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人物

1947年3月1日生まれ。東京都出身。

東京写真大学(現:東京工芸大学)卒業。

大学時代、進路を考えてた時に高校時代の友人が『隠密剣士』で斬られ役をやっているという話を聞き、映像業界に興味を持つ。

1967年円谷プロダクションに入社、撮影部を希望していたが「空きが無い」という事で光学撮影部に配属される。

光学撮影スタッフとしては『ウルトラセブン』をはじめとする初期円谷プロ作品に参加。『怪奇大作戦』終了後は大映テレビを経て三船プロに移り、1971年『二人だけの朝』でチーフ助監督を経験。1972年に退社し、フリーランスとなり自主製作映画『OH!カオ』を製作・監督する。1975年に『電人ザボーガー』で商業監督デビュー。元々は前作『鉄人タイガーセブン』終盤で監督に昇格するという確約を得ていたが、内藤誠が参加したことによりローテーションへ入れず、『ザボーガー』へと持ち越された。

1993年の『電光超人グリッドマン』で円谷プロに復帰。それ以外にも東宝の『電脳警察サイバーコップ』『七星闘神ガイファード』など他スタジオのヒーロー番組に関わっていた。

東宝ビルトNo.5ステージに下見に来た円谷プロの小山信行プロデューサーにアプローチを掛け、『ウルトラマンティガ』に参加。それ以後のシリーズでも監督を続け、全監督中最多となる74作品の本編を演出(OV・劇場版を含む)。

『ティガ』『ウルトラマンガイア』ではメインディレクターとして活躍。『ウルトラマンダイナ』でも、劇場版制作で抜けていたメインディレクターの小中和哉に代わり、重要なエピソードの多くを担当した、平成ウルトラシリーズを代表する監督の一人である。

また監督としてではなく、俳優としてカメオ出演することもある。

2022年3月27日に死去。享年75歳。その逝去に伴い、つるの剛士丸山浩等数多くの平成ウルトラマン関連のスタッフから追悼が行われた。

作風・エピソード

パワフルかつ説得力を持った極めて動的な画面と、シャープなカット割りが特徴。また、登場人物による生のアクションや、等身大ヒーローを活躍させる事も得意としている。

日活の無国籍アクション映画の影響で無国籍風の絵作りをする事もある。また、国内ロケで海外のムードを上手く表現している。

本人はとてもおっついていないと語っているが、男臭さ、骨太さ、ダイナミックさなどの演出骨子は黒澤明の影響を受けているという。

小山信行プロデューサー曰く、平成ウルトラシリーズに参加した監督の中で最も早撮りとの事。

円谷プロ入社時に撮影部を希望したのは「カメラマンが映画の撮影を仕切っている」と勘違いしてい為。実際に現場に入ってみると監督が中心であると理解してからは監督を目指すようになったとの事。

脚本家の小中千昭とは、『ティガ』3話「悪魔の預言」の打ち合わせでウルトラマンのキャラクターの方向性を巡って激論を戦わせて以降(村石がティガと預言者の会話シーンを入れた所、ウルトラマンが喋る事について小中が机をたたくほどに反発した)、ライバル関係にあったとの事。

一方でプロデューサーサイドから二人のペアは高く評価されており、このコンビが中心となって『ティガ』の根幹を形作っていった。自身も小中に「よし、お前の脚本がこうなったぜ」という部分を見せつけるのが一つの楽しみだったという。

『ガイア』の「我夢VS我夢」では、小中は当初舞台を東京として構想していたが、村石が世界観を広げるべく加えたサジェスチョンによってドイツに変更された。

後年、小中も村石の事を「それは無理だよ」と滅多に言わない稀有な演出家と評し、「村石監督無くしてウルトラ脚本家としての私は有りえなかった」と断じている。

主な監督作品

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