Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

ベビーサインの整理

もともと、生まれてから声帯の発達を待たずに意思疎通するために、いくつかジェスチャーを試みるということは考えていたのだが、SHELLYが“ベビーサイン”について話している動画が流れてきて「ああ、同じことを考える人はいるのだな」と思って興味を持ちました。ベビーサインを調べると一般社団法人 日本ベビーサイン協会が出てくるのですが、4つの問題を感じました。

  • Dr. Linda Acredolo と Dr. Susan Goodwyn が考えたのを源流とする(このこと自体は良い)ために、ASLをベースにするなど文化的な差異に無頓着っぽい
  • オンラインではまず入会を勧めてくるなど商業色が強く、言語としての自由(フリー)さがない
  • ベビーサインのデメリットとして言葉の発達が遅くなるというのがあるというが、それに無頓着なほど、たくさんの場面と語彙を考えていて冒頭の僕の考えた必要性に対して本末転倒である
  • それと関わって、声帯などの発達が理由であるものの、言語的にも2語文(1歳6ヶ月~2歳ごろ)3語文(2歳〜2歳6ヶ月頃頃)はほとんど考えなくて良いはずなのにその文脈でしか必要のない語彙が多い。せいぜいが2語文までを想定で、8割1語文を想定して語彙を考えるべき。

ベビーサインを教える:基本的なベビーサインと教えるコツ|パンパース ここを参考にまず、必要そうな語彙をピックアップする。

  • 5ヶ月ごろ習得する7語と、その後増やす16語に整理。
  • 不要としたもの:赤ちゃん(私、で代用) 、パパ・ママ(あなた、で代用。どちらかを指示する必要性はあまり生じない)猫・犬(指差し指示で代用。) 水(飲み物の一種でしかないか、手を洗うなどは別だがサインの必要がないと考えた) お腹空いた(食べたいと飲みたいで代用) 外(外に行くという文脈でしかつかわないので、行くに統合) 昼寝(寝るに統合) 助けて(お願いと統合)座る(必要=立つ時にはもうしゃべれるでしょう、「ここにいて」で代用できることも多い。)

3ヶ月で反射運動が消え、4ヶ月で首がすわる。基本3ヶ月までは多くの行為が不可能。無理に定型表現に頼らず、赤ちゃんのさまざまな意思表示を捉える努力を忘れずに。

全く関係ないが、トキポナの単語も添えてる。


これ

腕を伸ばす。指で指す(日本手話の、ここ、これ、そこ、それ)。ni

はい

頷き。lon(トキポナにはyesは存在しないとよく言われる 参考:Yes in Toki Pona? : r/tokipona。lon は true のこと)

いや

首を横振り。ala (否定詞)

うんちが出たからおしめをかえろ、うんち

手で腰をたたく。jaki 参考:トイレトレーニングに使える“ベビーサイン”4選|たまひよ

おっぱい(or ミルク)が飲みたい、おっぱい

ぐー、ぱー、の繰り返し。telo walo 参考:最初に教えたい!はじめてベビーサイン8種類 | Baby-mo(ベビモ)

おしまい、完了、全部できた

胸の前で手のひらを上に向け、そのまま手を反転させ、手のひらを下へ向ける。pini 参考:最初に教えたい!はじめてベビーサイン8種類 | Baby-mo(ベビモ) 本来は両手だが、片手も可能とする(弁別の必要がない)。

ここにいて、いかないで

床を叩く lon ni.


<以降はあとで加筆する>

もっとほしい

指先を軽くすぼめた両手をふれあわせる。おっぱいもっとだとおっぱいを繰り返せばいいので、高級語彙。参考:最初に教えたい!はじめてベビーサイン8種類 | Baby-mo(ベビモ)

本を読み聞かせる、本

読み聞かせの要求を一語で行う。本自体も指す。

毛布が欲しい、毛布

寒いに限らないので、寒いと独立させる

暑いので対処しろ、暑い

寒いので対処しろ、寒い

コップをよこせ、コップにいれろ、コップ

「コップ飲みの練習を始める目安は、生後5ヶ月~6ヶ月ごろ」らしいので。

飲み物が飲みたい、飲み物、水

食べたい

大好き

ありがとう

痛い

寝る、昼寝する

両手のひらを合わせてほっぺに当てます 参考:最初に教えたい!はじめてベビーサイン8種類 | Baby-mo(ベビモ) 電気を消せ、でもいいかも。電気以外と早く教えろというページも多く考える。

外に行くよ

お願い、助けて

手を開いて、自分の胸のあたりをさする。弁別性をたかめるため「さする」をつけてる。 参考:赤ちゃんとサインで会話 ベビーサイン10選 - YouTube

わたし

2語文で必要、自分を指差す(日本語手話だと顔を指差す、ASLだと胸で握り拳)指差しに一般性を持たせる。

あなた

2語文で必要、相手を指差す(日本語手話)

pip install (正確には pipenv install)で lxml をしようとしたら

"AttributeError: 'Text' object has no attribute 'strip_styles'"

みたいなエラーが出て詰まった。標準ライブラリの xml を用いても同様のエラーが出たのでこれはなんか根本的に壊れてるぞ?と思ったら、自作のスクリプトxml.py と名前をつけていたのがよくなかったようです。ばかだー。

ライブラリ名と被る名前をつけないように気をつけましょう。

今年考えてたこと:

インスタンスをクラスから部分的に解き放っても(クラスの恣意性, 固有性に関わる理論, 局所閉世界仮説)成立する論理とその「想像の知識共有」(Wikimedia as a platform of knowledge, LLM as a processor of linguistic sphere)が可能にする協働、論理の届かなさが逆説的に肯定する自由意志とコミュニケーションと可能性(not 信用 but 信頼, 言語は存在しない by D.Davidson, 世界は存在しない by 新実在論, 儘ならぬ=度し難い=紙一重の二律背反)

今年仕事としてやってたこと:

  • 研究データや論文のオープンアクセスの基盤整備、データ投入、整理
  • 組織間調整

ずいぶん距離がある

「“政治不信”の根底には国民のモラルの低下があるのではないか」の正しい文脈

一年前の動画のネタがTwitterでバズってて、夫婦別姓問題で少し見直していた稲田議員だったので、元発言を 【動画】稲田朋美議員「“政治不信”の根底には国民のモラルの低下があるのではないか!?」 | Share News Japanネトウヨ系ニュースサイト)にある動画の通り聞いてみたところ、別に賞賛はしないものの、Twitterの9割以上のコメントは誤解に基づくと思ったのでメモしておく。

これは10年以上前の2012年4月16日、ホテルニューオータニで行われた「衆議院議員稲田朋美さんと道義大国を目指す会」(政治資金パーティー)にての発言で、稲田朋美 - Wikiquoteにも書き起こされている通り

仕組みを変えたって、私達のモラルが高くなければ、日本は良くならないんです。国民の生活が大事なんて政治はですね、私は間違っていると思います。今私達が生きているのは私達の今の生活だけが大切なんじゃなくて、先人から引き継いできた大切なものを私達の子孫に引き継いでいく、その責任を果たすのが、政治家の役割だと思っております。なぜなら、2500年以上、皇室が祈っておられたのはですね、国民の幸福と平和、それだけじゃなくて、世界人類の幸福と平和を祈っておられた。そんな国だから、私は道義大国を目指す資格がある、そして、そのことを、今回の震災の被災地の皆さん方も、世界に向けて発信して下さったと思っております。

というのの「なぜなら」までがこの動画の部分。民主党の「国民の生活が第一」の批判として、にんじんで国民を釣って進める政治を先導してきたモラルの低下した自民党の反省、さらにポピュリズムに走ったモラルの低い民主党、それらに影響されモラルの低下した国民、これが現在の国家の根本的な問題なので道義大国を目指そうという流れである。国民のせいにしていて酷い!という批判は的外れで、そんな脊髄反射している奴らよりは稲田さんの方がまっとうなことを言っている。一方で、もう日本会議の匂いムンムンの引き続くフレーズやその認識に基づく宗教的なまでの道義のありかたは吐き気がするほど酷いものであり、決して賞賛はできるものではないというのが個人的な意見である。


もう繰り返しにしかならないけれど、国民の大半は馬鹿なので適切に馬鹿といわれても馬鹿な反応しかできない、そんなのに向かって馬鹿というだけ無駄でしかない。できることは、その馬鹿を(短期的には)無視し(長期的には教育し)、ちゃんと(数としては半数以下の)中間層以上を(人単位ではなく)トピック×意見ごとに拾い上げる「客観的」な手法を打ち立てるしかなく、そのデザインに不可避に伴う思想性のある部分、つまり社会構想に伴う部分は、その「客観性」と整合的に人文学の進歩として示される必要がある。それは道義による善悪なんていう(伝統宗教ほど時代による淘汰を経ていない)根のない宗教的なコードであってはならないと思うし、「」無しに客観性を謳うような人文社会学的にレベルの低い情報技術手放し万歳ネオリベラリズムに支えられてもいけないと思うので、「次世代の」デジタル人文学は必要なのですよ(ポジショントーク

セ婚ド感想

もう結婚しとるんに、なんでこんな番組をわざわざTVerで睡眠時間削ってみたのかわからんが、せめてメモを残しておく。番組の感想は2割ほどしかないのではないか笑

神名言連発!崖っぷち男女12人の恋の行方は! | TVer 2泊3日で男側女側セコンドがアドバイスをしながら婚活パーティー合宿をするという構成。実際はもう少し長めにロケしてそうな気もするけれど。また、メインの視聴者ターゲットは婚活で失敗して悩んでいる30代後半女性で、その立場の女性が成長して年収学歴人柄はいいが女性慣れしていない男性とのマッチングに成功するのを中心ストーリーに据えていた。全体的に男女とも(演技が強く)どんだけコミュ障やねんって感じではあったので僕は全然感情移入はしなくって、どういうふうに描かれて、それがどういうふうに消費されて Twitter 上での呟きにつながっているか、などに興味があった。

いきなり話が飛ぶが、先週の出張で、オランダはコスモポリニズムの極致だなと感じることが多かった、つまり、ジェンダーについても人種問題についても欧州の理想がここにあると感じた。そして、ほぼ最終日の朝、街を歩いていたら、ホームレスの男性に声をかけられて、素敵な街を早足で歩きながら神と愛とセックスについて話しつづけるというbefore sun***シリーズっぽいことをしたのだが、彼はそのコスモポリタニズムに取り残された「弱者男性」だった。別にこの認識を恥じるつもりはないし、彼にわざわざそういうレッテルは伝えなかったものの、傲慢にも、「あなたと神との絆は、あなたが社会に向けている男女論を中心とした規範から離れた個々の他者性の捉え直しで強くなる(要約)」という説教をたれて、なんか感謝されて、最後、お互いに「一期一会だがいい時間だった、お互いに良き人生を」と言い合って固い握手をして別れたのだが、この世にどんどんと溢れている「人間嫌い」に僕は我慢がならなくて、そんなことをいちいちして、自己満足に浸っているのだと思う。昔でいうと、仲人をやっているおせっかいおばさんみたいなメンタリティを抱えているんだと思う。でも、別に、妙齢の男女をくっつけたいだけではなく、人間同士がもっとちゃんと社会をやって欲しいから、シェアハウスや寮に住んだり、トルコで少しの空き時間ができたらバスから建築物を眺めるフリーツアーに行くのを断って一人で田舎町に出向いて、手振り身振りで人と関わろうとする。ただ、その一環として、恋愛や結婚にまつわる人のコミュニケーションについての興味というのがライフワークと化してしまっているのだと思う。

33分ごろのところで、「あんまり正解ないんだって」ってイッセイが言われているシーン、少しわかりにくいが、自分の行動がまわりにどう見えているかの自覚を促しているところで、なにか間違ったことをしていると言われてると思って、「選択肢が間違っているのか、それとも…」と正解を探すフレーミングをしているところをツッコまれている。これはかなり本質的で、マッチングというのは、相手と自分の、現状と理想を、環境を含めて捉えれば自ずと答えはでるという側面があるのだけれど、一方でそこに「理想」という変数が含まれている以上、正解は演繹されるものではなく、作られる(必ずしも、ではないが、アブダクションに近いと思う)ものである。どういう質問が結婚につながるとセコンドたちに評されているかを観察すると、単にプライベートなことというのではなく、どんな結婚生活をしたいかということで、それは理想状態である。当然のことのようだけど、その理想は、ある程度は人格的に幅が決まっていて、そこからその場の判断や相手に合わせて調整の余地があるという形をとる。相手に求めるスペックを固定しすぎているというその思い込みなどは、「正解」が強くある社会で育ってきたからであり、その正解とは、2007年にKYが流行語になったように、空気なり規範なりはこの20年加速的に強くなってきていて、それへの反動と共犯関係で逆に社会を壊してもいる。

61分のところで、ハルニャンが言われたことが嫌だったと伝えるシーン、その前のアドバイスのシーンではちゃんとそもそも容姿への言及自体が肯定的であっても失礼になりうるから基本的には避けるべきという現代的規範を確認しつつ、男性側のキャプションに「デリカシーに欠ける」と書き、女性側の捉え方の問題にせず、それでも、もし一筋の光があるならば、シャッターをせず、嫌だったと伝えてみて反応を見てみては、という流れになっていて、丁寧。これがまさに、「幅」の中での時間方向での調整の実践様式になっている。

2点ほど褒めたので、あとは批判的なことを少し書いて、寝る。「推しの子」で描かれたことでリアリティショーのリアリティさに関する世の中のリテラシーは飛躍的に高まったと思っているけれど、「(演技が強く)どんだけコミュ障やねんって感じ」がメインストーリーには強すぎた。話せなくなってセコンド呼ぶところとか、いつも笑顔で姉さんポジにシフトとか言いながらクヨクヨ泣いてばかりいるの映されるの「何なの?」としか思わなかった。これは、女優さんの問題ではなく、演出の問題で、でもTwitterではそこは完全肯定的な人が多かったので、ちゃんと刺したい人を刺していたことになる。じゃあ、僕の批判はそれも踏まえると何を言ってることになるかというと、みんな、健気に素直に自分からのアプローチをしっかりすればいいというストーリーを信じたがっていて、その背中を押していて、根本強い女性になろうという覚悟がない。そりゃ男性もそれを求めるのは少数派だろうから、何も間違ってはいないのだけれど、結局「守ってあげたくなる女」とそれを「守る男」、それと両立した表の言葉上の「私が強く年上として支える」という構図、「関白宣言」を逆にしただけの男女共に人間としての強さが無さすぎる。だから、選ばれた相手も、それにピッタリな役になっている。

仲人の人が「絶対に柔軟性は必要だし、絶対何を言われても我が道を行く方はうまくいかない」というツイートをしていて、それは正しいんだけれど、あのセコンドを呼ぶ演出やラストのあまり紹介されなかった女優が、セコンドの必要性を川柳で詠んだところだけ出演させてもらえているところとか、これがアドバイス付きのコースを用意している婚活プラットフォーム Pairs でメンバー募集かかってた案件であるところとか、マッチングアプリはゴールさせずにマッチングさせ続けることが利益最大化になるという構造的問題と同様、婚活アドバイス産業はアドバイスの意義を見せつけないと儲からず、これは自分たちで結婚生活を試行錯誤していける強さとは相反する側面がある。

もちろん、付き合ったり結婚したりしていても、友人やセラピーに相談するという選択肢があるべきだけれど、それがうまく機能するような環境にはまだまだなっていない。基本、自分たちでやっていく強さが必要で、その現代の(特に欧州的な)規範と整合的に、つまり自立した個人という理想が行き着いた先を前提とした強さを持った関係を示すには、あまりに日本の男女の現状やとりまく産業の都合がかけ離れすぎていて、結果的にちょっと毒も含んだものを示してしまっているというのがよくなかったところ。

じゃあ日本で可能な代替像といえば、アスペっぽい二人がなんとか噛み合わさるというのがアニメとかでよく提示されていて、でもそれは「若いから可能」という側面があるために30代後半には提示できない。逃げ恥とか原作がしっかりしていると、特殊例一個一個は示せる。でもあんな出会いはまずない。だから、愛や恋愛や結婚については別のメディアで学んで、マッチングアプリや結婚相談所の使い方としてあの番組を見るのはアリだったんじゃないかな。リアリティーショーとしては何が面白いのか僕はわからないし、あの中で愛や恋愛や結婚について学ぶのは超初心者かメタに見れる傍観者でしかないと思う。学べておもしろーいと思っちゃったら、当分結婚は遠いかもね。

概念のモデリングについてn回目の悩み。アルゼンチンの土産で妻に頼まれて Alfajor を買ってきたら、コーティングはチョコも白いアイシングもあって、そこに con baño なんちゃらって書いてコーティングの種類の別を表現している。baño は出張中もトイレどこ?って聞くのに使ったので、覚えているのだが、元々は浴槽を指し、浴室、トイレまで指す言葉で、チョコレートのお風呂につけたお菓子なら、con baño de chocolate と表現される。Torta de mandarina con chips y baño de chocolate (sin tacc) Receta de Carolina C- Cookpad みたいにチョコレートのチップとグレーズという表現もあるので、 baño は素材の状態としての意味も持つような使われ方をする。単にチョコレートのお風呂ってなアナロジーから来ているのかもしれないし、baño de maria という湯煎もしくはそれ用の二重鍋を指す語があるので、製造過程でそれを使うという側面もあるかもしれない。con は with を意味し、他の言語だと形容詞の接頭辞で否定するところをスペイン語では sin (=without) で否定したりかなり con o sin (with or without)で表現することが多い重要な前置詞である。そして、レストランで水を注文するときは con gas / sin gas はよく聞かれる。さっきのレシピの sin TACC はざっくりと言うとグルテンフリーでTrigo (小麦), Avena (オーツ), Cebada (大麦), Centeno (ライ麦)が入っていないことを指す。話は逸れたが、この baño の用法を wiktionary に手元にある例文付きで書き込んだ後、wikidata のどこかにも書くところあるかなと考えて、ざっと見回して頭を抱えてしまった。

glaze - Wikidata の fabrication method に(語義説明では method の一つにしかなっていないはずなのに、method として唯一挙げられている dippingと並列して) glazing というのを作って、それのスペイン語名を、glaseado とし、異名に baño と書くという手も考えたが、そもそも glaze の中で glazing が区別されていない。Wikipedia との対応を考えると当然その二つは同じ記事に書かれるわけだから無理からぬことである。つまり、Wikipedia との対応を Wikidata で取ろうと言うこと自体に無理があるといえば無理があるのだが、そもそも Wikipedia の多言語ハブとしての役割が Wikidata の出自なのでそんな文句は的外れでもある。というわけでとりあえず glaze のところの スペイン語 glaseado に異名として baño を書いておいた。誰かが適当にしてくれるかもしれない。ここらへんの細かいモデリングは Wikidata Lexeme にある程度譲るのがいいかもしれないと最近考えている。

結局言葉の意味の典拠は言葉の用法にしかなく、それによる限界とどう向き合うかということのまわりをこの1年ほど撫で回している。論理哲学論考の周りをぐるぐると。

たとえば"技術者倫理" "ワンピース"で検索しても全然引っかからないんだよな。

最も多く発行された単一作者によるコミックシリーズでギネス世界記録に認定されているにも関わらず、今の世論のどこをとっても「ワンピースも見てねえのか」と思うようなことが多い。個々のテーマで深めようとした作品は例えば、罪を未然に裁くことだったら PSYCHO-PASS でもなんでも挙げられるのだけれど、あれだけ幅広いテーマを一貫して一繋ぎに繋げた作品はおそらく僕が死ぬまでに出現しない。たまに、好きな漫画でワンピースを挙げることはあっても、長すぎて、そして既にみんなが知ってることになっているため、なかなか「勧める」という行為には結びつかなかったのだけれど、研究で関わる側面だけでもいくつかメモして、何話をどういう視点で見てみろというガイドを持っておくことには意義があるかもと思って、メモを取ることにした。本当はそれぞれに、テーマごとの論文や思想家の紐付けも行うべきだけれど、おそらくそれは後回しで良いはずなので、とりあえず、メモだけ。いつも三日坊主な僕なので、これが完成することはないと思うけれど、まあ誰かが引き継いでくれるかもしれないし。魚人島の話は差別の問題で、とかはたくさんの人が考察してて、的確な批判もあれば、チャリタブルに読めてなさすぎっていうものもあったりいろいろなんだけど、人工物と歴史関連はあんまり多くはない印象。


漫画ではなくアニメで書く(プログラミングしながら音を聞くというので思い出している)

Episode 249 技術者倫理と、デュアルユースに繋がる使用の責任について

アイスバーグ

バカ野郎・・・この間来たあの諜報部員に、お前の戦艦を使われたんだ・・・!!! おれは言ったぞ。何度も!何度も!!いいか!おれ達の腕はこの世に凶器を生む腕だ!!! たとえお前にその意思がなくても!!!凶器は構わず誰かを傷つける!!! それがお前にとって大切な人間でも、だ!!!

Episode 250 製造者責任と愛について

トム

どんな船でも・・・・造り出すことに”善”も”悪”もねェもんだ・・・・!!この先お前がどんな船を造ろうと構わねェ!! ・・・・だが生み出した船が誰を傷付けようとも!!世界を滅ぼそうとも・・・!! 生みの親だけはそいつを愛さなくちゃならねェ!!!生み出した者がそいつを否定しちゃあならねェ!!!船を責めるな 造った船に!!!男はドンと胸を張れ!!!

ちなみに、ゴール・D・ロジャー「生まれてくる子に罪はない!!ガープ!!俺の子を頼んだぜ!!」フランキー「存在する事は罪にはならねぇ!!」との関連について述べたブログは既存だけれど、アラバスタ編で強くナウシカが意識されている(特徴的なのはビビ&カルー∽ナウシカ王蟲の子のシーンとか)とおり、生物という人工物にも同様の思想を持っていて、パンクハザードやエッグヘッドで具体的なセリフがあるはずだけど後述。

このエピソードがゴーイングメリー号の話と並行しているところが珠玉のデザイン。ただ、経験上、人工物に愛着を持てるかどうかは育ちだけでなく何か遺伝的なバラツキが強く作用していて、イーストブルー編から全て見ていたとしてすら、「わかる」かどうかは人によるかも。

Episode 233 人工物の本質主義と同一性について、徹底的にアナログな実践論からの答え

パウリー

船の全骨格の土台、“竜骨”は『船の命』――そいつが酷く損傷したからといって、挿げ替えるなんて事ァできねェってわけさ。それじゃあ船を一から造るのと同じ事だからな。――だからもう誰にも直せねェ。お前らの船はもう死を待つだけのただの組み木だ

ルッチ

似た船なら造ってやれるが、厳密に言って同じ船はもう誰にも造れねェ。この世に全く同じ船は2つと存在し得ねェのさ 例えばそんな船を作ったとしてそれが全く違う船であると最も強く感じてしまうのは きっとおまえ達自身だからだ

本質主義的な言葉はネフェルタリ・コブラ「国とは“人”なのだ!!!」(Episode 105)チョッパー「もしルフィが負けても全員がこっちのチームに来るんだから、みんなと別れなくてすむよな?」ロビン「でもその時は、もう船長さんは船長じゃなくなっているのよ。私たち全員あのオヤビンの部下になるわけだから」→想像シーン(Episode 217, デービーバッグファイト編、特にアニメがだらけ始めたのがここら辺からなので基本的にスキップ推奨であり、僕も位置付けがイマイチわかってないが、これは組織の同一性に関する指摘)、を通して、人の組織についてメンバーとその絆を本質に据えた上で、組織性について補足しているように見える(補足はアニメオリジナルの部分なので、尾田の意図との一致は不明)。(当然と言えば当然だが、)人工物の構成については全く違う本質の捉え方をしている。

Epidode 251 技術者倫理は専門家倫理に拡張しうる

ロビン「何も私は兵器復活のためにポーネグリフを求めているわけじゃないわただ歴史を知りたくて」アイスバーグ「そんな言い分に意味はねえ!」上記Ep.249のセリフを回想「人を傷つけるものに必ずしも悪意があるとは思わない、歴史を知りたいというただの興味が世界を亡ぼす結果を招くなら、今おまえはここで死ぬべきだニコ・ロビン!」

ここはオハラの史実についての誤解が含まれているので再解釈が必要になるが、かなり明白に技術から専門家倫理への拡張を行なっている。