辛毗(しんぴ)字を佐治は、後漢から三国魏の人物。袁氏二代と曹氏三代に仕えた。生没年不詳。
潁川郡陽翟県の人。兄の辛評に従って袁紹に仕えた。曹操から招聘を受ける事があったが、辛毗は応じる事が出来なかったという。袁紹の死後は長子の袁譚に仕える。袁譚が弟の袁尚との後継者争いで疲弊したので、仇敵の曹操への和議の使者となった。同盟を迷う曹操に辛毗は和議の是非を説いて締結させた。
袁譚と連合した曹操は、袁尚の拠点の鄴を攻め落とした。鄴を守っていた審配は、辛兄弟を裏切り者とみなして辛評の家族を皆殺しにしてしまう。死守の末、捕らえられた審配を曹操は助命しようと考えたが、審配が降る様子を見せず、辛毗が怒り号泣したので、結局処刑した。やがて辛毗は袁譚に見切りをつけて、曹操に帰順した。
曹洪が下辯の平定を行った時には、曹休と共に幕僚となった。曹操は二人に訓戒して送り出した。これは「曹洪が漁色と貪財をしないように監視しろ」という意味合いであったらしい。軍が帰還したのちは丞相長史に任ぜられた。
曹操の死後、曹丕が皇帝として即位すると侍中に進み、関内侯の爵位を賜った。建国により「正朔(暦)を改めるべし」との意見が出たが「王朝交代は放伐ではなく、禅譲によるものであるから、改める必要はない」と意見して採用された。
曹丕はある時、冀州の民十万を河南に移住させることを企画した。飢饉が起きている時だったので、群臣たちは良くないことだと考えた。曹丕も反対を警戒して機嫌悪そうにしている中、辛毗は躊躇せずに強諫した。あまりにしつこく諫言されたので、曹丕は「おまえとは議論しない。どうしておまえはそんなに厳しいのだ」と漏らしたが、辛毗は取り合わなかった。結局、半分の五万の民が移民することとなった。
ある時、曹丕は狩猟を行い楽しんだが辛毗は「楽しいのは陛下だけで、臣下たちは大変」と諌める。曹丕は黙ってしまい、滅多に狩猟に出かけなくなった。
曹真が呉の朱然を討伐する時には、軍師として入幕した。 帰還の後は廣平亭侯の爵位を賜った。
曹丕が呉に本格的に攻め入ろうとした時にも反対する。辛毗いわく「次期尚早であり、かつては曹操でも失敗した。現在の国力は当時より劣り、内政に専念して強兵が育つのを待つべきだ」と、曹丕は「子孫のために敵を残すのか」と反論したが。「物事には時期がある」と辛毗は取り合わなかった。曹丕は呉に出兵したが長江に至ったところで兵を返した。
曹丕が崩御し、曹叡が即位すると、辛毗は潁郷侯に爵位を進め三百戸の食邑を食んだ。当時の朝廷では劉放、孫資の二人の大臣が曹叡の信頼を得て勢いがあった。人々は彼らとよしみを通じようとしていたが、辛毗は同調しようとはしなかった。 息子の辛敞から諭されると、辛毗は「帝はまだ聡明とはいかなくても、暗愚ではない。あの二人に恨まれて危ないことがあろうか」と言って取り合わなかった。辛毗を尚書僕射(中央の政治機関の次官)に推す声もあったが、劉放、孫資の意見により沙汰止みとなり、結局は衛尉(宮門の警備長官)に任ぜられた。
曹叡が造営を盛んに行い、人民に労苦を強いるようになると、諫言したが聞き入れられなかった。北芒山を平にする工事の時は、諫言は功を奏して中止となった。
蜀漢の諸葛亮が北伐によって重鎮の張郃が討たれた時、気落ちした曹叡を励ました。「今、国内では陛下と一人の将軍(張郃)、どちらが欠けているのでしょうか?」と諭したが、『三国志』において陳寿は「引き合いに出すのなら、張遼のような人物であり、まるで媚びているようない言い方は、剛直な辛毗らしくない」として、この逸話は信憑性が低いとしている。
諸葛亮との戦いでは、魏では決戦を避けて持久戦の方針が取られた。しかし、諸将に不満が立ち込めて、抑えがきかなくなる恐れが出たので、曹叡は辛毗を大将軍軍師・使持節(『世説新語』では軍司馬)に任じて、司馬懿の幕営へと派遣した。辛毗は諸軍諸将を静粛させ、皆これに従った。司馬懿にその意志があれば軍を動かす事もできたが、辛毗の指図に従った。諸葛亮が間諜を使い、魏軍の陣を探らせたところ「黄金の鉞(まさかり)を杖とした厳めしい老人が、軍門に立ちはだかって魏軍は出ようとしません」と報告した。諸葛亮は「その老人は辛佐治だな」と推測したという。
諸葛亮が亡くなると帰還し衞尉に戻った。 やがて亡くなり肅侯と諡された。息子の辛敞が後を継いだ。
剛直公正な人物で、皇帝に対しても手厳しく直諫を行った。強情で妥協を知らなかったが、不和の劉放、孫資からも誠実な人間だと評価されていた。計略にすぐれ、中央の政府では側近として諮問にあずかり、地方の軍団に出向しては軍師になった。軍監としての貫禄も重く、司馬懿以下の将軍達もその威令に服した。
曹丕と仲が良く、曹丕は太子に立てられた時、喜びのあまり辛毗の首に抱きついたという。
審配に殺されたのは兄の家族ではなく、辛毗自身の家族となっている。諫言の士としての出番はほとんど削られているが、諸葛亮との戦いで、抑えをきかせた事は史実通り。
娘に辛憲英は羊耽に嫁いだ。賢夫人として知られる。辛憲英の娘は、夏侯淵の孫である夏侯荘に嫁ぎ、夏侯堪をもうけた。夏侯堪は史家として『魏書』を著したが、陳寿の『三国志』のクオリティに負けて断筆した人物である。
息子の辛敞は太守や衞尉を歴任した。曹爽の部下となったが姉の辛憲英の助言もあり、司馬一族による曹爽一味の粛清の時でも身を全うした。子孫は晋~五胡十六国の混迷期を生き残っている。南北朝時代の北魏の高官である辛諶は辛毗の末裔だという。辛憲英の系統の羊氏の子孫も晋・宋・梁・北魏にて栄達した。
コーエーの三國志シリーズにおける辛毗の能力一覧。Ⅰでは何故か武力が高くなっている。おそらくは知力もしくはカリスマ(魅力)と間違えたもの(Ⅰではよくあること)。以後は軍事は低いが、知力、政治、魅力が高い、優秀な文官という設定で落ち着いている。
能力一覧 | 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 陸指 | 水指 | 身体 | 運勢 |
三國志Ⅰ | - | 74 | 35 | - | 78 | - | - | 89 | 40 |
三國志II | - | 48 | 78 | - | 81 | - | - | - | - |
三國志III | - | 50 | 74 | 79 | 83 | 42 | 21 | - | - |
三國志IV | 40 | 51 | 73 | 80 | 82 | - | - | - | - |
三國志V | - | 41 | 74 | 80 | 82 | - | - | - | - |
三國志VI | 47 | 28 | 74 | 85 | 80 | - | - | - | - |
三國志VII | - | 28 | 67 | 83 | 79 | - | - | - | - |
三國志VIII | - | 28 | 77 | 84 | 73 | - | - | - | - |
三國志IX | 32 | 23 | 78 | 82 | - | - | - | - | - |
三國志X | 38 | 25 | 78 | 83 | 76 | - | - | - | - |
三國志11 | 39 | 24 | 78 | 79 | 72 | - | - | - | - |
三國志12 | 39 | 24 | 79 | 79 | - | - | - | - | - |
掲示板
8 ななしのよっしん
2021/12/25(土) 00:53:45 ID: ZsXX3yFJsr
>諸葛亮は「その老人は辛佐治だな」と推測したという
現代の知名度的にはややマイナーな人物ながら、孔明に一目置かれているという描写はいいね(演義では自分の挑発が通じないだろうと嘆息する)
あの曹丕さえも素直に頭が上がらなそうな逸話をみると、厳めしくも諫言が実に上手だったんだろうな~という人物像が見て取れる
9 ななしのよっしん
2022/10/19(水) 23:22:28 ID: ng12IAcSkJ
10 ななしのよっしん
2024/10/11(金) 00:15:31 ID: DsxSjaQUxN
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最終更新:2025/05/15(木) 11:00
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