いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

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雑感:新曲『친근한 어버이(チングナンオボイ・親近なる父親)』から発進した、こんにちの朝鮮・朝鮮総連への思い

朝鮮政府が、新曲『친근한 어버이(直訳だと親近なる父親)』を推している。


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朝鮮トップ級の歌手、朝鮮中央放送でおなじみの「ピンクレディー」も出演、みんなの笑顔とサムズアップで、領導者・金正恩を称えるという意欲的な構成だ。

曲を聞いた瞬間、ノスタルジックな気持ちになったのは私だけではないだろう。

これは1990年代の金正日時代に、朝鮮本国で盛んに流れていた金正日プロパガンダ曲である『친근한 이름(直訳で親近なる名前)』のオマージュである。


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『노래하자 김정일 우리의 지도자(歌おう金正日われらの指導者)』というサビ部分は、今回の新曲で『노래하자 김정은 위대하신 령도자 (歌おう金正恩偉大なる領導者)』になっており、その他、曲の構成、単語の選択、名前を呼び捨てにするあたりも、オマージュ、いや、モロパクリというほうが正しい、とも言える内容である。

 

それもそのはず、金正恩自身が、原曲(金正日バージョン)を痛く気に入っているようだ。下の動画では金正恩が観覧する「光明星節記念(金正日誕生日記念)公演」コンサートで、既に懐メロ領域の曲である、件の金正日バージョンが披露され、ノリノリの金正恩が、歌い終わるが早いかアンコールを要求し、間髪入れずに再演奏されるという気に入りよう、である。息をつく間もなく歌わされる歌手たち、手拍子で手が痛そうな客席、なんとも痛々しい光景が広がっている。

 


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その後の金正恩が「俺のバージョンも作れ」と言ったかどうかは知らないが、こんにち、モロパクリが完成して父親と自身を重ねることができ、それも祖父の誕生日にぶつけることができて、さぞ満足だろう。

 

日本の言論でも、この新曲、そして『北朝鮮』をおちょくる意図で、産経系や読売系のワイドショーで中途半端に扱っていた。専門家とも言えないような浅い思慮で『北朝鮮』をいじくって小銭を稼いでいるコメンテーターや、それこそ『北朝鮮』に関する基本的な知識も持ち合わせていないような芸人やら何やらが、思い付きでいろんな文句を並べていた。怖くて恐ろしい『北朝鮮』が作った動画を、表層的にいじくって、おちょくって、内容や分析は伴わない空虚なネタとして、十数分を消費して終わっていった。

昔から、それこそ私が朝鮮学校の学生だった30年以上前もそうだったし、現在もまったくもって変わらずだが、『北朝鮮』については、適当なことを言っても番組が成り立ってしまうし、それで一定の時間と視聴が稼げてしまう、ということが繰り返されている。

書籍でも映像でも週刊誌でも、『北朝鮮』については、ウラの提示も無く好き勝手言っても、ウラが取れない『北朝鮮』であるから垂れ流してOK、が現在まで続いている。そういえば国会議員になる前の青山繁晴などは、毎週のように関西発のワイドショーに出ては、『北朝鮮』ネタを「自らのシンクタンクの情報」として真偽不明なクズネタを開陳し、30分も自慢げに話していた。発する側も、受け取る側も、まったく節操が無い。それがまた余計におどろおどろしく近寄りがたい『北朝鮮』を形成するのに作用していた。

もちろん朝鮮政府自身の閉鎖性がそれを補完してはいるのだが、だからといってそれで想像や妄想で好き勝手言っていいことにはならんだろう。そのような無批判に垂れ流され消費された好き勝手が差別の矛となって向いてくる。もちろんそれは私のようなオッサンにではなく、弱い立場の女子供に、である。今も昔も変わらない。

 

おちょくり半分の日本のマスコミの指摘に無かったことを私が指摘するとすれば、それは「親しみやすさ」とか「呼び捨てがどうこう」とか言う些末な話ではなく、動画の最終盤に登場する、金正恩自身の肖像画である。

これまで、金正恩自身はあくまで「金日成・金正恩主義の後継者」であり、肖像画にも肖像徽章(金日成・金正日バッジ)にも、自身の姿は2019年ごろまでは無く、初登場以降も、党の大きな会議とか、限られた場所でしか登場して来なかった。自身の誕生日も祝日にはしてこなかった。それを、自身が祖父・父と同格になるべく、本格的な舵を切ったのではないか、というのが私の見立てである。

肖像画は誰でも描いていい、どこでも登場させていい、のではなく、万寿台創作社に所属する、革命思想で武装した忠誠心が絶対にぶれないような画家しか描くことが許されていないし、新聞ひとつ放送ひとつに登場させるにも党中央組織が許諾を出さないといけない。つまり広く一般に広めるための動画に肖像画が登場したということは、いよいよ金正恩の、「金日成・金正日同格化」に、国家的なGoサインがあったということだろうと思う。近い将来、金日成・金正日・金正恩、3人の肖像画が並ぶかもしれない。あるいは金日成がトコロテン式に放出されるかもしれないが、いずれにしても金正恩の肖像画が金正日の横に並ぶのは時間の問題だろうと思う。

 

金正恩への盲従は、朝鮮総連も無縁ではないようである。

私は知人経由で、最近「熱誠者(朝鮮総連の核メンバー)」向けに配布された勉強会資料を閲覧する機会があった。

最近金正恩は、韓国を統一を目指すパートナーではなくて、違う国家・違う民族であり、(実際はまだ終わっていない)戦争の主敵である、ということを盛んに喧伝している。統一を目指すことを前提とした国家機構やモニュメントを解体し、国歌の「三千里(朝鮮半島の大きさを示す言句)」という歌詞まで変えてしまったのだが、件の勉強会資料では、金正恩の喧伝を『教示マルスム(お言葉)』として紹介しながら、無条件に追認・賛美しつつ、その高貴な意思に従って朝鮮政府と共に居ようと呼びかけている。

 

もう、アホである。

確かに、こんにちの金正恩の喧伝が、大統領としても政治家としても稚拙そのもので救いようがない韓国の尹錫悦の政策に関連していることは私も認めるが、

5千年の歴史を持つ民族、ひとつの文化、ひとつの言語、ひとつの文字である朝鮮民族が、たかだか80年弱主権が分断しているわけだが、たかだか長くて数十年しかその座に就かないであろう、片一方の為政者が、クソ狭い度量ひとつで『違う民族』と恥ずかしげも無く言ってしまえる底なしのアホさに、自由主義の日本の地で、拍手を送って追従しようという、輪をかけたアホさ、である。

 

アホも大概にしなければならない。

朝鮮総連は、朝鮮民族の分断を永久化する論調、民族の大衆の大団結を破壊する論調だけは、絶対に否定しなければならない。朝鮮総連が、朝鮮政府の擁護が主目的ではなく、民族性の維持を主目的にした大衆団体であると自覚するのであれば、それが自らの存在意義なのであれば、当然に否定しなければならない。

 

私たちザイニチはどこから渡ってきたのか?

ほとんどが現在の韓国である朝鮮半島南半部からである。慶尚道・忠清道・全羅道・済州島がほぼ大勢を占める。それをイデオロギーや民族教育の歴史的な変遷のなかで、朝鮮総連は平壌の政府を『祖国』と呼び、「南の故郷、北の祖国」と両者を同居させながらここまでやってきた。韓国を「南朝鮮」と呼んだとしても、同じ民族であることを否定する論調、同じ民族を切り捨てる論調など、出てくるはずがなかった。

それを、北の為政者が、核兵器を同族に向ける可能性を追う政治的打算のなかで『違う民族』とのたまう底無しのアホさにわざわざ付き合い、

アホに帳尻を合わせようと出版物や政策を変遷させ、

韓国の友人や、民団系僑胞など、南北統一・民族的融合に向けて、立場を乗り越えて手を握ろうとする大衆の間に、軋轢や分断をも持ち込もうとするアホさ加減だ。

最早、このアホさには、返す言葉が無い。

 

朝鮮に人質(家族や親族)を取られている古株ならともかく、私と同世代の現役職員はこのような動きをいぶかしく思い、批判を向けているものと信じたいが、朝鮮総連の上層部は本国を批判する実効的な機能を持ち合わせていないので、そのような内部の声は限定的なものになるだろう。

 

私は朝鮮学校の生徒だった時代から、朝鮮総連には、朝鮮政府と是々非々で付き合える「自治」が必要だと言ってきた。そうならない現状を憂い、それがために、自らが「総連系」であるとは自覚しながらも、朝鮮総連とは一定の距離を取りながら過ごしてきた。

今般の一連の動きは、その距離を決定づけるものになりそうな気がする。

私は、自らの民族性を自覚するからこそ、このような動きには与せず、韓国の友人や、同じザイニチの友人らと共に、民族的な自覚から相互に同胞愛を建て交わせる場所に、自らの居場所を置きたいと思う。

総連中央には、今からでも遅くないから「私たちは民族統一の悲願を祈る民衆と行動を共にする」と宣言してほしいものである。

少なくとも、これまでの自らが掲げてきた価値、つまり私たち在日同胞が先に『統一』して機運を高め、民族最大の悲願を成し遂げようという、在日ならではの本国へのアプローチを、くだらない政治的打算で踏みつけにした、愚かな独裁者の肖像画を無批判に掲げることは、断じてあってはならない。

 

(※)朝鮮政府および朝鮮総連を批判する内容であるが、これを見て朝鮮学校の意義を擁護してきた私の「背信」だと思う短絡者も現れると思う。元々私は朝鮮政府批判者であり、独裁者は早く死ねと思っている。しかし私の、朝鮮学校が施す民族教育に見出す価値はいささかも揺らがない。勿論中身に対する改善点は幾らでも挙がるが、朝鮮学校そのものと、民族教育を行う大衆団体としての朝鮮総連の存在意義は、まったく変わることが無い。念のため。