ベストアンサー
マドレーヌ等お菓子の歴史にしばしば登場するのが食通のポーランド王、スタニスラス・レクチンスカ(1677-1766)と娘のマリー・レクチンスカ(1703-1768)です。 1725年にルイ15世と結婚した彼女も矢張り食通で、鶏のささ身とシャンピニヨン入りホワイト・ソースを詰めた小さなパイがお気に入りでした。 此の塩味のパイはやがて王妃風のパイと呼ばれ、ヴォ・ロ・ヴァンの考案に繋がって行きます。 18世紀後半の頃、ヴァンサン・ド・ラ・シャペルと言う料理人が意ました。 彼は若い時、船に乗って航海し、ロンドンでは第4代チェスターフィールド卿に仕え、1733年に英語で、続いてフランス語で料理書「キュイジニエ・モデルン」を著しました。 彼は料理人として技術的な革新者だったばかりで無く、他の文化の味覚やアイデアに対し、18世紀のフランスの料理本の著者の誰拠りも開放的な人物でした。 彼には外部の影響を消化しよう、外国のレシピを理解しようと努める姿勢が在りました。 其の為彼はフランス料理の主流から外れて居ましたが、カレームや、後にエスコフィエの元で開花したフランス料理の礎を築いた1人です。 自由で柔軟な発想のヴァンサン・ド・ラ・シャペルなら、お菓子にピュイ・ダムールと名付けても不思議は在りません。 ピュイ・ダムールはマリー・レクチンスカのお気に入りで、塩味のパイのホワイト・ソースの代わりにクレーム・パティシエールかグロゼイユのゼリーが詰まったお菓子です。 ピュイ・ダムール、(愛の泉)をロマンティックと取るか、ショッキングと受け取るかは、其々の想像力と感性に委ねるとして、其の美味しさにスキャンダラスな菓名が相まって飛ぶ様に売れたと言われます。 パリに古くから在るお菓子屋さんの1つ、ストレー(Stohrer)のスペシャリテがババ、ピュイ・ダムール、ルリジューズ・ア・ランシエンヌです。 創業1730年、初代のニコラス・ストレーはスタニスラス王に仕えていました。 此方のピュイ・ダムールはフイユタージュにクレーム・パティシエール・ヴァニーユがこんもり盛り上がり、表面がカラメライズされて居ます。 ヴァンサン・ド・ラ・シャペルに言わせればリアリティに欠けるかも知れませんが、是は有名なオペレッタに因んで創られたと言う事です。 此のオペレッタは恐らく1843年、Michael William Balfe作のル・ピュイ・ダムールを指して居るのでは無いかと推認されます。
この回答はいかがでしたか? リアクションしてみよう