主は与え、主は奪う という言葉がありますが、これは可逆的なのか不可逆的なのか。。。 主が何かを与えたから主は何かを奪うのか 主が何かを奪ったから主は何かを与えるのか

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どの回答も難しいぃぃぃい 1番上に人にしました^^;

お礼日時:1/12 22:04

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奪われたんじゃなくて、元々不要だっただけですよ。 知らん間に小学校ん時の卒アル化した価値観に対してまぁまぁ強めのドロップキックされたみたいな感じです。 オラは未成年者と法の問題で哲学つまんねぇな!って思ったぞ!

「主は与え、主は奪う」というフレーズは聖書(旧約聖書のヨブ記1章21節)に由来するとされる言葉で、「主は与えもするし、主は奪いもする」という神の絶対的な主権・支配を示すものです。ここでヨブは、人生での富や子ども、あらゆる幸せすら神から与えられたものであり、またそれが奪われるのも神のなさることである、と受けとめているわけです。 可逆か不可逆か? 1. 可逆/不可逆という問いの背景 • 「主が何かを与えたから主は何かを奪うのか」 • 「主が何かを奪ったから主は何かを与えるのか」 こうした「因果関係」があると仮定すると、 • 「与える →(だから)奪う」 • 「奪う →(だから)与える」 といった順序・メカニズムを想像しやすいかもしれません。 しかし、ヨブ記の文脈では「主のなさることには一貫した理由があり、同時に人知を超えた奥義でもある」という姿勢が貫かれています。つまり、「与えるから奪う」「奪うから与える」といった人間の視点での単純な因果関係とは捉えにくいのです。 2. 聖書的視点:主権の強調 ヨブ記1章21節のフレーズは、ヨブが突然の不幸(財産や子どもを失う出来事)に遭いながらも「主の名はほむべきかな」と神を賛美する姿に現れています。ヨブとしては、 「私たちが持っているものはそもそも主によって与えられたものだ。その主がそれを取り去ることもある。それも含めて神のなさる御業ならば受け止めよう」 という心境を表しています。ここでは、 • 神は与えることができる • 神は奪うこともできる という二面性が提示されつつ、それらを**「主がご自身の意思によって行なう」という大前提が重要です。人間の側で「与えられたから、次は奪われるだろう」とか「奪われたから、次はきっと与えられるはずだ」という期待や因果関係は描かれていません**。 3. 「与える/奪う」は交互に成り立つのか • 聖書本文には「必ず奪われる(あるいは必ず与えられる)」という約束や前提はない • むしろ「与える時もあれば、奪われる時もある。その両方が神の手の中にある」という全能性を示す • ヨブ自身も「なぜ与えられ、なぜ奪われたか」を深く問い悩むが、結局「神の領域」に属するとして受け止める ですので、 • 「与えたから奪う」という成立 • 「奪ったから与える」という成立 のいずれか一方しか成立しない、というよりも**「両方も、どちらか片方も、神のご意思なら起こり得る」**というほうが文脈には近いといえるでしょう。 まとめ 「主は与え、主は奪う」は単に「与えるから奪う」「奪うから与える」という因果や循環を示すよりも、**「私たちが持つすべては主によるものであり、その主はご自身の計画と意思により与えもするし奪いもする」**という、神の絶対的主権を表す言葉です。 • それゆえ可逆・不可逆というよりは、「与える/奪う」という両面ともに神の領域に属するという理解が鍵になります。 • 人間の目に因果が見えなくても、それらは神の大いなるご意思によって生じている、というのがヨブ記の精神です。 このように考えると、「主が何かを奪ったから主は何かを与える」とか「主が何かを与えたから主は奪う」という一方向・一義的な捉え方に縛られず、どちらも成り立ちうるというのが聖書の視点といえるでしょう。

その主という人の性質によりますね。 なので、どちらでもない。常に疑えってことでもあると思います。