この連載は現場の農家や農業法人を訪ね、その肉声を伝えることをおもな目的にしているが、今回は番外編。テーマは農地制度と税制だ。
先週まで2回にわたり、レタスの植物工場を運営するベンチャー企業、スプレッド(京都市)を紹介した(3月31日「最強の植物工場は『手づくり』で完成させた」、4月7日「植物工場が畑に負ける要素は?『ありません』」。
「人手がかからないので効率的」という一般のイメージと違い、植物工場は電気代などがかさむので、利益を出すのが難しい。これに対し、スプレッドは試行錯誤を重ねて「日量2万1000株」の生産体制を整え、黒字化に成功した。
そのプロセスを伝えるのが前回までの狙いだったが、工場の経営とはべつにスプレッドに聞きたいことがあった。敷地は農地なのかどうかという点だ。答えは案の定、「宅地」だった。
農地法の農地は「耕せる状態の土地」
田んぼや畑と同じく、作物を栽培しているのになぜ農地とは認められないのか。理由は農地法にある。
「この法律で『農地』とは、耕作の目的に供される土地(のことをいう)」
農地法第2条の一節だ。わかりやすくいえば、「耕せる状態の土地」を指す。床にコンクリートを敷いてしまえば、当然、田んぼや畑のように耕すことはできない。硬い工場の床には鋤も鍬も通らない。だから、たとえそこで作物をつくっていても農地とは認められない。ようは、土であることが前提なのだ。
昨年秋の長雨と台風の影響で多くの畑が深刻な被害を受け、スーパーなどの店頭でレタスの値段が数百円に跳ね上がった。1000円を超す値段をつけた店もある。だが、スプレッドは天候に左右されないという植物工場の強みをフルに発揮し、何ごともなかったかのように毎日出荷し続けた。
野菜の安定供給に貢献した工場はスプレッドだけではない。焼き肉チェーンを展開する牛繁ドリームシステム(東京都新宿区)は福島県の植物工場から調達することで、ほかの多くの焼肉店と違い、サンチュの欠品を防ぐことができた(2016年10月14日「ついに出た『植物工場があって助かった』の声」)。
農政というのは、国民に食べ物を安定的に、できるだけ効率的に供給することが目的ではないのだろうか。もしそれが目的なら、畑でとれないときも、供給を続けることができる植物工場を農地と認めないのはなぜだろう。大手スーパーから「毎年が異常気象になると考えるしかない」という声が漏れるほど、天候不順が続いているのが実情だ。
「農地法は農業のための法律ではない」
そのことを農水省に尋ねると、次のような答えが返ってきた。
「農地法は農業のための法律ではなく、農地のための法律だ」
形式的にいえばそうなのだろうが、では農地が農地としてあることの意義は何なのだろうか。ちなみに、食料・農業・農村基本法には次のようにある。
「食料は、人間の生命の維持に欠くことができないものであり(中略)、将来にわたって、良質な食料が合理的な価格で安定的に供給されなければならない」
この条文に照らせば、植物工場は「良質な食料が合理的な価格で安定的に供給」されることに貢献できる可能性を秘めていると思うのだが、農地法では、あくまで「地べた」がどうなっているかがポイントになるのだ。
固定資産税の負担が300倍以上に
問題は、農地と認められないことで、経営的に大きなハンディを負う点にある。税制では地目は大きく「宅地」と「田あるいは畑」「その他(雑種地)」などにわかれる。税負担は地目によって大きな格差があり、宅地は一般的な田んぼと比べ、単位面積当たりの固定資産税の負担が300倍以上になる。ここでいう「宅地」は「建物の敷地」を指し、住宅だけでなく、商店や工場も含まれる。
固定資産税の税額は「正常な状態で行われる取引価格」、つまり「時価」をもとに決まる。スプレッドの植物工場は亀岡市の山里にあるので、固定資産税の負担は「田んぼの300倍以上」という水準ではないだろうが、周囲の田んぼと比べれば間違いなく重い。
植物工場はまだ発展途上の技術であり、いくら環境をコントロールしてもなかなか栽培は安定せず、電気代などのコストも高いので、収益性は低い。スプレッドのように黒字化できたのはまだ少数派だ。しかも、同じレタスをつくっていながら、田畑と比べてずっと重い税負担を負っているのだ。
もちろん、農地には食料供給以外の役割もある。先に挙げた食料・農業・農村基本法には、「国土の保全、水源のかん養、自然環境の保全、良好な景観の形成、文化の伝承」を農業生産の価値のひとつとして認めている。いわゆる農業の「多面的機能」だ。
この点に関していえば、植物工場が貢献できる部分はほとんどない。なにしろ、その気になれば都会のど真ん中にも建設できるからだ。だが、多面的機能がなければ、農業でないとは言えないだろう。実際、農政は条件つきながら植物工場を支援している。
少し脱線するが、多面的機能はもともと、農産物貿易の自由化交渉を通して前面に出てきた政策概念だ。1993年に決着したガット・ウルグアイ・ラウンドでひとつのピークを迎えた自由化交渉で、日本の立場は基本的に守勢。米国などから輸入枠の撤廃や関税の引き下げを迫られるなか、貿易障壁を守るために理論武装したのが、「農業には食料供給以外の価値がある」という点だった。
あるいは、「いったん農地を植物工場にしてしまえば、転用が簡単に進む」と心配する声が出るかもしれない。だが、ほとんどの農地を農家が所有していたのに転用がどんどん進み、「農業はもうからない」と言って「引退」という名の撤退が加速し、農地の荒廃が進む現状と照らして、現状維持がベストの答えなのだろうか。そもそも、転用を厳しく制限しているのであれば、無秩序な転用を心配する必要はないはずだ。
新たなテクノロジー伸ばす法整備を
農地が何かを定義している農地法は、1952年に制定された。小作農を大地主の支配から解放した戦後の農地改革の成果を、法的に守るためにできた法律だ。その後、様々に法改正が進められてきたが、農地を「耕作の目的に供される土地」と規定する部分は、法律ができたときから変わっていない。
農村民主化の起爆剤となった農地解放の意義を否定するものはいないだろう。だが、その成果を守ることをあまりに重視してきたために、零細で細切れの農地が固定され、農地の流動化による規模拡大がなかなか進まなかった。日本の農業の競争力の強化を阻んだ一因だ。
当然のことながら、法律は時代の変化に応じてその姿を変えていくものだ。では、作物の栽培方法のひとつとして、ようやく芽を出そうとしている植物工場という新たなテクノロジーに、制度はどう対応すべきなのだろう。
生き物を相手にする植物工場は繊細な技術であり、きっと日本が得意とする分野のはずだ。だが、うかうかしていると、ライバル国に先を越されかねない。例えば、いったん国家戦略に乗せれば政策対応が極めて柔軟で迅速な中国に、気がついてみたら追い抜かれているという事態が起きえないと、だれが断言できるだろうか。
『コメをやめる勇気』
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