向によるかもしれない。
今や誰も口にしなくなった「平等」なる概念が、普段その価値を冷笑する我々自身に皮肉なカタチで回帰してきたものかもしれない。
なんにせよこの不満感の存在は認めて良いだろうし、なんならケアされてもいい。

 

しかしそんなことより個人的には、このわからないでもない不満感を、たとえば南アフリカにかつて存在したアパルトヘイトと同質の「差別」とする言明こそ問題であると思う。
そのような傾向は今ひんぱんに見られ、何でもかんでも「差別」である。
その安易な濫用のされ方を見ればもはや「差別」など単なるネットミームにすぎないのではないかと思えるほどだ。というより、実際そのように使われているとしか言えず、モヤモヤするw
単に不正確というより、それによって不当に貶められるものや、あるいは隠蔽されるものがあるだろうからだ。
この差別概念のカジュアル化によって、現にある不当な取り扱いが、単にフンワリした価値観だのの差異の問題、お気持ちの問題にすぎないと棄却されかねない。

 

 

 

*1:では、実は女性の賃金水準こそが「定価」であり、男性のそれより高い給与は、企業が何らかの理由で男性だけに与える「サービス」であった場合、これは性差別ではないのだろうか。
→差別ではないだろう。女性になんの損害もないからだ。(法的には問題かもしれないが)
ただ現実社会的には以下の理由により、女性の給与が「定価」であると考えるのは無理である。
・正規労働者の男女比は7:3であり、3割を占めるに過ぎない女性の賃金水準こそが標準であると言うのは無理がある
・この男性の「優遇」が固定的、永続的であること

*2:では何を「不当な優遇」と言えるだろうか?
個人的には、ジェフ・ベソスは彼の企業において不当に優遇されていると感じるがw、それは優遇される人とする人が同一人物(利害関係者)であることが要因である気がする。
またこの観点では「アファーマティブ・アクション」がよく挙げられる。ただこれもその不当性の主張の本質は、黒人の優遇により白人が被る不利益が不当なものだとの疑いだ。

「ヒルビリー・エレジー」について

アメリカ共和党は副大統領候補にJ・D・ヴァンスを選んでいる。
彼はアメリカ中西部ラストベルトの白人貧困層出身で、エリート階層にまで独力で上り詰めた男だ。
トランプ前大統領の支持層にとっては理想的といっていいキャラクターで、だからこそトランプに気に入られたのだろう。

トランプ自身は例の銃撃事件以降発言のトーンを落としていたのに代わって「過激な」発言を受け持って目立っていた。もともと彼の政治姿勢は極右と言っていいものだ。
ただ最近はトランプの発言も元の「過激さ」が戻ってきており、今や共和党の候補者は2人ともボケ役の漫才みたいになってて、印象が散漫である(笑
民主党のハリス副大統領が、従前の評判とは裏腹に、オモテにでてきて印象がいい人物なのに焦ってるのかもしれない。
むしろヴァンスの副大統領としての資質こそ疑問視される様になっている。

 

 

彼の著作「ヒルビリー・エレジー」は、企業家として成功した彼がその貧しい生い立ちを語ったものだ。
だいぶ以前にこれを読んだときの印象は、実はあまりよくない。
というか面白かったのだが、著者がとにかく俯瞰的、反省的、批判的な見方をしないのだ。要するに自分のことしか考えない。

彼は少年期は、薬物中毒の両親を離れて祖母に育てられるなど、とんでもなく貧しく悲惨である。
彼の崩壊した家族に限らず、地域社会全体が暴力だの貧困だの犯罪だの麻薬だのであふれている。
変化や教育を拒み、古臭い価値観や閉鎖的な人間関係を守り続けた結果、地域丸ごと貧困に落ち込み荒廃していったような社会だ。

彼はそこからアメリカ社会の頂点、上位1%の富裕層にまでのし上がる。
彼は頭がよくて努力家で、計画性があり意思が強い。貧困社会のなかで、周囲に染まらずに独力で階段を登っている。
一方で、彼が経済的、社会的に成功したのちも、自分の過去の劣悪な環境に疑問を持つことはない。

下層社会を取り上げる「社会派ドキュメンタリー」は、大抵リベラルなインテリによって書かれる。
貧困や格差などの社会問題が批判的に分析され、不正義が告発されたり改善が提案されたりする。
だがこの「ヒルビリー・エレジー」にはそのような視点はない。
成功者の自伝だということを差し引いても、そういう社会環境への頑ななまでの(読んでてそう感じる)無関心には違和感がある。

ヴァンス自身は、自分が幸運に恵まれたとの自覚があり、それ抜きには自分一人のチカラでそこを抜け出すことは不可能だったと理解している。
それでも貧困層の現実に疑問を持たない。
彼にとって、幸運も含めて自分は自分のチカラで成功し、そうできなかった人たちは単に貧しいままだというだけのことだ。
貧しさにとどまることも、抜け出すことも、結局は本人の問題なのだと言っているようにみえる。

 

ただそれは「自己責任」というものでもなく、悲惨なほど貧しいとしても、それは別に誰が悪いという話じゃないんだという、諦めとも達観とも見えるようなものだ。
誰も手持ちのカードで戦う他ない、という個人の人生観としてわかるものではある。

 

ヒルビリー Hill Billy とは「丘の上にいる間抜け」程度の意味で、アメリカ中西部の高地帯に古くに入植した欧州移民の末裔だ。彼らはその閉鎖的な社会の中で、古い生活習慣を変えようとせず、ずっと貧しいままだ。

この自伝を読みながら、個人的に「ヒルビリー」の姿としてイメージしたのは、映画「ディア・ハンター」の主人公たちだ。
(ヴァンスの育ったオハイオの隣、ペンシルヴェニア州が舞台だ)
この映画の主人公たちも、自分たちの身の回りの、古く狭い生活意識から抜け出すことがないが、あるとき突然意味もわからずベトナムの戦場に放り出される。
彼らは自分たちが戦っている戦争の意味など考えない。
彼らには戦争は、自分の身の回りに降って湧いた個人的な災厄で、いかに自分の責任でそれを乗りきるかだけのものだ。
彼らはそんな等身大の私的信条だけでベトナム戦争という冷戦構造下の米ソ代理戦争に臨む。

出征前夜、彼らは酔いながら「君の瞳に恋してる」を半ばやけっぱちで歌う。
彼らにとって、アパラチア山脈の外にある「アメリカ国家」と自分たちを繋ぐものはポップミュージックくらいしか思い浮かばない。この歌くらいにしか自分たちが米軍に従軍する理由を見い出せない。



「ヒルビリー・エレジー」の描くヒルビリーたちは、言ってしまえば愚かだ。
自分たちの狭い世界観にまったく疑問を持たず、変化する世の中を知ろうとも適応しようともしない。
一方で彼らは、閉鎖的だが排他的ではないし、自責的ではあっても他罰的ではない。要するに悪い連中ではない。
ヴァンスは自著の中で、自分もひとりのヒルビリーとして、素朴といっていい彼らの姿を描いている。


だが彼の著作の語彙と、政治家ヴァンスの語彙は微妙に異なっている。
彼らヒルビリーたちの心情を政治の語彙に変換するとき、排他的な攻撃性が入り込んでいる。
そして彼の著作で語られる(ヒルビリーの)生活信条にはそれを許す隙間がある。

戦争になれば真っ先に戦場に駆り出されるのはヒルビリーたちだ。そんなのはまっぴらだという私的感情が、政治的語彙としては「ウクライナがどうなろうと知ったことではない」という排外的な孤立主義として表れる。

彼の支持者たちは、彼ら自身の語彙とは微妙に異なっている、しかし表面的には同じようにみえる政治スローガンを、まるで流行りのポップミュージックを歌うようにかなり立てている。
それこそが自分とアメリカ国家を繋ぐものと感じている。
あるいはそこにある排他的な攻撃性こそが、自分たちを国家と結びつけるのだと感じている。

(リベラルな都市住民としての)偏りを覚悟で言うなら、彼らのこの素朴さはやはり悪である。
彼らだってヴァンスやトランプの言葉にある違和感に気づいていないはずがない。そもそも自分たちが国家と結びついたからどうだというのか?

だが他人のいう善だの悪だのの前に、現に彼ら自身が、その地域(ラストベルト)まるごと取り残されているという無力感に蝕まれている。それでも自分たちが変わることをしない。彼らは「見捨てられて」いると同じくらいに自分たちを「見捨てて」いる。
彼らの素朴な自己責任の感覚が、どこかでセフルネグレクトと結びつき、それが政治的に搾取されている。


個人的に「ヒルビリー・エレジー」という作品に感じた微妙な不快感の原因はたぶんそれで、この無力が政治により利用され尽くされ捨て去られる様をマイケル・チミノが「ディア・ハンター」で執拗に描いている。

映画「悪は存在しない」2023年/悪ではないなにか

前日以来ほどんど寝ておらず、かなりコンディションの悪い状態で「悪は存在しない」を見た。
さほどエキサイティングな映画ではないが、それでも実際に見てみれば面白く、なかなかに良い映画だと思った。
もっとも果たしてヴェネツィアで賞を獲るほどのものか?といわれれば微妙な気はする。。。

 


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見ていて奇妙な感覚がずっと続く作品だった。
映画のかなり早いところだったが、主人公が自動車で移動するとき、カメラがリアを向いている場面がある。過ぎ去って行く光景が長くスクリーンに映されるわけだ。
憶えている限りでは作中これは2度あり、いずれも主人公の娘が関わるシーンだ。

車内では誰も後ろを見ていない。そのような場合、普通カメラは前方を、人物の視点を映すものだ。
さしたる意味はないのかもしれないが、不自然なのだ。これは誰の視線だ? 誰がこの光景を見ている?


これは映画としてはホラーやサイコミステリーなどの手法だ。作中人物の視点でも、客観的な映像でもなく、画面に現れない誰かの視線があると思わされる。この感覚がずっと続く。
この視線の主が誰なのかは最後まで明示されない。要するにゾンビは出てこないわけだがw、この作品を見ている間なんとなく意識し続けることになる。


舞台は山梨だかの自然に囲まれた山村。
発端は、ここにキャンプ場開発計画が持ち込まれることだ。しかも東京の芸能事務所の企画によって(!)。当然に極めて胡散臭いw

 
主人公は、小学生の娘と自然の中で暮らしている。
彼らのライフスタイルはかなり自然環境に深く溶け込んだもののようで、山村に住む他の住人より一層自然に近い。
一方で彼の妻(少女の母)は作中全く不在で、写真に写る姿がわずかに現れる以外に何の言及も説明もない。

 

だが主人公のこの土地/自然へのこだわりはこの二人の女、特に妻に由来すると思われ、彼女らを媒介に自然と関わっている。それは村人たちとも違うスタンスだ。
村人は自然の保護と開発の間で揺れている。自然をそのような対象と見ていると言ってもいい。

だが彼にとって自然は、保護したり開発したりするような対象ではない。
彼には自然は、たぶん娘や妻などと同一視されている。

だがラストシーンにおいて明らかになるのは、彼が自然とどう関わっているか以前に、そもそも自然こそが彼を侵食しているらしいということだ。 

 

 

主人公は寡黙で忘れっぽい男だが(娘を迎えに行くのを2度忘れる)、彼のその言葉と記憶の喪失が、彼が「自然」に侵食されていくプロセスらしいとわかる。
これをホラー映画として見るなら、「それ」は彼の身体を乗っ取ろうとする「自然」だということになるw
人と自然との接点で起こっている事として、自然が主人公に「感染」していく姿が描かれている。

というか実際、この作品はホラー映画として見ることが可能だ。
その観点では、実は芸能事務所の男性こそが本作の主人公だといえる。彼は凡庸きわまりない人物だが、まさにごく普通の現代人として、「自然に感染した男」と直接対峙することになるからだ。
彼は曲折を経てその「自然」を理解しようと試みるが、ついにわかり合えない。

 

 

この作品における自然は、宮崎駿の「もののけ姫」で描かれたような、人間との共感、共生を拒む「自然」といっていい。
人間には理解も共感も不可能な、得体の知れないなにものかだ。

 

人との接点で、この「自然」は人間と互いに食うか食われるかの関係だ。
というより、人と自然は、互いを害するようにしか接することができない。それは開発だろうが保護だろうが避けられない事だ。

 

この作品を見ようなどと思った者は誰でも、その大げさなタイトルの意味を考えるだろうが、仮になにかそこに意味があるとするなら、おそらくそのような自然観だ。

 

 

我々の理解の及ばない他者としての自然が、この作品においては女性、子供、動物、死者、そして狂気と重ね合わされている。
なのでロマンチックな見方をするなら、愛する者の喪失を機に壊れていく男の話、と見る事もできる。
ただそれにしても、このジェンター化された自然表象はちょっと気になる。ポリコレ的な観点だが。。。

 

 

 

 

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