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立花種長

たちばなたねなが

立花種長とは江戸時代初期から前期の大名。
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概要編集

立花種次の子、官位は従五位下、和泉守、2代三池藩主。


経歴編集

寛永2年(1625年)8月に誕生、寛永7年(1630年)に父・種次が病死したため数え年6歳で三池藩主となる。

寛永14年(1637)の島原の乱では、幼少の種長の名代として叔父の政俊(直次3男、忠茂の兄)が三池藩士95人を率いて出陣、忠茂の指揮下に加わって原城総攻撃では本丸に一番乗りを果たし三池藩の旗印を立てたものの、数に勝る細川忠利率いる熊本藩兵15000が九曜紋の旗印数百を立て並べ、公式の一番乗りは熊本藩の手柄ということになった。忠茂は総大将・松平信綱に抗議しようとしたが、先代・宗茂に「三池の一番乗りは天地神明、我らの武功は具眼の士は知る」と諭され、抗議を取りやめた。

領内は丘陵地や湿地帯が多く、平野部には有明海の干潟が内陸部に入り込み、耕作可能な土地が極端に少なかったため、藩政の大部分は農業振興、特に干拓による耕地の増加に主眼が置かれた。領内の16村を三地区づつに分け、それぞれに代官を任命して農村を管理させた。

寛文4年(1664年)、干魃対策として早鐘池を築き、延宝2年(1674)には有明海沿岸の農地に通水するため、家臣・平塚信昌に命じ水路専用の石造橋である早鐘眼鏡橋(国指定重要文化財)をかけた。

天和2年(1682年)、嫡男の種明に家督を譲り隠居、宝永8年(1711年)に87歳で死去。







外部リンク編集

立花種長 - Wikipedia


関連タグ編集

大名 江戸時代 立花氏 三池藩

大牟田市

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