OB | |
---|---|
玉木重雄 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | ブラジル サンパウロ州サンパウロ |
生年月日 | 1971年2月25日 |
身長 体重 |
178cm 78kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1995年 ドラフト3位 |
引退 | 2006年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1971年2月25日生まれ。 ブラジル サンパウロ州サンパウロ出身。日系三世としてサンパウロの地で育ち、5歳頃から父親に教わりながら野球を始めたという。
高校時代、15歳でブラジル選抜のエースとして来日し、日本戦で登板。日本選抜のメンバーであった、前田幸長や谷繁元信らのプレーの質の高さに驚き、日本でプレーしたいと感じたようである。
高校卒業後、日本での生活を選択し、三菱自動車川崎に入社。肩の故障に見舞われたこともあったが着実に実力を磨いていき、1995年の社会人野球日本選手権に出場。エースとして相手チームの打者を圧倒し、3勝を挙げて、大会MVPを受賞。また、同年で日本でのプレー歴が6年目に達し、外国人枠から外れたため、外国籍(正確にはブラジル・日本の二重国籍)ながらドラフト指名が可能となった。
1995年ドラフト会議にて、広島東洋カープから3位指名を受け入団。同期入団には長谷川昌幸・鈴衛佑規らがいた。
1996年、新人ながら中継ぎ投手として30試合に登板して3勝を挙げた。
1998年、故障者や調子を崩した選手が続出した投手陣の中で、チーム2位の50試合に登板して6勝を挙げるなど、苦しい台所事情を支える活躍を見せた。
2000年、登板数こそ26試合であったが、48イニングを投げて、防御率2.61と安定感を発揮。
2001年、チーム2位の62試合に登板[1]して9勝3敗3セーブ、防御率2.76と右の中継ぎエースとして大車輪の活躍を見せた。
2002年、チーム最多の52試合に登板して6勝1敗2セーブ、防御率3.34を記録。
2005年、新規球団の東北楽天ゴールデンイーグルスに無償トレードで移籍。
楽天移籍初年度は、層の薄い投手陣の中セットアッパーとして安定感を発揮していたが、シーズン途中に故障し離脱。同年は2勝5ホールド、防御率3.52という成績を残した。翌2006年は一軍登板なしに終わり、シーズンオフに戦力外通告を受けて、現役を引退。
2007年、読売ジャイアンツの二軍コーチ兼任中南米発掘担当に就任。メキシカンリーグでプレーしていた、ウィルフィン・オビスポを獲得している。
その後、東京ヤクルトスワローズのアカデミーでコーチを務めた後、巨人に戻り、通訳に就任している。
力のある直球や、大きく曲がるカーブ・フォークやスライダーを武器に活躍したリリーフピッチャー。内角を大胆に攻め、回跨ぎや連投も厭わないタフさも売りであった。
日本語は担当スカウトの備前善夫氏が初めて玉木に接触した際、「ブラジルで日本語を勉強したのか?」と尋ねたところ「そんなことはありません」と答えている。肩を故障して、練習に参加できない期間を利用して日本語や日本文化を学んだという。
性格は真面目で大人しく、ラテン文化の国で育ったとは思えないほど落ち着きがあった。
通算:10年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 373 | 0 | 0 | 34 | 23 | 8 | 5 | .596 | 509.0 | 200 | 386 | 243 | 219 | 3.87 |
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/23(月) 15:00
最終更新:2024/12/23(月) 15:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。