光厳天皇(1313~1364)とは、北朝の1代目の天皇である。
持明院統の皇族であり、後醍醐天皇の対抗馬。本名は量仁。現在の天皇家は彼の子孫だが、戦前の諸々の結果として歴代には数えられないままとなってしまった。
後伏見天皇と西園寺寧子(広義門院)の間に生まれた。当時は花園天皇の在位中だったが、持明院統にはもう男子がおらず、待望の男子出産にみな喜んだ。なお、同母兄弟に珣子内親王、景仁親王、豊仁親王(のちの光明天皇)らがいる。
花園天皇の記した『花園天皇日記』によると鷹司冬平を幼い頃から信頼していたようだ。また、この日記には後伏見と光厳の父子の動物への愛情もうかがえる。やがて念願の男児だったため帝王学をたたき込まれ、廷臣のみならず叔父の花園天皇まで加わって彼を教育した。
両統迭立のため嘉暦元年(1326年)に14歳で後醍醐天皇の皇太子とされる。即位直前には花園上皇から訓戒も送られ、元弘の乱の真っただ中であった元弘元年(1331年)に即位した。そしてこの傍ら、鎌倉幕府打倒が成功してしまう。
後醍醐天皇によって廃位されたものの、建武政権の内紛が続いた結果、足利尊氏に担がれる。かくして建武3年(1336年)に足利尊氏が入京すると、弟の光明天皇が即位。後醍醐天皇の脱出によって南北朝時代が始まる。
そんな時期の彼の極めて有名なエピソードが、土岐頼遠に弓を射かけられた後、開き直った彼に狼藉行為を働かれたことである。室町幕府は直ちに彼を処刑したが、決して皇統の基盤は盤石ではなかったのである。この出来事がきっかけで、光厳上皇らは室町幕府を北朝につなぎとめる努力を決意したらしい。
後醍醐天皇の49日に夢窓疎石を任じて天竜寺を築く。この間家族ぐるみで夢窓疎石の俗弟子となり、受衣した。ところが、観応の擾乱である。足利尊氏が足利直義を討伐している間にだまし討ちに近い形で後村上天皇の軍勢が京都を占領し、光厳、光明、崇光の3人の北朝の天皇経験者を幽閉したのである。足利尊氏は京都を奪還するも、彼ら3人は南朝に連れ去られてしまったのである。
室町幕府は結局、光厳の母親の広義門院を治天の君として、光厳の息子の後光厳天皇を即位させるも、連れ去られたショックで落飾してしまった光厳上皇は、すでに俗界での治天の君としての役割を担える立場になれなかった。
延文元年(1356年)に3度目の受衣を南朝の金剛寺の元で行うと、黒衣の僧としての人生が始まる。延文2年(1357年)には京都に戻るも、廷臣たちを寄せ付けようとはしなかった。その後は俗世を離れて順覚という僧だけを連れて山寺を歩き回り、『太平記』ではその流れで高野山で後村上天皇と出会う場面も描かれた。
その後いつ頃かは不明だが、丹波国で常照寺を開き、禅僧として活動していった。この間、側近である四条隆蔭の出家の戎士ともなっている。
掲示板
1 ななしのよっしん
2020/09/05(土) 18:48:49 ID: C0VxwWcje0
2 ななしのよっしん
2023/05/02(火) 01:49:04 ID: 7yt+Ye/97P
運命的に対立関係だった後醍醐天皇の影に隠れてるがこの御方も激動だよね。
治天の君になるまでは、即位したが六波羅陥落の悲惨な経験をして父が悲嘆に暮れ出家を促されても断固拒否。関与が疑われる後醍醐暗殺計画から中先代の乱で叔父の花園院までも出家する中でも只管雌伏、そして因縁のある足利と手を組んで後醍醐の監視の目を盗み脱出し復権。
それからは南朝の吉野失陥と不義の子を立太子させた絶頂期には勝ち確宣言のような書き認めをしたが直後に観応の擾乱が起き、尊氏に見捨てられ南朝に拉致される。散々嫌がった出家を思い詰めたようにして禅に没頭するが皇位継承に口を挟むなど俗世との縁は最後まで切れなかった。
自身の宿願を困難を乗り越え一時は成し遂げたが結局は儚く潰えてしまった一生はまさに後醍醐天皇と重なるね。
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最終更新:2024/12/23(月) 19:00
最終更新:2024/12/23(月) 18:00
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