海外勤務という「荒療治」が意識を変革した

 学生時代に一所懸命勉強し、偏差値の高い大学に入って、世間的に有名な企業に就職してほっと一安心! 最低限そこそこの人生が約束されたような安堵感に包まれる。ところが勤め始めたら、何かが違う気がする。そう思いながらも、自分を環境に合わせていく。そうこうするうちに本来の自分がどんな自分だったか段々わからなくなっていく…。気づいたら30代も後半──。

 まさにそれが自分だった。とにかく人に好かれたい、上司によい奴だと思われたい…恥ずかしながらそういう思いが人一倍強かった。自分の自信のなさの裏返しだったと、いまは冷静に振り返ることができる。

 そんな自分の意識を変えてくれたのは、会社の命令で行った何度かの海外勤務だった。

海外勤務は、日本企業の社員の意識を変革する契機になり得る。
海外勤務は、日本企業の社員の意識を変革する契機になり得る。

 海外勤務の最初のころは、通じない英語に七転八倒しながら、日々を生きるのに精いっぱいだった。慣れない生活で、毎日が「? ? ?」の連続だ。だから、人目なんて気にしている余裕すらなかった。

 家に電気を通すために業者に工事をしてもらうというような身近なことすら、海外では簡単ではない。電気工事の予定日に作業者が来ないなんていうのはざらだ。だから何につけ、必死に自己主張しなければ必要なものが手に入らない。今から思えば、自分を海外へ派遣してくれた当時の勤務先に心から感謝する。海外への派遣は、気弱な自分にとって最高の荒療治だった。

グローバル企業の経営者の若さに驚く

 現地の生活に少しずつ慣れていくと、肌で感じる疑問もだんだんレベルアップしていった。例えば、日本の本社の指示で、現地企業の経営層のアポイントをとって自分も同席することがよくあったが、対話からの学びもさることながら、驚かされるのは、次々と出てくる海外のエグゼクティブの若さだった。

 「えーっ、なんで?」「30代後半で数千名の社員を率いているの??」「天才か?!」

 もっとも当時は「まったくの別世界」と勝手に思い込んで、その理由まで深く追求して考えることはなかった。その後、数奇なめぐりあわせでグローバル企業に勤めることになり、多くの国のエグゼクティブたちとともに働き、議論も戦わせるようになった。そして再び思い出した、古くて新しい疑問…。「なぜグローバル企業では40才で世界のトップに立てるのか?」 皆さんはどう考えるだろうか?

 日本人は資質の点で劣るのか? もちろんそんなことは絶対にない。

 私は日米欧三極の組織でマネジメントを経験したのち、現在経営している研修会社を立ち上げた。いろいろな業種の若手から役員まで、実に多様な方々と向き合う、ありがたい機会をいただいている。日本人の人柄のよさや、論理的思考や、資源の制約に文句を言わずにどうにか成果を作り上げる能力の高さ──といったことにはいつも感動させられる。だからこそ思う。「もったいない!」と。

なぜグローバル企業では40才の若さで世界のトップに立てるのか?
なぜグローバル企業では40才の若さで世界のトップに立てるのか?

成長のスピードを「調整」する日本人

 日本のビジネスパースンの多くは、部長まで20年、課長まで15年…などと、それぞれのポジションに至るまでの時間を、「無意識のうちに」逆算して生きている。そして、「成長しすぎないように」知らず知らずのうちにスピードを調整しているのだ。

 これは本当に「fair(公正)」なんだろうか?

 若いころは優秀だったのにだんだん色あせていった…というようなビジネスパースンを、読者の方々も時折、目にしないだろうか? 私は僭越ながら、そういう人は可哀そうだとつくづく思う。全員とは言わないが、そういう人たちの多くは「スピード調整」をしているうちに輝きを失ってしまったのだ。人は本当に十人十色。20代で能力が伸びるひともいれば、40代になってから性格が落ち着いてきて成長するひともいる。人事部勤務の時代に、ひとの多様性の奥深さを学んだ。それぞれが伸びる時期に、思う存分頑張るチャンスを与えるのがfairであり、真の「diveristy(ダイバーシティ)」ではないだろうか。

 日本の伝統的企業は、社員が部長や課長といったポジションに昇進するまでの最短期間(年次管理)について、勇気ある撤廃を行えばよい。そうすれば、思いがけず急速に育つ人財が少なからず存在することが明確になるはずだ。グローバル企業で多くのエグゼクティブと共に働いてきた私は、経験則からそう確信している。

多様性のある環境へ、積極的に人財を投入すべし

 さて、グローバルに活躍する日本人ヤング・エグゼクティブ養成に効果的なもう一つの工夫は何か?

 それは多様性のある環境への人財の投入だ。子会社でも、海外でも、取引先でも…どこでもよい。面談をしていて「この人は若いのに考えに厚みがあるな」と感じさせてくれるのは、ほとんどが一度でも外の飯を食って、自社の価値観が絶対ではない、という経験をしているひとだ。若くして異なる価値観、異なる文化に身を投じることは圧倒的にその人の能力を伸ばす。

 ちなみに私は海外で、人目を気にせず、人生を楽しむという成長のエネルギー源を手に入れた。他社との合弁会社への出向時には、正しいと思えばとことん論破する(日本人のように人柄のよさを印象づけようなどとは思わない。最後に一歩引いたりはしない)文化に驚かされた。外資では、社長になっても言うことをきいてくれない部下に悩まされ続け、「マネジメントとは何か?」と真剣に考えさせられた。

答えはいつも中庸にある

 言うことを聞かない部下を叱りつけて「羊」にしたてるのがよいのか? それとも放牧して自由気ままな人財をそのまま伸ばし続けるがよいのか?

 答えはいつも中庸にある。長く戦場のようなところで仕事をしてくると、どちらか一方に偏ることが、その華やかさとは裏腹に、リスクとなることも学んだ。だから、中庸。ただし、高い次元での「芸術的調和のとれた中庸」の大事さを感じている。

 そのように考えるに至った今、日本企業はいままで、羊をつくることに偏り過ぎたのではないかと思う。

日本企業は「羊」のような社員を多くつくりすぎたのではないか。
日本企業は「羊」のような社員を多くつくりすぎたのではないか。

 昨年インドに出張に行ったときに、訪問した日系企業の人が、「現場で問題が起きた時、日本では現場がその問題を解決する。しかしインドでは、マネジメントが自ら出て行かないと問題を解決できない。だからこそマネジメント能力が養成される。日本では現場が優秀なので自発的に問題を解決できるが、一方でマネジメントがマネジメント力を養う訓練の機会が少ないことに気づいた」というのを聞いて「なるほどなぁ」と思った。

 日本企業のように協調性を重視するDNAを社内に埋め込まなければ、インドの企業の社員のようにそれぞれがそれぞれの主張をとことん語り続ける。しかし、それをまとめることこそがマネジメントの仕事なのだ。そしてマネジメントがマネジメント能力を養う機会は、トラブル発生時に限らない。

 昔、グローバル企業に勤めていたころに、腕はよいが常に社長である自分の足元を掘り続けている部下がいた。「俺のほうが社長にふさわしい」、そんな思いがあったのかもしれない。日本企業ではあからさまにそういう動きをとると自然に排除されていくから、その時の自分は正直いらいらした。はらわたが煮えくり返ることも多かった。

できる奴が上司の足元を掘るなんて当たり前

 あるときふと、グローバル・エグゼクティブにその件についてこぼしたときに、「できる奴が上司の足元を掘るなんて当たり前じゃん。そういうやつをマネージしながら業績を出すために、会社はお前に金を払ってるんだよな。楽な仕事なら頼まないよ」と言われた。

 あまり詳細に書くことはできないのだが、長くビジネスパースンをやってこられた方なら容易に想像がつく状況だと思う。そして「俺はそんな時、寛容に臨んできた」と言う方が多いかもしれない。ただ、グローバル企業の上司・部下の問題は、日本企業の上司・部下の問題とはレベルが違うケースが多い。

 でも、今の私は、むしろもっと好き勝手に部下に暴れられたらいいと、そんな風に思っている。仕掛けるほうは世界レベルで稼ぐ人間たちだからとことんしたたかだし、そこに絡んでくる人間もかなり優秀だ。そうなるともう、腹を立てたら負け、感情を乱したら隙ができて負け…オリンピック競技ではないが、どんな厳しい状況下でも乱れない「胆力」の勝負となっていくのだ。

どんな状況でも乱れない「胆力」が必要

 昔、日本のある大手証券が倒産したときに、社長が社員を悪くないといって泣いたシーンがいまもまだ目に焼き付いている。日本人として私は心底共感した。大好きな経営者だ。ただ、外国人エグゼクティブはかなり辛口だった。社長が感情をコントロールできなくなったら終わり…という哲学が彼らにはある。

 そして、私もまた、グローバル企業の世界を少し垣間見て、彼らと同じように感じるようになったのも事実だ。つまり、喜ぶのも、怒るのも、哀しむのも、楽しむのも…すべてが「under my contorol」──自分のコントロール下で行わねばならないほど、グローバルビジネスの現場は個性豊かな人間たちの集まりなのだ。言い換えればたくさんの「地雷」も埋められて職場が成り立っている。もっとも、厳しい環境だからといって、そこで自分の身を守るために「羊」養成を始めた途端、まず間違いなく、ダメなマネジメントとレッテルを貼られていつかは放逐されるであろう。

 なぜそこまでして自分の感情をコントロールすることを求められるのか? それはマネジメントが部下の個性を引きだしてこそビジネスは伸びるとの信念からだ。実績をあげることのできる営業担当者ほど、社内で関連部門に「とにかくやれ!」と無理難題を投げつけるものだ。だから周りの評判は悪くなりやすい。しかし、顧客の要請にこたえて周りに圧力をかけることが、組織全体の処理能力を高めることが少なくないのも事実。あるときにトップマネジメントが、「できる営業担当に人格教育などしたら数字が出なくなる! 組織の成長も止まる!!」と海外での事例を挙げて語るのを耳にしたことがある。なるほど…非情であり、論理的でもあると思った。

「寛容になる」だけでは不十分

 いま日本ではダイバーシティブームだ。いったいどこまで本気なのだろうか? 「寛容になりましょう!」という次元にまだとどまっていないだろうか。

 それぞれの個性を尊重し…、という綺麗ごとを超えて、良いところをさらに伸ばす、そのために必要なら悪いところすら増長させてしまえ! 彼らが上司に歯向かってきても気にするな。はらわたが煮えくりかえっても感情を乱すな…果たしてそんなリアルな現場を受け入れる「覚悟」を持って、ダイバーシティを推進しているだろうか?

 すべては組織の「sustainable growth(持続的成長)」のために──そう割り切ってマネジメント力を高めるために不可欠なのは「胆力」。若くして世界のトップに立つ人間は、どうやらこの「胆力」を異文化環境に身を置くことで徹底的に鍛えてきているように感じている。

 私が戦略的キャリア開発において、資格でもなく、英語でもなく、「胆力」強化を重視するのはそんなところに理由がある。そしてふと、かつての日本のモーレツサラリーマンには胆力があったことを思い出すのだ。様相の変わった日本で、どのように過去から学び、いかに胆力を鍛えなおすか?

 次回はそんなことを考えてみたい。

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