『スラムダンク』『バガボンド』『リアル』。マンガの王国、日本において誰もが認める頂点に立った井上雄彦氏がスペインで建築家アントニオ・ガウディの作品群と無心で向き合い『ペピータ』という本を作った。それは我々に「仕事の原点」を気づかせてくれる。
―― 井上雄彦さんが、なぜスペインの建築家、ガウディをテーマに選んでこの『pepita(ペピータ)』を出されたのか、そこから聞かせてください。

マンガ家、1967年生まれ。累計部数1億1700万部を超える国民的マンガ『スラムダンク』、吉川英治の原作とは全く新しい武蔵、小次郎を世に出した『バガボンド』、車椅子バスケを真っ正面から描く『リアル』の作者。昨年は京都・東本願寺の依頼で屏風「親鸞」を描いた。
(写真:大槻純一)
井上雄彦(以下井上):正直、この企画を打診されたときには、自分には明確な意図や目標はなかったんです。例えば「これを手がかりに何かを得よう、成長しよう」というよりは、もっと直感的に「面白そうだ」というのが根っこにありましたね。
ただ、面白そうというのは、ガウディの作品や考え方をつまみ食いするような面白さではなくて、自分の今まで歩いてきた道、求めてきたもの、自分がメインだと思っている活動の、同じライン上にあることだなと思ったんです。それは、ガウディという人が持っているものなのかもしれないし、取材の途中で何か出会いがあるかもしれない。特に期待はせずに「何かあるかもしれない」で、いいのかなと。
そもそもスペインに行ってガウディの建築を見る、という企画で、僕に何かできることがあるとも、最初は思えなかったですし。建築は門外漢で全然知らないですから。「何かきっと面白いことがあるだろうと直感では感じる。それでも何もなければ、ああ、このお話は僕には向いてなかったんだということ。それはそれでしょうがない、ごめんなさいと言おう」って、そういう感じでしたね。

井上雄彦氏がバルセロナに赴き、サグラダ・ファミリアで知られるガウディの足跡を追う。書き下ろしイラストやスケッチ、実験的作品など50点以上と、100点以上の写真からなる書籍(創作ノート)と、取材、作画風景を収録したDVDで構成。「pepita」とは“種”。「読めば絵が描きたくなる」とは、書籍担当編集者の弁。
―― 実際に行ってみられていかがでしたか。
井上:面白かったですね(笑)。観光客かというような受け答えをしていますけど(笑)。
現地に行ったことで、もともと自分の内側にあったけどぼんやりとしていたり、常に意識しているわけではないことが、より日常の中で意識することができるようになった。これまでは折に触れてぽっと浮かんできていたことが、常に頭のどこかに存在しているような気がしますね。
―― 『ペピータ』の取材で、ガウディの創造の原点を見たい、という井上さんは、彼がインスピレーションを得たと言われるモンセラの岩山に向かいます。ここで井上さんがスケッチに熱中する様子は、この本の見どころだと思います。
井上:雑誌で連載していると、人物は僕が描きますけど、背景はアシスタントに指示して描いてもらうことになります。締め切りに間に合いませんので、やむを得ずなのですけれど、これだと人物以外のものを自分の手で描く機会が、ラフくらいしかないんですよ。
人物というのはもうキャラクターですから、「自分が知っている範囲」の絵にどうしてもなっちゃって、なかなかジャンプできません。だから、岩山とか、葉っぱとか、「自然のものを何とかその通りに描きたいな」と思って一生懸命やっていると、自分が本当に地面の高さに戻るというか、何も持たない状態にまた戻れる感じがして、今回の仕事ではそれがすごくうれしかった。何も持たない感じがすごく気持ちいいんですよね。
―― 何も持たない、とは?
井上:何て言ったらいいですかね。マンガの絵というのは、自分なりの描き方とか、身につけた見せ方というものでやっているわけです。それをなしにして、「ただ描かせていただきます」って感じで描く。
マンガの絵は、どこか「分かったつもり」で描いている。そうじゃないと描けないんです。「こういう顔なんだ、こいつは」というのを決めないと成立しない。でもずっとそれをやっていると、「何かがくっついちゃっている状態」になっちゃう。僕は常にそこから離れたいと思っているんですが…。この説明で通じてるかな(笑)。
―― ただ絵を描きたくても、それだとマンガという仕事にはならない。でも、マンガとして「分かったつもり」で描いていると、いつの間にか仕事としての描き方にとらわれていく、ということでしょうか。
しかし、井上さんは美術展もやっておられますよね。あれは「ただ絵を描く仕事」ではないのでしょうか。
井上:あれ(「最後のマンガ展」)はマンガです。というのは、一枚絵として描いてないので。美術館に展示していても、マンガを読む文法で読んでもらうものだったので。僕は画家としての仕事はしたことがないと思いますよ、たぶん。
―― これほどマンガで実績のある方が「ただ絵を描きたい」と思うのが不思議です。
井上:「絵を描くことだけで生きていけたらいいなあ」とは思いますけどね。
マンガ家というのはやっぱりものすごく「商売」じゃないですか。商業誌の中でやっている以上、ある意味レースだし、その中で結果を出さないといけない世界です。画家ではなく、ただの絵描き、「何らかの価値がある絵を描かなきゃいけない」とか、「誰かに期待されてそれに応える」絵ということじゃなく、誰も待っていない絵を、誰にも頼まれずにただ描く、ということに憧れがあるんですね。そういう人になりたい。
「一枚の葉っぱをずっと描いていたい」
―― 『ペピータ』の絵を描いている時には「俺は今、ただの絵描きだな」と感じられましたか?
井上:絵を描くこと自体が楽しい、そういう瞬間もありましたね。(書籍担当編集者を見ながら)それでも、やっぱり締め切りがあって、ずっと描いていてもいいわけじゃないからなあ(笑)。
枯れ葉の絵がありましたよね。締め切りぎりぎりに描いたのですが、本当にその葉っぱの中に無限の世界があって、葉っぱ自体が完璧に完結しているようにも見えてきて、それを描き出したら…もうずっと描いていられるんですね。
僕の心の内側で、ガウディと共有できる部分があるとしたら、自然に対する畏怖の念や、絶対的な信頼じゃないかと思います。自然の中にある美しさだったり、そのもとになる理(ことわり)。そういったものは間違わないということへの信頼ですね。間違えるのは人間だな、という。
ですので、本当はずっと葉っぱを描いていたいんですけど、締め切りまでに仕上げないと本が出ない。だから効率をどこかで意識しながら、少しでも嘘が混じらないようにとやったつもりなんです。
―― 先ほど「期待」という言葉が出たので思い出したんですけれど、私、「うつ」を治療している医師の方や、患った人たちのお話を聞く機会がよくありまして(「お父さんが『眠れない』のは、心の問題ではない」)。
【お申し込み初月無料】有料会員なら…
- 専門記者によるオリジナルコンテンツが読み放題
- 著名経営者や有識者による動画、ウェビナーが見放題
- 日経ビジネス最新号13年分のバックナンバーが読み放題