流行歌。ヒット曲。大衆と、ほどよくがっぷり四つに組み、あらたな音楽を作り続けていくことを、私は辞めないだろう。 ―― 桑田佳祐『平成三十年度! 第三回ひとり紅白歌合戦』より。
概要
長きにわたって日本を代表する男性シンガーソングライターの一人である。
1978年にサザンオールスターズのボーカルとしてメジャーデビューを果たし、1987年に「悲しい気持ち(JUST_A_MAN_IN_LOVE)」でソロ活動を開始した。サザンとソロ活動を交互に行い、数多くのヒット曲を量産している。
長く活動しているゆえに発表された楽曲のテーマは幅広く、ラブソング、エロティックな楽曲、生まれ育った茅ヶ崎市および日本への強い愛情が表れた楽曲、世界平和などのメッセージが込められた楽曲、反戦歌、プロテストソング、応援歌、コミックソングやナンセンスな楽曲などが存在している。
特に茅ヶ崎および日本への愛情や誇りを持つ姿勢に関しては後述の通り生まれ育ったことへの感謝の念や日本人としてのアイデンティティを語ったり、古より伝わる日本語や日本の文化の大切さを説く言動をしたり、国旗日の丸の掲揚および国歌「君が代」の歌唱といったパフォーマンスをライブで行ったことでも表れている。
また、世界平和を希求したり、戦時中の兵隊の苦悩や戦死者や遺族などへの思いを馳せた楽曲を発表したり、拉致問題やウイグルにおける人権侵害の被害者の心情に寄り添う言動を行うなど政治的な側面が存在するほか、アクト・アゲインスト・エイズの活動に参加する、音楽活動を通じて東日本大震災を含む様々な災害の被災地復興支援に協力する、「時代遅れのRock'n'Roll_Band」の収益をセーブ・ザ・チルドレンに寄付するといったように、チャリティー活動にも熱心である。
生い立ち
1956年2月26日に神奈川県茅ヶ崎市に生まれる。出自に関するデマが流れた時期もあったが、生粋の純日本人である。父親が地元の映画館の雇われ支配人をしていた縁から、幼いころから多くの映画を観ており、その経験が今にも生きているという。母は父とのバー経営の後に平塚市で割烹を経営した。桑田によると父は鹿児島県出水市出身で、戦時中には満州におり、南満州鉄道に勤務していた経験がある。母は神奈川県南東部出身だという。
音楽に興味を持つきっかけは、姉の岩本えり子の影響が大きい事を度々語っている。通訳の仕事をしていたほど英語が堪能な為、2000年代前半のサザンおよび桑田ソロの楽曲(「黄昏のサマー・ホリデイ」「HOLD ON (It's Alright)」「LONELY WOMAN」)の英語補作詞を担当した。
血液型はA型。うお座。
身長は170.3cm。
鎌倉学園高等学校に通っており、英語の成績は良かったので、青山学院大学経営学部に合格。大学内の音楽サークルに所属していた。このころから、関口和之らと「温泉あんまももひきバンド」、原由子らと「AFT」などで音楽活動を行う。なお、彼が初めて作曲した「娘心にブルースを」を聞かせた人間はハラボーであり、この曲名は後に原のエッセイのタイトルになる。
デビューから現在まで
アマチュアバンドとしてスキルを積んだのち、1978年にサザンオールスターズとしてメジャーデビューする。デビュー曲はご存じ「今何時!!」の「勝手にシンドバッド」である。
この時、『ザ・ベストテン』で「ただの目立ちたがり屋の芸人です!!」と叫んだことが、しばらくコミックバンドや一発屋と思われる原因となった。ただ、これは桑田曰く「スタッフに言わされた」そうである。
「いとしのエリー」を始めとしたバラードがヒットして以降は少しずつ実力派としての評価が向上し、サザンとソロの様々な活動を経て、「TSUNAMI」「白い恋人達」などが大ヒットした2000年代を境に『国民的歌手』とも呼ばれるようになっている。コミカルでエロティックな側面と、根が真面目で且つ堅実で家族・仲間・ファン・スタッフ思いな側面の両方がバランスよく存在している。1995年から始まったレギュラーラジオ番組『やさしい夜遊び』でもその人生経験からなる名言が度々発せられるなど、その人柄やセンスが遺憾なく発揮されており、これも人気が衰えない理由の1つになっている。
2021年現在、オリコン週間アルバムランキングでの初登場1位を昭和・平成・令和の3時代及び1980年代から2020年代までの5年代に渡って連続して獲得し続けているミュージシャンでもある。
サザンの桑田とソロ桑田
桑田の音楽活動は「サザンオールスターズ」としての活動と「桑田佳祐」としての活動のふたつに分かれている。たとえば「勝手にシンドバッド」「いとしのエリー」「TSUNAMI」などはサザンオールスターズ。「悲しい気持ち」「波乗りジョニー」「明日晴れるかな」などは桑田佳祐ソロ活動である。ライブなどでは数曲入り混じっていることも。桑田佳祐にとってサザンオールスターズであることは、40年以上の歴史を持つバンド活動を経た「サザンらしさ」を背負うことであり、一方ソロワークは桑田佳祐自身のやりたいことが優先される、という微妙な違いがある。
ただ、2008年のサザン活動休止以降、あまり差はなくりつつある(現に、2005年には、自身のソロ曲として考えていた「恋するレスポール」を修正、サザンとして歌っている、等々)
なお、公私ともに桑田の一番近くにいる女性は、彼のソロ活動全般について以下のように語っている。
「(サザン名義と比べて)より自由に私的に音楽表現を楽しんでいるように思います」
「その時々の桑田の精神状態だったり、時代背景が思い出されますね」
「素晴らしいミュージシャンの方々との出会いもあって、刺激され新しい扉を次々に開けて、切なくも自由奔放に歌うソロ作品が大好きです」
ソロ名義の楽曲
1980年代 : 哀しみのプリズナー スキップ・ビート 悲しい気持ち(JUST_A_MAN_IN_LOVE)
2000年代 : 波乗りジョニー 白い恋人達 明日晴れるかな 風の詩を聴かせて 君にサヨナラを
2010年代 : 本当は怖い愛とロマンス 明日へのマーチ Yin Yang 若い広場(NHK朝ドラ『ひよっこ』主題歌) ヨシ子さん 君への手紙
2020年代 : SMILE〜晴れ渡る空のように〜 炎の聖歌隊 [Choir] Soulコブラツイスト〜魂の悶絶 時代遅れのRock'n'Roll_Band
オリジナル・アルバム
1.Keisuke_Kuwata(1988年)
2.孤独の太陽(1994年)
3.ROCK_AND_ROLL_HERO(2002年)
4.MUSICMAN(2011年)
5.がらくた(2017年)
ミニ・アルバム
1.ごはん味噌汁海苔お漬物卵焼き feat. 梅干し(2021年)
ベスト・アルバム
1.フロム_イエスタデイ(1992年)
2.TOP_OF_THE_POPS(2002年)
3.I_LOVE_YOU_-nou_&_forever-(2012年)
4.いつも何処かで(2022年)
ミュージシャンとして
独特の歌唱法は、学生時代からファンだった前川清に影響を受けているという。そのほかにも、エリック・クラプトン、ビートルズ、ボブ・ディランなどといった洋楽のミュージシャンにも非常に影響を受けている。また、尊敬する日本人の作曲家として吉田拓郎、加山雄三、筒美京平、すぎやまこういち、宮川泰の名をたびたび挙げている。
楽器に関しては、ギターを中心に、ベース、ドラムス、ピアノなど、幅広くこなせるマルチプレイヤー。ギターは、「音楽界で指折りのへたくそ」と自分で言ってはいるが、まれに見せるスライドギターは一品。
また、彼は作曲から先に行う「曲先」の人であるが、2000年代から、「歌詞もけっこう大事だよな」と公言しはじめている。彼の作詞は純愛、エロティック、サスペンス、社会風刺、英語と日本語を混ぜたもの、自身のフィーリングによる造語、また古語を用いたものなど、さまざまなパターンがある。とくに、「音楽寅さん」や「ひとり紅白歌合戦」で古い日本の唄を歌い、歌詞の大切さを再認識したようだ。
「日本語を守るため、俺も金田一先生と立ち上がらなきゃいけない」(99年『素敵な夢を叶えましょう』)という言葉を冗談交じりで吐いてもいる。
かつては「自分もアメリカ人やイギリス人みたいになりたい」「いつかなれるんじゃないかって本気で思ってた」と考える程海外のロックに憧れていたが、次第に「なれるわけない」と気づき「だからこそ自分がロックっていう枠組みに向かっていくときには、逆に日本人の良さを出したいというか、和の感じで勝負したいなと思うんです」「日本人として、日本の皆さんに楽しんでもらえる、日本語としてのポップスを作ろうと思った」と考えを改め、日本語の歌詞を重視した和洋折衷な方向性になっていった。実際自身の楽曲はポップスやロックのイメージが強いものの、日本の歌謡曲、唱歌、沖縄民謡の影響も受けており、そういった要素を取り入れる事もある。
反戦や平和への願いを込め、サザンでの「蛍」やソロでの「しゃアない節」「鬼灯」のように戦時中の兵隊の苦悩や戦死者や遺族の心情に寄り添った楽曲も存在している。これに関して桑田は「歌を歌うこともある意味語り部のようだと思う」という考えを語っている。また、ただ平和を祈るだけではなく「真夜中のダンディー」「漫画ドリーム」「汚れた台所」のように平和ボケした自分達を含めた国民への戒めを歌詞に込めた楽曲や、北朝鮮による日本人拉致問題や新疆ウイグル自治区騒乱などの重大な人権問題の被害者の心情に寄り添う楽曲も存在している。
政治や社会への風刺を取り入れた楽曲も存在しており、歌詞に対しても「社会性・メッセージ性がある」と評されることがあるが、桑田本人は「それはあくまでも物語というか、ひとつひとつのドラマの脚本であってね。別に世の中に対するメッセージでもなんでもないんです」(2002年の発言)、「正直、そこまで社会に対して問題意識を抱いていたわけじゃなかった」「ジャーナリスティックな視点でロックやポップスを描くようなトレンドがあって、自分もそこに乗っかっていた」「目に映る出来事をただただ歌にしていましたね」(2021年の発言)と語っており、制作するにあたっての特別な意図はなかった旨を明かしている。
これについてはビクターのスタッフも「桑田さんは、ミュージシャンである前に一人の日本人だということを昔からよく言っていたので、今の日本の置かれている状況を感じ取って、特別に意図的ではなく、自然な感じで作っていると思うんですよね。桑田さんはあくまで音楽の表現者であり、世の中に対して直接政治的な動きは全くしないでしょうから」といった見解を示した。
短絡的に同じフレーズで政治主張をする事には批判的であり、桑田が理想とする風刺の表現方法はストーリー性を取り入れたり、敢えて答えを明示せずに示唆的な表現をしたり、後ろ向きな事柄と前向きな事柄を織り交ぜる事だと語っている。かつてはネガティブで過激・攻撃的な内容の曲を制作した事もあったが、現在は「過激な言葉ばっかり羅列した曲はあまり好きではない」「風刺は人を過剰に傷つけるためのものではあってはならない」「付け焼き刃的な表現をした結果、後々後悔が残った曲が多くある」と心境が変化している。
CMソングや主題歌を作る場合はコンセプトの打ち合わせをしたり作品を事前にチェックしたうえで書き下ろしてからレコーディングする事がある。創作意欲が上がるきっかけとしてクライアントやスタッフに依頼された時や制作の締め切りの日付がしっかりと決まっている場合を挙げており、本人曰く「根は職業作家」であるという。
曲作りやパフォーマンスに対する反省を必ず行い、よりよい作品や演出へブラッシュアップする努力を欠かさない。また、本人曰く「こう見えて」昔と比べるとコンプライアンスなどにも気を配っているといい、マネージャーやビクターのスタッフに歌詞の言い回しの相談を自ら持ちかけるなど、細心の注意を払うようになった。
上述の洋楽のミュージシャンの間で蔓延した「セックス ドラッグ ロックンロール」という風潮には「ドラッグに頼れば良い音楽を作れる訳ではない」と批判的である。
この背景には、サザンのスタートメンバーであり親友でもあった大森隆志が覚醒剤取締法違反及び大麻取締法違反で逮捕されたことがある。
…………それ以前はどうだったかと言うと、桑田のMCでの吹聴がどこまでアテになるのかというと同学年のあの男並なのだが、ザ・ベストテン初出演の生放送ライブで、その時点ではメジャー曲が『勝手にシンドバッド』とB面『当たって砕けろ』しかなかったため、『勝手に~』を3回目に演奏するときには盛り下がりかけていた場の空気を盛り上げ直すことができず、「しょうがないので酒入れた」らしい。
ちなみにセックスに関しては……もう、ファーストアルバム『熱い胸さわぎ』CD版の7曲目からしてですね……
人物像
生まれ育った日本に対して強い愛情を持っており「この国に生まれて良かったなと思います」といった名言を残したり、下記の通りライブで国歌「君が代」を斉唱したり、下記のイラストの通り日の丸をバックに「月光の聖者達」を熱唱したこともある。また、現在でこそ世界平和や友好などのメッセージを発信しているイメージが強いが、それ以前には日本の将来を憂い、日本人が日本文化を見失ってしまうことへの強い危機感から鎖国論を唱えていた時期も存在しており、1999年発売の著書『素敵な夢を叶えましょう』の中でその思いが綴られている。
クレージーキャッツやザ・ピーナッツが出演していた『シャボン玉ホリデー』や、大橋巨泉の『11PM』が本当に好きだったと著書などで語っており、音楽性と娯楽性の両立ということが観客に対する1つの礼儀、という立ち位置は長きにわたる音楽人生の中で揺るいでいない。
「音楽をやる芸やパフォーマンスを含めて観客に笑ってほしい」「二の線と三の線は表裏一体」「笑いの質の基本は皮肉やユーモアを含んだもの」という想いは彼の音楽活動を通じて多く見受けられるものである。
その一方で、ベタな笑いも多々取り入れており、サザンのライブでは『マンピーのG★SPOT』で毎回グレードアップしていくヅラを愛用、「ビートたけしか!!」と突っ込みを入れたくなる。しまいに、音楽寅さんでは「コスプレは楽しい」と言い切っている。
それ以前にも、サザンではばいきんまんに扮したり(95年、『Hotal Carifornia』)、紅白歌合戦で物議を醸したり(82年)、放送禁止用語を連呼したり…。
そもそも、青学時代から王貞治や長嶋茂雄といった様々な人の物真似がお家芸だった、と関口和之や斎藤誠は語っている。
ライブでのMCでギャグを織り交ぜたり、その頃流行っているギャグを使用する(2004年「ギター侍」、2003年タマちゃん、2006年「アミューズのハンカチじじいです 」)ことも多い。
公の場で挨拶する際には「林家こぶ平です(※1)」「釈由美子です」「偽TUBEです(※2)」「ましゃです」「EXILEの桑田佳祐です」「八村塁です」などと他人の名前をジョークとして名乗る事もある。ライブで国歌斉唱をした際にも照れ隠しからか歌い終わった後の開口一番は「魂(こころ)(※3)」のフレーズを口ずさんだうえで発した「北島三郎です」だった。
- ※1:現在も続くレギュラーラジオ番組『やさしい夜遊び』の記念すべき第一回で最初に発した言葉だった。
- ※2:実際にはTUBEの方が後輩であり、サザンの影響を多分に受けてデビューしたバンドグループである。
- ※3:桑田は「雅のこころ」とうろ覚えで歌っていた。実際の正しい歌詞は「日本の魂(こころ)」である。
自他ともに認めるプロレス好き。2001年冬には『うたばん』で石橋貴明とアントニオ猪木ファン対決をやっていた。また、1989年には前田日明と対談した経験があり、現在も桑田は前田のYouTubeチャンネルの動画を全てチェックし、自身のラジオ番組で「あの人、頭良いんだよね」と称える発言をしている。
猪木の極め業として知れ渡っているコブラツイストを題名に冠した「Soulコブラツイスト~魂の悶絶」も2021年公演のライブツアー以降「煽りのコーナー」で披露される頻度が高くなっており、桑田ソロ活動35年の節目となる『お互い元気に頑張りましょう!!』ツアーでは大サビ前の間奏に「行けばわかるさ!!」で終わる猪木の名言が挿入された。
妻である原由子をとても大事にしているようで、芸能界随一のおしどり夫婦ともいわれている。
吉野家の牛丼を好んだり、ナチュラルローソンに通っている事をラジオで語るなど、堅実で庶民的な一面も持っている。
近年ではコロナ禍やドラマ『孤独のグルメ』の影響で一人焼肉をたまにする事があると語っている。
また、『やさしい夜遊び』の企画で宮城県女川町を訪れた際に現地の飲食店「女川海の膳_ニューこのり」で食べた鯨の刺身を気に入っている。
食用きのこメーカーや識者の間では桑田はエリンギを日本の食卓に広めた人物とも言われており、エリンギの知名度が低かった2000年秋頃に『ミュージックステーション』でエリンギそのものをポケットから出したところ、放送後には出荷量が一気に10倍になるなどの反響を呼んだ。
そもそも両親が商売をやっていた忙しさゆえに桑田自身が幼いころから台所で手軽な調理を自ら行う機会がしばしばあったそうで、エッセイ集では食の嗜好や手軽な調理法などに触れている作品もしばしば見受けられる。
ラーメンは殊更に大好物らしくサザン最初のアルバム『熱い胸さわぎ』の収録曲「いとしのフィート」に「♪昨日はラーメンも食えないで」という歌詞がある外、『素敵な夢を叶えましょう』(KADOKAWA、1999年初版のエッセイ)ではシーチキンと余り野菜を用いた桑田ならではのインスタントラーメンにひと手間加えた調理法が記載されている。
本格的な自作チキンカレーを不眠時に調理する手順の詳細や(『素敵な夢を叶えましょう』)、斎藤誠らサポートメンバーと合間に食べた餃子とチャーハンの美味しさに触れ(『やっぱり、ただの歌詞じゃねえか、こんなもん』)、レコーディング時の栄養補給として中尾彬氏に教わったという白菜・豚肉・焼酎を用いた鍋料理などを頻繁に行う(『あじわい夕日新聞』原のエッセイ)など、料理については人一倍の拘りをもっている。
なお、湘南出身というプロフィールや、歌や映画『稲村ジェーン』の内容から、サーファーだと思われがちだが、その当時はサーフィンの経験はなく、初めてサーフィンに挑戦したのは37歳になってから(1993年頃)のことであり、ボードに立てるようになるまで半年かかったという。また、夏の曲のイメージが強いが、本当に好きな季節は春だと言う。
2010年代後半、ソロアルバム『がらくた』を発表する頃から学生時代に傾倒していたボウリングに再びすっかりはまりこみ、自らの名を関した大会『KUWATA CUP』も開催された。自身のラジオでは度々「ボウリングをオリンピックの種目にして欲しい」と語る事もある。
本人曰く喧嘩は得意ではなく「俺はなー、ハッキリ言って、喧嘩は弱いぞ」「喧嘩なんてしたことない(笑)」などとライブのMCや著書などで発言している。また、基本的に暴力も嫌っており、2008年3月に石垣島でコンサートを行った際にはDVDのことを「ドメスティック・バイオレンス、ダメよ!(※4)」の略だと冗談交じりに語ったりしている。
- ※4:DVDの正式名称はデジタル ヴァーサタイル ディスク(Digital Versatile Disk)である。
家族ぐるみで交流がある山下達郎は「とても不思議な人で物凄く下世話な部分と物凄く無垢な部分が何の違和感もなく共存している」、竹内まりやは「いつも照れ隠しでいろんなことを言ってますが、実はとても純粋な人だということを私は見抜いています」と桑田の人物像を語っている。
吉田拓郎は桑田の事を「僕の中ではタフガイ。石原裕次郎に通じる」と発言しており、人を惹き付ける不思議な魅力があるとしている。桑田自身はそれに対して「もったいないお言葉です」と謙遜した。
サザンオールスターズとザ・ドリフターズ
サザンオールスターズのデビュー当時、ライブや公開録画などでのあまりのハジケっぷりに、「業界関係者からサザンオールスターズはクレイジーキャッツやドリフのようなコミックバンドだと思われていた」と桑田は話している。ちなみに、「勝手にシンドバッド」は、当時志村けんがやっていたギャグと同じ名前である。
前述の通り、お笑いの方にもかなり思い入れは強かったらしく、サザンの初期黄金期(原由子の産休による活動休止期以前。アルバム『人気者で行こう』収録まで)には、音楽活動の傍ら『8時だョ!全員集合』ばりのコントを披露したこともあった(三宅裕司らと行った番組「サザンの勝手にナイト〜あ、う○こついてるッ!!〜」)。
2013年のAct Against Aids『昭和八十八年度!第二回ひとり紅白歌合戦』では、サザンオールスターズ5人がそれぞれドリフターズのメンバーに扮し、「ドリフのズンドコ節」をはじめとするドリフの楽曲を歌った他、松田弘が加藤茶の「ちょっとだけよ」を披露するなど、本家並みのコントを行った。
2018年の『平成三十年度!第三回ひとり紅白歌合戦』でも同様の展開があり、この時には何とサザン5人でSMAPの「世界に一つだけの花」を披露した。
デビュー当時、ドリフメンバー入りを打診されたこともある。そのときの理由は、桑田によると「高木ブーさんが辞めるって聞いた」との事(1993〜1994年・年越しライブでのMCより)だが、真偽は不明。なおこのとき、「いかりや長介に直接打診された」というのが通説になっているが、桑田の言は「TBSの『全員集合』のプロデューサーから」である。
また、同じ学年(昭和30年度。桑田は2月生まれのため昭和30年生まれの感覚になる)というつながりから明石家さんまと親交がある。(皮肉なことに『全員集合』を終了に追い込んだ)『オレたちひょうきん族』の1コーナー、『タケちゃんマン』でのさんまが扮するアミダばばぁが登場した際の『アミダばばぁのテーマ』は桑田が作詞・編曲したことで有名。そのときの報酬は桑田曰く「CDウォークマン(ディスクマン)1台」だったらしい。
ビートたけしとは桑田の監督作品『稲村ジェーン』を批判されたことで、仲が悪いと思われがちだが、『やさしい夜遊び』で「たけしさん面白いよね」と述べたり、たまに「バカヤロー!」「コマネチ!」など彼のギャグを使うので、尊敬しているようだ。
たけしも自身の番組『TVタックル』で、「サザンの桑田さんは天才だと思う」とコメントをしたことがある。1997年には『足立区のたけし、世界の北野』(フジテレビ)のエンディングで「SEA_SIDE_WOMAN_BLUES」をカバーした。
タモリとは非常に仲がよく、彼に「狂い咲きフライディナイト」を提供、「ミュージックステーション」でタモリとマニアックな話題で花を咲かせている。
BIG3の他にもウッチャンナンチャン、爆笑問題、さまぁ~ず、サンドウィッチマン、ナイツ、中川家、小島よしお、渡辺直美、友近、バカリズム、カンニング竹山などの芸人を気に入っている。また、立川志の輔や3代目桂春蝶等の落語関係者との交流も深く、桑田自身も架空の落語家「波乗亭米祐(なみのりていべいすけ)」に扮してNHK『SONGS』やオリジナル・アルバム『がらくた』のYouTube広告で落語を披露した経験がある。
とんねるずの石橋貴明とは1995年の年越しイベントや前述したアントニオ猪木クイズを行った『うたばん』で共演。2001年には北島三郎に扮した木梨憲武とも『音楽寅さん』で共演し「与作」とエリック・クラプトンの「いとしのレイラ」のマッシュアップを披露した。
2013年に矢部浩之(ナインティナイン)が結婚した際には『やさしい夜遊び』で祝福のコメントをした上で「心を込めて花束を」を生ギター1本で歌った。半年後には『1番ソングSHOW』(日本テレビ)で共演を果たした。
病気による休養、そして復活
2010年7月、定期的に受けている健康診断で、初期の食道がんを患っていることが判明、その後入院し、大手術の末に生還。
その病気をした年の大晦日、NHK『紅白歌合戦』に出場。紋付き袴姿でギター片手に「それ行けベイビー!!」と「本当は怖い愛とロマンス」を熱唱。
年は明け2011年2月、ニューアルバム「MUSICMAN」を発売した。
現在の活動
「月光の聖者達」が三井住友フィナンシャルグループのCMソングに起用。
そんな中、2011年3月11日に起こった東日本大震災に際し、「自分の生きるエンターテインメントの世界でできることは、やはり歌で人を勇気づけることだ」とし、同じ事務所のポルノグラフィティ、福山雅治、BEGINなどと一緒になって『Let's_try_again』というチャリティーソングを発表した。
2011年9月10日・11日には、東日本大震災復興支援として『宮城ライブ〜明日へのマーチ!!〜』を開催した。このライブでは冒頭で犠牲者に黙祷を捧げた。チャリティーソングやライブの収益は日本赤十字社を通して被災地に寄付された。
2012年にはソロ25周年記念ベストアルバム、『I LOVE YOU - now & forever-』を発表。そして宮城県を起点に、5年ぶりに全国ツアーを行った。
2013年、サザンオールスターズの活動再開。デビュー35周年記念ライブツアーの会場に、2000年以来となる故郷・茅ヶ崎が含まれ、そして宮城仙台がツアーファイナルとなる。この頃には地元の同級生を始めとした有志の働きかけもあって茅ヶ崎市民栄誉賞を受賞した。ライブで受賞式を行った際には有志への感謝を語り、空を見上げ「できたら、亡くなった父や母、姉にも見せたかったな、と思うんです」と感慨深く発言した。
2014年に紫綬褒章を受章。
2015年、サザン15枚目のアルバム「葡萄」を発表。
2016年から2017年はソロ活動を行い、シングル「ヨシ子さん」「君への手紙」及びソロ名義では5枚目のオリジナル・アルバム『がらくた』をリリース。全国ツアーも開催され、ソロとしては2度目の紅白歌合戦への出場を果たし「若い広場」を熱唱した。
2008年から5年間隔で行われた『ひとり紅白歌合戦』では、日本歌謡史を彩ってきた様々な歌手の名曲を、敬意を込めてずっと歌い続けてきた。
そして平成最後の本家『NHK紅白歌合戦』のラストステージでは、「勝手にシンドバッド」を熱唱。後半では『メリー・クリスマス・ショー』以来31年ぶりに松任谷由実と共演した。
2018年にサザンはデビュー40周年を迎え、NHKホールでライブを行い、ベスト・アルバムをリリース。音楽特番やフェスにも出演した。
2019年に開催されたサザンの全国ツアーでは、定番曲からマニアックな曲、当時未発表曲だった「愛はスローにちょっとずつ」を披露した。
2020年に新型コロナウイルスが流行して、芸能イベントや音楽ライブが中止となり大打撃を受け、スタッフ達の仕事が無くなった際には、横浜アリーナで通常のライブと同様に大規模なステージを作り、感染対策を徹底した上でサザンとしてデビュー記念日と大晦日に無観客配信ライブを企画・開催した。
2021年におけるソロの配信ライブ『静かな春の戯れ』では、沢田研二や浅川マキ、ティン・パン・アレーなどカバー曲、「グッバイ・ワルツ」や「愛のささくれ」など落ち着いた「オトナ向け」の雰囲気の曲と、「SMILE~晴れ渡る空のように~」「明日へのマーチ」などの前向きな曲で人々を励ました。
同年秋には初めてEPをリリースし、感染対策を徹底した上での有観客全国ツアーを開催した。
2022年5月には同学年である佐野元春、世良公則、Char、野口五郎と共にチャリティー・ソング「時代遅れのRock'n'Roll_Band」を発表した。
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世良公則 佐野元春 松山千春 大友康平 鈴木雅之:交流のある同世代のミュージシャン。
嘉門タツオ:桑田が芸名の名付け親となり、過去にイベントで名乗った変名「嘉門雄三」から名字を貰い受けた。嘉門自身も桑田の事を恩人と語っている。
中村勘三郎:双方がファンである事を公言し、手紙での交流があった。