相模原の中1虐待自殺事件 - どこに花を手向けて死を悼めばよいのか
相模原の中学生の虐待と自殺の事件。ベルギーの連続テロが起きなければ、昨夜(3/22)のテレビ報道でもっと大きく扱われ、社会に反響が広がったことだろう。本当なら、この問題はベルギーのテロよりも重大で、トップニュースにして関心を集めないといけない深刻な事件だと私は確信する。この事件は、昨日の午前にYahooのトピに発信されて伝わった。相模原の児相は午前中に会見を開いていて、テレビ各局がカメラの放列を構えて撮っている。報ステは、山口豊が現地に入ってレポ-トし、両親や校長など関係者を回って取材映像を編集していた。その映像は、今朝(3/23)のモーニングバードでも使われていた。これだけの取材と撮影は、予め準備しておかないと作業できず、事前に国からマスコミに連絡が入っていたことが察知される。鳥谷明が所長を務める相模原市児相の会見は、すなわち上からセットされたもので、セットした主体は厚労省児童家庭局だ。厚労省が相模原市(政令指定都市)の児童福祉主管に強力に指示し、3/23の会見を所長に開かせ、マスコミを集めて大きく報道させたのであり、国による児相への一罰百戒と世間へのキャンペーンに他ならない。
なぜ背景をそう推察するかというと、一昨日(3/21)に子どもの虐待死に関する報道があり、厚労省が発表している数の3-5倍の虐待死があるという推計が小児学会から報告されていたからだ。三連休の最後の日にこの情報が出され、世間に衝撃が走ったが、要するにこの記事は前座で、翌日に相模原の児相の会見が控えていて、連続して虐待の問題を世間に提起する段取りだったのだ。マスコミには、3/22の相模原の児相会見を報道するよう、政府(内閣広報室)から連絡が入っていたのである。今日(3/23)の朝日の39面を見ると、テレビでは紹介されてない小さな別件の事実説明があり、この相模原の児相は、昨夏、一時保護していた少女9人を全裸にして所持品検査する問題を起こしていたとある。不祥事が二度あったのであり、そのため、中学生が死亡したタイミングで、懲罰として厚労省が所長に会見を命じたのだろう。それともう一つ、昨年より、厚労省は急増する児童虐待と児相のパンク状態に悩み、全国の児相と職員を増設増員する方針を立て、児童福祉法の今国会での法改正を進めてきた。これには予算が要る。が、突然、予期せぬ保育所の問題が割り込んできて、おそらく児相の増設計画にしわ寄せが来ているのだ。
来年4月からの消費税10%が延期確実の見通しとなり、厚労省として予算繰りが圧迫される事態になったのではないか。保育も児相も管轄は児童家庭局だ。予算給付の部署は同じであり、霞ヶ関の慣習では一部局の予算規模を急に拡大するのは難しい。そこで、保育事業の拡幅で児相増説の計画に支障を来すことのないよう、保育士の給料アップは別枠にしてくれと、そういう要求を財務省と官邸に訴えるべく、世間へのデモンストレーションとして相模原の事件をマスコミの表に出して世論を喚起説得しようとしたのではないか。いずれにせよ、厚労官僚がこうして動かなければ、この事件は表に出なかった。事件の中身には戦慄させられる。それ以上に、夜のテレビに出た親の反応と校長の態度には驚かされた。もっと愕然として憤慨したのは古舘伊知郎のコメントだった。祖父母の対応も気になった。この死んだ子は、どれほど、どれほど辛く厳しい人生を送らされたことだろう。想像すると、あまりに悲しく、やりきれなく、途方に暮れてしまう。この子は母親の連れ子で、兄弟の兄の方であり、虐待は2013年の小学6年のときから始まった。弟だけがかわいがられ、兄の方が虐待され、頻繁に暴力を受け、学校も問題を把握して児相マターになっていた。
2014年、中1のときの5月、暴力に耐えかねてコンビニに駆け込み、店長が警察に通報して保護され、再び児相マターとなる。子どもは児童養護施設に入りたいと重ねて要望を訴えたが、親は拒否し、児相は一時保護を見送った。鬼のような両親と、子どもを見殺しにした冷血な児相公務員。昨日(3/22)昼、Yahooで記事を見たとき、いったいどんな親と児相だろうと想像したが、夜のテレビで見たものは、想像を超えるひどさだった。残酷きわまりない殺人劇だ。二人の親は、何も責任を感じておらず、堂々とカメラの前で自己正当化の口上を言い張った。父親は、しつけだったと当然の口調で言いのけ、母親は、自殺の原因が児相の不手際にあるかのように抗弁した。子どもに対してむごいことをしたと恐縮しておらず、暴力と嗜虐が死の原因だと思っていない。勝手に自殺したぐらいに開き直って済ませている。この子が祖父母の家で首を吊ったのは2014年11月で、意識不明になり、重度心身障害となり、そこから7か月後の2015年6月に児相に入所した後、さらに8か月後の今年2月に容態が悪化して死亡した。1年4か月の間生きていた。意識はあったのだろうか。寝たきりだったのか、歩けたのか。1年4か月の間、どういう生活をしていたのだろう。世界はどう見えていたのだろう。
この子に花を手向け、手を合わせて死を悼むには、われわれはどこでどうすればいいのだろう。川崎の中1の事件のときは、現場の多摩川河川敷に献花の集積場ができた。厚木の5歳の子どもの餓死事件のときは、たしかアパートが映されていた。今度は、どうすればいいのだろう。相模原の児相の前に花を置けばいいのだろうか。夜のテレビ報道は、事件を具体的に説明せず、殺された子どもの側に立った報道をしなかった。私はそのことに渾身の憤りを覚える。生きている者ばかりに気を遣い、加害者の人権に配慮して顔を隠してやり、鬼畜の罪責を追及しようとしない。唯一、糾弾の対象になったのは、法的に、つまり児童虐待防止法上の義務を怠った、過失責任が明確な所長の鳥谷明だけで、親には何も言わずに話を聞くだけで、へらへら不真面目な言い訳を垂れる校長は顔すら出さなかった。校名も出さなかった。こういう連中の中に置かれ、追い詰められ、苦しんだ末に首を吊ったこの子の絶望を思うと、無情に絶句して神経が蒸発しそうになる。憤りで呻きながら報ステを見ていたら、古館伊知郎のコメントが私にとどめの一撃を与えた。「こういう問題は、親が悪いとか、児相が悪いとか、あそこがここがと犯人捜しをしてはいけませんね。社会のみんなに問題があって責任があるのだから」と、そう言った。
古館伊知郎の言葉は、親を、児相の所長を、学校の担任と養護教諭と校長を、免責する言葉だ。そして、今の一般的な思想の表現だ。昔はこうではなかった。昔のニュース番組やワイドショーなら、こんな事件報道には絶対にならなかったし、視聴者は激高して許さなかったはずだ。今朝(3/23)のモーニングバードの羽鳥慎一は、何度も何度も、「子どもの自殺と虐待との因果関係は分かりません」と言った。二つの間に直接の因果関係があるかは不明だと強調し、それが羽鳥慎一のキーメッセージだった。因果関係があるとは断定してはならないのだそうだ。どうしてだろう。常識で考えて、他に理由や動機があるのか。どうしてテレビの人間が、そのような官僚の言葉を言い、親を手厚く免責しないといけないのだろう。わけが分からない。殺された者の自己責任だと言うのか。勝手に死んだ方が悪いと言うのか。この種の事件はどんどん増え、私は憤りをつのらせ、憤りをつのらせながら、それをブログで言葉にして糾弾することが最近はよくできない。10年前は必ずやった。今、それがよくできないのは、私の正義論や責任論が世の中で通用せず、読者から共感をもらうことがなく、世の中が古館伊知郎の言説と思考に染まっているからだ。私は、それを脱構築主義と呼ぶ。脱構築主義の特徴は脱倫理であり、脱責任と無責任である。
小保方晴子の事件でもそうだった。事件を解読して批判した私は、左翼リベラルから憎悪を買って侮辱と罵倒と排撃の報酬を受けた。子どもの虐待が増えているのは、社会の貧困が大きな原因だけれど、それだけでなく、社会から倫理と正義が消えているからである。殺された方の自己責任になり、殺した方の責任が不問にされているからだ。古館伊知郎の言説こそが、この事件の加害者であり、この子を孤立に追い詰めて殺した犯人なのだ。モーニングバードに出ていた美人の女弁護士は、終始、へらへらと笑い続けていた。深刻に感じた様子がなかった。救済の制度があるとか、仕組みがあるとか言い、巧く活用されてなかったのが問題だと、血も涙もない官僚のような言葉を言った。いつもそうだ。左翼リベラルの論者(弁護士・学者)は、制度が制度がと言い、仕組みが仕組みだと言い、こうすればよかったとか、制度をこう変えるべきだと言う。この事件でも、早速、NPOの代表みたいなのがNW9に出てきて、児相の機能を二つに分け、児童保護と家庭援助の二つを別々に充実させろと言っていた。「仕組みによる問題解決」である。厚労官僚の代弁だなと思った。こうして、その主張が政府の政策になり、厚労省の法律と予算になり、厚労官僚の事業拡大と天下り法人の増殖になる。
それで虐待が減ればいいが、実際には減ることはないのだ。増え続けるのだ。形だけの制度があっても、制度を動かす人間が人を助けようとしなくては用を為さないのだ。あの中学校の校長のような男がいて、児相の所長のような無責任主義を通して面倒くさい職務から逃げるサラリーマンがいたら、制度は3.11のSPEEDIと同じになるのである。人を救うための仕組み整備の税金は無駄になるのだ。結論を単純に言えば、倫理と正義を復活させ再生させることしか問題解決の道はない。復活させ再生させる方法は、責任者を厳罰に処することである。刑事捜査当局が動き、暴行障害致死の犯人を逮捕し、取り調べ、裁判にかけて罪を償わせることだ。同じく、不作為の過失責任の者たちを事情聴取し、正確な報告をさせ、厳重処分することである。私には、脱構築主義の宗教がどうしても理解できない。戦後民主主義の教育哲学のバイブルであった吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」は、倫理と正義を子どもに教育する書だったではないか。それを奉じる左翼リベラルが、どうして脱倫理の宗教で社会を経営しようとするのか。脱倫理・脱正義(=人間の精神を欠いた制度フェチシズム)の脱構築主義(=社会学)が、そのまま新自由主義とそっくり結合した裏表をなす思想であることを、どうして左翼リベラルは認識できないのか。
私は、この子はとても立派だったと思う。絶望的な状況の中で、最後の最後まで自己の尊厳を守り抜き、そして最後の最後まで生き延びようとして命を守る道を探した。ジブリの「生きろ」を実践しようとした。かわいそうでならない。亡骸を抱きしめてやりたい。「生きろ」と言った宮崎駿は、この子にどんな言葉をかけてやるだろう。
なぜ背景をそう推察するかというと、一昨日(3/21)に子どもの虐待死に関する報道があり、厚労省が発表している数の3-5倍の虐待死があるという推計が小児学会から報告されていたからだ。三連休の最後の日にこの情報が出され、世間に衝撃が走ったが、要するにこの記事は前座で、翌日に相模原の児相の会見が控えていて、連続して虐待の問題を世間に提起する段取りだったのだ。マスコミには、3/22の相模原の児相会見を報道するよう、政府(内閣広報室)から連絡が入っていたのである。今日(3/23)の朝日の39面を見ると、テレビでは紹介されてない小さな別件の事実説明があり、この相模原の児相は、昨夏、一時保護していた少女9人を全裸にして所持品検査する問題を起こしていたとある。不祥事が二度あったのであり、そのため、中学生が死亡したタイミングで、懲罰として厚労省が所長に会見を命じたのだろう。それともう一つ、昨年より、厚労省は急増する児童虐待と児相のパンク状態に悩み、全国の児相と職員を増設増員する方針を立て、児童福祉法の今国会での法改正を進めてきた。これには予算が要る。が、突然、予期せぬ保育所の問題が割り込んできて、おそらく児相の増設計画にしわ寄せが来ているのだ。
来年4月からの消費税10%が延期確実の見通しとなり、厚労省として予算繰りが圧迫される事態になったのではないか。保育も児相も管轄は児童家庭局だ。予算給付の部署は同じであり、霞ヶ関の慣習では一部局の予算規模を急に拡大するのは難しい。そこで、保育事業の拡幅で児相増説の計画に支障を来すことのないよう、保育士の給料アップは別枠にしてくれと、そういう要求を財務省と官邸に訴えるべく、世間へのデモンストレーションとして相模原の事件をマスコミの表に出して世論を喚起説得しようとしたのではないか。いずれにせよ、厚労官僚がこうして動かなければ、この事件は表に出なかった。事件の中身には戦慄させられる。それ以上に、夜のテレビに出た親の反応と校長の態度には驚かされた。もっと愕然として憤慨したのは古舘伊知郎のコメントだった。祖父母の対応も気になった。この死んだ子は、どれほど、どれほど辛く厳しい人生を送らされたことだろう。想像すると、あまりに悲しく、やりきれなく、途方に暮れてしまう。この子は母親の連れ子で、兄弟の兄の方であり、虐待は2013年の小学6年のときから始まった。弟だけがかわいがられ、兄の方が虐待され、頻繁に暴力を受け、学校も問題を把握して児相マターになっていた。
2014年、中1のときの5月、暴力に耐えかねてコンビニに駆け込み、店長が警察に通報して保護され、再び児相マターとなる。子どもは児童養護施設に入りたいと重ねて要望を訴えたが、親は拒否し、児相は一時保護を見送った。鬼のような両親と、子どもを見殺しにした冷血な児相公務員。昨日(3/22)昼、Yahooで記事を見たとき、いったいどんな親と児相だろうと想像したが、夜のテレビで見たものは、想像を超えるひどさだった。残酷きわまりない殺人劇だ。二人の親は、何も責任を感じておらず、堂々とカメラの前で自己正当化の口上を言い張った。父親は、しつけだったと当然の口調で言いのけ、母親は、自殺の原因が児相の不手際にあるかのように抗弁した。子どもに対してむごいことをしたと恐縮しておらず、暴力と嗜虐が死の原因だと思っていない。勝手に自殺したぐらいに開き直って済ませている。この子が祖父母の家で首を吊ったのは2014年11月で、意識不明になり、重度心身障害となり、そこから7か月後の2015年6月に児相に入所した後、さらに8か月後の今年2月に容態が悪化して死亡した。1年4か月の間生きていた。意識はあったのだろうか。寝たきりだったのか、歩けたのか。1年4か月の間、どういう生活をしていたのだろう。世界はどう見えていたのだろう。
この子に花を手向け、手を合わせて死を悼むには、われわれはどこでどうすればいいのだろう。川崎の中1の事件のときは、現場の多摩川河川敷に献花の集積場ができた。厚木の5歳の子どもの餓死事件のときは、たしかアパートが映されていた。今度は、どうすればいいのだろう。相模原の児相の前に花を置けばいいのだろうか。夜のテレビ報道は、事件を具体的に説明せず、殺された子どもの側に立った報道をしなかった。私はそのことに渾身の憤りを覚える。生きている者ばかりに気を遣い、加害者の人権に配慮して顔を隠してやり、鬼畜の罪責を追及しようとしない。唯一、糾弾の対象になったのは、法的に、つまり児童虐待防止法上の義務を怠った、過失責任が明確な所長の鳥谷明だけで、親には何も言わずに話を聞くだけで、へらへら不真面目な言い訳を垂れる校長は顔すら出さなかった。校名も出さなかった。こういう連中の中に置かれ、追い詰められ、苦しんだ末に首を吊ったこの子の絶望を思うと、無情に絶句して神経が蒸発しそうになる。憤りで呻きながら報ステを見ていたら、古館伊知郎のコメントが私にとどめの一撃を与えた。「こういう問題は、親が悪いとか、児相が悪いとか、あそこがここがと犯人捜しをしてはいけませんね。社会のみんなに問題があって責任があるのだから」と、そう言った。
古館伊知郎の言葉は、親を、児相の所長を、学校の担任と養護教諭と校長を、免責する言葉だ。そして、今の一般的な思想の表現だ。昔はこうではなかった。昔のニュース番組やワイドショーなら、こんな事件報道には絶対にならなかったし、視聴者は激高して許さなかったはずだ。今朝(3/23)のモーニングバードの羽鳥慎一は、何度も何度も、「子どもの自殺と虐待との因果関係は分かりません」と言った。二つの間に直接の因果関係があるかは不明だと強調し、それが羽鳥慎一のキーメッセージだった。因果関係があるとは断定してはならないのだそうだ。どうしてだろう。常識で考えて、他に理由や動機があるのか。どうしてテレビの人間が、そのような官僚の言葉を言い、親を手厚く免責しないといけないのだろう。わけが分からない。殺された者の自己責任だと言うのか。勝手に死んだ方が悪いと言うのか。この種の事件はどんどん増え、私は憤りをつのらせ、憤りをつのらせながら、それをブログで言葉にして糾弾することが最近はよくできない。10年前は必ずやった。今、それがよくできないのは、私の正義論や責任論が世の中で通用せず、読者から共感をもらうことがなく、世の中が古館伊知郎の言説と思考に染まっているからだ。私は、それを脱構築主義と呼ぶ。脱構築主義の特徴は脱倫理であり、脱責任と無責任である。
小保方晴子の事件でもそうだった。事件を解読して批判した私は、左翼リベラルから憎悪を買って侮辱と罵倒と排撃の報酬を受けた。子どもの虐待が増えているのは、社会の貧困が大きな原因だけれど、それだけでなく、社会から倫理と正義が消えているからである。殺された方の自己責任になり、殺した方の責任が不問にされているからだ。古館伊知郎の言説こそが、この事件の加害者であり、この子を孤立に追い詰めて殺した犯人なのだ。モーニングバードに出ていた美人の女弁護士は、終始、へらへらと笑い続けていた。深刻に感じた様子がなかった。救済の制度があるとか、仕組みがあるとか言い、巧く活用されてなかったのが問題だと、血も涙もない官僚のような言葉を言った。いつもそうだ。左翼リベラルの論者(弁護士・学者)は、制度が制度がと言い、仕組みが仕組みだと言い、こうすればよかったとか、制度をこう変えるべきだと言う。この事件でも、早速、NPOの代表みたいなのがNW9に出てきて、児相の機能を二つに分け、児童保護と家庭援助の二つを別々に充実させろと言っていた。「仕組みによる問題解決」である。厚労官僚の代弁だなと思った。こうして、その主張が政府の政策になり、厚労省の法律と予算になり、厚労官僚の事業拡大と天下り法人の増殖になる。
それで虐待が減ればいいが、実際には減ることはないのだ。増え続けるのだ。形だけの制度があっても、制度を動かす人間が人を助けようとしなくては用を為さないのだ。あの中学校の校長のような男がいて、児相の所長のような無責任主義を通して面倒くさい職務から逃げるサラリーマンがいたら、制度は3.11のSPEEDIと同じになるのである。人を救うための仕組み整備の税金は無駄になるのだ。結論を単純に言えば、倫理と正義を復活させ再生させることしか問題解決の道はない。復活させ再生させる方法は、責任者を厳罰に処することである。刑事捜査当局が動き、暴行障害致死の犯人を逮捕し、取り調べ、裁判にかけて罪を償わせることだ。同じく、不作為の過失責任の者たちを事情聴取し、正確な報告をさせ、厳重処分することである。私には、脱構築主義の宗教がどうしても理解できない。戦後民主主義の教育哲学のバイブルであった吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」は、倫理と正義を子どもに教育する書だったではないか。それを奉じる左翼リベラルが、どうして脱倫理の宗教で社会を経営しようとするのか。脱倫理・脱正義(=人間の精神を欠いた制度フェチシズム)の脱構築主義(=社会学)が、そのまま新自由主義とそっくり結合した裏表をなす思想であることを、どうして左翼リベラルは認識できないのか。
私は、この子はとても立派だったと思う。絶望的な状況の中で、最後の最後まで自己の尊厳を守り抜き、そして最後の最後まで生き延びようとして命を守る道を探した。ジブリの「生きろ」を実践しようとした。かわいそうでならない。亡骸を抱きしめてやりたい。「生きろ」と言った宮崎駿は、この子にどんな言葉をかけてやるだろう。
by yoniumuhibi
| 2016-03-23 23:30
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Comments(5)
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愛知
at 2016-03-23 22:52
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一時、左翼リベラル業界で人口に膾炙されていた児相(権力)による子供たちの連れ去り問題(ブログ)。貴下記事に接して再読。3年遡ってみると神社と天皇家の関わりに関する蘊蓄が。いつから児相問題のオーソリティーになられたのかしらと不思議。児相に関する検索で出てきた弁護士ブログの日付は皇紀。田母神閣下を師と仰がれておられるそうで。児相に関するNPO識者は、「内閣府」やNHKに引っ張りだこの模様。見直してみると児相のオーソリティーは、講演会も満席だそうで。ブログのシェアは1k越え。テレ朝、橋下×羽鳥に吐き気を催し、もう「報ステ」すら見る気力も消え失せ。
記事を拝読し、知人のお嬢さん(高校生)を国立の高次脳機能障害の専門病院に見舞ったことを思い出しました。当時は厳重な警備態勢でした。自分では食べられない。食後の歯磨きも看護師さん。驚いたのは、そのお嬢さんの両眼の輝き。飛び出してしまった眼球を戻したなどとは信じられず。赤信号無視の車に跳ね飛ばされたお嬢さんは何を訴えておられたのかと。言葉を失う記事のアップに感謝いたします。
記事を拝読し、知人のお嬢さん(高校生)を国立の高次脳機能障害の専門病院に見舞ったことを思い出しました。当時は厳重な警備態勢でした。自分では食べられない。食後の歯磨きも看護師さん。驚いたのは、そのお嬢さんの両眼の輝き。飛び出してしまった眼球を戻したなどとは信じられず。赤信号無視の車に跳ね飛ばされたお嬢さんは何を訴えておられたのかと。言葉を失う記事のアップに感謝いたします。
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長坂
at 2016-03-24 02:06
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被害者と加害者を曖昧にし逆転させる脱構築死ね!ですね。侵略戦争が喧嘩両成敗になり、いじめで殺された子はその子にも落ち度がありになり、200回以上STAP細胞作製に成功した研究者は「私は嵌められた」になり、出自も学歴も全て嘘っぱちのコンサルタントはいい人だからセカンドチャンスをになる。正直とか誠実とか良心とかどーでもいい。自殺と虐待を関連付けるなんて、この両親に対する名誉毀損、重大な人権侵害。悪いのは私達の社会、だから連帯責任。ふざけるんじゃないよ!
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うさぎ
at 2016-03-27 01:26
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初めてコメントします。筆者様のブログを知ったのが数日前で、今、検索しながら読ませていただき、感心したり、理解し難かったり、ただ、刺激的です。今回の、「相模原の中1虐待自殺事件」本当にひどく、知れば知るほどに、関係者の大人達への怒りしかありません。根本にある、現代日本の総無責任体制が、日々腹立たしく、無力感にさいなまされます。うちの妻などは、以前から、昭和天皇がちゃんとお手本を示さなかったから、日本がダメになった、といつも言います。特に第2次安倍政権以降、政治家を筆頭に、何をやっても「堂々と居直った者勝ち」みたいな風潮になり、マスコミの総白痴化とともに、ルックスが良ければ、財があって地位があれば、正義だという価値観が、買ってないほどに熟成されています。私は、良識ある右翼・左翼含めて、この状況が打破できない一番の理由は、この世に蔓延したコマーシャリズムとポピュリズムを理解し、操作できていないからだと思います。いくら本質的な、正しいことを論じても、それを聞き、理解しようとする国民がごく少数になっています。「巧言令色少なし仁」と言っても誰もわからないのです。ちゃんと廣済堂や、電通出身のブレーンを付けて、安倍に負けないCM戦略を立てなければ勝てません。小泉はその意味で天才でしたが。おそらく次回の(おそらく)W選挙で、野党が躍進できる唯一の可能性は、「待機児童ゼロにします。保育士の手当ては平均給与に。財源は政治家・公務員給与を2%カット」と打ち出し、山尾 志桜里氏を政務調査会長などと中途半端な役職ではなく、幹事長位にして選挙に挑むことです。と、思いました。長文失礼いたしました。読んでいただければ幸いです。
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半覚醒状態
at 2016-03-28 18:59
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いつもありがとうございます。自殺せざるを得なかった少年が祖父母の家で首を吊ったというのは、祖父母が彼にとって残された最後の望みの綱だったからでしょう。けれどもその望みの綱も頼りにはならないと分かって自ら命を断ったのだと思います。確かに精神科医は自殺や精神を病むに至った患者さんの周囲に対して犯人探しはしないと言います。けれどもそれはその人に関わった全ての人にそれ相応の責任があるということを前提としてのことだと思います。人には大前提として良心というものがあるということ。その大前提が崩れさってしまったのが今の時代であり、その映し鏡のような事件なのだと感じています。
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at 2016-03-28 20:26
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ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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