松木謙治郎(まつき けんじろう)とは、元プロ野球選手・監督である。故人。
OB | |
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松木謙治郎 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 福井県敦賀市 |
生年月日 | 1909年1月22日 |
没年月日 | 1986年2月21日 |
身長 体重 |
173cm 79kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 一塁手 |
プロ入り | 1936年 |
引退 | 1951年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
敦賀商業学校に進学。1925年、1926年には全国中等学校優勝野球大会に出場した。
卒業後、明治大学に進学。入学後すぐにファーストのレギュラーに定着。2年秋と3年春優勝時にはクリーンナップの一角として活躍。リーグを代表する打者として名を馳せた。
卒業後、名古屋鉄道局に入社。1933年には全国都市対抗野球大会に出場している。
1934年、大連実業団へ移籍。ここで遠征に来た大日本東京野球倶楽部と対戦し、沢村栄治と対戦したものの3打席3三振に終わっている。
1936年、大阪タイガースに入団。初代キャプテンに就任し、4番を任された。
1937年からは走力を活かすために1番打者として起用され、春シーズンには打率.338、4本塁打で首位打者と本塁打王の2冠を獲得しチームの日本一に貢献した。また、70安打は最多安打であった。
1940年からは兼任監督としてプレー。しかし、1941年に現役引退し監督も退任した。
1942年、大同製鋼に勤務し、選手兼監督として同年の都市対抗野球大会に出場している。
1943年、応召。
1944年、後に最前線となる沖縄に配属され、沖縄戦で文字通り「地獄」のを見る。上官や仲間たち、そして民間人たちが次々と米兵の砲撃で散っていく中、松木は足に大怪我を負い野戦病院へ。そこでアメリカ兵に捕まり捕虜として収容所に送られた後、終戦を迎えた。
戦後は大同製鋼に戻り、その後独立。事業が軌道に乗ってきたところで球界では2リーグ制分立。古巣の大阪は兼任監督であった若林忠志を中心に主力選手たちが次々にパ・リーグへ移籍。大阪に残った藤村富美男らの懇願もあり松木は選手兼任監督として復帰。
選手としては1951年までプレーし、その後は専任監督として指揮を執った。資金を渋るフロントに苦悩しながら私財を投じてやりくりし奮闘するも、黄金時代の真っ只中の巨人相手に優勝することができなかった。
1954年シーズンオフ、同年7月の没収試合の責任を取る形で退団。
1955年大映スターズのコーチに就任。1956年途中から1957年まで監督を努めた。
その後東映フライヤーズの打撃コーチを務めた後、解説者を経て 1969年に東映の監督に就任したが、1970年途中に休養しそのまま退団。
その後は解説者として活動。
優れた打撃テクニックと脚力を活かし打線を引っ張ったタイガース初代キャプテン。理論派としても知られ、打撃理論は当時としては先進的な考えの持ち主だった。
指導者としては、吉田義男や張本勲らを我慢強く起用し続け大成させた。
腕っぷしの強さに自信のある者や強面の多かったチーム内においても一番恐れられていた人物でもあり、夜の街でヤクザに絡まれた際には、相手をマンホールの中に叩き込んだというエピソードも残っている。
トレードマークはロイド眼鏡。ただ、チームには同じくロイド眼鏡をかけている御園生崇男がおり、書籍で誤って御園生の写真が掲載されたことがある。
通算:8年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 479 | 2022 | 1706 | 287 | 448 | 18 | 224 | 94 | 12 | 7 | 288 | 7 | 128 | 2 | .263 | .371 |
通算:11年 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | |
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NPB | 1255 | 628 | 602 | 25 | .511 | Aクラス6回、Bクラス5回 |
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最終更新:2025/01/11(土) 06:00
最終更新:2025/01/11(土) 06:00
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