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概要

城下町は現在の福岡県柳川市の元となった地域でもある。別名は柳河城または舞鶴城で、鶴のように美しい城だったからだとのこと。

非常に堅牢な城としても有名で、凡将が守れば一年、名将が守れば攻略に三年かかると言われた。その理由はあちこちに張り巡らされた水堀のおかげで、実際これで何度も窮地を脱している。

その難攻不落の要塞っぷりは歌としても詠まれる程であった。戦国時代には蒲池氏が城主だったが蒲池氏は龍造寺隆信の騙し討ちに遭い一族は滅び城を奪われた。のち柳川城には鍋島直茂龍造寺家晴が入城したが戸次道雪(立花道雪)や高橋紹運が攻撃してもびくともしなかった。

豊臣秀吉による九州征伐後、立花宗茂が柳川に封じられたが、関ヶ原の戦い後に宗茂は改易。代わって、三河国岡崎から田中吉政が入封。

吉政は柳川城を五層の天守を中心とした近世城郭として整備した。

城は方形で総石垣造りの本丸に並び二ノ丸、それを広大な内堀が囲み三の丸以下諸郭が内堀を囲む構造で、城内城下とも細かな掘割が行われた。

その後、吉政の子の忠政が逝去した時に後継ぎが無く田中家は無嗣断絶。代わって陸奥国棚倉の大名になっていた立花宗茂が柳川に復帰。以降、柳川は明治維新まで立花氏が治めた。

天守は明治の不鮮明な古写真で辛うじて二層以上が判明し、層塔式天守として復元考証がなされている。

千鳥破風と軒唐破風を組み合わせ、その下に比翼破風を配する装飾性の高い意匠であった。

最上層は内廻廊式であったと想定されている。

天守は本丸の南西隅にあり、本丸より一段低い位置に天守台を配した。恐らく低湿地であった柳川に高層建築を建てる為の犬走であったと思われる(類例として広島城)が、現在は石垣も内堀も破壊され学校の敷地となっており詳細は不明。

本丸の北部両角は三重櫓で固められ、堅牢な構造であったが、二ノ丸以下の櫓構造は不明。

天守以下は江戸期を通して現存したが明治5年に原因不明の失火で焼失。しかし県庁であった当時の柳川城に職員が不在で死者を出さなかった事、立花家の財産を貯蔵した乾櫓のみ焼失しなかった事等から、当時周囲に発生していた不平士族による反乱を予防するための、計画的な焼却処分と見る説もある。

現在、城址は学校敷地となり石垣も極僅かを残し破壊され、広大な内堀も埋め立てられ、巨城の存在を示す遺構は無い。この現状を惜しみ、近年地元有志により、ハリボテながらも天守の姿を立体的に復活させる試みが行われている。

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