OB | |
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吉田孝司 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県 |
生年月日 | 1946年6月23日 |
身長 体重 |
179cm 79kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 捕手 |
プロ入り | 1965年 |
引退 | 1984年 |
経歴 | |
選手歴 コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
神港高等学校に進学。2年時から正捕手として活躍し、3年時には春の甲子園大会に出場して、準決勝まで勝ち進んでいる。
入団からしばらくはなかなか出場機会を得られず、二軍暮らしが続いた。
1969年から一軍に定着し、森昌彦の控えとして同年は56試合に出場。
その後、2番手捕手として年間50試合前後の出場が続いたが、1974年に正捕手の座を奪取し、106試合に出場。打率.205ながら7本塁打を記録。
1975年は出場試合を減らしたが、1976年には再び出場機会を増やし、124試合に出場。打率.260、5本塁打、37打点を記録。また、オールスターゲームにも初出場を果たし、第3戦目にはMVPにも選ばれている。
1978年以降は山倉和博の台頭もあり、出場機会が減少。それでも控えの捕手としてチームを影から支え続けた。
引退後も巨人に残り、1995年までバッテリーコーチを務めた後、フロント入りし、スカウトや編成部長を担当。しかし、2004年にドラフトの目玉であった、一場靖弘との交渉の場で栄養費という名目で球団から現金を渡していたことが発覚。吉田も解任された。
その後、しばらく球界から離れていたが、2012年に横浜DeNAベイスターズの編成・スカウト部長に就任。2013年からはGM補佐も兼務。最下位常連となっていたチームをドラフト戦略で変えるべく、宮﨑敏郎、山崎康晃、今永昇太、佐野恵太、東克樹といった後にチームの顔になる選手たちを獲得していき、チームの強化に成功した。2020年ドラフト会議を最後に勇退し、退団している。
巨人V9時代後期を支えた強肩の捕手。打撃は逆らわずセンターから逆方向への打撃が多く、時折一発が飛び出す意外性も持ち味であった。
一軍出場試合数は1000試合に満たないが、一軍ベンチ入り試合数は巨人の球団史上歴代4位を記録している。
通算:19年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 954 | 2272 | 2025 | 170 | 476 | 42 | 199 | 3 | 35 | 16 | 177 | 19 | 314 | 54 | .235 | .303 |
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最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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