いろんな界隈にいる人の脳内垂れ流し

いろんな界隈にいます。脳内垂れ流してます。

廣末裕理の退所をきっかけにジャニオタを辞めて結婚した話

 

2023年10月17日。

“ジャニーズ”という名称が終わった歴史的な日。

 

この単語は今後タブーとされ、使えなくなってしまいました。(そのくせメディアは”旧ジャニーズ”といってこの単語を使い続けてますね)これで私の“ジャニオタ”人生にひとつの区切りができたと言っても過言ではありません。いろいろな界隈に手を出している私ですが、何かのオタクというものになった始まりはジャニーズでした。

気がつけば18年目。私は人生の半分以上の期間をジャニオタとして過ごしています。記録のためにも、自分のジャニオタ人生を振り返えってみようと思います。 

 

と書き出しを書いて5か月ほどで完全にジャニオタを辞めました。そしてそれが大きなきっかけとなり結婚しました。(完全に出落ち)

ですのでこのブログは私のジャニオタ人生のはじまりからおわりまでの記録となります。

ざっくりと時系列に沿って振り返ったり、歴代の自担たちを振り返っていきたいと思います。かなり長くなりそうですが暇なときにでも読んでもらえれば幸いです。

(同時期に複数人推しがいることが苦手な方は自衛をお願いします。)

 

ざっくりと時系列

・2006年初め(ジャニオタになる前)

お正月に放送されていたドラマ「里見八犬伝」の録画を狂ったように見ていました。山下翔央くんが出演されていたドラマです(滝沢さん主演)。おそらくタキツバが好きだった母親が録画していたんだと思います。ただその時はジャニーズにジュニアという制度が存在することも知らなかったので、単にドラマを気に入っただけだったので翔央くんが里見八犬伝に出ていたことも知りませんでした。今回振り返っていろいろ調べてるうちに気が付いてびっくりしました。このブログを書いてて気づけたので振り返ってよかったです。

 
・2006年5月

Mステに出演している嵐に出会います。既に野ブタ。をプロデュースなどで“ジャニーズ”とは何かを知っていた私は衝撃を受けました。「アイドルなのに坊主の人がいる...?」と。そうです、映画「硫黄島からの手紙」に出演していた二宮和也です。この瞬間、私の18年間のジャニオタ人生が始まりました。今考えればかなり変な始まり方ですが、ここから13年間推して彼のご結婚を機に担降りしました。

 

・2007年

翌年の2007年、Hey!Say!7のデビューをきっかけにジュニアという存在を知ります。Ya-Ya-yahもこのタイミングで知り、山下翔央くん・鮎川太陽くんの存在を知って小学生ながら「グループ組んでたのに関係なくデビューするんだ、容赦ないんだな」と思った記憶があります。Hey!Say!7のMステ初登場の回も死ぬほど繰り返し見たし、嵐のTIME魂のDVDも擦り切れるほど見たなあ。(JUMPが出てた)

 

・2008年頃~2014年頃

それから2024年までの16年間、ジュニア界隈に根城(?)を構えることになります。振り返って気付いたのですが、私の18年間のジャニオタ人生の中で推したデビュー組は嵐だけだったみたいです。

もちろん最初のきっかけはHey!Say!7のデビューを機にジュニアという存在を知ったこと。その他のきっかけのひとつはドラマ・バッテリーを見て中山優馬にハマったことで、そこから関ジュにハマります(7WESTやBADなど)。もうひとつのきっかけは後述にもありますが、根暗を発揮してネットサーフィンにハマっていた私が少年俱楽部の無断転載動画にたどり着いたことです。ここからQuestion?とエビキスにドハマりします。この3グループが少クラで輝いていた、毛量が死ぬほど多くてチェーンでジャラジャラと音を鳴らし威嚇しながら歩いていたあの平成ギャル男時代が本当に好きでした。丁度ごくせん3の放送もこの時期で、ジュニア(しかも関西の)なのにBADの二人がメインどころで出演して、映画で玉森さんが出てきたことが当時本当に嬉しかったなあ。Mステに高木雄也と仲間たちで出演して後ろで演奏しているのがQuestion?だったのもマジでアツかった。この録画も擦り切れるほど見ました。

そしてスクラップティーチャーや(高畑君すごい好きだった)中山優馬 w/B.I.Shadowの結成や自然消滅、そして後のスノストやLove-tuneなど。Question?とエビキスが主でしたが、この時期はとにかく幅広く関西・関東のジュニアのオタクをしていました。

ちなみにこの辺りから2次元や2.5次元、ニコ生界隈、ハロプロに48系列、そしてにむすめん。など、いろいろ並行してオタクをしていました。そういやワタナベマホトのオタクもYouTube初期の頃からしてたし、あまりにもこの時期はネットにどっぶりと浸かってました。あとヴィジュアル系にもハマってたのでバンギャでした。そういやバンギャってKAT-TUNにハマるのが割と定説なんですけど(完全に偏見。私の周りのバンギャはジャニーズ興味ないけどKAT-TUNは好きって子が多かった)KAT-TUNにはそんなにハマらなかったなあ(何の話)

 

・2014年~2019年

ビジュアル系から始まったバンドというものへの興味は、その後2014年辺りからライブハウスやフェスに通うほどになり本格的にバンド界隈に入り浸るようになったことで私の中の優先順位からジャニーズを徐々に下げていきます。そんな中でエビキスへの熱がデビュー後に薄れていったこと(ジュニア時代とデビューしてからが何か違って疎遠になるよくあるパターンです)、そして二宮さんの2016年頃の熱愛報道を機にほとんどジャニーズから離れてしまいます。

離れている時期とは言えスノスト、Love-tuneは流石にざっくりとは追っていたり、舞闘冠が好きだったこともあってこの数年前からされ始めた屋良くんと優馬さんが謎のセット売りも好きなアイドルと好きなアイドル、最高じゃん、と追ってはいました。ですが私のオタ活の中では明らかにジャニーズは主要素ではなくなっていました。そしてLove-tuneの全員退所をきっかけに2018年に完全にジュニアから離れ、二宮さんが結婚を発表された2019年で一旦私のジャニオタ人生はフェードアウトする形で一区切りを迎えます。ただこの時はまだジャニオタを辞めた、という自負までには至らなかったです。

 

・2020年~2023年

時間軸で見るとジュニアは2年、ジャニーズ自体だと1年で戻ってきたことにはなりますが、2014年ごろから疎遠に(?)なっていたので、実質6年ぶりくらいに本格的にジャニオタを再開します。

きっかけは、今までジャニーズに1ミクロも興味がなかった友人が急にジャニオタになったことでした。かなり身近な友人だったので、一緒にオタ活をする楽しさからあれよあれよという間に出戻りをしました。(Love-tune退所後のジュニアの動向をマジで何も知らなかったからスノが9人に増えててびっくりしたし、ほとんどのジュニアが年下になってて驚愕した)そこからジュニアをまた全般的に追うようになり、舞台や公演などに勢力的に行くようになります。7MENがバンドだったのでいいじゃんと思い、舞台「幸福王子」で本髙さんに落ちかけたのですが忍者担だった友人に半ば無理矢理少年忍者を布教され、川﨑皇輝担となります。なんと初めて年下の自担ができました。(ちなみに本髙さんもゆるーく推そうとしていたのですが、文春砲でやめました(小声))

2021年あたりからKPOP界隈にも手を出し始めていたので、この頃はかなり忙しい日々を送っていました。

※この友人は↓この友人です↓

 

裕理が退所してしまうかもしれない、と病んでいた私を見かねた友人に(私を無所子ども沼へ引きずり込んだ張本人)「裕理は今の事務所の状況が悪いからって辞めるような玉の男じゃない。あの子はステージに立ち続ける男や。自担を信じろ。」と怒られるなどしていました。

2023年は廣末裕理で現場納めした話 - いろんな界隈にいる人の脳内垂れ流し

 

・2023年

前述の友人とオタ活に勤しむ中、他のブログでも散々書いている廣末裕理(9)のオタクとなります。そしてどっぷりと無所こども沼にハマります。名前を知っている無所がほとんどいない、というかゼロの状態から23年組まで全員の顔と名前が一致するまでになりました。興味が沸いた時に発揮されるオタクの爆発的な知識欲(?)って本当にすごい。

皇輝さんが18歳なことでさえヤバいと思っていたのですが(一応)、あっけなくその半分の9歳。流石に自分でもびっくりしました。(普通に産んでてもおかしくない歳だし、なんならお母さんの方がおそらく歳近い。こわい)

 

そんな中でジャニー喜多川氏の性加害問題が騒動となり、10月17日、”ジャニーズ”という名称が終わりを告げます。この先は、一旦今までの自担を振り返ってから書こうと思います。

 

自担振り返り

嵐/二宮和也

上述したように、2006年に出会った二宮和也を13年間推し、彼のご結婚を機に担降りしました。結局このブログを書こうと思ってから何か月経っても上手く言葉で纏められないほどに、彼への気持ちは大きく複雑です。

二宮さんの頭の良さが好きでした。頭の回転の速さが好きでした。言葉の選び方が好きでした。アイドルなのに根暗なところが好きでした。十代の頃から全然変わらない愛くるしいお顔が好きでした。少し鼻にかかった歌声が好きでした。たまに耳に刺さるダミダミした喋り声が好きでした。見ていて苦しくなるほどに役に入り込む演技が好きでした。捻くれた、尖がった性格が好きでした。芸能人なのに趣味は貯金、好きな食べ物は安くて早いもの。信じられないくらいゲーマー。姿勢が悪い。でもダンスのフリを覚える速さに長け、一度覚えたフリは忘れない。仲の良い芸能人が独特(褒めてます)。絶妙な笑いのセンス。人たらし。私は二宮和也という人間の全てが好きでした。好きすぎて一周回って誰と熱愛が出ても何も思わなかったほどでした。あの熱愛報道からのご結婚までは。

熱愛報道が出た当初は信じていませんでした。というか信じたくなかった。「匂わせ」自体も嫌だし、もしそれが本当ならばそれを二宮和也は許していることになる。私が好きになった二宮和也はそんな人間じゃない。そう思いたかったんです。しかし報道から3年後のツアー中にされた結婚報告。一瞬でいろんな感情が起きました。

13年間ずっと好きだった人に裏切られたというオタクの身勝手な気持ち。13年間ずっと好きだった人がどういう人間なのか結局オタクは何も知らず、アイドルという名の偶像・虚像を応援して思いを馳せているのだということに気付いた虚無感。完全に無関心になれれば楽なのに、そうもいかないほどに大きい自分の中の彼へのぬぐい切れない好きだという気持ち。

それからは二宮和也に関する何もかもが本当に苦痛でした。ドラッグストアやスーパーなどに行くと起用されている商品が並んでいて、お店の中で嵐の曲が流れて歌声が聞こえる。出ている番組を見なくてもCMが流れてきて、画面を見なくても声が聞こえてくる。顔も声も、なんなら名前でさえも本当に本当に苦痛で、家のテレビ線を抜いて「テレビ」という家電は完全にYouTubeやAmazon Primeを見るためだけの画面になりました。あんなに好きだった「二宮和也」という存在が、こんなにも苦痛の対象になる。嫌いで嫌いで仕方なかったです。愛と憎しみは紙一重なんだと悟りました。

そんな彼への憎悪に近い感情から解放されたのはほんの1年前。事務所からの独立を発表された昨年2023年10月でした。独立を知って最初に思ったことが「門出だなあ、めでたい、幸せであってほしいな」ということでした。その瞬間、本当に信じられないほどに、悔しいほどにこの人のことが好きだったんだと気が付き、悔しくて悔しくてつらい反面、心にあったわだかまりが消えました。それからはYouTubeチャンネルやバラエティなども見れるようになり、嵐の昔の映像なども見れるようになりました。むしろ出演されていたドラマや映画は推していた当時より見返している気がします。実はこの振り返りも、二宮さんについて思考を巡らすことができるようになったので書き始めました。そういえば友達と飲んでいる際にふいに「二宮がさあ…アッごめん」と言われ、「いやもう大丈夫になったよ」と言った時に友達たちに拍手されました(笑)友達たち今まで気を遣ってくれてて本当にありがとう。

私のジャニオタ人生を始めた自担、大きな大きな存在です。 

 

Question?/米村大滋郎

2004年に活動開始をしたジュニアのバンドグループQuestion?。オリ曲のほとんどを本人たちが作詞か作曲をし、少年俱楽部では他のジュニアのバックでの演奏もよくしていました。近藤真彦さんとの限定ユニットでナルトのエンディングテーマに起用されていたのでそれで覚えている人も多いのではないでしょうか。しかしながら私がハマったのはおそらく丁度米村さんが退所される直前。ではなぜ私が米村さん・Question?にハマったのかと言うとそう、ネットです。私は中学入学と同時に自分のパソコンを両親に買ってもらい、ネットサーフィンをすることにハマっていました。そんな中見つけた少年俱楽部の無断転載動画。ジャニーズのバンドと言えばTOKIO、だった私はまた違ったタイプのどちらかと言うともっと尖ったロックバンドであるQuestion?に衝撃を受けました。(ちなみにその流れで男闘呼組の存在も知り、ドハマりして実は去年もライブに行きました(笑))ちょうど中学時代からビジュアル系界隈にもいた私にとってQuestion?は「ジャニーズアイドルらしからぬ尖ったバンド」で余計と刺さりました。

お顔はさすがジャニーズ、淡泊でお綺麗。なのに基本的にアイドルスマイルみたいなものは皆無。口数も少なく渋い顔をしてギターを弾いている「なぜあなたはジャニーズにいる…?」というタイプ。でも歌声は少し癖があって甘くどこか切ない。ただハマって1年ほど経った時点で米村さんは退所してグループ自体も人が入れ替わったことで当時とは違う形になってしまったので、リアルタイムをほとんど推せずに亡霊をする形となっていました。端的に言うと米村さんもQuestion?も大好きだったのですが、好きになったのはほとんど過去の形で現在進行形でのオタ活は1年ほどしかできていなかったです。

ですがそこからもずっと米村さんのことは推し続け、退所後にされていたバンドのライブにも通いました。前述したようにバンド界隈にもいたので、結果長く推すことになったんだと思います。今でもずっと米村さんのことを追って退所後のバンドの曲もここ数年で出された曲もずっと聴き続けています。大学受験の時の勉強中に一番聴いていた曲は退所後にされていたバンドの曲でした。そして実は今年も吉祥寺で8年ぶりのライブがあり行く予定だったのですが仕事が入ってしまい、チケットは既に買っていたのでチケット代を貢げただけになりました悔しい。次は絶対に行く。

実はものすごく米村さんは私の人生に根差している自担です。

 

Love-tune/安井謙太郎

当時の私の口癖は「安井謙太郎は日本の宝」でした。髪のトップを筋盛りして(時代すぎる)ぴょんっと跳ねた襟足。丸っこい可愛らしい形の頭。少し角ばったエラ。オタクに隙を見せないかのように“アイドル”に徹する真面目さとストイックさ。そんなキラキラアイドルの彼は喋りが上手く、どこか冷静で、ふとした瞬間に見える少し陰のある表情にとてつもなく惹かれたことを覚えています。

推し始めた時期はQuestuin?とエビキスを追っていた時代でLove-tune結成より前でした。なので今考えれば無所のオタクの始まりって安井くんだったんです。Love-tune結成から退所までの時期は前述したようにジャニーズから離れていたこともあり、ざっくりとは追っているという感じでした。そして全員で退所してそのまま7ORDERへ。ざっくり追っていたにも関わらず、全員で退所という衝撃はさすがに凄かったです。そんなにもこの事務所はクソなのかと思い、ジャニーズと疎遠になるきっかけとなりました。7ORDER結成からもしばらくは追っていましたが徐々にフェードアウトしてしまいました。

正直この遍歴の中に入れるかどうか悩んだのですが、でもやっぱり、私のジャニーズ遍歴の中ではやはり省くことはできない自担でした。

 

少年忍者/川﨑皇輝

友人の布教の一環で見た2020年のTravis Japanの松倉さんのサマパラの配信。「いやいや忍者は流石に子どもすぎるよ」と思っていた私はバックについていた川﨑皇輝さんのNEVERLANDを見て沼に落ち、まんまとジャニオタに戻ります。

この曲の皇輝さん、とっても暗いんです。暗いというか、虚ろに近いかも。でも芯みたいなものも感じてとにかく妖艶で耽美。「この子の表現力は所謂憑依型だ、ヤバい」と感じました。真面目でキッチリした子、というイメージだったので、暗さの中にものすごく耽美を感じる(端的に言うとなんかえろい)ようなあんな風に表現ができる子だとは知らず、脳天に衝撃が走りました。忍者自体は私がジャニーズから離れていた時に結成されたグループだったので本当に何も知らず、小さき小さき頃の皇輝さんしか知らなかったので衝撃がすごかったことを覚えています。大所帯の忍者の中で真面目で喋りが上手くキッチリしていてメンバーをまとめられる学級委員長(もはや先生)のようなキャラの皇輝さんは、アクロバットも出来てダンスも美しく、ステージに立つとキラキラアイドルで、世界観のある曲になると急に憑依します。そしてファンサはメロッメロです。そして実はモチモチ赤ちゃんです。(は?)まあでも何と言っても「川﨑プロ」と呼ばれるほどアイドルとして抜かりない皇輝さんは、絶対的な安心感を持って推すことができる人です。

2024年でジャニオタを辞めた私のジャニオタ人生最後の現場は皇輝さん主演の舞台「町田くんの世界」でした。(まさかのコンサートではないという)急にジャニオタを辞めることになったので、その時点で予定していたジャニーズの現場はこの舞台だけでした。裕理さんの退所からまだ3週間ほどしか経っておらず、行くかどうか自体をすごく悩みました。後述しますが、私は裕理さんの退所をきっかけにジャニーズだけに限らず全てのオタ活への意欲を失いました。裕理さんの退所が辛すぎたあまり、もう何のオタクをする気力もなくなってしまったのです。ですがこんな形で皇輝さんのオタクを辞めることには後悔があったし、ジャニオタ人生最後の現場が皇輝さんの舞台なのはいいんじゃないか?と思えました。しかも最前ど真ん中を自引きしたチケットだったのです。友人にも背中を押され観劇しました。結果、本当に行ってよかった。あんな近さで座って落ち着いて皇輝さんをマジマジ見れなんならまばたきさえも見れて(キモイ)、皇輝さんの息遣いが聴けて(キモイ)、なんなら目まで合っちゃって(勘違い)、そして作品の世界観が最高に素敵で。観劇後に本当に綺麗な気持ちで帰れました。めちゃくちゃ泣いた。ジャニオタ人生最後の現場が皇輝さんの舞台で本当に良かったです。

ジャニオタを辞めた今でも正直皇輝さんを「担降りした」という感覚はないですが、でもどうしてもやっぱり「オタク」とも自認はできません。それでもこれからもどんどん世界の人たちを虜にしていく天才的なアイドル様な皇輝さんと、そして勢いのある少年忍者の活躍が楽しみです。(本当に何様ごめんなさい)

 

廣末裕理

私より先に子ども担になった前述の友人がゴゴキ・無所のスプパラに入ります。そして「すっげえ小さい前髪びっしょびしょの子どもがスプパラにいたから見て」と言われ、ジュニランNEO エピソード5の放送を見ることになります。川﨑星輝の記録を破って最年少7歳で入所した子がいるということは知っていましたが、その程度の知識だった私はここでその廣末裕理という9歳の子どもに出会います。そうです、実は私は廣末裕理担になってからまだ2年ほどしか経っていないのです。

エピソード5はスプパラのダイジェスト映像とCan Do Can Go・明日に向かってが披露された回。そこであまりにも大きな振りでダンスを踊る豆粒みたいなサイズの子どもに出会いました。豆粒が気になった私はそのまま公式Twitterを確認。スプパラ頑張ったよ動画(?)があがっていたので再生し、そこで落ちたのです。その豆粒のような子どもに。無所13人が2列に並んで始まった動画は、1人ずつがカメラに向かって歩いて行き一言ずつ言うことで動画が終わります。前に並んでいた小さい組が先に行く中、びしょびしょの前髪でブカブカの衣装を着た裕理さんは「先に行って」と言わんばかりに年上たちの背中を押し、最後に「ヒヒッ」と前歯の抜けた歯を見せながら笑うだけで去ります。これを見た瞬間に「え、この子まだ9歳なのにもしかして動画の最後に行った方が目立つとわかってやってる...?頭で考えながら”仕事”をしてる...?この豆粒...もしかしてやばい9歳か...?」と衝撃を受けました。これが私が廣末裕理(9)に落ちたきっかけです。まさか自分が9歳のオタクになるとは、そしてまさかジャニオタを辞めて結婚するという人生の転機がこの豆粒のような子どもに落ちたことで訪れるとは。もうそこからは他のブログをお読みいただければ一目瞭然かとは思いますが、裕理さんに出会ってから私のオタ活が一気に変わりました。それまで「いろんな界隈で無理ない程度に追う」をモットーとしていましたが、裕理さんだけは違いました。「1分1秒たりとも見逃したくない、全てを追いたい」と思った人は私の(ジャニーズだけでなく全ての)オタク人生の中で裕理さんが初めてでした。

 

dndkdn.hatenablog.com

 

dndkdn.hatenablog.com

わっしょい・サマステ・大脱出と現場に通い、天てれを小学生ぶりに見て、人生最大の火力(?)をもって全てを注ぐ勢いで裕理さんのオタクをこれからもするんだと、少なく見積もってもこれから裕理さんがハタチになるまでの10年くらいはオタクをできるんだと、そう思っていました。ですが大脱出後、年が明けてからの裕理さんの露出はパタリとなくなりました。2024年になって見れた裕理さんは天てれのお仕事を除くとすこちゃんとのTikTok、インスタの投稿、関ジュにおそらくお別れの挨拶まわりをした際の集合写真だけ。そして事務所の誤爆までありました。信じたくないのに、どう頑張っても退所するだろうと思わざるを得ない動きでした。辞めないと信じたい、でもどう考えても辞める前兆しかない。そんな中、心のどこかで退所する前に書き上げたいと思いながら書き上げたブログが上記の大脱出レポでした。

 

そして迎えた3月31日から4月1日に日付が変わる瞬間。プロフィールページを更新すると、廣末裕理というジャニーズジュニアのアイドルがこの世から消えてしまいました。

 

最初は涙も出ず、ただただ呆然と「ああ、逆に涙も出ないのか」とぼんやりと考えていました。ですがどんどん溢れ出てくるいろんな感情。たった1年ほどしか経っていない廣末裕理担としての記憶。通い詰めた現場での情景や裕理さんの表情。してくれたファンサや声。どんどんどんどん、思考と共に涙が溢れてきて、こんなにも辛いことがこの世にあるのかと、目の前が真っ暗になる感覚でした。裕理さんのいない私の世界には何の意味もないとさえ、本気で考えました。「コマ職人でもいい、コマ買うから、お願いだから私の目の前からいなくならないで」と本気で思っていました。ですがその日の夕方、なんと天才てれびくんの続投決定が発表されました。そして私は全てのオタクを辞め、天才てれびくんのオタク、所謂「茶の間戦士」へとなったのです。

その後の裕理さんの天てれのお仕事を見ていると、去年の夏の裕理さんは9歳とは思えないほど多忙だったということに気が付きました。わっしょい・サマステへの出演、コタツがない家のドラマ撮影、天てれのジオ物語の撮影に新曲(?)のちぃあわせ音頭のフリ入れ・MV撮影・レコーディング。そして普段の天てれの収録もあって、もちろん学校に行ったり宿題があったり。生放送なんかもありました。2024年度の天てれの撮影もしていたということは、夏にはもう退所することは決まっていたんです。退所が決まった中で終わりに近づく自身のジャニーズ人生を歩みながら、その後のてれび戦士としての未来へも歩んでいかなければならない。心も身体も参ってしまうような状況だったんだと思います。わっしょい東京を途中で捌けたり、サマステオーラスが欠席だったことも納得できます。未発達な心と身体であの夏を頑張ってくれた裕理さん。裕理さんは本当にすごい。表舞台に残ってくれたこと、感謝してもしきれません。

私はこれからも、救いようがないくらいに廣末裕理のオタクとして生きていきます。

 

このブログの下書きを読んだ友人に「裕理の良さをもっといっぱい書いて欲しい」と言われ、確かに私は今までレポや自分の感想をブログに残しているけど単純にここが良い!みたいなことって書いてないのか?裕理さんの良さって、私は今までのブログたちで伝えられているのか?と気が付きました。廣末裕理はこの世に生まれ落ちてまだ10年ほどしか経っていません。(5/8で10歳になりました)

仕事仲間のことを「ともだち」と表現する彼は、良く言えばとっても子どもらしい子ども、悪意を持って表現すると”クソガキ”だと多くの人は捉えているのではと推察します。(実際そんなツイートもよく目にします)ではなぜアラサーの私がこんなにも魅了されているのか。せっかくなので書いていこうと思います。(?)

 

1.ビジュアル面

まずあのそら豆のようなキュートでプリティーなフェイスライン(褒めている)。あまりにも愛くるしすぎるまん丸とした後頭部。猫背で少し姿勢の悪い後ろ姿。全然座る気配のない首。昨日酒飲んだ後にラーメン食べた?と聞きたくなるほど浮腫んでいることがあるお顔は、急にキュルキュルにビジュアルが爆発することがあります。(子どもは毎日が成長なので割と顔の造形はコロコロ変わる)会議中のおじさんみたいな表情をすることもあれば、信じられないほどあざとい表情をしていることもある裕理さんは口元がとにかく表情豊か。小学生なので肌は焼けていてずっと真っ黒。挙げるとキリがないほど裕理さんの造形は良いのですが、あまり書きすぎると単なるショタコンだと思われてしまうのでこの辺りで切り上げます。

2.内面

次に中身。おそらく多くの人は何が?と思うかもしれませんが、耳が痛くなるほどの音量と音程で叫ぶ彼は、実は単なる「元気なだけの子ども」ではありません。

もちろん騒ぐことも好きだし舞台上で演技中に「飽きた」という表情でもじもじしてしまうこともあるので我々大人が想像する子どもらしい面ももちろんあります。が、裕理さんは案外人と群れずにひとりでふらっとしている一匹狼的な面があったり、騒がずに無口でいたいタイミングがあったりと、多くの人が想像する「廣末裕理」とは違った一面がたくさんあります。

これはご存知の方も多いと思いますが、裕理さんは「この歳で筋トレやアクロバットの練習をしすぎると筋肉が付きすぎて身長が伸びないから今はまだしない」とわっしょい東京の際に言っていました。ドームであの人数のオタクを目の前にして物怖じせず言い放てる裕理さんは、実はあまりにも落ち着き払っている子どもなのです。

忍者の青木くんが友達だと言って「先輩じゃなくて友達?!」と周りにいじられると「これは本当の話なので。」と早口大御所顔ガチトートンで言ったり、HiHiの瑞稀くんに「ヘッドセットで耳がぺしゃんこだね」とからかわれると「それは...しょうがない。」と落ち着き大御所顔で返したり、会議中の部長か?というようなすごく渋い顔をしながらなんだかすごく絶妙なテンポ感で話す裕理さんは、世間の人が思っているクソガキ感とはかけ離れた、大御所のような独特の空気を漂わせた子なのです。懐いている年上が阿達慶くんとか壹岐碧ちゃん、青木滉平くんなのも少し納得いきませんか?(と書いたものの阿達慶くんとのわっしょいの際の島動画なんかすげえうるさいガキだったので説得力に欠けるか...小声)

そして私たちの想像を超えるほどに「仕事人」で「努力家」な裕理さんは、「もしかして物凄く頭で考えての言動か...?」と一人のお仕事をしているアイドルとしての意思を感じることが多々あります。例えば上述した私が裕理担になったきっかけの動画もそうですし、東京ドームで言い放った筋トレ云々の件もそうです。もちろん親御さんの教育の賜物でもあるかとは思いますが、裕理さんの中にお仕事に対する美学やモットーといった「意思」をすごく感じるんです。ダンスなんかでも感じます。ブレイクダンスのムーブ(?)を取り入れてステージと身体を一体化させて周りから浮くほどのアレンジを効かせたあのダンスは、裕理さんのあまりにも練り上げられた「意思」そのものです。(アイドルだから一体感のあるダンスをしなきゃいけないことはまた別の話)ジュニランで披露したCan Do Can Goも、見た当初は「でっけえ振りでダンス踊ってるけど身体がまだ小さいから遠心力とかに負けてるのかな」くらいに思っていましたが、わっしょいとサマステに入って確信しました。あれは意図的な振りの大きさです。あれは彼の意思で可能な限りの振りの大きさにしているんです。そして2023年夏を乗り越えた裕理さんは元々ずば抜けてよかったリズム感と自身のダンスに対する「意思・パッション」に、ダンスそのものの「スキル・テクニック」を加えた姿を冬の大脱出で見せてくれました。成長が本当に段違いでした。末恐ろしすぎる9歳です。(大脱出の裕理さんのダンス、観劇した人の記憶にしかないのが本当に悔しい。伝えたいのに私の駄文じゃ伝えられない。)

コタツがない家の収録でも、おそらく彼なりの「この演技はOK」というラインがあってそこに達しているかどうかを考えてドラマ撮影をしていました。そして普段の裕理さんよりも遥かに「かわいい子ども感」を演じていました。「いつもセリフも完璧、現場での物怖じしない堂々とした姿はとても尊敬します」とスタッフの方に言っていただいた裕理さんは、大脱出の演出家の方からも「マイペースでいながら周囲をよく見ている大人」と表現されています。

最新のエピソードで言うと、天てれの放送のAIについて学ぶ?遊ぶ?コーナーで、「研究とか新種の発見とかもAIがやったら嬉しくない」とAIと労働について懸念を提言していました。そんな彼の最新の将来の夢は「飴細工職人」です。廣末裕理の歴代の将来の夢は「コマの達人」「書写の達人」「飴細工職人」「発明家」。おそらく「何かを極めている人間はかっこいいからそうなりたい」という信念が彼にはあるようです。そして裕理さんはおそらくかなりの負けず嫌いで努力家です。天てれの早口言葉の企画では、家で練習するために早口を印刷し(馴染みのない方言の早口言葉)、区切りに/(スラッシュ)を書いて自主練をして見事昇段(?)。スケボーの企画では「できるよ、練習したら絶対」とまるで日向翔陽のようなことを言い練習していました。そんな裕理さんはおそらく結構神経質で、サマステの練習中に食べていたアンパンマンのキャラメルコーンの吊り下げお菓子の袋を丁寧にちぎり、TikTokのプロフィール動画(?)ではソフトクリームを周りから一口ずつ啄ばんでいました。あのうるさい廣末裕理が実は案外静かですごく頭で考えて仕事をしていて、でも負けず嫌いで努力家で、実は神経質でって...............最高に沼じゃないですか?

そして私が感じる裕理さんの良さのひとつに「一貫こども」という面があります。裕理さんは公の場で口にする言葉に一貫性があり、私はこれを一貫こどもと表現しています。(?)どの雑誌でも笑顔、スマイル、笑い、元気を大事にしていると発言し続けている裕理さんは、何か文字を書いて披露する際には必ずニコちゃんマークを描きます。将来の夢はジャニーズのお笑い担当になると言い続け、去年の夏の俳句は「なつやすみ みんなのえがお なつやすみ」でした。退所後の天てれでも「元気の良さが売りなんですよ」とおじさんみたいな顔をして胸に手を当てながら言っていました。上述しているように将来の夢にも一貫性があり、廣末裕理という人間は自分の「意思・信念」を貫けるそんな10歳なんです。

 

あまりにも小さい彼の可愛さの表現の仕方でよく人は「私が産んだ」と表現しますが、私は全くもってその表現はしません。あれは人の子で、自分の意思を持って、自分の頭と身体で生きて仕事をしている「廣末裕理」という他人の子どもなのです。(思想馬鹿強感情ですごめんなさい)

過大評価だ、フィルターにかけすぎ、と思う方もいるかもしれません。でもそれでも良いんです。アイドルだから。偶像だから。過大評価だとしても、フィルターにかけすぎだとしても、アラサーのおばさんにここまで思わせるんだから、結局廣末裕理ってすごいんです。

 

締める前にいつも通り宣伝(?)を

↓新曲の「ちぃあわせ音頭」です。1分16秒~の裕理さんの腕を回しながらのステップ、めちゃくちゃ良いので見てください!!!!

 


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↓テーマ曲「ネクタリン」の奈良バージョンです。この収録に行くかめちゃくちゃ悩んだのですが、あまりにも子どもたちだらけすぎてアラサーおばさんが子どももいないのに来てたら気持ち悪がられるだろうなと思って自重しました。


www.youtube.com

ジャニオタ人生のおわり

ジャニー喜多川氏の騒動が起き、ジャニーズという名前がなくなり、私の小さな小さな自担はまだ9歳という年齢で事務所を去らなければなりませんでした。いろんな意見があって、いろんな立場があって、そして当の本人は既に他界されいる。あまりにも闇深く、あまりにもいろんなことが複雑に絡み合っている騒動。ですので一概に「9歳が騒動に巻き込まれて辞めさせられた!」と誰かを責めるつもりはありません。誰かに「辞めろ」と言われたり圧力をかけられたのかもしれないし、逆に「こんな状態の事務所にいつまでもいられない」という親御さんや本人の意思・判断だったのかもしれない。どんな可能性だって十二分にあります。NHKに出続けるためには退所するしかなかったことは明白だとは思いますが、結局オタクである私には何をどれだけ考えても真相はわかりません。わかる事実は、どんな形であれ裕理さんのこれからをこれからも見届けられることができ、私が廣末裕理のオタクであり続けられるということです。裕理さんは未来への大きな一歩を踏み出し、そして私は廣末裕理のオタクであり続けられる。廣末裕理という最高な自担のオタクであり続けられるのであれば、もうジャニーズでも天才てれびくんでもなんでも良いんです。(それでもやっぱりNHKがジャニーズの起用を再開したことには憤りを感じます。この気持ちを消化するにはまだ時間がかかりそうです)

ですが、少なく見積もっても裕理さんがハタチになるまでのあと10年くらいはオタクができると意気込んでいた私が味わった「23:59から24:00になるその瞬間に目の前からいなくなってしまった辛さや悲しさ」、「もう今後もしかしたら裕理さんを死ぬまで見れないんじゃないかという精神的苦痛・恐怖」。これらは一気に私の「ジャニーズ」への熱を、そしてジャニーズ以外への熱も奪い去りました。もう今後、こんな気持ちは味わいたくない。

そこで踏ん切りがついたのです。

「これもタイミングかなあ、オタ活に奔走していた人生に区切りをつけて結婚するかあ」と。本当に極端だとは自分でも思いますがそれほどまでに私にとって裕理さんが全てになっていました。

まあ結局天才てれびくん続投と発表されたので、少し拍子抜けはしましたが(笑)、もう4月1日の午前中には結婚すると両家に伝えていました(行動が早すぎる)。もちろんそれだけを理由に結婚するわけではないですが、「裕理さんのいない世界に意味はない」とやけになったこともあり結果裕理さんの退所が結婚を決断する大きなきっかけになりました。裕理さんは私の人生の大きな決断にきっかけをくれたんだなと、結婚という大きな決断に少し二の足を踏んでいた私の背中を押してくれたんだなと思っています。

もちろん結婚しても(アイドルではないのでジャニーズ時代ほど現場があるわけではありませんが)廣末裕理のオタクは全力で続けますし、むしろ他のオタクを辞めたことで正真正銘、裕理さんだけのオタクとなりました。

2006年のジャニーズを皮切りに、いろんな界隈でオタクをしてきましたが、裕理さんの一件で裕理さん以外は全て辞めました。「辞めよう」と思って辞めたわけではなく、4月以降も他界隈の現場にも行っていたのですが自然と誰にも何にも気持ちが沸かなくなってしまい、完全に何も追っていないわけではないですがオタクだとは自認できないレベルとなりました。

 

振り返ってみて

私はジャニオタ人生最後の自担・廣末裕理が退所する2024年3月までの約18年間をジャニオタとして生きました。2006年からの約18年間、人生の半分以上をジャニオタとして生きてきた私にとって「ジャニーズオタク」とは自身のアイデンティティを確立する重要な要素でした。そんな私のジャニオタ人生をこうやって振り返ることでここに気持ちを置いていく、ではないですがかなり頭の整理が付きました。

このブログを書くにあたり、相違や矛盾を避けるためにもジャニーズに関する情報をかなり調べました。時系列やグループなどをまとめたエクセルなんかも作りました。その中で、これまでのジャニオタたちが書いたネット上にある膨大な数のブログを目にしました。ジュニアで、且つもう退所している人や解散(消滅)してしまっているグループとなると、残っている情報が極端に少ない中、歴代のオタクたちは言葉でブログという形で自担やその時代のことを書き残してくれています。なんなら何年何月の放送に誰が出ていて何の曲をしていたかなんかも記録してくれています。(もう本当に感謝してもしきれません。古のオタクたちありがとう。)数年後、十数年後の私がこうやってそのブログたちを見て、ああこの人はこんなにオタクに愛されていたアイドルだったんだなと感じられました。一例をあげると、安井くんなんかは本当にブログの数が群を抜いて多く、ああ安井謙太郎は本当にすごいアイドルだったんだと実感しました。

そして私がブログをこうやって書くということは、自己満で記録を残すということだけではなく、ネットに残すことで"今"だけでなく"未来"の『全世界』に対して廣末裕理の素晴らしさを伝えられているとても意味があることなんだと気が付きました。

私がこうやって脳内を垂れ流して書いている裕理さんに関するブログも、いつの日か大きくなった裕理さんのことを知った人が「廣末裕理ってどんな人なんだろう」と興味を持って検索したときに、このブログが目に留まって廣末裕理の良さを感じてくれるのかもしれない。廣末裕理が元ジャニーズだということを知らない人がその事実を知るかもしれない。

本当に烏滸がましいかもしれませんが、私のブログが裕理さんが生きた「ジャニーズアイドル」という人生をなかったことにせずに残せているのかもしれません。

 

おわりに

ここまで約17000字、お付き合いいただきありがとうございました。

書き始めた当初はまさか自分がジャニオタを辞めることになっているとは想像もしていなかったですし、むしろまだまだ全然続けるつもりだったので、一旦振り返ってみたらおもしろいんじゃないかくらいのノリで書き始めました。

まさか自分がジャニーズどころか全ての界隈から身を引いて、天才てれびくんのオタクになり、そして人妻になっているとは。廣末裕理という小学生にハマったことでこんなにも人生が変わっているとは。人生は本当に何が起こるかわかりませんね。怖い。

 

 

辛いことも悲しいこともいっぱいあったし、お金も時間も精神もたくさん使ったしすり減らしたし、終わり方なんて最悪だったけど、それでもやっぱりそれ以上に私はジャニーズのアイドルたちにたくさんとキラキラとワクワクを、幸せな時間を貰いました。オタクをすることの楽しさを知りました。18年間の中でジャニーズに救われたことも何度だってありました。やっぱりジャニオタは私のアイデンティティだったし、ジャニーズは私の人生でした。

ジャニオタとして過ごした18年間、本当にとても幸せでした。

全部全部宝物です。

 

 

 

 

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