篠原貴行(しのはら たかゆき、1976年9月7日-)とは、福岡県出身のプロ野球選手(投手)である。現在は横浜DeNAベイスターズのスカウトを務める。
OB | |
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篠原貴行 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 福岡県福岡市 |
生年月日 | 1976年9月8日 |
身長 体重 |
178cm 80kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1997年ドラフト2位(逆指名) |
引退 | 2013年 |
経歴 | |
選手歴 コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
三菱重工長崎から、福岡ダイエーホークスを逆指名し1997年のドラフト2位で入団。
1998年(1年目)から51試合に登板、中継ぎとして頭角を現すと、1999年はセットアッパーに定着。「解っていても打てない」と言われたキレキレの速球を武器に、驚異的な勝ち運で白星を積み重ね、中継ぎ登板のみで14連勝し松坂大輔と最多勝を争った。また勝率10割達成も目前だったが、カズ山本の現役最終打席でホームランを打たれて敗戦投手となり、最終的には14勝1敗で最高勝率のタイトルを獲得。防御率も1.25という神がかった成績であり、吉田修司・藤井将雄・ペドラザと強力リリーフ陣を形成してチームの日本一に貢献した。
2000年は前年ほどの直球のキレが無く、セットアッパーを吉田修司に譲るが、相変わらずの勝ち運でチーム最多タイの9勝を挙げ優勝に貢献。
2001年は先発転向を志願したが故障で失敗し成績が大幅に悪化する。
最大の武器であった直球のキレを失ったため、スライダーを軸とした投球スタイルに転換して、2003年の後半戦に復活。岡本克道とダブルクローザーを組んで日本一に貢献した。
しかしその後は2年間を故障で棒に振り、2006年以降はワンポイントでの起用が多くなる。ところが、若手時代からの制球の悪さやスライダー一辺倒の投球もあって、左投手なのに左打者からの被打率の方が高いという状態だった。
2009年は一軍登板なしに終わり、オフに戦力外通告。全盛期に投手コーチとして指導を受けた尾花高夫が新監督となる横浜ベイスターズに移籍した。
2010年はワンポイントでの起用が中心となり、何度か派手に打ち込まれ、20試合で2勝2ホールド、防御率11.70に終わったが残留。
2011年、崖っぷちだった中でまさかの復活を遂げる。開幕一軍こそ逃すがすぐに昇格すると、ルーキーの大原慎司とともに左の中継ぎとしてシーズンを通してフル回転。シーズン終盤にはワンポイントながら要所でのセットアッパー的な役割も任されるなど、35歳にして自己最多の67試合に登板、1勝0敗17ホールド、防御率1.84と1999年に次ぐ好成績を残した。国内FA権を取得したが、「横浜に拾ってもらった身」とFA宣言して残留した。
2013年は、一軍での出場機会が一度も与えられず二軍生活になり、9月30日に引退を表明。若手のもっとうまくなってやろうという必死さに「若手には勝てないな」と引退を決断。春先に肘を故障し「リハビリで投げられるようになったけど自分のボールが投げられなくなった」とも語り、9月の頭には引退を考えていたという。9月29日、イースタンリーグでの北海道日本ハムファイターズ戦にて16年間のプロ野球生活に幕を下ろした。
2014年からはDeNAでコーチとして第二の人生を歩み始める。
通算:13年 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 496 | 0 | 0 | 0 | 33 | 19 | 17 | 61 | .635 | 468.2 | 158 | 372 | 179 | 171 | 3.28 |
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最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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