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イスラム教ってかなり危険なので、イスラム教は日本では邪教認定でいいでしょ?

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回答(9件)

無記名投稿欄なので率直に申し上げますが、イスラム教は日本社会において「百害あって一利なし」と感じます。貴殿のご指摘の通り、邪教と断じても差し支えないと考えています。迷惑な存在であり、日本が最も受け入れてはならない人々だと思います。 世界での情勢や、身近なイスラム教徒の行動を見る限り、繰り返しになりますが非常に迷惑な人々だと感じます。そのため、彼らが日本に入ってくることは避けるべきです。 しかし、それを公然と言うことは難しい状況です。私にできることは、移民政策において流入制限を訴える候補者に投票することくらいです。最大の問題は、「ポリティカル・コレクトネス」という名のもとに、社会の混乱を企てる似非市民活動家たちが反社会的・反権力的な活動の手段としてこれを利用していることです。 「多様性」「宗教や思想信条の自由」「基本的人権の完全尊重」という言葉を掲げ、密かに混乱を画策する動きは看過できません。私は50年以上前に、赤軍派などの革命・反権力闘争と称する破壊活動を目の当たりにしてきました。そして彼らは、世代を重ねる中で「市民団体」という仮面をかぶり、「武力革命」を捨てつつも形を変えた破壊活動を実行していると、一部の保守系識者が指摘している意見に賛同します。

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世界の大多数は一神教なので多神教圏が邪教認定されても文句は言え無いですよ

邪教認定は、狂信者の信念を強化させるから止めておくのが無難です。 「間違っているのは世の中の方だ」と必ずなりますし、過激になるだけです。 でも、指をくわえてみる必要などありません。こちらから彼らの宗教を分析してやるのです。 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、その他聖書を引用する新興宗教。 これらの起源は「多神教時代のヤハウェ信仰」 ヤハウェは雷の神様とされており、普段はおとなしいが、怒ると雷を落とす怖い神様。そして他の神様を拝んでも怒るとされていた。 この設定が権力闘争に勝つ為の「一神教化」に向いていたということです。 「一神教」とは多神教とは正反対 あの神様も良いがこの神様も良い、出雲に神様が集まって会議する日本の神道のような平和的な思想ではそもそもないのです。 つまり、本来の目的が権力闘争なので「信じる者は救われる」裏を返せば「信じないものは滅ぼされる」というわけです。 ちなみに日本にも雷の神様とされていた神様への信仰はあり、現在も続いています。 それは「稲荷(いなり)」 そう「稲荷寿司」のお稲荷さん あの油揚げは豊作の稲の姿にそっくりで黄色です。だから豊作の御礼に油揚げのお供え「稲荷寿司」を縁起物として重宝してきた歴史があります。 「雷の神様」が日本で純粋に信仰されてきたのには理由があります。 「雷が多い年は豊作」になると農家の方々は経験則で知っていたのです。 実際には、雷が発生すると空気中の窒素と水蒸気が化学反応を起こしてアンモニアが生成。これが肥料として雨とともに降り注ぎます。だから豊作になるのです。 確かに雷は怖い存在ですが感謝もしていた日本人。 宗教を現代の理知で分析することで貶める必要性は皆無になります。

仮にそうならUAEといって国すら産まれません。

「ジハード(聖戦)で死ぬことはイスラム教徒にとって最大の名誉であり、 殉教者(戦死者)はほうびとして天国に直行して72人の処女妻(フーリー)があたえられる。」 これはコーランやハディース(ムハンマド言行録)に明確に書かれています。 ●ウィキペデア フーリー フーリーは天国に来たイスラーム信徒の男性のセックスの相手をするとされ、一人につき72人のフーリーが相手をするともいわれるが、この伝承の元になったハディースは、伝統的にはイスラム教徒の間で信頼性の不確実なもの(いわゆるダーイフ :ضعيف, Ḍaʻīf)として扱われてきた。彼女たちは永遠の処女であり、セックスを行い処女膜が破れても、すぐさま再生するとされる。 中略 イマーム・スユーティーは『フーリーとセックスをするたびに、あなたは彼女が処女である事を知るであろう。加えて、勃起したペニスはなえる事がなく、永遠に勃ちつづける。あなたがセックスを行うときの感覚はすばらしく気持ちよく、この世のものとは思えない。この世でこれを経験してしまったならば、気絶するほどである。それぞれの(ムスリム男性)はこの世の妻に加えて、70人のフーリーを娶れる。そして彼女たちはみなあなたの欲望をそそるような名器の持ち主である。』と述べている https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC ●ニコニコ大百科 イスラムの72人のフーリー(処女妻) フーリーとは、イスラム教において、天国にいるという処女天使である。 概要 クルアーンではもっぱら目が大きく円であることが強調される。その他金髪で色白で巨乳で若く老いることはなく、陽気で、すごい名器で、アレをやっても処女膜がすぐに再生し、一人のイスラム教徒男性につき72人のフーリーがつくハーレムをつくれるとも言われている・・・が、クルアーンには72という記述はなく、72人というのはハディースが根拠であると思われる。 https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%28%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%29 「イスラム教については教徒は「成人男子であればジハード(聖戦)に参加する義務を負います」 ---以下引用 ジハード(聖戦)はイスラーム法に定める信者の義務であり、聖戦とも訳される。イスラーム帝国はジハードを繰り返しながら勢力を拡大した。 (中略) ・ジハードは特殊な、一部の狂信者が自暴自棄になってやっていることではなく、イスラームの正統教義であり、『クルアーン』(コーラン)にも「ジハードする者は天国に行く」という言葉がいくらでも出てくる。 ・ジハードは天国への一番の近道であり、ムスリムであれば誰でも、同じ死ぬのであればジハードで死にたいともっている。 引用元記事 https://www.y-history.net/appendix/wh0501-025.html ただし、最近日本では 「「ジハード」はもともと「努力」という意味なので「ジハードの本当の意味は自分が立派な行動を取れる人間となれるように奮闘努力することです。 」(大ジハード・小ジハード論)などと説明して「イスラムは平和な宗教」であるかのように印象付けようとするジャーナリストや学者が居ます(池上彰、橋爪大三郎、中田考 など)。 飯山陽(いいやまあかり)氏はこれを欺瞞であると批判しています。 以下全部「イスラム教再考」( https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784594087364 )より引用です--」 ---以下全部引用--- ●イスラム法におけるジハードとは 『コーラン』においてジハードは、第9章15節「預言者よ、不信仰者と偽善者に対してジハードし、厳しく対処するがいい。 かれらの住まいは地獄である」、第2章2節「不信仰者に従うな。彼らに対しては大いにジハードせよ」のように使われています。 『コーラン』の中には異教徒に対して宥和的な章句もありますが、その全ては第9章5節「多神教徒を見つけ次第殺し、またはこれを捕虜にし、拘禁し、またすべての計略(を準備して)これを待ち伏せよ」が啓示されたことによって「廃棄」された、というのがイスラム学上の支配的解釈です。 ジハードという語はしばしば、「神の道におけるジハード」というかたちで用いられています。『コーラン』第4章7節には、「神の道において戦った者に対しては、殺害されようと勝利を得ようと、われ(神)は必ず偉大な報奨を与えよう」、第6章10~11節には「あなたがた信仰する者よ、われ(神)は痛苦の懲罰から救われる一つの取引を示そう。それはあなたがたが神とその使徒を信じ、あなたがたの財産と生命をもって神の道にジハードすることだ」とあります。 (中略) ムハンマドは「最高のジハードとは何か」という質問に対しては、「その者(ジハードに参加した人)の血が流され、彼の馬が負傷するものだ」と答え、「天国とは剣の影の下にあることを知れ」と言ったとも伝えられています。 イスラム法の第一法源、第二法源は『コーラン』とハディースです。ですからイスラム法ではもっぱら、ジハードは血を流して行う異教徒との戦争であり、それはイスラム教徒一般に課せられた義務にして、最善の信仰行為だと規定されています。 イスラム法の中に、内面的努力としてのジハードを義務づける規定はありません。 (中略) 今日、非西洋言語(アラビア語、ペルシャ語、ウルドゥー語など)で執筆しているイスラム教徒は誰一人として、ジハードが主に非暴力的なものであるとか、精神的ジハードにとって代わられたと主張することはない。 そのような主張をするのは、主に神秘主義を研究しているか、あるいは「異教徒間対話」の文脈で語る西洋の学者、および可能な限り最も無害な方法でイスラム教の姿を提示しようとするイスラム擁護論者のみである。 (中略) にもかかわらず、日本のイスラム研究者はいまだに「本当のジハードは戦争ではなく内面的努力」というウソを吹聴し続け、リベラル知識人もそう信じ込んでいるのです。 彼らが堂々とウソをつき続けるのは、「イスラムは平和の宗教」論を唱えるためには「本当のジハードは戦争ではなく内面的努力」論が必要不可欠であり、またいくらウソをついても一般人にバレることはないはずだと侮っているからです。 そしてなぜ彼らが「イスラムは平和の宗教」論を唱えるかというと、「軍国主義で残虐な日本」と対比させイスラム教を称賛するには、絶対に「イスラムは平和の宗教」でなければならないからです。 ---引用終わり また、以下も 飯山陽 著「イスラム教再考 」より引用です ●異教徒は「殺すべき対象」 イスラム教において異教徒は基本的に「屈服させるべき敵」「殺すべき対象」です。 なぜなら『コーラン』第4章101節は異教徒を「あなたがた(イスラム教徒)の公然たる敵」とし、第9章29節は「彼ら(異教徒)が手ずから人頭税(ジズヤ)を納め、屈服するまで戦え」と命じているからです。 異教徒に残された選択肢は、最も多い場合でも改宗、服従、死の三つです。 異教徒が服従して人頭税を差し出すことにより、二級市民としてイスラム支配下に生きることがいわゆるイスラム的共存であり、それを受け入れない限り異教徒はジハードの対象となります。 しかも実際は、選択の余地なく殺害されるケースが多いのが現実です。 2020年11月、インドネシアのスラウェシ島ではキリスト教徒4人が殺害され、うち一人は斬首された状態で発見されました。 「イスラム国」はこれについて、カリフ国の兵士たちが「不信仰者であるキリスト教徒」の村を襲手し、4人を殺害し教会と家を燃やすことに「成功」したと声明を出しました。 「イスラム国」などのイスラム過激派が異教徒を狙い撃ちにした例は、枚挙にいとまがありません。 中田考は『一神教と戦争』で、「人間もジハードであれば相手を殺してもいいわけです。ただし、イスラームの場合には、異教徒であっても、民間人、特に女・子供は、奴隷にはできますが、殺してはいけないという決まりがある」と述べています。 中田考は「女子供を殺さないイスラムは寛容」と言いたいようですが、 中世イスラムの思想家イブン・ハズムは「多神教とのうち女子供以外は、戦闘員・非戦闘員、すべて例外なく殺すことが許される」と述べています