「主は与え、主は奪う」というフレーズは聖書(旧約聖書のヨブ記1章21節)に由来するとされる言葉で、「主は与えもするし、主は奪いもする」という神の絶対的な主権・支配を示すものです。ここでヨブは、人生での富や子ども、あらゆる幸せすら神から与えられたものであり、またそれが奪われるのも神のなさることである、と受けとめているわけです。
可逆か不可逆か?
1. 可逆/不可逆という問いの背景
• 「主が何かを与えたから主は何かを奪うのか」
• 「主が何かを奪ったから主は何かを与えるのか」
こうした「因果関係」があると仮定すると、
• 「与える →(だから)奪う」
• 「奪う →(だから)与える」
といった順序・メカニズムを想像しやすいかもしれません。
しかし、ヨブ記の文脈では「主のなさることには一貫した理由があり、同時に人知を超えた奥義でもある」という姿勢が貫かれています。つまり、「与えるから奪う」「奪うから与える」といった人間の視点での単純な因果関係とは捉えにくいのです。
2. 聖書的視点:主権の強調
ヨブ記1章21節のフレーズは、ヨブが突然の不幸(財産や子どもを失う出来事)に遭いながらも「主の名はほむべきかな」と神を賛美する姿に現れています。ヨブとしては、
「私たちが持っているものはそもそも主によって与えられたものだ。その主がそれを取り去ることもある。それも含めて神のなさる御業ならば受け止めよう」
という心境を表しています。ここでは、
• 神は与えることができる
• 神は奪うこともできる
という二面性が提示されつつ、それらを**「主がご自身の意思によって行なう」という大前提が重要です。人間の側で「与えられたから、次は奪われるだろう」とか「奪われたから、次はきっと与えられるはずだ」という期待や因果関係は描かれていません**。
3. 「与える/奪う」は交互に成り立つのか
• 聖書本文には「必ず奪われる(あるいは必ず与えられる)」という約束や前提はない
• むしろ「与える時もあれば、奪われる時もある。その両方が神の手の中にある」という全能性を示す
• ヨブ自身も「なぜ与えられ、なぜ奪われたか」を深く問い悩むが、結局「神の領域」に属するとして受け止める
ですので、
• 「与えたから奪う」という成立
• 「奪ったから与える」という成立
のいずれか一方しか成立しない、というよりも**「両方も、どちらか片方も、神のご意思なら起こり得る」**というほうが文脈には近いといえるでしょう。
まとめ
「主は与え、主は奪う」は単に「与えるから奪う」「奪うから与える」という因果や循環を示すよりも、**「私たちが持つすべては主によるものであり、その主はご自身の計画と意思により与えもするし奪いもする」**という、神の絶対的主権を表す言葉です。
• それゆえ可逆・不可逆というよりは、「与える/奪う」という両面ともに神の領域に属するという理解が鍵になります。
• 人間の目に因果が見えなくても、それらは神の大いなるご意思によって生じている、というのがヨブ記の精神です。
このように考えると、「主が何かを奪ったから主は何かを与える」とか「主が何かを与えたから主は奪う」という一方向・一義的な捉え方に縛られず、どちらも成り立ちうるというのが聖書の視点といえるでしょう。