【前回までのあらすじ】「政界の黒幕」といわれた真木甚八は、弟分の鳩山一郎が総理就任直前で公職追放になった後、「鳩山が駄目なら、残るは吉田茂しかない」と有力者を説得して吉田内閣の成立に尽力し、キングメーカーとなった。だが、70歳になってさすがに老いは隠せず、子飼いの政治家の裏切りなどで力を落としていく。(『小説・昭和の女帝』#15)
政界の黒幕が、レイ子に残した「秘密の遺書」
レイ子が男の子を出産したのは、新憲法の下での初の総選挙の直前だった。
生まれた赤子は神様か宇宙人のようだったが、よく見ると粕谷の面影があった。母として愛情は感じたが、1カ月もすると常に一緒にいたいという感情は薄れた。2月もたつと、昼間は乳母に任せたいと思うようになった。
せっかく内閣官房長官の林譲治ら政権幹部と懇意になり、政治に関わるチャンスが巡ってきているのに、育児のために家にこもるという選択肢はレイ子にはなかった。
そのことを率直に真木甚八に伝えると、「これからは、国会の通行証も免許証も、真木レイ子でいいぞ」と言われた。
彼女の本名は根本レイ子だった。すでに「甚八の娘」として生きることは認められている。あらためて真木姓を名乗ることを許す真意を問うと、「自分の子として認知する」とのことだった。それはまさに、彼女が願い続けてきたことだった。
甚八は、認知の手続きをするように医師兼顧問弁護士の藤本に頼んだ。それと同時に、レイ子の息子の乳母役の女性とその夫を、甚八の養子として迎え入れた。宏明と名付けられたレイ子の子は、その夫婦の「実子」として育てられることになった。乳母役の女性と甚八がどういう関係なのか分からなかったが、その夫婦はレイ子から見ても、信頼に足る人たちだった。
そうして、彼女は永田町での生活に戻った。
選挙目前の慌ただしい時期に出産したことは、彼女にとって好都合だった。永田町の住民たちは多忙を極め、彼女の妊娠、出産に気を留める余裕がある者はほとんどいなかった。
実はそのころ、甚八は社会から指弾されていた。それまでは知る人ぞ知る存在でしかなかったのだが、戦後、キングメーカーとして目立ったためか、贈賄事件で追及される側になってしまったのだ。
とりわけ耳目を集めたのが、終戦のどさくさにまぎれて不当な利益を上げた人物を追及するために国会に設置された隠退蔵物資等処理委員会での議論だった。この委員会は、横流しされたり、隠されたりした旧軍の資産を突き止めて没収し、インフレで困窮する国民に配ることを目的としていた。委員たちは国民からヒーロー扱いされていた。
甚八が責任を問われたのは、東京地裁で審理中の、軍服の払い下げを巡る疑惑だった。体調不良を言い訳に出頭するのを渋っていると、裁判長や検事が屋敷を訪れ、臨床尋問を強行した。甚八は、かつての子飼いの政治家たちが自分を守らないことにショックを受けていた。
二度目の脳卒中の発作を起こしたのは、そんな折だった。元々、健康体ではなかったが、軍服払下事件の追及が心身に応えた。甚八はそれ以降、立ち上がるのを億劫がるようになってしまった。
そんな折、隠退蔵物資等処理委員会の世耕弘一副委員長は国会で「私が隠退蔵物資の仕事をやることになったときに真木氏を訪ねた。『しっかりやれ』と激励され、『もし君が摘発に絡んでカネでももらうような不正をやるならば、僕は君を生かしておかないぞ』と言われた」と発言した。政界の黒幕の何とも不気味な脅し文句に、新聞記者たちは食いつき、真木甚八とは何者なのかを紙面で書きたてた。
追及は、軍服払下事件だけでは終わらなかった。隠退蔵物資の他に、芦田均内閣が総辞職する原因となった昭和電工事件による収賄疑惑が持ち上がったのだ。この問題でも甚八は家宅捜索で書類を押収され、弁護士の藤本が見守る中、逗子の別邸で取り調べを受けた。ただし、レイ子がつくった政治資金の記録は粕谷の自宅に預けていたおかげで無事だった。
レイ子が許せなかったのは、総選挙に再チャレンジして衆院議員になっていた加山鋭達が、甚八の疑惑を国会で問い質したことだった。加山はいつのまにか有力政党の一員になっていた。当初、所属していた日本進歩党が、翼賛議員らがつくった最右派の政党というイメージ払しょくするために民主党へと党名を変更。そこに、吉田茂総裁に不満を抱く日本自由党の反主流派が合流し、同党と肩を並べる規模の保守政党、日本民主党(自由党と合同して自民党の前身となった日本民主党〈54年結党。総裁は鳩山一郎〉とは別の政党)へと党勢を拡大していたのだ。
加山は、甚八に100万円を献金したという実業家をわざわざ国会に呼び出し、しつこく追及するパフォーマンスを行った。彼は、その実業家と、鬼頭紘太が率いた鬼頭機関とのつながり、献金の帳簿の有無などを質問し、闇に切り込む若手代議士として脚光を浴びた。
レイ子から見れば、そうした加山の動きは、吉田に取り入るための得点稼ぎに他ならなかった。吉田は、鬼頭や鳩山一郎と対立し始めていた。そもそも吉田は、鳩山の公職追放が解けるまでのリリーフ役に甘んじるような男ではなかったのだ。加山はその政治的対立に乗じて、傍流から、後に吉田学校といわれた戦後保守の本流に食い込もうとしているのだった。
甚八の疑惑を巡り、公職追放中の鳩山も証人に呼ばれたことがあった。情に厚い鳩山は「真木さんは、条件を考えてカネを出すという種類の人ではありません」などと恩人をかばった。鳩山のように甚八を擁護する勢力もなお強く、疑惑は結局、立件されることなく、あやふやなまま終わった。
しかし、甚八にとって、加山をはじめ、世話をしてやった政治家らが自分を陥れようとしたことはショックだった。こっそり資金を流してやっていた日本社会党の議員だけでなく、保守系の議員からすら裏切り者が出ていた。
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甚八が息を引き取ったのは12月21日のことだ。死因は、脳溢血と胃がんだった。