『戦争体験の社会学』

戦争体験の社会学―「兵士」という文体

戦争体験の社会学―「兵士」という文体


著者からのいただきもの。
昨日読み始めたら、うっかり止まらなくなり、無理矢理時間をこじあけるようにして読了してしまいました。
私にとってはまったく門外の分野であるのだが、妬ましいくらいにおもしろかった。
著者の野上元さんは大学院時代の後輩(というよりは友人)ですが、当時、私には彼が何をやりたいのかがよく見えていなかった。
現代史、歴史社会学がやりたい人だろうな、どうして社情研(社会情報研究所:当時)の院に来たのかな、吉見先生がいるからかな、文学部の社会学か駒場の相関に行ったほうがよかったんじゃないかな、というくらいに思っていた。
が、彼の問題関心が初めてよくわかったような気がする(何年か前に博論の話を聞いたときにもそう思ったのだが、今回ほどではなかった)。
この本はやはり現代史や歴史社会学のなかでもっぱら今後評価されていくのだろうが、背景にある問題意識はきわめてメディア論的である(まあ、私がそういうふうに引きつけてしか読めないせいも多分にあるとは思うが)。


「はじめに」二つの問題が提起される。

 まず第一に、多くのテクストを読む限り、とりわけ戦争というできごとには、そこかしこにおいて、理解や知ることといったことに対してひどく否定的な力が働いているようにみえるからである。残念ながら、それは問題を伝達や解釈といった領域に移し替えて検討しようとしても、基本的にはそう変わるものではない。
…(略)…
 「紙の中にしかない」などという否定的な表現を使えば、そこにある否定性を包摂することができると考えてしまうようなところに「戦後」的な意味の秩序の源泉があるということを、開高はその存在でもって表してしまっている。……。そして、その裏返しが、「現場」や「実体験」へのあこがれとなる。開高の意図がいかなるものであったにせよ、彼の認識のすぐ隣では、「紙の中」と「外」とは排他的に分離されていて、両者の関係を問う試みがないがしろにされている――いや、下手をすると、両者が関係していたということすら忘却されてしまう。
 第二の問題は、ここにある。すなわち、人々がかつて体験したという「戦争体験」と、我々が現在読むことのできる「戦争体験記」との関係はいかなるものなのか、という問いである。我々は、すでに読むことしかできない。その読むことの可能性を広げるためにも、「そこに何が書かれているか」という分析が戦争への探究において求められる以上に、「いかにそれらは書かれたのか」ということについての分析が必要なはずなのである。……。
 そしてとりわけ、ヴェトナムに従軍することで「実体験」なるものをえようとする開高が身をもって明らかにしている「紙の中」という限定性と、逆にそれゆえに現象してしまう、体験を「紙の中」に書き込むことの特権性について考察してゆかなければならないであろう。そしてまた、そうした考察を第一の問題、すなわち戦争が理解や知ることに対して孕んでいる否定性の問題と連関させる必要がある。

(p.11-2)


そして、次のように問題の焦点が明示される。

 なかでも、「生の声」そして体験者としての当事者性の特権化が、戦争の表現をめぐる言語の重要な局所であり、先に述べた二つの問題(戦争の理解に関する否定性の問題と「紙の中」という問題)は、実はここを焦点としている。「戦争の真の姿は体験したものでなければ分からない」だとか、あるいは「戦争の真の姿は、とても戦争体験記に書き残すことができるものではない」などといったことが、体験の伝達不可能性、そしてテクストへの表象不可能性として言われてきたのであるが、それらはみな、言説としての「戦争体験」をめぐって引き起こされている。つまりそれらは共に、極めて言語的な手続きのもとで現象している性質なのだ。

(p.14)


この「言語的な手続き」を剔出するために採られる方法論が言説分析である。

 そもそもあるメディアを歴史記述の対象とするとき、特になかでもメディアとしての「言語」をその対象とするときには、独特の方法的な困難があることは、割とよく知られている。過去の言語的現象そのものを対象として分析し記述する場合には、言語は説明や理解のための客観的かつ透明な道具であるわけにはいかなくなる。というのも、言語の歴史性を取り出すために使用されている言語もまた、記述のなかでどうしても歴史性の刻印を帯びてしまうためだ。そこでは、歴史的分析の対象としての言語と説明のための道具としての言語とのあいだの関係に対する注意がどうしても必要となってくる。
 言説分析は、一般に、こうした脈絡で要請される分析方法である。それは、知識社会学や思想史などと違い、言語や知識を配列する超越的な平面を用意しようとしないので、両者はいっそう複雑に関係しあってくることになるが、逆に言えば、そうした錯綜のなかから意味をめぐる可能性の条件を取り出してくることで、それらを認識する我々の〈現在〉の条件と、認識対象である〈歴史〉を関わらせる視点を持つことができる。
 そのため、「言説分析」においては、明示できるような「方法」はなく、その「方法」に対する注意は、むしろ分析と具体的な対象との往復運動のなかで生み出される記述の中に埋め込まれることになる。こうしたありかたは、むしろ文学研究のそれに近く、時に厳密な社会科学的な方法論とどこかで齟齬を来してしまうことにもなるのだが、言語の働きそのものについて注目する場合、言説分析という方法がその精細度においてもっとも卓越している、ととりあえずいっておくことができるだろう。

(p.57-8)


通例、こうした言説分析についての前口上は逃げ口上にすぎず、本書でもとりたてて積極的な方法論的規定がなされているわけではないので、確かに逃げ口上ではあるのだが、要は実際になされている分析をみて「仕上げをご覧じろ」ということである。
その仕上げをご覧じて思う。
おそらくはこういう作業を指して、はじめて言説分析といいうるのである。
対象への深い愛と、それゆえにこそ対象を突き放しうる冷たい視線なくして、言説分析は成り立ちえない。
その困難さと危うさの魅力が、素人目にもよくわかったような気がする本だ。
専門家の書評を早く読んでみたい。
個人的には(友人が書いたという贔屓目を差し引いても)今年イチオシの好著。