女性の静かな抵抗―うつを政治的に読み替える―

こうした女性たちのうつの原因とも言える部分、すなわち主婦業への閉じ込めは、既に女性の生活にみずからかかわっていたベティ・フリーダン(1963『女性の神話』)によって明らかにされています。中産階級の女性は、子育て・家事だけでは気持ちが満たされないこと、そしてそれに対する不満は許されないこと、さらに場合によっては「治療対象」になるという、こういった状況に対して違和感を感じていることに対し「名前のない問題 a problem without a name」と名づけたわけです。男の視点から見れば、そんな問題が存在するとは考えられてこなかったのですから、なるほど、「名前」がないのは当然(世界は男の言葉で男の意味で説明されているから)。しかしまぁ、気づいてから、今まで、進歩がないですね。むしろ悪化??そんなことはない??


フェミニズム研究で、フェミニストが踏み出した一歩は、言語や社会の中での女の不在/沈黙を実証することにありました。なぜなら、逆説的ではありますが、それが女性の存在を可視的にするからです。女性、とりわけ母性や妻に対するイメージや規範がこれまでまかり通ってきたのは、ひとえに、女性が沈黙を守ってきたからです。しかし、女性が沈黙をやぶったところで、それが認められるわけでもないのです。男性が定めた女性像を逸脱する言動をしようものなら、病気やら狂っている、そこまで行かないとも変わっている女性、悪い母・妻とされてしまうから。つまり、女性、妻、母などなど、それら女性の役割はそれが名づけられた男性の視点によってでしか理解されることはない。「私たち女は、男たちの蓄積してきた意味を受け継いできているだけである。男を肯定的に描き、(女が数に入っているところではどこでも)女を否定的に描いている、その男たちの意味を。」(D.スペンダー『ことばは男が支配する』P99)こうしてみると、沈黙を強いられ、沈黙をやぶれば罵倒される女性は、結局男たちの意味に従って沈黙するほかにないですし、まして抵抗なんてできやしないです。男の意味に従って女として賢く生きることが、一番良い「女の人生」であるように思えます。きっと親も喜ぶことでしょう。

しかし、一番良いはずの女の人生に従ってみても、どうしたことか、体の不調という形での無言の抵抗が起きているように思います。わたしは、女性が意識的/無意識的に関わらず、自身にある「名前のない問題」や「女性の”うつ”」の存在を(生活への「違和感」、さらに進んで「放棄」という形で)表明することは、沈黙した状態のまま、言葉を使わないやりかた(それは、言葉を持たない女性特有のやりかた!!)で、沈黙を破る過激な行為であると思います。うつ病になるには、潜在的な気質があるとか何とかと、医学的な根拠があるようですが、そういうことは今は考えるのはいったんやめて、この行為の意味について再解釈をしたいのです。もちろん社会的な背景を考慮して。

たとえば、仕事と家事に疲れた兼業主婦がその治療ということで、家庭内や本人の何が原因で、それに対してどう周囲や本人は対応すればいいのかについて考えるよりも、思い切ってすべてを断ち切り、転居するなどをして新しい環境に入るほうがよっぽど回復するという事例は、女性と社会の問題を考える上でとても示唆的です。女性と仕事、女性と家庭、つまり女性に関するあらゆる問題は、今の制度や社会で何ができるかを考えるだけでは、問題からの逃避やごまかしや、多く見積もっても緩和にすぎないのであって、その問題を形成している根底から、制度や社会から変えてゆかないと、そのものの問題は一向によくならないわけです。

また、うつ病になった女性に、「がんばれ」といったお尻を叩くような言葉や、本人にとって負荷となる言葉*1はタブーなわけですが、それも、今まで男の言葉に従っていた女性が初めて他者の言語をコントロールしたと捉えることができます(考えすぎですよ、というのはおいておいて。考えてみたいだけなので)。

うつという病気が広く認知され、病患者が顕在化しつつある今、女性と社会の問題をうつという病を通して考えなくてはならないというメッセージが、患者の悲痛な叫びと共に聞こえてきます。「なんで起きなくちゃいけないの?」「なんで家事しなくちゃいけないの?」という「普通」に対する素朴な疑問の言葉は、うつ病患者の言葉としてではなく、うつという病気によって、初めて、家父長制社会に対して抵抗することが可能となった女性の言葉として捉えることはできないのでしょうか。「個人的なことは政治的なこと」をスローガンとするフェミニストの意味は、家父長制的秩序の中核にチャレンジするものであるとすれば、このように、内部から抵抗するうつの女性こそがフェミニスト的であるように思うのです。

*1:たとえば、あの番組で述べられていたことでは、夫が妻に「お正月はどうする?」という言葉をかけたため、妻が、家事労働を求められていると直結的に考えて、錯乱してしまったという話がありました。本当に、家事というものに抵抗しているんです。言葉の上でも、行動でも。