畠山重忠(1164~1205)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。
秩父平氏の出身で父は畠山重能、母は三浦義明の娘。治承・寿永の乱で秩父平氏は、初期は平氏方の大庭景親に従い追討軍に加わったため、三浦義明を滅ぼしている。しかし房総半島を平定した源頼朝が武蔵に入ると、豊島氏、葛西氏ら同族の説得で頼朝に降伏して御家人となる。
その後は源頼朝の忠実な家臣となり、源義仲との戦い、平家との戦い、奥州合戦などに従軍し、多くの軍功を挙げた。1185年に河越重頼が娘婿の源義経に連座して誅されると、武蔵国留守所惣検校職を継承したとされる。
また、伊勢国沼田御厨で代官が乱暴を働いたため、囚人として従兄弟の千葉胤正に預けられ、一言の弁明もせず7日間浸食を断って、身の潔白を証明し、許されたというエピソードが残っているなど、まっすぐな人格を示す逸話に事欠かない人物である。なお彼自身は北条時政の娘婿であり、北条派だったようだ。
この後も有力御家人の一人として列記されるが、嫡子・畠山重保と北条時政の娘婿・平賀朝雅との対立をきっかけに謀反を疑われ、重保は三浦義村によって誅殺。重忠も庶長子の畠山重秀を率い出陣し、二俣川で幕府軍と決戦し、最後は愛甲季隆の放った矢にあたって討ち死にし、重秀も自害。こうして畠山氏嫡流は滅んだのである。
この一件は北条時政が後妻牧の方とともに娘婿の平賀朝雅を将軍にしようとする計画の一環だったが、逆に北条義時、北条政子らに利用されることとなり、牧氏事件へとつながっていく。
さらに重忠旧領と畠山の名跡は、足利義兼の庶長子・足利義純が北条時政の娘で重忠の未亡人と婚姻し、継承した。これが室町時代の三管領でおなじみの源姓畠山氏である。
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8 ななしのよっしん
2022/09/18(日) 21:15:00 ID: N9ZHZtXN5r
鎌倉殿の13人では史実で言われるように忠義の男ではあるけど情にもろい和田と違って冷静なリアリストでもあった
そして根っこは坂東武者らしくどうにもならないとわかるや覚悟を決めて一族の誇りのために戦って散っていったな
鎌倉時代で滅ぶ北条と違って畠山は名跡だけとはいえ残って室町時代に大きな力を持つんだから歴史の流れって面白いよな
9 削除しました
削除しました ID: IKt91qswcx
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10 ななしのよっしん
2023/09/01(金) 23:50:08 ID: RjEvrgb1rf
重忠は濡れ衣で誅殺されたが義時は重忠を擁護しただけでその遺児を庇護したりはせずにその所領も北条の者に与えられ武蔵国の支配権の独占に繋がった。義時にとっては時政を失脚させるための口実に過ぎなかった。
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最終更新:2025/01/24(金) 19:00
最終更新:2025/01/24(金) 18:00
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