まずは小銃の混合問題ですが・・・。
日本陸軍も、勿論のこと混合を避けたいのは当たり前で、九九式の7.7㎜と三八式の6.5㎜との2種類の小銃が装備される状況が太平洋戦争でおこっしまたと言うものです。
勿論、ほぼ太平洋戦争の開戦時期に配備が始まったばかりの九九式に全軍が入れ替えは、不可能で、従来の三八式を装備しての併用装備となったものですが・・。
そこで、日本本土と満州の部隊は、九九式を重点配備して、南方と中国方面
は以前の三八式配備の方針となります。
勿論のこと、全軍の混合と言う状況を避けておりました、戦線ごとに装備
分けがなされておりました。
これは、敗戦までの全師団と遊団との装備小銃と転戦先を調べた結果でして
・・・。
言ってみれば対米戦の主力小銃は三八式だったのです。(最前線のガ島に
出征した第7師団など三八式だったりします)
そこで、大戦初頭の南方に出征した部隊と言ったら本土の常備師団や関東
軍演習に参加した満州師団が中心でしたね。
上記述べましたが、つまりは、南方に出征した注出した部隊は、三八式の
ままの装備で、本土、満州残留部隊や新規編制の部隊に九九式が重点的に配
備される形となります。
上記の緒戦からの注出は、ほぼ終戦まで南方戦線で戦闘しており当然ながら
装備改正の余裕などありませんね。
と・・・・戦線ごとの装備分けがなされていたのですが・・・。
知っての通り・・・日本は戦争に追い詰めれれて、新たに、本土、満州
中国からも更に部隊を引きぬかないとなりませんでした。
つまりは、九九式装備の部隊が新たに南方方面に出征することになり、戦線
ごとの装備分け云々はいってられなくなりました。
九九式装備の新たな部隊は、、戦争後半でのビルマ方面(インパールさくせんなどの31師団)比島方面のルソン島に送られた部隊など、日本の後半の
悪化した戦場に送られ、旧来の三八式装備の部隊との同戦線に送られたし
まったのです。(ルソン島、九九式装備第105師団 三八式装備第8、10、
19師団)
日本陸軍も装備分け方針でしたが、悪化する戦場で、そうなことでは、言って
られなかったのです。
南方の戦線ごとの配慮はしていましたが(ジャワ、インドネシア、ニューギニア、ソロモン方面などの部隊は一貫して38式装備部隊でした)
・・・ここでの回答でも、装備分けの方針と混合とのがありますが・・・
日本陸軍も装備分けを意識してましたが、戦争後半にはそうも言ってられなく
なってしまったのです。
さて・・・・5種類の弾薬と言いますが、他の回答者さんの言われる通りの
2種類のは航空隊なので、それほどの問題はないですね。
やはり陸戦時の問題となる・・・九二式と九九式ですよね・・・。
よく・・・これは、日本人には、反動が強すぎて九九式では弱装にしなくては
ならなかったと言う類のものですが・・・。
これには、もっと深い事情があります。
戦後に米国から警察予備隊に供与されたM1ガーランドでは、そこまでの問題でてなく、30‐06実装は九二式実装よりも強力です。
少なくても「九二式実装での射撃は、どんな大男でも10発も打つと肩がいたくなる」と言う極端ものではないですね。
そこで、九九式短小銃の射撃経験者から言われてるのは、九九式は極端に跳ね上がる癖があり・・九九式短小銃の・これは九九式短小銃が軽すぎるのではと?言う問題があります・・・。
九九式短小銃:3,750kg
九九式小銃:4,150kg
M1ガーランド:4,300kg
Kar98k:4,200kg
と九九式短小銃は断トツの軽さで、この軽すぎる小銃が問題だったと説です。
九二式実装は、重機関銃に使われるのでの威力のある強装でも判ると思いますが(30‐06実装より弱いぐらい)
九九実装での、九九式短小銃の悪癖をなんとかしなくてはならなかったと
言う話で・・・。
反動云々ではなく・・・九九式短小銃側に問題があり九九実装を採用しな
くてはならないと言う問題だったと言うものです。
本当の所は、九九式短小銃に問題がるのなら改正するものでしたが、戦争
勃発で根本的な改正する余裕もなかったところです。
九九式の採用は、中国との戦闘勃発で、戦時予算での予算獲得が潤沢に
なり陸軍の悲願だった7.7㎜化の開発装備化の時期で、すぐに太平洋
戦争が起きて結果的にタイミングが悪かったというものでした。
陸戦での3種の弾薬が同居したところですが・・・。
弾薬よりも小銃に問題があり・・・結果論ですが上記の問題もあり、九九式
は戦争後半にやっと前線に投入され存在で、タイミングが悪く日本の小銃
の7.7mmは失敗だったということです。
これも結果論ですが・・・それなら三八式と、威力が求めらる九二式での
2種類での陸戦でよかったのではないと言う事情も抱えてたのです。