河野通信 単語

コウノミチノブ

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河野通信11561223)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。

概要

越智氏の子孫とされる河野氏の、伊予の有力在庁官人だった河野通清の嫡男。1180子そろって平家に対して挙兵し、備後の額西寂に攻められてを失う。その後西寂を討ち取り、平教経波の田口成良、田口らの侵入を防いで、1185年には源義経に軍提供して壇ノの戦いで活躍した。

州合戦にも参し、1203年には伊予守護佐々木盛綱とは関係に近・郎従を統率する権限を与えられている文書が残されているが、これは偽文書という説も根強い。それはともかく、1205年には河野通信の沙汰に数十人の御家人が従うように定められているなど、伊予の有力者、また北条時政婿として幕府に重用されたようだ。

しかし1221年、承久の乱後鳥羽院方につく。軍記物語『予章記』によると妻である北条時政が「河野氏の名北条氏のおかげ」といったことを不快に思い参戦したとされるが、近年ではほかの宮方武士同様、平安時代以来の朝廷とのつながりで加わったこと、また彼個人としては伊予守護との対立があったことなどが原因として言われている。
それはともかく京都での戦闘終結後も伊予抵抗を続け、捕縛。一族の分も含め所領が収されたほか、息子河野通政らは刑、流罪となり、通信自身も平泉に配流された。

ただし、息子のうち河野通久は鎌倉方だったため、以後彼の子孫が戦国時代まで続いていく。
さらに言えば時宗の開祖・一遍は河野通信の孫である。

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最終更新:2024/12/23(月) 18:00

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