はい。そうだと思います。
そして、風の谷のナウシカ(アニメージュ版)の中で、ナウシカと墓所との、ある意味!禅の問答の様な形で対峙する重要な場面があり、その中でナウシカは 、、、
墓所「お前は危険な闇だ。命は光だ!!」
ナウシカ「ちがう、いのちは、闇の中のまたたく光だ!!」
と、反論していますが、これは 以下の南方熊楠の書簡と同じ、命とは?と言う解答と同じでしょう。
【生命というのは、ひとつのきわめて微小な“光のまたたき”のようなものなのだ。
生命が小さな灯火としてまたたきでると、そのあかりで暗が消滅する。
こんなぐあいに、死の領域というものと、生きているものの世界とを、分けてしまうことなどはできない 、、、】以下割愛
しかし、形而上学的視点からの様な “命はまたたく光り” と述べたのは南方熊楠氏だけではなくて、宮崎駿監督が心からリスペクトしているであろう、宮沢賢治氏も、春と修羅の序の冒頭でこの様な詩を書いています。参加までに 、、、
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく“明滅”しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
〜以下割愛〜
ここで言う“明滅” とは?ナウシカのセリフ『いのちは 闇の中の“またたく”光りだ!!』この瞬(またたく)ですし、宮沢賢治の言う“わたくし” とは?賢治の全作品に通底している “命” とは何か?と言う命題でしょうから、わたくし = 命でしょうね。
要するに夜空に目を向けると、そこには闇の中にまたたく無数とも思える星々の光りが瞬いていますから、南方熊楠氏のミクロ的視点と、宮沢賢治氏のマクロ的視点は同相同質であり、宮崎駿監督作品の風の谷のナウシカの中の世界感は!それらをアニメと言う世界で昇華させたものだと私は思います。
はたして!ほんとうの幸せってなんなのでしょうね?