北条時輔 単語

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北条時輔12481272)とは、鎌倉時代の武将である。

概要

北条時頼息子で、端的に言えば北条時宗。粛々と六波羅探題を務めていたはずが、「二月騒動」で粛清された。通称は相模三郎

史実の北条時輔

北条時頼長男で、母親は女房将軍讃岐。幼名は宝寿丸。

康元元年(1256年)に元し、足利利氏から偏諱を与えられ北条時利と名乗った。その後、正嘉2年(1258年)に小山をめとったとのことで、文応元年(1260年)1月1日の『吾妻鏡』に「時」とあるのでこの頃に改名したと思われるのだが、実はそれ以後も『吾妻鏡』に時利と書かれるので、よくわからない

長元年(1261年)に、北条時頼の命で、兄弟の序列が北条時宗北条宗政、北条時輔の順になり、全に庶長子として、嫡子の北条時宗どころか北条宗政よりも下に位置付けられた。

文永元年(1264年)、六波羅探題南方に任じられて上。翌年には従五位下式部に叙任され、以後も治部大輔→式部大輔とステップアップしていく。

ところが、文永5年(1268年)に北条時宗執権に就任した時から行きが怪しくなり、文永9年(1272年)に鎌倉北条時章(名越時章)、北条教時(名越教時)ら名越北条氏タカが誅殺されたのとほぼ同じタイミングに、六波羅探題北方北条義宗赤橋義宗)に攻撃され、敗死した。『鎌倉北条氏人名辞典』では、あくまでも一説として吉野逃げた可性を述べているが、典拠は特に示されていない(ただし、おそらく『保間記』が出典の話である)。

この二月騒動は、要するに元寇に前後して、北条時宗北条政村ら幕府のリーダーたちが、宝治合戦や宮騒動以来の鎌倉幕府の不穏分子の結集核であった名越北条氏叩きのめしたものである。のだが、なぜか、一見関係な北条時宗・北条時輔もどさくさ紛れに殺されているのである。

このため、北条時輔もへの不満から名越北条氏に接近していたともいわれているのだが、実のところ傍であって、典拠は特にない。ただし、正直、執権北条時宗というのは、何をどう考えても何かあった時に面倒なことになる存在なのは疑いないことなので、実のところ彼が殺されるのは、ある程度避けられない運命ではあったのだろう。

大河ドラマ『北条時宗』にて

そんな正直史実ではよくわからない存在である北条時輔だったのだが、大河ドラマ北条時宗』ではかなり盛られ、第二の主人公ともいうべき存在と化した。

この大河ドラマでは、北条時宗と対的な性格に描かれ、次第に政争が繰り広げていく中で、父親北条時頼から、北条長時(長時)と一緒に殺すよう北条時宗に遺言が残されるものの、北条時宗を思い逃がす。さらに北条時宗に送られた六波羅では近衛を深めるが、近衛切腹を見届ける(この事件自体、大河ドラマ創作)。

その後、次第に北条時宗と北条時輔の溝が深まり、ついに二月騒動に至るが、なんと北条時輔は吉野逃げ生き延びるという史実バリアを突破する展開となる。こうして、日本モンゴルどちらにも顔が利くマージナルな存在になった北条時輔は元寇のさなかあちこち渡り歩くも、ついには北条時宗の最期を看取り、和解。そのままとの約束をかなえるために大陸に渡り、その後は杳として知れないという結末である。

ということなので、実在の人物が史実より10年以上生き残るという、昨今の大河ドラマではなかなかない展開なのだが、こうしたかなり盛られまくった裏の主人公としての活躍故に、史実的にはそこまでなにかやったわけではないのだが、ファンも多い人物となっている。

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最終更新:2025/01/14(火) 07:00

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