デーモン・コア(demon core)とは、1940年代にアメリカのロスアラモス研究所で研究に使用されていたプルトニウム塊の通称である。
プルトニウムを扱っていた初期の現場では、不十分な知識と設備、および扱い方によって、未臨界のプルトニウム塊が条件が重なって臨界状態となり、大量の中性子線を浴びた被曝事故による死者が数名いる。
中でも有名なのがロスアラモス研究所にあり、後に「デーモン・コア」とあだ名された約6.2kgのプルトニウム塊に関連して生じた死亡事故である。
このコアを用いた実験において人命が失われたケースが複数回生じたため「デーモン・コア」と呼ばれるようになった。
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1945年8月21日、24歳の青年科学者ハリー・ダウアン(Harry Daghlian)は、プルトニウム塊を用いた中性子反射体の試験を行っていた。中性子反射体である炭化タングステンのブロックをプルトニウムの周りに置き徐々に臨界に近づけるという試験であるが、ブロックがプルトニウムに近づきすぎると即臨界状態となり危険である。
こういった実験は彼だけではなく以前から他の科学者も行っており、しばらく前にはオットー・フリッシュ(Otto Frisch)という研究者が似たような実験のさなかに誤って放射線を浴びたりしていた。やはりロスアラモス研究所に勤めていた著名な物理学者リチャード・P・ファインマンはこういった危険な実験について、「ドラゴンの尻尾をくすぐるようなものだ」と批判していた。
そしてダウアンはこの日の夜11時頃、うっかり手を滑らせてブロックを落下させてしまう。その瞬間、青い光が放たれた。プルトニウム塊が臨界状態となって放出された強い放射線によって電離した空気から放たれる光である。ダウアンはすぐに臨界状態になったことに気付いたが、すぐにそこから退避しようとはせずに臨界を止めるために努力してしまった。
その結果臨界を止めることはできたが……ダウアンは恐らく100秒以上もの間、プルトニウム塊から発せられる放射線を浴び続けたと推定されるという。このときダウアンがすぐに退避していれば、死に至ることはなかったかもしれないともいう。[1]
「落下したブロックを取り除いたが臨界状態を示すアラームが鳴りやまず、実験装置が乗ったテーブル自体をひっくり返そうとしたがその重さのために失敗し、周囲に積んでいたブロックを取り除いていくことでやっと臨界状態が停止した」と詳しく語る書籍もある[2]が、この描写が正確かは不明である。この書籍によれば、ダウアンは当初は自分が経験したこの事故が致命的なものだと考えていなかったという。上記のオットー・フリッシュが幸い大事に至らなかったのを知っていたからかもしれない。だが、ダウアンはフリッシュほど幸運ではなかった。数時間後にダウアンは吐き気を感じ始め、病院を受診した。
この事故の時、ダウアンは線量測定バッジを付けていなかった。そのため彼が浴びた放射線の正確な量は不明である。しかし彼の所持品や治療中の彼から採取された血液の精査などを元にして様々な推計値は出されており、一説によれば推定5.1シーベルトともいう。参考までに、胸部単純X線写真(=いわゆる「胸のレントゲン写真」)1回が約0.05ミリシーベルト=0.00005シーベルト、胸部CTスキャン1回が6.9ミリシーベルト=0.0069シーベルトという例がある(使用機器や撮影対象、撮影手法などによりある程度は上下する)。つまりダウアンは、胸部単純X線写真約10万回、胸部CTスキャン約数百回に相当する放射線量をわずかな時間のうちに一気に浴びてしまったことになる。
病院では治療が開始されたものの、これほど多量の放射線被曝に対しては当時の医学は無力であった。ハリー・ダウアンの容体は悪化していき、家族(妹と母)が彼の元に呼び寄せられた。彼の父は1943年にすでに亡くなっていた。
ハリーの妹の証言によれば、当時その病院は人手不足であったために彼の家族たちは夜間の付き添いを依頼され、言われた通り一晩中彼のそばに控えていたという。そのため、家族たちはハリーが負った「火傷」についても目にしていたようだ。[3]
事故から約25日後の1945年9月15日、ハリー・ダウアンは死亡した。
痛みを止める麻酔薬は控えめに使用されたこともあり、ハリーは死の当日まで意識を保っていたという。彼の元にはロスアラモス研究所での同僚たちが一人一人訪れ、彼と話した。ハリーの妹の記憶によれば、その中には著名な物理学者エンリコ・フェルミもおり「事故の時に何をしたのか」について質問していたという。
高校のクラスメートたちはハリー・ダウアンについて物静かで勉強熱心な少年だったと記憶しており「とても明晰だった」「物静かだけど、好かれていた」などと話す。科学者となってからもその人物像は変わらなかったようで、ロスアラモス研究所でのダウアンの指導員の一人であったレーマー・シュライバー(Raemer Schreiber)も彼について「A quiet chap, very likeable.」(とても好感が持てる、静かなやつだった)と回顧している。
ちなみに、ダウアンは後述する「ルイス・スローティン」(Louis Slotin)の友人でもあったとのことである。年齢がやや離れていることもあってダウアンがスローティンの助手という関係ではあったらしいが、単なる上司と部下というわけでもなかったようで、ダウアンの妹は「友人のルイス・スローティンと二人で、ニューメキシコの山でスキーをする兄の写真」を所持していた。[4]
しかしダウアンの事故の時は、スローティンはたまたま数週間のバカンスに行っていてロスアラモスに不在だった。スローティンがバカンスから帰ってみると、友人であり助手でもある男が研究中の事故によって余命幾許もない状態になってしまっていたのである。[5]
スローティンはダウアンが死に至るまでのその一か月の間、ダウアンのベッドサイドで多くの時間を過ごしていたという。[6]
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1946年5月21日、35歳の科学者ルイス・スローティンは別の中性子反射体であるベリリウムを使って、どのような条件で臨界状態となるかと言う実験を行っていた。
これは半球で割った球殻状のベリリウムでプルトニウムを覆い、マイナスドライバーを間に挟んで上下の隙間を開け、マイナスドライバーをぐらつかせ上半球の距離を変える事で比放射能の値を測るという実験であった。もしマイナスドライバーが外れ球体がくっつけば即臨界状態となり危険である。
誰がどう見ても危険な実験を行うスローティンに、上記のエンリコ・フェルミも「そんな調子では年内に死ぬぞ」と忠告したと言われているが、大多数の同僚が実験への参加自体を拒否する中、スローティンは率先して実験を行っていた。ダウアンの死亡事故が起きた後にも関わらずスローティンがこのような危険な実験を続けていた動機については不明である。
スローティンの元々の性格に理由を求める人も居る。彼はイギリス留学中に志願して王立空軍の戦闘機乗りとなりスペイン内戦に参加したという経歴があったり、稼働中の原子炉の近くでの機器修理に携わって多量の放射線を浴びたりと、危険を顧みない(あるいは、あえて危険に飛び込む)かのような行動をとりがちな節があったようだ。
あるいは、上記のようにスローティンとダウアンが友人関係でもあったらしいことに理由を見出す人こともできよう。例えば「友人の死で精神的に不安定になり、どこか自暴自棄になっていた」とか、「友人の死を無駄にしないためにと、研究を進めることに焦りを感じていた」とか。
そしてこの日、とうとうマイナスドライバーが外れベリリウム球殻がくっつき、臨界反応が発生した。スローティンは慌てて上半球を弾き飛ばして他の研究者の命を守ったが、文字通り皆の先頭に立って実験をしていたスローティンはたった1秒間で膨大な量の(ある推定によれば21シーベルト)放射線を浴びた。
スローティンは病院に収容され、ダウアンと同じように吐き気を訴え、嘔吐し始めた。また、臨界していたプルトニウム塊の最も近くにかざされていた彼の両手は最初のうちは発赤し、その後には一転して蒼白となった。数日のうちに彼の血中の白血球はほぼ消失した。彼は極力意識を保とうし、主治医に対して彼が何を経験しているか伝えようとしていた。[7]
事故から9日後の5月30日、ルイス・スローティンは死亡した。
ロスアラモス研究所でのスローティンの親しい友人だった物理学者フィリップ・モリソン(Philip Morrison)は、スローティンの死の過程について記述を残している。またこのモリソンの妻エミリー・モリソン(Emily Morrison)は、スローティンの死から間もない時期に友人に送った手紙において、2つの事故の奇妙な偶然の一致について以下のように記した。
「Both Louis' and Harry Daghlian's accidents occurred on Tuesday the 21st; both used the same piece of material; and both died in the same room in the hospital.」(ルイスとハリー・ダウアンの事故はどちらも21日火曜に起き、どちらも同じ実験材料を用い、そして病院の同じ部屋で亡くなったのです。)[8]
彼の死の数日前に、アメリカ陸軍の飛行機DC-3が彼の故郷であるカナダのウィニペグに派遣され、彼の両親が呼び寄せられていた。両親らは彼らの息子ルイスの遺体とともにウィニペグに帰郷した。[9]
この2回目の事故の瞬間、スローティンに次いでデーモン・コアに近い場所にいたのは、彼の肩越しに実験を見ていた36歳の科学者アルバン・グレイブス(Alvin Graves)だった。スローティンは事故の直後、グレイブスに対してこう話したと伝えられている。
「I'm sorry I got you into this. I'm afraid I have less than a 50 per cent chance of living. I hope you have better than that.」(君を巻き込んでしまってすまない。 僕が生き残れる確率は50%もないだろう。 君の方はもっと良い確率ならよいのだが。)[10]
事故当時のグレイブスの写真では、彼の左側の頭髪が失われている。そのため、おそらく事故の瞬間にはスローティンの左肩の後ろに居たのではないかと思われる。彼は歯に金属製の詰め物をしていたが、この事故で放射線を浴びたことでこの詰め物が放射化してしまい、しばらく歯に金製の被せもの(クラウン)をしてその放射線から口内を守ることになったとも言われる。
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しかしスローティンが盾となっていた事で生存し、核実験関連の仕事に従事し続けた。事故から2年後には妻の間に健康な男児を得ている。その後も居住地域の銀行や教育委員会の理事となったり、チェロを学んで地域の楽団に所属していたりと、活動的な人物だったようだ。事故から19年後の1965年、スキー中に心臓発作を起こして死去した。
デーモン・コアは1946年に行われたクロスロード作戦の第3実験「チャーリー」に使用される予定だったが、この第3実験はキャンセルされた。
最終的には、デーモン・コアは融解されて他の兵器の材料となった。[11]
原子爆弾の開発について描いた映画「シャドー・メーカーズ」の、スローティンの事故をモデルとしたシーン。
事故直後、科学者のマイケル・メリマン(架空の登場人物。スローティンにあたる)が、現場に居合わせた人々が被曝した放射線の量を黒板で計算した後
「Everybody should make it, except me.」(皆は問題ないはずだ。 俺以外はな。)
「I’m dead.」(俺は致死量を浴びてる。)
以下のリンクには、被曝後のハリー・ダウアンやルイス・スローティンの手(皮膚に放射線障害が現れ始めているもの)など、やや刺激が強い写真も含まれる。閲覧注意。
掲示板
53 ななしのよっしん
2023/08/07(月) 11:31:36 ID: pBPcLiPU/q
54 ななしのよっしん
2023/12/31(日) 00:18:36 ID: fWesHP4yXx
>>45 >>46
際限なく反応が進むので、
大量の放射線を発しながら温度が上がり続ける(蓋があるかぎりいくらでも上がる)
数千度の温度になると
蓋もコアも溶けてドロドロの溶解金属になっちゃう
こうなると冷えて固まるのを待つしかないんだけど、
その間に火事は起きるわ周辺の物質を放射化するわで散々
研究室周辺は以降数十年人が立ち入ることができない危険地帯に…
55 ななしのよっしん
2024/05/21(火) 14:50:59 ID: Gn8rxbJ0yf
もしこれが現代なら発展した医療で中途半端に生かされてたんだろうな
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/23(月) 19:00
最終更新:2024/12/23(月) 19:00
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