アメリカ人の考えていることはよくわからんという話

幸せな未来は「ゲーム」が創る「幸せな未来は「ゲーム」が創る」という本を読んでみた。

先日のエントリーでは、ソーシャルゲームに少し批判的なスタンスを取ってみた私だが、実はゲーム全般に話を広げれば、その将来について、割りと肯定的な見解を持っている。いや、ほんとうは肯定的というよりももう少し大袈裟に、むしろこれからの時代、大半の人々は基本的にゲームしかしないくらいの状況が実現してもおかしくないとさえ思っていたりする。

現実世界では、構造上、参加者全員が自己を実現する、というようなことがない。誰かが自己を実現するということは、同時に他の誰かが実現できなかったということを意味する。「優秀」とか「デキル社畜」といった誉れ高き称号は、誰か他にデキない奴がいるからこそ成り立つのであって、みんながみんな望ましい自己を実現できたら、それは誰もできていないということと同じになる。

私の理解では、こうした現実世界の本質的問題を止揚するテクノロジーこそが、バーチャルリアリティであり、ゲームなのだ。

私がソーシャルゲームについて根本的に合点がいってないのはまさにこうした点で、あれは現実世界をクソ仕様もそのままに、ただオンライン上に置き換えただけではないかと思っている。友達が多いほうが楽しめて。カネがあるやつが有利で。そうではなくて、ゲームというのはもっと、すべからく全員が楽しめるものではないか。現実世界における終わりなき競争に疲れ果てたような人たちも含め、全てのプレイヤーを優しく包摂してこそのゲームではないのだろうか。少なくともそうあろうとするべきではないのか。と、私は思ってる。

先進諸国において、失業はいまや解決不能な類の問題となり始めているが、失業の何が問題かというと、貧困に通じることも去ることながら、社会との関わりが絶たれることで、自己の存在を見失ってしまうことの影響は大きい。労働は、大多数の人にとって主要な自己実現の方法となっているからだ。もし、これをゲームが代替できれば、ゲームが万人にとって新しい自己実現のステージとなり得れば、それは社会のあり方を変えるだろう。

と、何となくそんなことを思っていたものだから、冒頭掲げた「幸せな未来は「ゲーム」が創る」というタイトルは、まさに我が意を得たりと膝を打つ感じだったわけだ。これはきっと、目を潤ませ時折大きく頷いたりしながら、終始高いテンションで読み進められそうだぞと、私はそう確信して、揚々とアマゾンで発注したのだ。

ところが、である。

その確信は完全に間違いで、むしろゲームに対する認識の多様性を見せつけられる結果となったのだった。日本とアメリカではずいぶんスタンスが違うのですね、的な。

よって、今日はその話。

現実を代替するというか、むしろ積極的に関わっているでござる

ということで、私が人々を幸せにするゲームとして思い描いていたのは、例えば、完全にAIなラブプラスだったり、他プレイヤーが全員ボットのモバゲーだったり、徹頭徹尾一人で楽しめる出会い系だったりという、何と言うかある種非コミュのユートピアみたいなものだったわけなのだが、この本に出てくるのは、むしろリア充の権化のような、それはそれは恐ろしいものばかりだった。そのギャップたるや。

なかでもとりわけ破壊力が高かったものを紹介しよう。「C2BK」は、サバイバルゲームに似ているが、異なる点は主に3つだ。街の中で開催される点、誰がゲームに参加していて誰が参加していないかがわからない点、そして最後に武器として銃の代わりに「ポジティブな挨拶」を用いる点 (ちなみに、挨拶にはいくつかパターンがあって、ジャンケンのような強弱関係が決められるらしい) だ。要するに、予め定められた挨拶を街中で無差別に繰り返し、たまたま挨拶した相手がゲーム参加者だったらポイントゲット。ヤッター!という話のようだ。

私はこの基本ルールを読んだ時点でダウン寸前だったが、ダメ押しとなった「ポジティブな挨拶」の具体例を紹介しよう。

  • 標的に「美しい[自分の地区や住まいの名前]にようこそ」と言う。
  • 標的に「今日のあなたはとてもすてき!」と言う。
  • 「とてもきれいな鳥がいますよ!」など、標的に何かすばらしいものを指し示す。
  • 標的の靴を褒める。
  • 標的に何か具体的な手助けを申し出る。
  • 標的が今現在行っていることに対してお礼を言う。
  • 標的に対する「相手がたじろぐほどの」感嘆の念を表す。
  • 標的にウインクし、微笑みかける。
  • 近くにある具体的なものについて標的が抱いている疑問に自発的に答える。

第10章 幸せハッキング 第2部 現実を作り変える p.276

自分も主食を小麦に切り替えたらこんなセリフを吐けるようになるのだろうか、というのが私の率直な感想である。というか、ウインクて。

まあ確かに、英語の直訳であるが故のセリフとしての不自然さというのもあるかもしれない。夏目漱石は「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したという逸話が一時ツイッターで流行ったが、例えば上の挨拶も同様に意訳して「行楽日和ですなあ」とか「だいぶ春らしくなって来ましたなあ」とすれば、まあ言えないことはないかもしれない。

それでもなお非常に大きな問題として残るのは、自分がゲーム参加者だったとして、運悪く他プレイヤーに上記セリフを撃ち込まれたら一体どういうリアクションをすればいいのか、皆目検討がつかないという点だろう。

例えば銃で撃たれたときのリアクションというのは、両手を挙げてその場に倒れるなり、鮮血に染まった自身の手を見て何じゃこりゃと叫ぶなり、数多の事例をこれまでの人生で見聞しているが、ポジティブな挨拶で攻撃されるというのは全くニュージェネレーションなエクスペリエンスだから、経験の不足分を相当量のテンションで補わざるを得まい。試しに何度か自分を無理矢理自分を鼓舞しながらシミュレーションしてみたが、それでもやはり薄ら笑いを浮かべて「あ、、やられました…フヒヒ…」とか口ごもるのが精一杯であった。何かの罰ゲームだろうか。

こうした罰ゲームはARGと総称され、同著でざっと27個くらい紹介されていた。ARGというのは、Alternate reality game、つまり代替現実ゲームの略だそうだ。プレイヤーが家事を行うとポイントが加算されアバターがレベルアップしていくという家族で参加するタイプのゲーム、「チョアウォーズ」というのもあった。

コメントは控える。

著者にすれば、これらがまさに、ゲームが現実を作り変え現に人々の幸せをハッキングしている事例なのだということらしいのだが、私からすると、お母さんがなかなかオモチャを片付けられない子供に「じゃあどっちが早く片付けられるか競争ね」と促すといった子供だまし的動機付け手法との差異を見出すことは難しく、まさに「グリーだとかモバゲーだとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ、もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ」という感じであった。

世界と直接かかわりたがる人たち

そもそも、かの国では、PS3やXBOXといった家庭用ゲーム機用ソフト市場においても、FPS(First Person Shooting)という一人称視点でゲームが進むゲーセンのガンシューティングみたいなやつがもっともメジャーなジャンルだそうで、神の視点から自キャラを俯瞰するドラクエやFFに慣れ親しんだ我々からすれば、驚きを隠せない。

偏見に通じるだけなので、あまり安易に国民性の違いを語るべきではないと思いつつ、ここまで圧倒的な違いを見せつけられると、そっち方面に逃げ込みたくもなる。上記著作の著者は、やはりと言うべきかアメリカ人だ。やはり日本人とアメリカ人では、何か見えている世界に違いでもあるのではなかろうか。

我々日本人が好むゲームは、操作するキャラクターとプレイヤーである自分との間に神の視点のようなフレームを挟むものが主流だ。FF然り、ドラクエ然り。これはどういうことかと言えば、ゲーム世界と自分との間に、ひとつクッションを置きたがるということではあるまいか。そう考えると、確かに上述した小恥ずかしいサバイバルゲーム風のゲームも、専用の衣装で日常世界と隔絶したり、若しくは武器を物理的なアイテムに代えてコミュニケーションの直接性を減じるなどして、自分とゲームの世界の間にクッションを挟んでいけばプレイの敷居は下がっていくように思える。まあ、単なるサバイバルゲームに近づいていくだけだが。

その点、アメリカ人というのは、要するにどうもこの自分と世界の間に横たわるクッションを取り去り、直接世界と関わることを望んでいるように見える。そのように考えれば、両者の違いは他者や環境との関わり方における嗜好の違いとして整理することができ、 月が綺麗な話をクッションとすることもなく、直接に愛を語るさまも同じフレームで捉えることができる。

ただ、そうはいっても同じ人類、そんなに根本的な違いがあるはずもないと思うのもまた事実だ。勝手に違いを論っておいて何だが、根っこのところでは共有可能な部分があって欲しいのだ。

で、ひとつ思ったのが、世界と自分の間にクッションを挟みたい気持ちは不変だけれど挟む位置が違うのだという説である。我々日本人の感覚からすると精神というのは肉体に宿るものである一方、欧米の方の感覚と言うのはもうちょっとこう、なんていうか魂が分別保管されている感覚なのではないだろうか。要するに、魂と肉体が別々に知覚されているために、肉体が世界と自らとを仕切るクッションになっているのではあるまいか、という。我々が外部に求めるクッションを、彼らは内製化しているのではないかということだ。

ここまでの話の流れからして、以上の説が何の説得力も持たない単なる思い付きであることは明らかであるが、軽い検証の気持ちで試しに和英辞書で「宿る」を引いてみたところ、一応「reside」という英単語は出てくるものの、これはしかし、どちらかと言うと「宿る」というよりは「居住する」や「内在する」という意味の強い単語のようで、「reside on the body」で「(細菌などが)体に住む(生息する)」という使い方をするようだから、我々が思う「宿る」の語感とはずいぶん異なる。我々が「宿る」と言うときは、もう少し融和した、神秘的で一体感のあるイメージを抱いており、間違っても「細菌が体に宿る」とは言わないだろう。

もしかするとやはり、欧米には我々が言うような「宿る」に対応する概念は存在せず、然るに欧米的な感覚からすると、魂も肉体に宿っているものではなくて、細菌のように住まわせてるだけということなのかも知れない。もしそうであれば、身体は限りなくアバターに近いわけであって、旅の恥はかき捨てモードに入りやすいことも頷ける。

というわけで、急にスピリチュアルな感じの話になってしまったが、まとめると要するに、魂を信じ、挨拶を申せば、リア充になるわけなのであって、とりあえず壺買ってください、壺。

参考

歎異抄 (岩波文庫)
金子 大栄
岩波書店
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元。本願を信じ、念仏を申せば、仏になる。もし未読であれば一度くらいは読んでみてもいいかもしれない。キリスト教よりは、馴染み安い。