ガトリングガンとは、三輪清宗の大好物である。
ガトリングガン、日本では概ねバルカンと一緒くたにされがちなこの兵器は、物凄く乱暴に言えば銃身がたくさんある機関砲である。ガトリングは、発明者のリチャード・ジョーダン・ガトリング(Richard Jordan Gatling)と言う医者[*1]から取られている。
発明家だったガトリング博士は、20代の時に種まき機を開発。十分な利益を獲得した。約20年後に南北戦争が勃発すると、「戦場では戦死者より病死者の方が多い」という現実に気付く。心を痛めたガトリング博士は戦死者を減らすために武器の開発に着手した。一人で百人分の戦力になる兵器があれば、全体の戦死者の数は減るという独特な考えが根底に流れていた。以前開発した種まき機の原理を応用し、1861年にガトリング砲を発明した。翌年にはガトリング・カンパニーを起業し、六台のガトリング砲を製造したが、年末に火災で焼失してしまっている。諦めずに十三台のガトリング砲を製造したが、1870年に特許をコルト社に売却して歴史の表舞台から去った。
一方、日本では1867年より戊辰戦争が始まっていた。武器調達のため、幕府側の長岡藩がイギリスから様々な武器を買い付けており、その中にはガトリング砲三台も含まれていた。長岡藩の河井継之助によって運用され、新政府軍に向けて乱射された。しかしガトリング砲はその自重から平野部でしか扱えず、加えて散開して攻めて来る敵兵には効果が薄かった。長岡藩は新政府軍に大出血を強いたが、ガトリング砲が寄与できたとは言いがたい。
当初の手回し式の物はすぐに廃れたが、1950年代半ば以降の航空機隆盛(ジェット機)に伴いアメリカ空軍が陸軍博物館倉庫にあった骨董品のガトリング砲に油圧モーターを取り付けたものを作成、実験を行った結果、期待以上の優秀な成績を上げた事からM61「バルカン」の開発に至った経緯がある。以降、航空機用のアヴェンジャー、支援用としてヘリ搭載または車載のM134などの後続が今なお多数存在し、活躍している。
そのアクションの派手さから多くのフィクションにも登場し、とある有名な時代劇に登場したこともある。
[1]:英語版Wikipediaには 「医学士/医学博士免許は持っていたが、(医者として)開業したことはなかった」と書かれている。医学生出身の発明家というべきなのかも。
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最終更新:2024/12/23(月) 00:00
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